053 花争い

 ばさばさと、うるさく飛び去ってゆく幾つもの羽音が聞こえる。

 ヨランダは針葉樹のささくれた大枝に座り、幹に肩をもたれかけさせて、白い残像を引いて空を渡っていく鳥たちの姿を見上げた。

 枝の間をよぎっていく一瞬に目をこらし、じっと神経をとぎすますと、鳥たちの羽ばたきが次第にゆっくりになってゆく。重たげに翼をもちあげ、振りおろす。そしてまた翼を挙げる。

 鳥の動きが、止まって見える。

 いち、に、さん……。

 うつろな心の中で、ヨランダは小さな翼の羽ばたきを数えた。

 北からやってきた渡り鳥。故郷の枯れ果てた地平線にも、これと同じ鳥が群れを作って、まっしぐらに飛び立っていく姿が見られた。

 砂地に巧みに紛れた巣から、卵を集めて煮詰めると、産婦や病人に滋養を付けさせるのに丁度いい、栄養価の高い薬が作れる。

 卵を拾い集めるのは子供の仕事で、昔はよく、同じ年頃の娘たちと連れ立って、鳥の巣を探すために荒野を駆け巡った。

 運良く白い鳥を捕まえられたら、娘たちはそれを持って、大急ぎで部族の天幕へと帰り、その奥まった一室にたむろしている、男たちに贈り物をした。白い鳥は幸運と長生きの印。部族の男たちがいつも健康で、いつまでも生きるようにと願いをかけた、縁起の良い贈り物とされていた。

 誰に与えるかは、鳥を捕まえた娘が決めることだ。娘たちは大抵、体が大きく、より健康そうな男を選んだ。

 いつも隅のほうで咳(せき)をしていた、あんな痩せっぽちに情をかけてやったのは、自分くらいのもんだったろう。

 ひょろりと痩せた虚弱な少年のことを、ヨランダはぼんやりと思い出していた。

 今ならあの鳥を、百羽だって捕まえられる。

 1羽で1年。百羽いれば、百年だって生きられるかもしれない。

 ヨランダは、天空をゆっくりとよぎる白い影に手を伸ばそうとした。

 ふいに座っていた枝が震え、一つ下の枝に、鈍い柿色の外套に隠れた小柄な背中が現れた。

 一気に集中が崩れ、頭上の空をゆく鳥たちが、再び矢のような勢いで流れはじめる。

 鳥たちの長く引き延ばされたさえずりが戻り、ヨランダの胸をかき乱した。

「ヨランダ」

 そこはかとなく舌足らずな幼さを残した娘の声が、足下から呼びかけてきた。いつもの言づてを伝えに来た仲間だ。

 ヨランダは頭を振って、目を瞬かせてから、声のしたほうに目をやった。

「ルシル?」

 驚いて、ヨランダはひそめた声で鋭くささやいた。

 枝をつかんで、身軽に登って来た娘の顔には、見覚えがあった。丸い頬に、黒目がちな可愛げのある目鼻立ちをしている。昔、狩りに出てゆく年上の娘たちのあとを、必死についてきていた小さいのだ。

「鳥、すごい数だね」

 ルシルは横に座り、ヨランダの肩に柔らかい頬を擦り寄せてきた。ルシルの髪に焚きこめられた、淡い枯れ草のような甘い匂いがする。部族の成人した娘たちが使う香の匂いだ。

 自分が故郷を離れている間に、こんな小娘まで、大人の女であることを示す帽子を被せられたのだ。

「お前みたいな見習いを寄越すなんて、婆さまはボケたの」

 非難をこめて、ヨランダは呻いた。

「あたしが婆さまに我がまま言ったの。姐さまに会いたかったんだよ。言づてだけなら、あたしだって……」

 上目づかいにこちらの様子をうかがって、ルシルが白状する。

「姐(あね)さま、あたし大人になったの」

 戸惑いをほこらしさの下にかくした顔で、ルシルが言った。大きな黒い目が、黒曜石のように深く輝いている。

「皆のために、あたしも働く」

「馬鹿だね。花(アルマ)の季節は短いんだよ。年頃の娘なら、今頃は、男の取り合いでもやってるもんよ」

 思わず説教じみた口調で言うと、ルシルは気まずそうな顔をする。

「姐さまだって、やってないじゃない」

「お前、男が怖いのかい」

 ヨランダがからかうと、ルシルはぶんぶんと首を横に振ってみせた。

「そんなんじゃないよ。ただ嫌いなだけ。やつら臭いんだもん」

「しょうがない子だね」

 呆れて短いため息をひとつ漏らしてから、ヨランダはルシルの額に自分の頬を擦り寄せ、年下の同胞に挨拶をした。ルシルの肌は暮れはじめた山の空気になぶられて、ひやりとしていた。

 北方ではもうとっくに、花の季節は去ろうとしているはずだ。今年の淡い夏の間、四年に一度しかない花(アルマ)が北の平原に咲き、その甘い香りが、部族の男たちに繁殖を促す。

 花は以前に比べて、桁違いに少なくなっているという。部族をまとめる老婆が言うには、ずっと昔、婆の母の母がまだ小さな娘だったころには、平原をうめつくすほどのうす赤い花の群れが見られたという。しかし今では、子種を求める女たちが、限られた花を奪い合って争う始末だ。

 部族の男たちは、いつもぼんやりと無表情で、ただ呆然と座っていることが多かった。それが花(アルマ)の香りに触れると、眠っていた何かが呼び覚まされたように人柄を変える。

 男の目を覚まさせるには、満開の花(アルマ)が百本必要だと信じられており、成人した女たちは野辺に咲く花を毟りとって狩り集めた甘い香りを抱えて、お目当ての男のいる天幕へと走ってゆくのだ。せっかく集めた花を、別の誰かに奪われでもしたら、元も子もない。

 甘い香りの中で繰り広げられる花争いは、女たちにとっても、一種の狂気だ。より強い香りを漂わせる花を求めて、感極まった女達は、躊躇いもなく剣を使った。

 斬り付けあった者どうしでも、いったん子種を得て腹を膨らませれば、すべて忘れたようにけろりと仲良くしている。

 ヨランダには、その気持ちがどうしても分からなかった。甘ったるい花の匂いで満たされた天幕の中で起こることに、それほどまでに執着する気持ちも、よく分からない。

 先だっての花の頃には、ヨランダは孕(はら)むこともなく、呆気にとられるうちに、早々とやってきた秋の風にさらされて、あっという間に花は枯れていった。

 自分が子供を産むことは、もうない。ヨランダはその考えを受け入れていた。

 そうする他に方法がない。

 今年の花も、もう終わろうとしているのだから。

「姐さま、これお土産。婆さまからの預かりもの」

 ルシルは腰に吊るした袋から、ごそごそと片手で器用に小さな包みを取り出した。

 草の繊維を織って作った布で、丁寧にくるまれた包みを受け取り、ヨランダは中味を開いてみた。

 ころんとしたいびつな飴玉が幾つかと、素焼きの小さな平たい容器が入っている。

 容器を取り出して開くと、中には鈍い赤色のとろりとした固まりが入っていた。部族の娘たちが化粧するときに使う紅(べに)だ。

「それから、これも……」

 ルシルは自分の手首にはめていた、細い金属の腕輪をはずして、ヨランダに差し出した。地味な品だが、透かし彫りのある綺麗な仕上がりだった。

「道中でなくすと困るから、あたしが着けてた……ごめん」

 後ろめたそうに説明して、ルシルが腕輪を、さらにぐいっと差し出してくる。

「気に入ったんなら、お前が着けててもいいよ」

「だけど、これ姐さまに、って……」

 拒否しながらでも、ルシルは未練ありげに繊細な腕輪を揉んでいる。

 ヨランダは淡く微笑した。

 ルシルは女らしい飾り物が好きで、子供のころから新しい編み方で髪を編んだり、草の実で爪を染めたりしていた。ろくすっぽ剣も振れない未熟者で、年上の娘たちには馬鹿にされてばかりだったが、ヨランダはそういうルシルが可哀想に思えて、折に触れて面倒をみたり、いじめられるのを庇ってやったりもした。

 出来の悪い妹のようなものだ。自分がいなくなったら、ルシルはどうなるだろうかと、心配になる。

「そんな話はいいから、言づてのほうを早く寄越しなよ」

 ヨランダがやんわりと急かすと、ルシルはどこか煮え切らないままの顔で、こくりと頷いた。

 さっきとは反対側の腰にぶら下げていた革袋から、別の包みを丁寧に取り出し、ヨランダに手渡す。

 中に包まれていたのは、水晶を刻んで作った小瓶だった。

 ヨランダは注意深くその蓋を開き、中に満たされていた深紅の液体の香りを確かめた。

「アルスビューラ……」

 花のような甘い香りを放つ、赤い毒の名を呟き、ヨランダは水晶の小瓶の栓を戻した。

「婆さまが、大事に使えって」

 ルシルの念押しに頷き、ヨランダは小瓶を厳重に包んでから、自分の腰にある革袋に仕舞い込んだ。

「フラカッツァーは順調だって。族長はそう長くはもたないよ」

 ルシルは、うふふ、と得意げに笑った。

「まだ殺るんじゃないと伝えて。ハルペグはしばらく生かしておけって、正妃の頼みだ」

 ため息をついて、ヨランダは説明した。ルシルが顔をしかめる。

「あの小母さん、ほんとに旦那を殺る気あるの?」

「さあ……私たちが気にしてやるような事じゃないよ。余計なことに頭を使うのはお止し」

「天使のほうは?」

 期待をこめた眼差しで尋ね、ルシルはヨランダの二の腕にすりよってきた。

「……難しい」

 昔、泣きべそをかいて薄汚れた頬を摺り寄せてきた時とは違って、体に触れるルシルの乳房は、丸く育ち、暖かく柔らかな感触がした。ヨランダは細めた横目で、無邪気に自分を見つめているルシルを眺めた。

「婆さまは何か、言ってなかったかい」

「アルスビューラより強い毒はないから、他に手立てはないって」

「……郷(さと)には、あと幾つ残ってる?」

 ため息をもらし、ヨランダは赤い瓶のことを思い巡らした。

「それで最後だよ。姐さま」

 ルシルが不安げに答えた。ヨランダの目蓋が震えた。

「……おかしい。いったい、天使は何でできてるの。あんな餓鬼一人、ひと瓶も含ませりゃ、くたばるはずなのに」

「やっぱり天使は、死なない生き物なんじゃ……?」

 眉を寄せて、ルシルが気味悪そうに呟く。

「そんなわけない。あんたも見りゃわかるわよ。あんなのはただの、エルフの餓鬼じゃないか。お前、私がしくじると思ってるのかい」

 思わずカッとして、ヨランダは腕輪をはめたルシルの細い手首を鷲づかみにした。ルシルが驚いて体を引きつらせ、枝から重心がずれそうになるのを、かろうじて踏みとどまっている。

 はっと我に返り、ヨランダは落ちそうになっているルシルの体を支えた。引き戻されて安堵の息をつき、ふとこちらを見たルシルの目は、怯えたように暗かった。

「どうしてそんなに怒るのよ……」

 じり、と後ずさって、ルシルは叱りつけられた子供のように、上目遣いにヨランダを見つめてくる。

「……ごめん。時々、どうしようもなく腹が立って……悪かったよ、ルシル」

「婆さまに頼んで、姐さまが郷(さと)に帰れるように、しようか?」

「余計な気を回すんじゃないよ。私はまだ大丈夫。死に化粧して出てきたのに、どの面さげて帰るっていうのさ」

 空笑いして、ヨランダは天を仰いだ。

「姐さま……死ぬの?」

 じっと真剣な眼差しで、ルシルがヨランダの瞳を見つめてくる。

 ヨランダはしばらく、言葉の話し方を思い出せないような気分で、黙り込んだ。何度が、舌の付け根が痺れるような感覚が湧き、やがて、上ずった声が出た。

「そうよ」

「……もう、郷(さと)にも帰れないの?」

「ああ、そう。たぶんね」

 ルシルの淡い茶色の瞳が、ちらちらと炎のように小さく揺れている。

「あのね。姐さま……あたし、ヨルカの子供を産めって、婆さまに言われたの」

 その名を聞いた瞬間に、脳裏に苦しそうな空咳の音が蘇った。

 ヨランダは瞬きを忘れて、ぼんやりとルシルの顔を見つめた。

「姐さま、あたし……」

 腕にはめた細い腕輪を上げ下げしながら、ルシルがうつむいて目をそらせた。

「大人になったの」

 顔をそむけて首を垂れるルシルの項(うなじ)が、ほっそりと筋張って生白い。もう昔のような、ふくふくと丸い、隙だらけの子供ではない。

「あんな病気持ちでも、ちゃんと役に立ったのかい」

 ヨランダが訊ねると、ルシルは意外な機敏さで、こちらに顔を向けた。

「気になるんだったら、姐さまも試してみたらいいさ」

 喉を突く短刀のようなルシルの声に、ヨランダは思わず息をつまらせた。

「あんな腑抜けのために、百本も花(アルマ)を狩れって……?」

「これ! ……ヨルカが姐さまにって」

 小さく叫ぶようにヨランダの言葉を遮り、ルシルは腕輪をはずし、繊細な細工のあるそれを、ヨランダの鼻先につきつけてくる。苦しそうに寄せられた眉と、幼さの残る口元を、ヨランダは戸惑いながら見つめ返した。

 まだお互いに小娘だったころ。ヨランダが、つかまえた小鳥を、天幕のすみで寝こんでいるヨルカという名の少年に食わせてやろうとすると、ルシルはそれを笑って、あんなやつに、と反対した。

 それでも、人並みより虚弱に生まれ付いた少年が可哀想に思えたので、ヨランダは鳥をヨルカに食わせてやった。ヨルカは喜んで、微笑み、自分で刻んでこしらえた、小さな首飾りを寄越した。

 ルシルはあのときも、それを欲しがったっけ。

「……お前が持ってていいよ」

 淡く微笑して、ヨランダはルシルの手をやんわりと押し返した。

「ヨルカも男だけど、あいつが臭いのは平気なのかい」

 からかう口調で訊ねると、ルシルは耳まで真っ赤に染まった。

「うん。平気……」

「そう」

 おかしくなって、ヨランダは笑い声をたてた。抱えた膝に頬杖をつき、小さくなっているルシルの肩を抱く。

「元気でね、ルシル。みんなにもそう言って」

 囁くと、ルシルの肩が震えた。きゅうに、赤ん坊でも泣き出したような嗚咽が、ルシルの喉からもれた。

「姐さま、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「もう、お行きよ。フラカッツァーまで、ちゃんと気をつけるんだよ」

 泣きじゃくるルシルを、ヨランダは一通りなだめすかした。

 涙で熱をもったルシルの背中を撫でていると、なにかとても、懐かしい気持ちになった。泣き虫のルシルを、これまでこうやって、何度も慰めてきた。

 またこうやって、困り果てて震えている背中を抱くことになるなんて。自分の生涯も、意外と長いものだ。

「あたし、姐さまのこと大好きだよ。優しくて強くて。あたし、ずっと……子供でいたかった」

 去り際に何度も振りかえるルシルの未練がましい声を聞き、ヨランダは枝に腰を下ろしたまま、右手をあげて別れの挨拶をした。

 ルシルはどこか必死に見える仕草で、丈夫な枝を目ざとく探して、次々と飛び移っていく。鈍い色合いの外套に包まれた小さな姿が、ぽんと踊るように枝を蹴り、枝を掴む。

 ヨランダはそれをじっと見送った。

 遠ざかるルシルがふっと空中に踊り、幻が掻き消えるように、ほろりと霞んで消えた。

 跳んだのだ。

 それを確かめて、ヨランダはゆらりと立ちあがった。

 新しい毒が手に入った。

 腰に吊るした皮袋ごしに、小さな水晶の瓶を握り締め、ヨランダははるか下にある、湿った森の地面を見下ろした。

 天使を殺るのだ。それだけが、この生涯に残された願い。

 一夜ごとに着実に冷えてゆく体に、最後に残された熱だ。

 ヨランダはふと、天幕に満ちる甘い香りを思い出した。胸一杯の花束を抱きかかえて走る女たち。むせ返るように甘く香る花弁を散らして、乱暴に抱き寄せられるのが、どんな心地だったか、もう忘れた。

 憶えていられるわけもない。自分は天幕を選ばなかった。誰でも同じだと、そう思っていたのだ。

 花に酔っても、ヨルカは咳込むのだろうか。可哀想なその背中を、もう一度撫でてやりたかった。

 はあっ、と長い息を吐き、自分の肩を抱きしめて、ヨランダは目を閉じた。

 どうやって跳ぶのかは、いつも本能の中にあった。自分が森のなかにいるのを忘れればいい。どこへでも跳んでゆける。

 ゆらりと揺らめき始めるヨランダの姿を見つめる者は、誰もいなかった。

 甲高い鳥たちの囀(さえず)りを聞きながら、ヨランダは消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る