052 地図の欠片

 誰もいなくなってしまった。


 しん、と静まり返った教室に一人ぽつねんと居残って、シェルは廊下を行き交っている、学生たちの長靴(ちょうか)の音を聞いていた。

 石造りの硬い床を、こつこつと叩く踵(かかと)の音は、どれも幾人か連れ立って早足に歩き回っている。

 山エルフの学生たちは、仲がいい者どうしで徒党を組んでいるのが好きらしい。

 たいていは5、6人で、企みを隠した目配せと、彼らにしか分からないらしい秘密の話で賑やかに談笑しながら、学内をうろうろとさ迷っていたり、廊下の終わりの石段にたむろして、果ての無い立ち話をしていたりする。

 彼らが楽しそうに見えて、うらやましい。

 イルスが誘ってくれたのを、断らなければ良かった。剣の手入れのために学院の鍛冶師を探しに行くから、シェルも一緒にどうかと言ってくれたのだ。

 シェルは、椅子の前に投げ出した自分の足を見下ろした。

 剣のことに興味がないし、鍛冶場なんて、恐ろしい。

 人を傷つけたり、殺したりする、剣や槍を鍛える鍛冶師たちは、きっと、粗野で狂暴な連中だろう。

 学棟では、帯剣が禁じられているため、丸腰に慣れないイルスは長居をしたくないふうで、さっさと寮に戻ってしまったが、シェルはこの学び舎(や)の、諍(いさか)いのない雰囲気のほうが、しっくりと肌になじむ。

 だけど一緒についていけば、イルスともっと話しができたかもしれない。しばらく時間をつぶしていれば、気を取り直して戻ってきたシュレーやスィグルとも、また顔を合わせられたかもしれない。

 うつむいたまま、シェルは重苦しい小さなため息をついた。

 後悔している。

 故郷の王宮では、うるさく付きまとってくる世話好きな姉たちから逃れるのに、必死なくらいだったのに。ここでは簡単に、誰もいなくなってしまう。

 同盟の人質として、同じ境遇のうちにいるのだから、友達になれると思いこんでいたが、どうやら彼らは、自分にはそれを望んでいない。

 一緒にいると、楽しいような気がする。

 シュレーは気難しくて、すぐに機嫌が悪くなるのには参るけど、模擬戦闘でのことには、感謝してくれていたみたいだった。そのことを別にしても、シュレーの心はどことなく物言いたげで、もとからそんなに、冷たくはなかった。

 イルスは嫌味なところがなくて、いつも気楽に話しかけてくれるし、彼と一緒だったら、スィグルもシェルに憎しみを顕わにしないみたいだ。自分とは本来、関わりのないことかもしれないが、彼らが軽口を叩き合うのを側で聞いているだけでも、シェルはなんとなく楽しくなり、自分もその雰囲気の一員であるような気分になれた。

 よそよそしい壁を取り払って、もっと親しくなれたらいいのに。

 もっといろいろ話したり、一緒にいられたら楽しいだろう。

 だけど彼らは3人が3人とも、シェルとの別れ際に寂しいなんて思っていない。

 しゅんと納得して、シェルは所在なく、椅子から立ちあがった。




 なにげなく教室の壁を見遣ると、大きな地図がシェルの目を引いた。

 四角く切った羊皮紙を継ぎ合わせた、古びた地図だが、金銀をふんだんに使った豪華な品のようで、うっすらと煤けて鈍い色合いになってはいるものの、落ちつき払った美しさだ。

 くすんでしまう前には、きっと鮮やかな群青色をしていただろう、泡立つ海に囲まれて、第四大陸(ル・フォア)の全様が描かれている。

 鷹の羽を飾った矢が指し示す北は、地図の真上よりも少し傾いていた。斜めに描かれた矢と同じになるように、シェルは首を傾け、大陸の最北端を見上げてみた。

 大陸の中ほどより少し上あたりを境にして、精緻な色彩で塗り分けられていた地図が、まるで描きかけのまま投げ出されたように、のっぺりとした灰色に沈んでいる。そこには、無関心そうな言葉がぽつりと書きこまれているだけだ。

 荒野(ムア)。

 ぼそりと、シェルはその言葉を小声でなぞってみた。

 シェルは故郷の教師たちから、大陸の北には、何も無い荒野が広がっていると教えられた。呪われた地であり、そこには何も無い。

 大陸の北部について、それ以上、学ぶべき知識はない。

 大陸の中央にある、神聖一族の直轄領(ちょっかつりょう)より南が、大陸の民に分け与えられた恵みの地であり、そこにある稔りは全て、神殿種たちの神聖な技(わざ)によるもの。養われるために、大陸の民は神殿種に仕え、服従するのだ。

 荒野(ムア)には……何も、ない。

 そんなことが、ありえるだろうか。

 何もない、なんてことが?

 大陸の南には、こんなに沢山の部族がいて、山々があり、大河が流れ下り、鳥が渡り、森には花が咲き乱れて、白い女鹿たちは毎年の秋ごとに可愛い子供を産むのに?

 シェルは何度かまばたきして、地図の中の、灰色に塗られた辺りを見つめた。

 神殿の神官たちは、荒野(ムア)は呪われた地として、興味を持つことすら禁じている。彼らが、何もない、と言うのだから、そこには何もないのだ。

 だけど。ここにも、きっと、何かが……。

 自分の心に知られるのも怖いような思いで、シェルが慎重に考えかけたとき、どたどたと激しい足音がして、ばたんと乱暴に扉が開く音がした。

 飛びあがって、シェルは振り向いた。

 教室の扉を押し開けて、灰色の巨人が現れていた。クム・ロウ師が戻ってきたのだ。

「先生……すみませんっ。僕は地図を見ていただけで……!」

 慌てて舌を噛みそうになって、シェルはうっと黙り込んだ。みるみる頬が熱くなってくる。クム・ロウ師はシェルがいることを予想していなかったようで、虚をつかれたようにぴくりとも動かなくなっている。

 扉をくぐるために灰色の長身をかがめたままで、クム・ロウ師は小さな黒い目で、じっとシェルを見つめている。シェルが黙り込むと、低く繰り返されるクム・ロウ師のかすれた呼吸の音が、静まり返った教室に響いた。

「君は、わたくしの講義に来ていた、森エルフの子供だね」

 ゆっくりと注意深い発音で確かめてくるクム・ロウ師に向かって、シェルは何度も頷いてみせた。

「地図に興味があるのかね?」

「はい! いえ、あのう……そうです、すみません」

 じたばたと答えるシェルをまじまじと見て、クム・ロウ師は、常人よりはずっと多めの時間をかけて、にんまり、と笑った。

「なぜ、謝罪を、するのかね。地図を見るのが、そんなに悪い、ことなのかね」

「いえ、そんなことはないです! ……と、思います。たぶん……」

 こちらをじっと見ているクム・ロウ師の視線に言葉を押し返され、シェルはだんだん小声になった。

 のしのしと大仰な足取りで、灰色の肌をした4本腕の老師は、無造作に椅子を脇へ押しやりながら、まっすぐにシェルのところまで教室を横切ってきた。

 目の前で立ち止まられて、シェルは思わず1歩退いた。

「君の名前は、なんというのかね」

 すぐそばにいる者に話しかけているとは思えないような大声で、クム・ロウ師が訊ねてくる。びっくりして耳を塞ぎながら、シェルはあんぐりと老師の小ぶりな顔を見上げた。

「シェル・マイオス・エントゥリオです、先生」

「マイオス! 道指し示す者来たりて語る。耳傾けるべし、その名はマイオス!」

 深い皺がいく本も刻まれた無表情のままで、クム・ロウ師は、シェルの洗礼名の由来となっている、詩篇の一節を喚きたてた。

「そ……そうです、そのマイオスです」

「マイオス君は……」

 言いかけて、クム・ロウ師はふっと言葉を切り、ふうぅっと、長い息を吐いた。そしてたっぷりと時間をかけて、傍目に見ているシェルが息苦しくなってくるほど、たくさんの息を吸い込んだ。

「ブラン・アムリネス猊下と親しいようだったが、なぜかね」

 また、にまりと笑って、クム・ロウ師はシェルが予想もしていなかったことを訊ねてきた。

「なぜって……わかりません。そんなに親しくはないです」

「猊下の隣の席にいてもかね? いつから、そのような栄誉が、たまたまそこにいた少年に投げ与えられるような、不信心な世になったのかね」

 喚きたてる嵐のような、威圧感のある声だ。クム・ロウ師の顔が、こちらを覗きこんで笑っていなければ、老師が怒っていると思うべきところだろう。

「模擬戦闘で一緒に戦ったので……そのせいかもしれないです」

 どことなく恥ずかしく、後ろめたい気がして、シェルはうつむいて視線をそらした。自分がなにか、得意に思っていると見られるのがいやだったのだ。

「天使が戦上手でも誰も喜ばないでしょう。しかしマイオス君。君は良いことをした。ブラン・アムリネス猊下は義理堅く、大陸の民の忠誠を重く受けとってくださるお方。きっと君のことも、目をかけてくださる」

 クム・ロウ師がシュレーのことを、よく知っている人物のように話すのに、シェルは違和感を覚えて、顔をあげた。

「あのう……先生は、ライラル殿下のことを、よく知っているんですか?」

「シュレー・ライラル。わたくしは知りません。ヨアヒム・ティルマンの血が天使を冒涜したのです。ティルマン君。聡明な少年でした。崇拝というものを知れば、猊下のよい僕(しもべ)になれたものを。愚か者です」

 むっと顔をしかめて見せるクム・ロウ師の黒い瞳が、どことなく傷ついている。

「先生は、ライラル殿下の父上のことを、知っているんですか?」

 驚いて、シェルは確かめた。

 そうだ。クム・ロウ師は自分は途方もない長命だと言っていた。それが本当なら、シュレーの父親がまだ少年だったころにも、この学院にいたのもかしれない。きっとそうだ。

「よく知っています。彼はよい生徒で、ちょうど、さきほどの君のように、この地図を眺めに、毎日のようにやってきました。よい族長になって幸福な死を迎えるものとばかり。まさか聖母を犯すほど、道を過つ馬鹿者だったとは……」

 ひゅうう、と息を吸う細い音が、クム・ロウ師ののどから響きはじめた。

 師が息をつぐ間、シェルは黙って、言葉の続きを待った。

 肺いっぱいに息を吸いおわると、クム・ロウ師は水にもぐる時にそうするように、ぴたりと呼吸を止めてしまった。シェルは老師が、話す時にまったく息をしていないことに気づいた。

 ノーヴァ族といったっけ。

 シェルは他では見ることもない、灰色の異民族を改めて不思議に思った。

「でも、ライラル殿下の父上と母上は、愛し合っていたんですよね?」

 師の姿は異様でも、その中におさめられている心が同じなことを、シェルはぼんやりと確信していた。

「愛というのが、どういったものか、わたくしは知りません」

 黒目ばかりの小さな目を地図に向け、クム・ロウ師は大陸の南の端、エルフ諸族の領地があるあたりを見つめ、ゆらゆらと震える骨ばった指で、山間(やまあい)の国を示した。

「ごらん、マイオス君。君たちの国……」

 地図に敷き詰められた羊皮紙の一葉には、山エルフ族の領地が描かれている。

 その端をつまんで、クム・ロウ師は一気に、羊皮紙を台紙から剥ぎ取った。

 繊維の引き千切れる音とともに、近隣の土地もろとも、山エルフ族の領土は第四大陸(ル・フォア)から姿を消した。一緒に連れ去られた森を、シェルは咄嗟に湧いた言い知れない切なさとともに、師の手の中にある羊皮紙の切れ端のなかに探した。

 クム・ロウ師が地図の破片を支えていた指を開くと、紙切れはひらひらと舞い落ちていく。老師はなにかの儀式のように、4つの手の指を、ゆらゆらと蠢かせている。

「消えてしまったよ。このような痛手と悲しみが、たった一人の愚か者のせいで、起きてよいものでしょうか。君のいう、愛なるもののために?」

「けど……実際には今もこうして、ちゃんと山エルフ族の部族領は無事です」

「君は、何歳かね、マイオス君」

 関係ない質問をするクム・ロウ師が、話から気をそらしたのだとシェルは思った。煮え切らない気持ちで、シェルはしぶしぶ答えた。

「13歳です、先生……」

「なんと若い。君が生まれてから今までの時は、わたくしにとっては、ほんの1日ほどのこと。わたくしよりさらに長命な神殿種にとっては、ただの一時、目蓋を伏せて、また開くまでの合間のことです。神聖な沈黙が、許しであると、忘却であると、どうして決められましょうか。深い怒りもまた、沈黙のもととなるものです」

 シェルはぎゅっと唇を引き結んだ。

 クム・ロウ師の言うことは、理解できた。

 今まで自分では、そんなことを考えてみたこともなかったが、師はこう言っている。神殿種の怒りはまだ生々しく、呪いは今も保留されている。シェルにとっては、自分が生まれるより前の大昔に起きた、すでに終わった出来事であっても、神殿にとっては、そうではない。

「先生は、神殿が山エルフ族を滅ぼすと思ってるんですか」

「わたくしは、心配しているのです。君のいう、愛というもの。わたくしがそれを持っているとすれば、この若く愚かな人々のことを思うときの心です。昨日生まれて、今日には死んでしまう、健気な彼らの名前を、地図から削ることにならなければ良いが……」

 深い息をつくクム・ロウ師の呼吸が、悲しげに細い音を立てた。

「わたくしは沢山の名前を、葬らねばならなかった。この上、慣れ親しんできた人々の名を、それに加えたくないのです」

 哀切に語るクム・ロウ師の言葉に引きずられて、シェルの心は揺れた。いけないと思いながら、声が口を衝いていた。

「先生、荒野(ムア)にも先生が忘れなければならない名前がありましたか」

 強張った無表情から、むりに微笑を作って、クム・ロウ師は答えた。

「ききわけのない少年よ、荒野(ムア)には何もありません。しかし君が欲しいというなら、わたくしは今でも、地図の欠片をいくらか保管しています。君と親しい神聖な御方が、古い名前を思い出したいと思し召しならば、わたくしの手元から、それらがなくなっても、惜しみはしないとお伝えしなさい」

 シェルは動揺して、何度もからっぽの息を吐き出した。

「もし、ライラル殿下が欲しくないと言っても、僕にそれを、くれませんか、先生」

「君が知って、どうするのかね」

 きょとんと不思議そうにこちらを見下ろすクム・ロウ師は、森で出会った鹿のようだ。

「わかりません。でも僕、知りたいんです。その、古い名前というのを。忘れられてそれっきりなんて……悲しいし……」

 言い終えられずに、シェルは口篭もった。自分で言っていて、わけのわからない理由のような気がした。

 しかしクム・ロウ師は、ぐるぐると喉を鳴らして笑った。異様な笑い声だ。

「わたくしはまた、よい生徒を得たようだ」

 二対ある、クム・ロウ師の痩せた手が、ぽんと勢い良く打ち鳴らされる。乾いて皺の寄った手のひらを擦り合わせ、クム・ロウ師は高揚した目つきで地図を見上げた。

「美しい(ビーネ)! この大陸のことを理解したい、そう思わないかね、マイオス君」

「はい」

 うっとりと陶酔している老師の様子がおかしくて、シェルは思わず微笑んだ。

「たくさん知りなさい。世界を見つめなさい。それはあらゆる神秘に触れることができる力だ。それによって君は、自分自身を知ることができる」

 シェルの肩に触れて、クム・ロウ師は穏やかな力をこめて言った。

 そしてもう一つの右手で、長衣(ローブ)の懐をごそごそと探り、小さな金色の鍵を取り出して、シェルに差し出した。

「君にあげよう。わたくしの研究室の鍵です。いつでも好きなときに来て、好きなだけ居ていい。わたくしが居ないときでも、わたくしが居なくなってからも……」

 にこりと微笑んで、クム・ロウ師はシェルの手の中に、鍵を落とした。

 シェルはあわてて、鍵を握り締めた。

「この鍵をあげるのだから、君がわたくしを失望させる愚か者でないことを、願っているよ」

 シェルはクム・ロウ師の黒い瞳をまっすぐに見上げた。

 手の中にぎゅっと握り締めた鍵には、しみいるような心の震えが刻み込まれているように思えた。

 今の自分と同じように、この鍵を握り締めて、ここに立っていた誰かがいる。感応力がぼんやりと拾い上げる古い心の残滓(ざんし)を、シェルは追いかけた。

 先生、鍵をお返しします、申し訳ありません。

 落ちついた若い男の声が、虚無から蘇ってきた。

 走り去る背中を見送る誰かが、冬の嵐のような声で叫ぶのが聞こえた。

 愚か者!

 愚か者!

 愚か者め!

「マイオス君。機会があればぜひ、猊下もお誘いしなさい」

 朦朧と漂ってくる古い声と良く似た、かすれた声が、シェルの耳を現実に引き戻した。

 シェルは、年老いた異民族の目を見つめた。

「僕、きっとそうします」

 シェルが約束すると、クム・ロウ師はかすかに、頷いたようだった。

「さて。わたくしは地図を修正しに来たのです。君はもう行きなさい」

 床に落ちていた剥がれた羊皮紙を拾い上げて、クム・ロウ師はシェルに背を向けた。

 また来て良いと言われたので、シェルは寂しくなかった。

 そうだ。一度別れたからって、それっきりってことはない。

 寂しければ、また会いに行けばいいんだ。

 よく考えてみれば、そんなの、当たり前のことだ。

 指を開き、こっそりと手の中の鍵を覗き見て、シェルは不思議な気持ちになった。

 この学院に来て受け取った、みっつ目の鍵だ。この先いったい幾つの鍵をもらって生きていくんだろう。

「先生、また来ます」

 挨拶して、シェルは走り出した。誰に会いに行こうかと、考えながら。

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