051 深淵の鍛冶師

 黒々とのたうつ螺旋階段が、地下へ地下へといつまでも続いている。

 岩盤をえぐって形を整えただけの、荒っぽい石段を踏みしめて、イルスは注意深く、真っ黒な階段をくだっていった。

 壁に点々と松明(たいまつ)が灯されている。

 ゆらゆらと踊る灯りが、ひとつ絶え果てたころに次、また次と、地下の空洞を照らし出している。

 石段に混じった石英や雲母が、明かりに燐(またた)くさまは、まるで、夜の海に漂う銀の泡のようだ。

 月明かりを集め、冷たく輝くのに似て、物静かで儚(はかな)い、懐かしい美しさだ。

 足音の反響に混じって、空耳のような音がいくつか、地下から浮かび上がってくる。

 かんかん、こんこん、と硬質な音が、囁くように鳴り響いている。

 鎚(つち)の音だ。

 灼熱の鉄を鍛えるため、鍛治師たちが休みなく働く音。

 絶え間なく響いてくるその音は、大地の奥底に潜む、竜の鼓動のように思える。

 遠くから誘うように耳朶をうつ、密やかで力強い音色に呼ばれるまま、イルスは明滅する闇と炎の間を駆け下っていった。




 鍛冶場は身分のあるお方がごらんになるような場所ではありませんと、部屋つき執事ザハルは言っていた。

 しかし、イルスの故郷では、自分の剣を鍛えるのに無関心な剣士などいない。鍛冶師と直に会って、自分の剣の性分を伝えておくのは、当たり前のことだ。持ち主以上に、その剣のことを知っている者はいないし、その剣を必要とているのは自分なのだ。他人任せでは心許ない。

 イルスがそう説明すると、ザハルは二つのことを教えてくれた。

 一つは、鍛冶場に至るこの道。

 もう一つは、その道筋が「竜の喉」と呼ばれてきたということだ。

 竜に呑まれて行く。

 その先にあるのは、竜の胃袋か?

 イルスは一人笑いして、螺旋階段の大きなうねりを軽い足取りで下った。

 数十の松明を数えながら、舞うようにしばらく行くと、きゅうに生々しく鎚の音が耳に飛び込んだ。

 曲った先には階段がなく、かわりに古びた鞣し革が吊されただけの、粗末な入口が待ちかまえている。

 竜の喉の終わりに違いない。

 縦に裂かれた革の隙間から、乾いた熱気が漏れ出ている。岩の焼ける匂い、鉄の灼ける匂い。それにまじった、かすかな獣脂の匂い。

 イルスは向こう側の気配をうかがいつつ、腰に吊していた長剣を、剣帯ごと外した。帯剣を解くのは、鍛治師への礼儀だ。

 鍛治場は剣のふるさと。そこへ戻るとき、剣は武器であることを止め、鍛治師たちの芸術の手に戻される。

 だから、それ相応に扱わねば、剣がすねる。鍛治師たちの機嫌も悪かろう。

 師匠マードックの言葉だ。




 鞘に納めたままの剣で、革の覆いをはねのけ、中に入ると、激しい鞴(ふいご)の音が鳴り、剣を鍛える鎚の響きがイルスを迎えた。

 薄闇に火花が散る。

 鎚を握るのは、大岩のような男たちだ。

 汗と脂煙に濡れぎらつく顔には、小さな黒い瞳がらんらんと光り、鞴(ふいご)の風を受けて燃え上がる炉の炎を、灼熱に魅入られたように見つめている。

 屈強な筋肉に覆われた背は、つねに折り曲げられたような前かがみで、火花を避けるための革衣の他は、ろくに縫いもしていない毛皮を纏っているだけだ。

 大きな頭には不釣り合いな程小さい、つぶれた丸い耳。荒い呼吸のために開かれたままの大口からは、鋭い犬歯が突き出している。

 人というより、獣に近い。

 イルスは、初めて見る異民族の姿に、とっさに言葉を失った。

「なにを、ぽかんとしてるのさ、ボウヤ」

 気配のない方から、予想もしなかった女の声で呼びかけられて、イルスは体を引きつらせた。

 身を翻して見ると、自分を見下ろす岩だなに、片膝を抱えあげて赤毛の好敵手(ウランバ)が座っている。

 脂の匂う煤(すす)けた闇のなかでも、女の黒い目は冷たく澄んでいた。

 ざわり、と何かが背筋をかけのぼってくる。

「……ヨランダ」

 つぶやいた名は、蜜のような味がした。

 女(ウエラ)は赤い唇をゆがめて、にやりと笑った。

 笑い返したものかどうか、わけもなく戸惑ううちに、イルスは結局、女の目から視線をそらせた。

「得物の手入れに来たのか」

 機嫌の良さそうな饒舌で、ヨランダはのんびりと尋ねてくる。答えが言葉にならず、イルスはヨランダを見上げて、ゆっくり頷いてみせた。

「やつらに頼みな」

 顎をあげて、ヨランダはイルスの背後を示した。

 ふりかえって見ると、異形の鍛冶師が鍛え上げた剣を、岩をくりぬいてつくった大きな水桶に突っ込んだところだ。赤く燃えていた剣が冷水に揉まれ、けたたましい悲鳴と水蒸気をあげる。

 イルスはその様に見とれた。

 引き上げられた剣は、山の部族が使う細身のものだ。硬質な銀色の刀身に、炉の照り返しを赤々とうつしだしている。

 仕上げたばかりの剣を見つめる鍛冶師たちの目は、熱に酔いしれている。炉の周りにいる数人の男たちの間には、目に見えない興奮の糸が張り巡らされているようだ。

 そばに寄るだけで、自分もその糸に絡めとられてしまいそうな気がする。イルスはそれに、漠然とした恐れを感じていた。

「私は丸腰だ。剣の産屋でやりあおうなんて、野暮なことは考えるんじゃないよ」

 笑いさざめくような声にはっとして向き直ると、ヨランダがすぐ隣にいた。いつのまに岩だなから降りたのか、少しも気配がない。

 横目でちらりと眺めおろすと、たしかに、ヨランダの剣帯は空だった。

 片足に体重を乗せて、ごく近くに立つ姿には、これといった殺気もない。こちらにむけられた頬には、うっすらと透明な産毛が見える。ヨランダは、触れようとすれば手の届く、ただの娘に見えた。

「今まで……どこにいたんだ」

 口を衝いて出た自分の言葉に、イルスは内心驚いた。しかし、ヨランダはこちらを見もしない。

「正妃のところに」

 あっけなく答えて、にやりと笑いを見せると、ヨランダはイルスが手に持ったままだった長剣の柄にをにぎり、すばやく引き抜いた。

 油断していた。イルスは総毛立ち、あわてて身を引いた。

 しかし、剣は小気味よく鞘を鳴らして出ていく。抜き身の刃を掴んで引き止める度胸は、とっさには湧かなかった。

「アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ(汝、死を恐れるなかれ)!」

 刀身に刻まれた文字を、ヨランダが読み上げた。その強い声は、イルスにではなく、鍛冶場にいる別の者たちに呼びかけているように聞こえた。

 鉄と灼熱に没頭していた鍛冶師たちの、興奮の糸がふっつりと切れた。

 鍛冶師たちがいっせいに、のそりと重い動作でこちらを向いた。鈍く光っている彼らの黒い瞳に見つめられ、イルスはうろたえた。

 ヨランダの顔に視線を逃すと、そこにも、片方だけになった黒い瞳が、地下の薄闇に濡れて爛々と光っている。

 どれも同じ、黒い瞳だ。

 ひとりだけ青い目でいるのが、イルスにはひどく異様に思えた。

「いい剣ね。故郷から持ってきたのかい」

 長剣を撫でて、ヨランダが誉めた。

 ヨランダは、楽しそうに長剣のすみずみまでを眺めている。

 イルスは深い息をついた。ヨランダはたぶん、海辺の武器が見たかっただけなのだ。

「ああ。湾岸の鍛冶場から」

 イルスは安心して、やっと微笑んだ。

「お前には、この剣はでかすぎやしない? もっと身の丈にあったのを使うもんだよ」

 さらりと言うヨランダの言葉に、イルスはむっとした。

 師匠が鍛冶師に頼んで、イルスのためにあつらえてくれた剣だ。具合の悪いことなど何もない。

「おまえの剣、できたぞ」

 たどたどしい公用語が割り込んできて、イルスの反論を遮った。

 荒い息の音の混じる声がしたほうに目を向けると、ふたふりの剣をぶらさげた鍛冶師が、こちらにやってくる。

 剣には見覚えがあった。ヨランダが使っていたものだ。

 そばにくると、鍛冶師は見上げるような巨大な体躯で、肩や胸に、瘤のような筋肉がもりあがっている。汗をかいた鍛冶師の体からは、かすかな鋼鉄の匂いと、濃厚な獣脂の匂いが漂ってきた。

 自分の剣を受け取るために、ヨランダはイルスの長剣を無造作に砂地に突きたてた。それを見て、イルスはますます、むっと不愉快になった。

「いい砥ぎね。ありがとう」

 喜色を浮かべて鍛冶師に礼をいうヨランダが、普段よりしおらしい気がする。

 剣を並べて握り、ふたつの片刃の砥ぎ具合を見比べているヨランダと、腕を垂らしてそれを見下ろす若い鍛冶師を、イルスは交互に眺めた。

 鍛冶師の屈強な体躯は汗に濡れ、荒い息がくりかえし嵐のように響く。その脇に立つと、ヨランダはひどく華奢に見えた。まるで風にも折れそうな、弱々しい娘のようだ。

 イルスは訳もなく、惨めな気分になり、ふたりから目をそらした。

 今日はもう、予定を変えて戻ろうかと思い、イルスが手をのばしかけたとき、鍛冶師の手が先回りして、砂地に立っていた長剣を引き抜いた。

「研ぐか」

 低くうなるような声で、鍛冶師が尋ねてきた。片言の公用語だ。

 イルスは鍛治師の獣相を見上げた。エルフとはまるで種族が違うらしい、屈強な体躯は恐ろしげだ。

 言葉がわからないのかもしれない。なぜか気味良く、イルスはそう思った。

「頼む」

 気をつかって、イルスはなるべく簡単に答えた。

「おれ、話せないだけ。お前の話、わかる」

 鍛冶師の声色は相変わらずだったが、彼が不機嫌なのが感じられる。

 イルスは驚いた。そして反省した。

 なにをきゅうに、得意な気持ちになったのか。

「すまない」

 イルスがわびると、鍛治師は小さな黒い目で、じっとイルスを見下ろしてくる。

「いい剣だ」

 無表情に答えて、鍛冶師はのそりと背を向け、イルスの剣を持ち去った。

 くすくすと笑うヨランダの声が降り掛かってきた。

「やつらはうすのろだけど、馬鹿じゃないのさ。安心して剣をまかせな」

「知り合いなのか」

 むすっとした気分のまま尋ねると、ヨランダは面白そうに眉をあげた。

「ガキくさい顔だね」

「悪かったな」

 無愛想なまま答えると、ヨランダは一瞬だけ笑いをこらえるような顔をしてから、我慢しきれなかったのか、声をたてて笑った。

「笑うな」

 イルスは腹を立てていた。

 でも、ヨランダが楽しげに笑っているのが嬉しくもあった。この女も、こんなふうに笑うことがあるのだ。

「こんどは、お前が丸腰になったね」

 鞘に戻した二刀を剣帯に吊して腰に帯びながら、ヨランダはまだうっすらと笑っていた。

「私たちの習わしでは、炉辺は神聖な場所だ。戦いはまた、別の時に」

 ヨランダはもう、立ち去る気配を見せている。イルスはじわりと胸のうちをあぶられるような気持ちになった。

「別の時っていつだよ」

 小声しか出なかった。

「死に急いでどうしようっていうんだい。行儀よくお勉強でもしてな。」

「……俺が負けるって、決ってるわけじゃない」

 くやしまぎれに、イルスは強がってみせた。

「俺はお前に殺されたりしない。自分の死に場所ぐらい、もう知ってる」

 背をむけていたヨランダが、身をよじってこちらに目をもどした。

「口だけは一人前だね」

 女の顔は、意地悪く笑っている。

「嘘じゃない。未来視したんだ」

 ヨランダを信じさせようと思って、イルスは後先考えずに話した。

 ヨランダが、ふいに真顔に戻った。

「お前、未来視なの」

 黒い瞳に見つめられて、イルスは動揺した。

「私がいつ死ぬかも、わかる?」

 なにげない風に尋ねてくるヨランダの反面が、不安げにかげっている。

 イルスはきゅうに、口籠った。答えをひとつも持っていない。

「わからないよ。お前の未来なんか、俺は見てないし……」

 慣れない作り笑いでごまかそうとしたが、ヨランダは少しも、イルスから目をそらそうとしない。

「お前がもし、今夜だといっても、私は平気よ。覚悟はできてる」

 イルスはヨランダの右半面を醜く歪めている、赤黒い透明な石を見つめかえした。

 竜の涙。死(ヴィーダ)だ。

 恐ろしいと思った。目の前にいる、この女の死が。

 あの剣が、この黒い瞳が、この世界から消えてしまうなんて。触れることのできない遠いどこかへ行ってしまう。

「お前が死ぬのは、ずっと先なんじゃないかな」

 目を細めてヨランダを見つめ、イルスは自分ではない別のものに操られたような言葉で話した。

「俺はよく、他人の死を未来視するけど、お前のは見えなかったよ。俺の力じゃ、見えないくらい先なんだろう。十年ぐらい先までは、なんとかわかるんだけど……」

 無責任な言葉が、すらすらと口を衝いて出てくる。まるで未来が全部見えているような言いかただ。

 師匠が知ったら怒るだろう。予知者が見るのは、未来のほんのひとかけらだ。たったそれだけのことが、大勢を苦しませる。起こらなくてもいいような悲しい出来事を呼び寄せるのだ。

「私があと何年も生きてるなんて、あるわけない。このごろずいぶん、おかしくなってきてる。昨日のことも、忘れてしまいそうで……」

 ヨランダが鍛冶場の炉に目を逸した。

「怖い」

 ぽつりとつぶやいて、ヨランダは短いため息をついた。

「怖いって……お前が?」

 驚いて、イルスが尋ね返すと、ヨランダが不満げに眉をあげる。

「そうよ、おかしい?」

 イルスは答えを言葉にできず、ただ首を横に振ってみせた。

「ときどき自分がわからなくなる。お前にも、そういうことが?」

「自分がわからないって、どういうのだ」

「頭の中が、虚ろになって、なにも感じなくなるの。ものを壊したくなったり……」

 ヨランダは不意に、恥らったように話すのをやめた。何気ない仕草に、女の匂いがした。

「とにかく、私は時々おかしいんだ」

「それぐらい、誰にでもあるだろ。石がなくたって」

 ヨランダを元気付けたいと思ってイルスは気楽なふうに話した。

 ヨランダは納得していない顔でうつむきがちになり、うっすらと笑った。

「気休めは止しな。お前もいつか私と同じになる。その時がくる前に、大切なことはみんなやっておくといいよ。自分が他の連中とおんなじように、当たりまえに生きられるなんて、思っちゃだめよ。私たちはいつだって、今日かぎりの命なんだから」

「……お前の大切なことは、みんな終ったのか」

「ああ、終った」

「死にたくないって言ってたくせに」

 女の顔から目をそむけて、イルスはつぶやいた。

 なんの未練も感じさせないヨランダの横顔に、イルスは心を傷つけられた。

 この好敵手(ウランバ)はやはり、自分を見ていない。死に行く前のほんの片手間に、技に奢って未熟な剣士をからかっただけなのだ。

 腹を立てたいと思ったが、イルスはただ、悲しかった。

「死にたくないよ。だけど、私の一生はもう終る。腹の立つこの石が、私を押しつぶすのを、どうやってとめられる?」

 ヨランダがクスクスと笑う声が聞こえる。イルスは小さく首を振った。

「俺はあきらめない」

「むだな足掻きだよ。お前もどうせ、そのうち死ぬわ。せいぜい後悔なく生きることね」

 ヨランダがやんわりと応えた。

 がきん、と鋭い鎚の音が鳴った。

 驚いて、二人は燃える炉のそばにある、金床(かなとこ)を見遣った。

 獣面の鍛冶師が、鎚(つち)をふりあげ、屈強な汗まみれの腕で、金床に横たわる赤く燃えた剣を鍛え始めた。

 風をきって振り下ろされた鎚(つち)が剣を打ちのめし、けたたましい叫びをあげる金属を、一点の隙も無い武器へと変えてゆく。

 飛び散る火花が地下の闇を切り裂く。

 執拗に鉄を打ちつづける、鍛冶師たちの腕から、額から、しずくになって汗が飛ぶ。

 ヨランダはそれを面白そうに見つめている。

 女の白い喉元で、赤い液体を閉じ込めた、ガラスの入れ物が揺れている。中につまっているのは毒だと言っていた。

 死の恐怖に追いつかれて、ヨランダが今夜にも、その中味をあおるのではないかと想像すると、イルスは気が気でなかった。

 なぜそんな、くだらないものに、この女をとられなければならないのか。

 それぐらいなら、いっそのこと。

 今すぐこの場で、殺してしまいたい。

 がきん、がきん、と休みなく、音は聞こえた。打ちひしがれてゆく鉄の悲鳴と、自分の呼吸が、ぴったりと同じ早さだ。

 耳を打つその音階が、女の横顔と重なるのが、たとえようもない。

 胸苦しくなって、イルスは目を閉じた。

 赤く輝く鋼鉄に焼かれ、目の底が燃えるようだ。

「やつらが何者か、お前は知らないだろ」

 ヨランダの声に呼び戻されて、イルスは目を開けた。

「私たちはずっと昔、ともに戦った。神殿を倒すために。そして呪いをかけられたんだ。やつらは日にあたると死んでしまうようになった。生き残ったのは、こうやって穴蔵にいた者だけで、あとはみんな死んだのよ。今もこうやって、ここから一歩も出ずに生きていくしかないのさ」

 ヨランダが低くかすれた心地よい声で、イルスの耳元に囁いた。

「だけどお前は、奴らが不幸せだと思う?」

 イルスはヨランダの声を聞きながら、うすぼんやりと、別のことを考えていた。

 息が熱い。間近に頬を寄せてくる女の甘い匂い。鍛冶場の淀んだ熱気のなかで、それだけが場違いだ。揺れる羽飾りのついた帽子の中にまとめられた赤毛が、長いのか短いのか、気になってしまう。

 異民族の丸い耳にかかる赤い後れ毛。耳飾りをしていない。女たちはみんな、飾り物を身につけたがるものなのに、部族の風習が違うのだろうか。

 ヨランダには、髪の色と同じ、赤い石が似合いそうだ。炎の色。赤い血の、色……。

 ぼんやりとそう考えたときに、ちらりと赤いものがヨランダの耳の後ろあたりに見えた。

 気になって、目を細めてみると、そこにあるものの正体がわかった。

 竜の涙だ。赤い石が、なめらかな首筋から唐突に突き出している。

 がきん、と鍛治師の鎚が鳴った。

「やつらには燃える炉と、灼けた鉄があれば充分なのよ。私にもそういうものがある。それがある限り、私は不幸せにはなれっこない」

 淡く微笑みながら言うヨランダの頭の中で、なにが起こってるのかを想像して、イルスは軽い吐き気を感じた。赤い竜(ドラグーン)が、女の頭を食い破って生れ出ようとしている。誰にもそれを止めることができない。

「お前にもそういうものがある?」

 がきん、と頭のなかに響く鎚の音が聞こえた。イルスは仕事に没頭する鍛治師たちを見つめた。

 たゆみない槌の音を、イルスの呼吸が追い抜いていた。

「俺は……」

 首を振って、イルスはうめいた。

「強い剣士になりたい。それ以外はなにも」

「いつかはなれるさ。次の花(アルマ)が咲く頃には……」

 細められたヨランダの目蓋に、うす青く静脈が透けている。

 女の肌はどこもかしこも薄く滑らかで、簡単に引き裂けそうに見える。

 噛み付きたい。

 柔らかな肉を噛み千切る感触が、イルスには生々しく想像できた。苦しんで身をよじる女の生白い喉も。

 死(ヴィーダ)から遠ざけたいとも思い、それと同じくらい強く、滅茶苦茶に傷つけたいとも思う。

 それが死であろうと、なんだろうと、誰にも渡したくない。

 この好敵手(ウランバ)は、最後の息のひとかけらまで、自分のものだ。

 イルスはそう思っている自分の心に、混乱した。

 なぜそんなことを。どうかしている。アルマの血の狂乱がやってきて、正気を奪っていこうとしている。

 炉の炎を掻き立てる鞴(ふいご)の音が、ごうごうと地下の穴蔵にごだました。

 イルスは手をのばして、ヨランダの髪を覆う帽子をとった。いくつかの三つ編みに編まれ、帽子のなかに納まってた赤毛が、ゆるりと崩れてヨランダの肩におちる。

 ヨランダは不思議そうにイルスを眺めてきた。

 女が隠す気配も見せない頭の右半分には、豪華な髪飾りのように、たくさんの赤い石が浮きあがっている。

 イルスは目眩に似た激しい焦りを感じた。死(ヴィーダ)にこの女を奪われてしまう。

 灼熱の鉤爪で、胸を掻き毟られるようだ。

「早く俺に、剣の使い方を教えてくれ」

「それは……好敵手(ウランバ)に頼むようなこと?」

 ヨランダがからかう口調で答える。

「いつかじゃだめなんだ。俺は今、強くなりたいんだ。今日限りの命だっていうなら、今日。次のアルマには、お前はいないんだろう。だったら俺にもこれが最後だ。俺はお前に、勝ちたいんだ」

 ややあってから、うつむいて目をそらし、ヨランダが笑った。皮肉めかせて喉を鳴らすのが聞こえる。

「ああ、そうかい。そいつはいいね。だけどボウヤ、自分がなにを言ってるかわかってるのかい。それとももう、どっぷり花(アルマ)に酔っちまって、なにがなんだか分からないっていうの?」

 顔をあげたヨランダの目は、笑っていなかった。

「私がなんで、お前の命を取らないでやったか、わかってないのかい。お前が可哀想だからよ。長い命じゃないんだ。故郷に帰って、女(ウエラ)たちに子供を産ませてやりな。お前にはまだ、時間があるだろう」

 イルスの手から帽子をひったくって、ヨランダは目を合わせないまま言った。

「挑戦(ヴィーララー)は神聖だ。途中ではやめられない」

 驚いて、イルスは答えた。

「……だったらさっさと、決着をつけたらどう。お前、ほんとに私を殺せるの」

 とげとげしい口調で、ヨランダが尋ねてきた。

「私の心臓を、ちゃんと狙えるのかい。たかがちょっとの傷だって、びびって斬れないくせにさ」

 自分の左胸をどんと叩いて、ヨランダはイルスを睨み付けてきた。

 ヨランダの無防備な胸元を見て、イルスは押し黙った。

 いつまでも何も応えないでいると、ヨランダが舌打ちしてこちらに背を向け、帽子をかぶり直した。

 腕を上げたヨランダの脇腹には、しっかりと鍛えられたなめらかな筋肉が淡く浮き上がっている。女の腰は、思ったより細かった。

「お前が竜の涙じゃなかったら、あのとき殺(や)ってた」

 突然立ち去ろうとするヨランダにぎょっとして、イルスは思わず声をかけた。

「ヨランダ」

「なに」

 振り向いた女の顔は渋面だった。

「剣技を教えてくれないのか」

「教えてやるわよ」

 ヨランダは苛立った気配の答えを寄越してきた。

「いっておくけど、私がお前を殺そうと思ったら、そんなこと簡単なのよ。お前、それでもいいの」

 いらいらと早口になって、ヨランダが尋ねてきた。

「いいよ」

 確かめるヨランダの心が不思議に思えて、イルスはあっさりと答えた。

 アルマ期の挑戦(ヴィーララー)はもともと、命のやりとりだ。

 ヨランダが深くため息をもらし、再びくるりと背をむけた。

「ヨランダ……いつ?」

 鍛治場を出て行くヨランダの背中に、イルスは言葉を投げかけた。

「ヌーイ」

 螺旋階段にこだまして、ヨランダからの答えが返った。

 夜、という意味の言葉だ。

 まろやかな懐かしい響き、海辺の故郷を思い出す。

 ばさりと入り口を覆う革が下りて、女の足音は、すぐに聞こえなくなった。

 遠ざかる気配すら追えない。

 がきん、と再び剣を鍛える音が戻ってきた。炉に返し、灼熱を取り戻させた剣を、鍛治師たちがまた叩きはじめた。

 イルスは炉辺の男たちに目をむけた。

 ぎらつく暗闇に吐いたため息が、ひどく熱い。

 振り下ろされた鎚のまわりに、ぱっと火花が飛び散る。

 目が焼けるようだ。

 しかしイルスはそれから目をそらせなかった。

 金床にむけられた男達の目も、狂乱に憑かれたように鋭く、ただじっと、白熱した一点だけを見つめている。

 強力(ごうりき)の槌に蹂躙される鉄の悲鳴が、何度も心地よく、獣脂のにおう熱い暗闇に響きわたる。

 嘆くように。喘ぐように。

 イルスは耳をすまし、ぼんやりといつまでも、その声を聞いていた。

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