054 赤い百合
遠くで鐘の音がせわしなく鳴り響いている。
いくつもの巨大な鐘が打ち鳴らされる音色と残響が、ねっとりとより合わさって胸に打ち寄せる。
ガラーン、リンゴーン、ガラーン……
薄く目を開いたまま、うつらうつらとまどろむアルミナの耳は、行ったり来たりする鐘の音のゆらめきに聴き入っていた。
横になったまま、ぼんやりと見つめる先には、赤い花が咲いている。血のように真っ赤だ。
この花はたしか、百合というのだったと思う。壁の絵の中に描かれているのを、いつか見たことがある。
でも、そのときには、花は白い色をしていた。
百合には赤いものもあるのだろうか。あんなに真っ赤な。
壁の百合を見たのは、いつのことだったか。どこでそれを、見たのか。
よく分からなかった。思い出そうとすると、とたんに考えがまとまらなくなって、頭がぼうっとする。
赤い百合は、ゆっくりと息をするように揺れている。
リンゴーン、ガラーン、ゴーン……
赤い花が、ゆっくりと近付いてくる。ぼんやりと目をむけて、少ししてから、アルミナは気づいた。
赤い百合は、本物の花ではなく、誰かの胸に咲いている刺繍だ。
真っ白な衣の胸元に、赤い百合の刺繍を飾った女性が、横たわるアルミナの枕元に座り、やわらかい布で額の汗を押さえてくれている。
その女性は、卵がたのほっそりとした輪郭に、穏やかな緑色の目をしていて、ゆるく波うつ金髪を後ろで一つに束ねている。目尻に小さく皺が浮いているが、それまで含めても、落ち着いた美しい顔立ちだ。白く秀でた額の中央に、赤い小さな点がある。聖刻だ。
アルミナが見つめているのに気づくと、女性はふっくらと微笑んだ。
「ご気分は、いかが?」
なにか答えようとして、アルミナは自分の手足から急に血の気がひいて、胸が苦しくなるのを感じた。舌の奥にいやな味がひろがっていく。
吐き気で気が遠くなった。
「今は無理をしないで、お眠りなさい」
温かい指で、そっとアルミナの瞼を閉じさせて、女性の声が言った。
言われるまま、アルミナはまた、深い眠りに落ちていった。
雑居房とよばれている、がらんと大きな部屋には、沢山の寝台と、沢山の鍵のかかった扉と、大きな円卓があった。
壁には大きな填め殺しの窓が一つだけあり、ぶあつい窓ガラスから、暖かい日差が差し込んで、円卓の半分までを、明るく照らしている。
窓の外に見えるのは、沢山の塔、鐘楼、小さな窓、それから見渡すかぎりの平らな荒れ地。砂と石が目立つ平原には、うっすらと冬枯れが始まっている。
窓のそばにある大きな揺り椅子に、小柄な老婆がこしかけ、灰色がかった地平線を見るともなく見つめている。
その老婆のもとに集うように、そっくり同じ白い服に身を包んだ女たちが座っていた。年嵩の者から、アルミナと同い年かもっと幼いものまで、五十人ほどもいるだろうか。
姿勢よく、質素な木製の椅子に腰かけ、女たちはそれぞれ、刺繍をするための木枠や、糸を紡ぐための紡(つむ)、レースを編むための小さな沢山の糸巻きを手にしていた。
円卓の、日陰になっているほうの端に立ったアルミナを、その場にいた全員の目がじっと見つめている。
「目を覚ましましたわ。もうすっかり大丈夫なようです」
アルミナの肩に手をそえていた女性の声が言った。伏し目がちにふりむいて、アルミナは女性の胸を飾っている、赤い百合の刺繍を見つめた。
「さあ、皆さんにご挨拶を」
促されて、アルミナは大勢の視線と向き合った。
「アルミナともうします」
擦れた声だった。
女たちは瞬きして、密やかな翼の囁きで応えてきた。
ごきげんよう、アルミナさま、と、いくつもに折り重なった様々な声が告げた。
軽く会釈する女たちに姿勢を下げて応え、アルミナも翼を使った。
わたくしも、お仲間に。
緊張しつつ呼びかけると、女たちの翼は、どうぞよろしくと囁きかけてきた。
アルミナはほっとした。
「空いた椅子に、お座りになって」
赤い百合の女性が示すのに促されて、アルミナは円卓の周りに無造作に置かれている椅子を見回した。ほとんどの椅子には主がいたが、ひとつふたつ、空っぽの席が残っている。
自分と同じ年かっこうの少女たちがいる辺りに、ひとつ空席があるのを見つけて、アルミナは背後にいる女性に目配せをした。
すると女性は、にっこりと微笑み、何も言わずに頷いた。
アルミナが空席に座るのを、白い服の少女たちが、じっと見つめている。気になって見つめかえすと、たいていの少女はびっくりしたように恥じらい、いそいそと自分の手仕事に戻っていった。
アルミナの右隣にいた少女だけが、視線から逃げそこねて、アルミナと見つめあった。
まっすぐな淡い金髪に、気の弱そうな小さな灰色の目をしたその少女は、アルミナに、少し寂しそうなような喜んでいるような、不思議な微笑を向けてきた。
「わたくしはセシリアです」
大急ぎの小声で、灰色の目の少女が名乗った。
「セシリアさま……」
アルミナは遠慮がちに微笑んで、新しい名前を憶えた。これから沢山の名前を憶えなければならないだろう。
「刺繍は、お好きですか」
囁くような小声で、セシリアが尋ねてくる。アルミナは彼女がさしだした丸い木枠と、そこに張られた白い絹に目を落した。
見覚えがある気がした。自分はそれが、とても好きだった。
「はい、好きです」
アルミナが微笑むと、セシリアも遠慮がちに微笑みかえし、なにも言わずにアルミナに木枠を手渡してくれた。
セシリアの手から、白い糸束と、銀色に光る針を受け取り、アルミナは女たちが代わる代わる眺めている大きな図案をのぞきこんだ。
白い絹に、白糸で縫い上げられていく、細かな鎖の模様。
アルミナの頭の奥が、ちくりと痛んだ。
「これは、どなたのご衣装ですか」
隣にいるセシリアに話し掛けると、セシリアはびっくりした顔で、口をきくなというふうに、人差指を唇にあてる。
「静かに」
円卓のどこかから、鋭い声が飛んできた。アルミナはびくりとして針先を震わせた。
「無駄に話すのは、ふしだらですよ。分をわきまえて、沈黙を学びなさい」
神経質に響く大人の女性の声で叱りつけられ、アルミナは縮み上がった。すぐ横で、セシリアが同じように、身を強張らせてうつむいている。
アルミナは惨めな気持ちになった。自分のせいで、セシリアまで叱られてしまった。
「サフリア・ヴィジュレ様のご衣装です」
穏やかな声に説明されて、アルミナはふと顔をあげた。
円卓の一席から、胸に赤い百合を咲かせた女性が、淡く微笑みかけてきた。セシリアが、ほっと密かな安堵の息をつく。
「アイネ様、あなたがそのように甘やかされては、示しがつきませんわ」
強張って低くこもった声がきこえた。
円卓の別の端に、ぴんと姿勢よく胸を張った、灰色の瞳の女(ファム)がいた。叱責の声のあるじに違いない。
大きな目元を飾る睫と、ふっくらと厚みのある唇の赤さが、その女(ファム)に強い存在感を与えていた。白い衣の豊満な胸元を、華やかな白い糸で刺繍された、大輪の百合の花束がかざっている。
アルミナには彼女の座る場所が、円卓にはあるはずのない、上座のように感じられた。
手仕事をする指先を休める気配もない、黙りこんだ女たちを側近くに従え、灰色の瞳の女(ファム)は、つんと顎をあげている。
「お気にさわったのでしたら、おわびいたします」
赤い百合の女(ファム)が、やんわりと物怖じもなく応える。
「わたくしの気にさわるかどうかではございません。戒律ですわ」
「グロリアさま、あなたはまるで、歩く戒律ですわね」
やさしげに、赤い百合の女は微笑む。
手仕事に戻ろうとする彼女を見て、灰色の瞳の女が険悪に眉を寄せた。グロリアと呼ばれたその女は、手に持っていた刺繍の枠をはたと円卓に置いた。
それを見た、女たちの手仕事がぴたりと止まる。
「おだまり、グロリア。腹の吾子に障る。耳ざとい天使に、翼がわめくのを聞かれてもよいのか」
しわがれた声が飛んだ。
のんびりと震えながら語られた言葉は、窓辺からきこえた。
アルミナはぽかんとして、窓辺に座る老女を見つめ、顔を赤らめて押し黙ったグロリアに目をやった。
よく見ると、円卓のかげになったグロリアの腹は、丸く大きくふくれている。
たぶん、子供が入っているのだと思う。
アルミナは羨ましいような、恐いような気持ちになった。
あんなに大きくなったものを、どうやって外に出すのかしら。
そう思ったところで、鐘が鳴りはじめた。
リンゴーン、ガラーン
「みなさん、聖堂へ」
仕事の手を休め、赤い百合の女が立ち上がった。それに倣うように、白い衣を引いて、女たちは沈黙のまま次々に立ち上がった。
夕の祈りの時刻だった。
女たちは、ベールを深深とかぶって顔を隠しつつ、慣れたふうに三列に並ぶ。
どうすればいいのか戸惑いながら、アルミナはセシリアの横にくっついて、なんとか自分をその一員に紛れ込ませた。
行列がしずしずと進み、先頭あたりで2人の女(ファム)に両脇を支えられている老婆が扉まで行きつくと、列を率いて歩くアイネが、扉にとりつけられた金具を揺らし、こつこつ、と扉を叩いた。
扉からは分厚い木の音色がした。
なめらかに開かれる扉を見守るアルミナの胸は、どきどきと不安げに脈打っている。
行列がふたたび進みはじめた。
自分の体が敷居を越え、部屋の外に出て行くのが、信じられない。
足を踏み出しながら、アルミナは思わず息をとめ、ぎゅっと固く目を閉じた。
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「アイネさまと、グロリアさまは、仲が悪いの」
顔を洗うための水盆に水を満たし、順番に寝支度を整えながら、少女たちはかすかな声で囁きかけてきた。それがまるで、とんでもない秘密だというふうに。
次の少女に水盆を譲って、アルミナは誰かに差し出された白くやわらかな布で、濡れた顔をぬぐった。
少女たちは一本きりの櫛を大事そうに交替で使い、肩を過ぎるあたりで切り揃えた金髪を丁寧にとかしている。
少女たちはとても、仲が良さそうだ。アルミナは、自分がその中の一人になれるのか、心配になった。
「アルミナさまは、どこの房からいらしたの?」
身を寄せあっている十数人の少女たちのうちの誰かが、浮き立った気持ちを押し隠した声で尋ねてきた。
「……どこの、房?」
少し考えてから、アルミナは答えた。意味がわからなかった。
「お城のなかには、いくつかここと同じような房があるんですって。アルミナさまは、そのどこかからいらしたんでしょう?」
こっそりと囁くように、そばにいたセシリアが説明してくれた。
「わたくし……なにも憶えていません」
口に出すととても不安で、アルミナは不思議そうにこちらを見つめてくる少女たちを落ち着き無く見回した。
「では……きっとどこか、秘密の場所からいらしたのね」
セシリアが微笑んで言った。少女たちはアルミナを興味深げに見つめ、にっこりと笑いかけてくる。
「素敵ですわ」
「秘密の場所だなんて」
「なにか少しでも、憶えておいでですか?」
口々の囁き声に気圧されながら、アルミナは空っぽになった記憶をたどった。
「窓辺に、小鳥が……」
チチテュウ、とさえずる可愛い声がぼんやりと頭をかすめて消えてゆく。
「それから、歌……」
ずきずきと痛み始めたこめかみに指をそえて、アルミナはきれぎれの記憶をたどった。
「どんな歌ですの?」
しげしげとアルミナの顔を見つめて、少女たちは真剣な面持ちだ。
アルミナは小声で、ちらりと思い出せた歌の断片を口ずさんだ。
いくつかの音を拾い上げただけで、歌は脆く崩れて消えていってしまう。次にくる音を思い出せなくなって、アルミナは呆然と黙りこんだ。
なぜか悲しい。思い出せないなんて。
とても大切な、忘れてはいけないことを、沢山失った気がする。
「アルミナさま、なんて奇麗なお声」
励ますような力づよさのある囁き声で、セシリアが言った。
「ありがとうございます。でも、わたくし、もうなにも思い出せません」
アルミナは済まない気持ちになって、無理に微笑みをつくってみせた。
少女たちは何も言わず、アルミナを労るような曖昧な微笑で応えてくるばかりだ。
「よかった。怖い方でなくて」
ほっとしたような、浮き立ったような、微妙な気配で、少女たちが囁く。
アルミナには、なんのことかわからなかった。
「ずっと眠っておられたでしょう。その間に、わたくしたち、いろいろ秘密の話し合いをいたしましたの」
「夜にですわ」
「翼を使ってはだめ、天使に聞かれてしまうわ」
「でも声は……」
くすくす笑いを押し殺したような、ひそやかなざわめきを立てて、少女たちは口々にアルミナに説明したがった。
「喉から出る声は、天使にも、グロリアさまにも、聞こえていないってわかったの」
アルミナに遠慮がちに微笑みかけて、隣にいたセシリアが、灰色の瞳を不安げにちらちらと瞬かせた。
「いけないことですのよ」
「ですから、こっそり話すんですわ」
「わたくしたちの、秘密」
小さな明かりだけの部屋でも、はっきりと赤い唇を手で覆い隠して、少女たちは微笑み、アルミナをうかがうような目をした。
やっと、アルミナは少女たちの言う意味を理解した。
ここでは、喋ってはいけないのだ。
まして、皆の見ている前で、歌を歌うなんて、とんでもなくふしだらだと思われたかもしれない。
「わたくし……申し訳ございません、知らなかったのです。これからは、口を慎むようにいたします」
内心、おろおろとうろたえながら、アルミナはつっかえつっかえ謝った。
「お気になさらないで、アルミナさま」
「わたくしたち、秘密を共有いたしましょう」
微笑む少女たちが、怯えているのが感じられた。
アルミナは薄く唇を開き、彼女たちを見まわし、最後にはすぐ隣から自分をのぞき込んでいる、セシリアの瞳と向き合った。
セシリアの口元は微笑んでいたが、うっすらとしかめられた眉に、不安な表情が漂っている。
告げ口をするのではと、心配されているのだわ。
アルミナはびっくりしながら悟った。
答える代わりに、アルミナは首を横に振った。
そんなことは、いたしません。
そう言おうとした時。<br /> とつぜん、少女たちがぴくっと驚いたふうに震え、大慌てで自分の寝台にむかいはじめた。ひたひたと素足の足音が、固い床のうえを右往左往する。
ぽかんとするアルミナの袖を引っ張って、セシリアが壁ぎわにずらりと並んだ寝台のほうへと招いている。
さあ……お嬢さんたち。
歌うような調子で、誰かの翼が語りかけてきている。
アルミナは急いで、自分のふとんにもぐり込んだ。
きいっ、と小さな軋みをたてて、扉が開いた。
アルミナは心底から震えあがった。
扉のむこうから、恐いものが現れる。また、わたくしを、恐ろしいところに連れていく……
薄闇から赤い百合が咲いた。アルミナはこごえた吐息にのどを震わせた。
部屋に入ってきたのは、胸に赤い百合を咲かせた、やさしげな女(ファム)一人きりだった。
たしか、アイネ、さま。
横になったまま、アルミナは新しくおぼえた名前をたぐりよせた。
ほっ、と暖かい息が、凍り付いた喉を満たす。
「皆さま。女(ファム)が口にしてよいのは聖なる言葉だけ、無駄な語らいはふしだらで、あなたがたの胎(たい)を汚すものですよ」
厳しい言葉とは裏腹に、アイネの声は穏やかで、とても優しかった。
「罪穢れの許しを乞う、祈りを」
寝台の並ぶ通路の中ほどまで静かに歩いて、アイネは少女たちに命じた。
すると、部屋のあちこちから、ひそひそとつぶやかれる祈りの言葉が立ち上った。
考えるより先に、アルミナはふとんの上で手を組み合わせ、同じ祈りをとなえていた。
これだけは、不思議なほど淀みなく思い出せる。
ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス、と、アルミナは少女たちとともに、贖罪の天使への祈りの文句を唱えた。
神聖な言葉を口にしながら、アルミナは落ち着かなかった。
天使はどこかで、この許しを乞う祈りを、聞いてくれているのかしら。
ほんとうに、ほんとうに?
ああ、そうだといいのに。
祈りのなかに時折現れる天使の名前が、温かく、慕わしい。
アイネがゆっくりと歩き回る足音が、近付いてくる。目をとじ、それを聞きながら一心に祈っていると、ちょうど聖句が終わるところで、アイネがアルミナの寝台の前にやってきた。
「天に栄光」
「地に平和を」
アイネの言葉に応じて、横たわる少女たちが声をそろえて詠唱する。その中に自分の声が熔けてゆくのを、アルミナは感動に似た思いで感じとった。
わたくしはずっと、ひとりだった。ひとりで寂しかった。
でも今は沢山の人に囲まれている。親切なセシリアさま。お優しいアイネさま。
身を寄せ合った時の、少女たちの肌の温かさ。
わたくしはもう、さびしい思いをしなくていいのだわ。
「小さな母上様がた、静かにお休みなさい。物思いは明日にして」
足音ひそかに歩き、アイネがアルミナのふとんをそっと整えてくれた。真綿ごしに感じる、アイネの手は安らぎに満ちていた。
同じように一人一人の蒲団を着せ直してやりながら、アイネはぐるりと部屋を一周し、暖かい沈黙を後に残して、扉の向うに戻っていった。
しばらく、物言いたげな空気だけが、暗い室内にたちこめていた。
しかしやがて、穏やかな寝息が聞こえはじめた。
アルミナはうっとりと目蓋を閉じ、ふわりと訪れた眠気に身を任せた。
こんな日が、いつまでも続きますように。
浅い眠りに落ちていくなか、小さな夢をいくつも見た。
枕を抱えた中年の神官が、物言いたげにこちらを見つめている。
マクラデゴザイマス。あるみなさま……枕、で、ゴザイマス……。
神官はそう繰り返しながら、ふっと吹き消される蝋燭の火のように、闇のなかへと消えていく。
アルミナは寝苦しさに、何度も寝返りを打った。
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