055 夢の向こう側
枕…………。
白い飾り気のないリネンで包まれた羽根枕を横目に見下ろしながら、アルミナはせかせかと身支度をした。
何重にも重ね着をした白い衣の上に、頭をすっぽり覆うヴェールをかぶって、手袋をはめる。喉元の線にきっちりと沿ったヴェールのボタンを上まで全部とめるのは、手間がかかった。
隣の寝台で身支度している少女たちは、手早くすませてしまっているが、アルミナ一人が他よりずっと手間取っている。
夢のことなどで寝ぼけて、上の空でいるせいだと恥ずかしく思って、アルミナは慌てて身支度を済ませ、他の娘たちと同じように、寝台の足元に、手袋をした指を組み合わせて祈るように首を垂れて立った。顔が見えるように跳ね上げてあるヴェールのすそが、少しずつ滑り落ちてくるのが気がかりだったが、誰も動かないのにもう一度身なりをいじるのは気が引ける。
きぃ、と小さく音を立てて寝室の扉が開いた。
「おはようございます、皆様」
中年の女性(ファム)が、扉のむこうから点呼に現れた。冷たいかんじのする調子で、翼を使って語り掛けてくる。アルミナには、まだ名前も知らない相手だった。
少女たちは示し合わせたように一時に、おはようございます、と翼で応えた。
出遅れてぽかんとしていたアルミナを、中年の女性(ファム)がじろりと睨んでくる。
「早く、この房に慣れていただかなくては」
「申し訳ございません……」
首をすくめて、アルミナはわびた。
「わたくしが、アルミナさまに、お教えします」
新しい翼が会話に割り込んできたのに驚いて、中年の女性(ファム)が首をめぐらした。
セシリアさま。かばってくださったのだわ。
びっくりしながら、アルミナも声のあるじに目を向けた。
アルミナと目があうと、セシリアはにっこりと笑った。
「そんな暇があればよろしいですが」
歯切れの良い低い声が、中年の女性(ファム)の喉から漏れた。
「いつまでこの房に、いられるやら……」
蔑んだような厳しい言われように、近々追い出されるのだろうかと怖くなって、アルミナはびくっと肩を震わせた。
馴染まない者は、居させてもらえないのかしら?
自分はもしかすると、どこかから追い出されて来たのかしら?
どんどん追い出されて、行く所がなくなったら、どうしましょう。
悲しくなって、アルミナは顔をあげ、セシリアに助けを求めた。
にこりともう一度微笑みをつくるセシリアの顔は、どことなく寂しげだ。だけど、どこかしら、大丈夫だと励ましてくれているように見える。
ごとり、と靴音高く、中年の女性(ファム)が二人の視線に割って入ってきた。
じっと見下ろされる視線に、アルミナは首をすくめた。
「皆様、よろしいですか。1日も早く、百合を咲かせて、お部屋をいただけるよう、お励みなさい。他の房では、あなたがたくらいのお年でも、1輪2輪は終えているそうですよ」
大部屋の少女たちは一様に、ため息を殺したような重い沈黙でそれに応えた。
「これから呼ぶ方は、わたくしについて診察室へ。あとの方は、居間へ行ってグロリア様からお仕事をいただきなさい」
女(ファム)が早口にいくつかの名前を呼ぶと、6人の少女たちが、返事のかわりに列から一歩前へ出た。
アルミナの名は呼ばれなかった。
診察室というのがどんなところなのか見当がつかず、呼ばれなかったことが良いことなのか、悪いことなのかも、わからない。
名前が出尽くすと、残りの娘たちは誰に指示されるでもなく、列をつくったまま部屋を出ていきはじめる。アルミナもあわてて、その列からこぼれないように歩き出した。
ちらりと横目で確かめると、セシリアも同じ場所へいくもう一本の列に加わっている。
アルミナはほっとため息をついた。
部屋に残された6人は皆、どことなくそわそわと、出て行く列を見送っていた。
「青の聖堂の方々のご衣裳や調度品を新しくする年なので、そのために使う布を織ったり、刺繍をしたりするお仕事が、このところ続いているのです」
アルミナに房での行儀作法を教えるために、セシリアは円卓から外れた、部屋のすみに二人ぶんの席を移し、静かな声で説明をはじめた。
「いくつかある房のなかでも、わたくしたちの房がいちばん、刺繍のわざに長けた方が多いので、とくに選ばれて、サフリア・ヴィジュレ様の新しい祭祀衣裳の刺繍をすることになっているの」
セシリアは、鎖の模様の図案をアルミナに示した。昨日も円卓に広げられていたものだ。
「いちばん上手いのは、アイネ様か、グロリア様か、どちらかわからないのですって。でもグロリア様は懐妊なさっているので、いちばん名誉な、新しい僧冠の刺繍は、アイネ様が。グロリア様は、それも不愉快に思ってらっしゃるの」
図案の説明をするふりをして、セシリアはひそめにひそめた声で、アルミナに耳打ちした。顔をあげたセシリアと見詰め合い、アルミナは戸惑って目をぱちぱちさせた。
「秘密ですけど、みなさまご存知のことよ」
「アイネ様と、グロリア様は、どうして仲が……」
悪い、とは言いにくい気がして、アルミナは口篭もった。
「大部屋にいらしたころから、競い合っていらしたようですわ。でも、お二人のいちばんの気がかりは、百合のこと。ううん、グロリア様の気がかり、かしら……?」
「百合のこと……。あの、刺繍の百合のことでございますか。それとも他の?」
意味がわからず、アルミナが首をかしげると、セシリアは不思議そうにアルミナを見つめた。
「刺繍の百合のことですわ」
「あれにはなにか、意味があるのですか」
ただの服の飾りだと思っていた。
セシリアは一瞬、あっけにとられたように言葉につまった。
「お産みになったお子の数です」
答えるセシリアの口調は、知っているのが当たり前だというような、困惑を含んでいる。
「白い百合は男の子(オム)で、赤い百合は女の子(ファム)ですわ。お産みしたお子が大人になったときに、もし女(ファム)だったら、赤い糸をいただけるんですって」
アルミナは、アイネの胸元に咲き誇っていた大輪の赤い百合のことを思い出した。
あれはつまり、アイネが女の子(ファム)を産んだことを示しているのだ。
でも、アイネの胸を飾っている百合は、あの赤いのが1輪きりで、グロリアの衣装に刺繍された沢山の百合とは、比べるまでもないように思える。
「赤い百合のほうが、えらいのですか」
「もちろんですわ。グロリア様は、たくさん百合を持っているのを誇りにしておられても、ちっとも女(ファム)を産めないので、いつもアイネ様のことが、気がかりなのです」
話を聞きながら、アルミナは自分のスカートを、ぎゅっと握り締めていた。
なじめない話……
わけもなく不安で、アルミナの心臓はどきどきといやな鼓動を打った。
「房でのお力は、おおよそ百合の数できまります。わたくしたちはまだ1輪もないので、軽く見られますけれど、もうじきの我慢ですわ、アルミナ様。いずれお子は授かります。冷たくされるのにも、しばらくは辛抱なさってください」
アルミナをはげまそうとして、セシリアはどことなく無理に作ったふうに、にっこりと微笑みかけてくれた。
でもアルミナはうまく微笑み返せなかった。
「セシリア様……」
なんとか微笑もうとして、アルミナは頬をこわばらせた。
「どこの……房、でも、みんなそうなのですか」
たどたどしく、アルミナは質問した。
「わかりません。わたくしは、この房で育ったんですもの。ほかの房のことまでは……」
セシリアは困ったように静かに微笑した。
首をめぐらせて円卓のほうを盗み見ると、胸元に白い百合を咲かせた女(ファム)たちが、黙々と手仕事にふけっていた。時折ひそひそと、言葉を交わすのが聞こえてくるが、なにを言っているのかまでは聞き取れない。
部屋のむこうの端にある大きな窓辺には、老婆がじっと座っている。
まだ1輪もない娘たちは、肩身狭げに数人で固まって、一言もなく刺繍に励んでいる。
年端もない者たちは、円卓からはずれたところで、大人達の手仕事をまねた、ままごとを、熱心に遊んでいる。
閉じ込められていると、ふいにアルミナは思った。
ここに閉じ込められている。
祈って乞い願わなくても、こんな日は永遠に続く。
今日も、明日も、明後日も、その先も、ずっとずっと、永久に同じような日が。毎日刺繍をして、ひそひそと小声で話して、百合の数を比べ合いながら、そしてあの窓辺にいる人のようになる。
頭に乗せた白く重い絹のヴェールに押しつぶされてしまったように、老婆の腰は曲がり、じっと腰掛けている様子は、物静かで、息をしているのが不思議なほどだ。
ぼんやりと空中を見つめているだけの、年老いて皺だらけを横顔を、アルミナはじっと見つめた。
……そんな生涯でも、構わない。
そういうものだという気がした。
ここが嫌いなわけではない。
窓辺にじっと座っているだけの日々でも。
ただ……。
そう思いかけて、アルミナは混乱した。
ただ、なんだというのかしら。
なにか足りないような気がする、とても大切なものが。
だけどここにあるもの以上に、なにが欲しいというのだろう。
考えようとすると、アルミナの頭の奥がすこし痛んだ。遠くからズキズキと脈打つ痛みがやってくるのを感じて、アルミナは考えるのをやめた。
すると不思議に、痛みはおさまってしまうのだった。
セシリアは親切に、辛抱強く、房での暮らしと仕事について教えてくれた。
事細かに決められた行儀作法は、慣れるまで苦労しそうだったが、毎日の手仕事のほうには、楽しみも見つけられそうだ。
どっさりとある白い布に、えんえんと鎖模様を刺繍していく手仕事はきりがなく、何人いても手が足りないほどで、何も考えずに黙々と働くには好都合だ。
細かな手仕事はアルミナの性に合っていた。冷たい目でじろりと見るばかりのグロリアでさえ、あなたは手先が器用なようですと、そっけなくであるにしても、刺繍の仕上がりを誉めてくれた。
日がな一日、窓の外の陽光が絶え、窓々にぼんやりとした灯りが入り始める時刻まで、アルミナは他の娘たちと固まって、精密で単調な鎖の格子模様を布に縫い付け続けた。
時刻を告げる鐘が鳴ると、女(ファム)たちは連れだって黙々と、質素な食事をとり、行列をつくって聖堂に赴き、額づいて祈りを捧げ、身支度をして、眠りについた。
娘たちはとりとめもない秘密の話を、ひそひそと大切に交換して、微笑み交わした。
明日はどんな日だろうと不安に思う必要もない。
今日と同じような一日に、きまっている。
眠る前、ふと気づくと、今朝名前を呼ばれて部屋に残された娘たちの姿が、どこにもなかった。
その代わりに、昨夜はいなかった顔が、いくつかあったような気がする。
アルミナはそれを薄っすらと不思議に思ったが、セシリアや他の娘たちに尋ねるのは止した。
聞けば教えてもらえたかもしれないが、今日は沢山のことを教えられすぎた。答えを知りたくなかったのだ。
温かい布団のなかで、ふっと糸が切れるように眠りに落ちると、ぼんやりとした暗闇のなかで、その夜の夢が待っていた。
きのうの夜見たのと同じ、中年の神官が、枕を抱いて、ぐっしょりと濡れたような暗闇の中に立っている。
灰色がかった神官服には見覚えがあった。
そう思ったそばから、いいえ、知らないわと説いて聞かせる自分の声が胸のうちに響いてくる。
女(ファム)たちが着る、純白ですそを引きずるような衣装とは違う。くるぶしあたりで長衣のすそが終わり、しっかりとした歩きやすそうな靴がのぞいている。小ぶりで質素な僧帽をかぶっている。
オルハ、とアルミナはつぶやいた。夢の中で。
しかし言い終える前にはもう、その言葉の意味がわからなくなっていた。
あるみなさま。
しょんぼりと背を丸めて立ち尽くしている神官の、浅黒く落ち窪んだ目元の奥から、疲れきってらんらんと光る目がこちらを見ている。
だらしなく半開きになった唇から、神官はぜいぜいと浅い息をついた。
あるみなさま。
枕(まくら)でございます。枕でございます。枕でございますよ。
声ではない言葉が、アルミナに訴えかけてきた。
枕、枕、枕でございますよ。
新しいものをご用意いたしましたのに、お気に入りの枕でなくては眠れないと駄々をこねられて、まるでほんのお子様のよう。
───に笑われてしまいますよ。
ぐい、とアルミナの胸に枕を押し付けて、神官は小言めいた言葉を繰り返している。
ぜいぜいと苦しげに吐きかけられる息には、なんともいえない苦い匂いがした。
「やめて、苦しいわ……」
夢の中で、アルミナは胸を押しつぶしそうになる枕を押し返そうと、必死で抗った。
枕でございますよ。
これがないと。
あるみなさま。
ねむれませんでしょう。
さあ! さあどうぞ! さあ、お使いください!
息がつまりそうな恐ろしさに悲鳴をもらしそうになったとき、押し返そうと掴んだ枕のどこかに、指に触れる硬いものがあった。
アルミナははっと目を開いた。
夢の中でか、ほんとうに目を開いたのか、よくわからないほど、頭が混乱している。
真っ暗ななかで、アルミナは起きあがり、自分の頭を乗せていた枕を裏返した。
ごそごそと探ると、枕の芯に、硬い塊のようなものがある。
アルミナは考えるより先に、枕のすみの糸に歯をかけ、引き千切って、中身を開いた。
羽毛にまざって、大事にくるまれるように、何かが収まっている。
部屋の暗がりでは、いまひとつ物がよく見えない。
だが、自分が枕の中から引っ張り出しているものがなんなのか、アルミナにははっきりとわかった。
手にとって、目をこらす。
折りたたまれた手紙だ。枕のなかには同じような紙束がいくつも収められていた。
手に取った一枚の、うすぼんやりとほの白い、その紙の上に、なんと書かれているのか、アルミナには見えるような気がした。
アルミナ殿。
几帳面なきちんとした文字で、こう書いてある。
お手紙をいただけて、うれしい。あなたにお会いできる日を、私もたのしみにしています。
文字は暗闇のなかに光で書きつけてあるように、紙にしみこんだインクとしてではなく、アルミナの心と記憶のなかから現れた。
自分は何度も何度も、この手紙に書かれた文字を、魂に焼きつけるように読んだ。
部屋におひとりで、さびしいおもいをさせて、ゆるしてください。
いつかあなたを、そこから助けます。
まだ幼い、少年の書く文字が、目の前にあるように鮮明に蘇ってくる。
緑の目をしていた。
祭壇の前に立たされて、震えていたアルミナの手を励ますように握ってくれた。
見つめ返すと、彼は叱られたように、自分にあやまるような、済まなさそうな顔をした。
アルミナは彼に微笑みかけた。精一杯の笑顔で。
選んでいただけて、わたくしは嬉しいのです。嬉しいのです!
言葉は交わせなくても、彼にそう伝えたかったのだ。
なぜかは自分でもわからない。済まなさそうにする彼を励ましたかったから。楽しそうに微笑んでいる目を、彼にも見せて欲しかったから。
しかし少年は驚いたように目をそむけ、それでもまだ強く、手を握ってくれていた。
それからずっと、その手のぬくもりを、忘れたことがない。
でも彼の名前を忘れた。
どこの誰なのかも。
どんな声だったのかも。
みんな忘れてしまった。どうしてそんなことに?
アルミナは悲しかった。胸を引き裂かれるような痛みと切なさで涙がこぼれた。
だけど忘れていないこともある。
これは彼からの最初の手紙。自分のいちばんの宝物で、これからも、ずっとそう。
彼のところへ行きたい。もう一度会いたい。
心の奥底から吹き上げる火のような激しさで、アルミナはそう思った。
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