049 永遠の誓い

「言い訳を思いつかなくなったら、とっとと逃げ出すのが神殿ふうなのかい」

 腹に力を入れて、強い声で呼びかけると、追い付けそうもない早足で廊下を進んでいた後ろ姿が、ほんの少しの間だけ歩みを止める。

 走るのが癪(しゃく)で、スィグルは無理な早足でシュレーの背中を追っていた。

 廊下の薄闇のむこうで、シュレーの淡い色合いの金髪と、大人びた長身の背中が、早足に合わせて揺れている。スィグルは、自分もせめてあれくらい育っていたかったなと思った。もしそうだったら、今シュレーに追い付くために、涙ぐましい小細工をする必要もなかっただろうに。

「おい猊下! ちょっとくらい、哀れな大陸の民にお慈悲を示してくれたっていいだろ。止まってくれよ!」

 からかう口調で頼んでいる途中から、シュレーはいらだった様子で足を止め、くるりと振り返った。ほの明かりのなかに見えるのは、強張った無表情だ。

「なんの用だ」

 スィグルが追い付いてくるのを待ってから、シュレーは短刀を突き付けるようにつぶやいた。

「昨日の礼を、聞こうと思ってさ」

 深く息を吸うのを隠そうとして、スィグルは失敗した。軽くむせるスィグルを、苦虫を噛みつぶしたような表情で眺め、シュレーが腕組みをする。

「礼なら、食堂で言ったはずだ」

「命を助けてやったのに、あれっぽっちで終わりなのかい。助けなきゃ良かったよ」

「もともとが余計なお世話だろう」

 心もち顎をあげた姿勢のまま、眉を寄せ、シュレーは人を拒むような固い声で答える。

「よく言うよ。泣きべそかいて命乞いしたくせに」

 にやりと笑って、スィグルは相手の様子をうかがった。

 シュレーは一瞬、むっとした顔をしたが、すぐに首を振って顔をそむけた。わき起こった苦笑を隠しているのだ。スィグルは目を細め、満足して笑った。

「実際には、なんなんだ」

「随分あっさりかわすじゃないか?」

「君には、礼だけじゃなく、借りも返してあるはずだ」

 シュレーはいやみたっぷりに答えた。伏し目がちにスィグルを見下ろしてくる、灰緑の目が面白がっているふうな光を帯びている。

「あんたの秘密は、安いもんだったよ。僕のとは比べものにならない。不足ぶんを貰いにきたんだ」

「翼の秘密をもらすのは、神殿では禁忌なんだぞ」

「確かに、あの時は驚いたさ。でも、あんた天使なんだろ。天使に羽根が生えてることなんて、秘密でもなんでもないよ。神殿の壁画の中のあんたは、いつだって翼を出しっぱなしだ。誰だって知ってるよ」

スィグルはなるべく、当たりまえだという顔をして言ってやった。

「見るまで信じてもいなかったくせに……」

 憎々しげに唸るシュレーの顔は、少し楽しそうだ。

「いいだろう。何を知りたいんだ」

 組んでいた腕がほどかれ、シュレーの肩から力が抜ける。

「船だよ」

 スィグルは注意深く、シュレーの表情をうかがった。

「もとは同じ、一つの船に乗っていたというのに、なぜ争ってばかりいるんだ」

 スィグルは、ついさっき、シュレーが教室で言っていた言葉をそのまま繰り返した。それを聞き、シュレーが微かに目を細めた。

「いつ、僕らは同じ一つの船に乗ってたんだい? そんなこと、創生神話のどこにも書かれてないよ」

 スィグルがゆっくりと尋ねるのを、シュレーは小さく何度か頷きながら聞いている。

「その船は、月と星の船かい?」

 スィグルが冗談めかして聞くと、シュレーの表情がふと硬くなった。

「私は動転していたらしい。うっかり余計なことまで口にした……」

 ため息をもらして、シュレーは小首をかしげた。

「レイラス……その話は誰から聞いたんだい」

「母上からさ」

「君の母上は、誰から?」

「さあ。たぶん、母上の母上だろう。僕の部族では、大抵の子供が聞いてる昔話だと思うけど……」

 指をあげて、シュレーはスィグルの言葉を厳しく遮った。

「人の耳のないところへ」

 顰(ひそ)めた声で言い置いて、シュレーは身をひるがえし、歩きはじめた。

 着いて来いという意味なのだろうが、スィグルはすぐに従う気にならなかった。こちらの都合を聞きもしないで、傲慢なことだ。

 ふふん、と独り笑いして、スィグルは神殿種の長身を追うために歩きだした。



 シュレーはスィグルを、学寮にある彼の部屋に連れていった。

 学生たちが講義に出払っている間の学寮には、意外な数の使用人たちの姿があった。あるじが留守のあいだに、部屋の掃除をする者や、暖炉の薪を運んでくる者、インク壷のインクを注ぎ足す者まで、さまざまな仕事を持った者たちがいる。

 まだ鐘も鳴らないうちから、制服姿の学生が戻ってきたので、使用人たちは慌てふためいて姿を隠し、間に合わなかった者は、あきらめてその場に膝をついた。

 それを横目で見送りながら、スィグルはシュレーの部屋の扉の前で立ち止まった。そこでは、まだ若い執事が、シュレーの部屋を整える使用人たちを指揮している。

「猊下、どうなさったのですか」

 泡を食った様子で、執事は使用人たちを追い払い、シュレーに深々と御辞儀をした。

「レイラスと話がある。アザール、すまないが、しばらく部屋を人払いしてくれ」

  顔をあげた山エルフの執事が、敵意と疑念を隠しきらない目つきでスィグルを見つめてくる。

 山エルフの陰気な瞳をまっすぐに見つめ返し、スィグルは胸をはったままでいた。

 もし誰かが、お前を軽く見て、ないがしろにするようなことがあれば、お前は胸を張って、お前の血がいかに誇り高いか教えてやるがいい。

 まだスィグルが幼子で、タンジールの王宮深くに守られていたころ、父、リューズ・スィノニムからそう教えられた。

 使用人ふぜいに、なめられてたまるか。スィグルはそう呟く、自分の心の声を聞いた。

「内密の話をする。誰が来ても取り次がないでくれ。君も遠慮してほしい」

 扉の前で執事を立ち止まらせ、シュレーが念押しをしている。

 アザールというらしい執事は、シュレーには畏まってふたたび御辞儀をしたが、こちらには気のない礼を送ってくるだけだった。

「レイラス、なにか飲物は?」

 シュレーが半ば儀礼的に尋ねてきた。

「それじゃ、毒入りのお茶でももらうよ」

 微笑んで答えると、シュレーがため息をもらす。

「何もいらないそうだ。さがってくれていい」

 シュレーは物言いたげな執事を部屋の外に追い出して、自分で扉を閉めた。

 スィグルは薄笑いして、閉じた扉を振り返った。



 重い黒檀の扉がばたんと閉じられたあとは、静かに薪を燃やしている暖炉のつぶやきだけが、しばらく続いた。

 火のそばの長椅子をスィグルに示して、座るように勧めて、シュレーは斜向かいにある肘掛け椅子に腰をおろした。

 スィグルは目を動かして、こじんまりとしたシュレーの部屋をながめた。

 ありがたい神殿種を迎えるのだから、学院はもっと豪華な部屋を用意したのだと予想をしていたのだが、シュレーの居室は質素なものだった。置かれている調度品にも、目だった華やかさがなく、部屋はどことなくがらんとしている。

「貧乏くさい部屋だ」

 スィグルがつぶやくと、シュレーは一時、混乱した顔をした。

「神殿種はもっと、豪勢な部屋に住んでるんだって期待してたよ。これだったら、僕らの部屋のほうが豪華だ」

 不満げなスィグルの物言いが面白いのか、シュレーはかすかに笑い声をたてた。冗談ではなく、真面目に言ったのだが、シュレーにはただの憎まれ口と勘違いされたらしい。

「もっとなにか置いたら? 飾りになるようなものとかさ。神殿からなにか持ってこなかったの?」

「私は私財は何も持っていない」

 シュレーが当たりまえのように言う。

「そんなはずないだろ。あんたは一応、28人しかいない天使の一人なんだぞ」

「天使でも、神殿種は全員、私財は持っていない」

「そんなの、おかしいよ。宝石とか、なにか、そういうのが沢山要るだろ? 民はそういうのを期待するものだよ」

 スィグルは眉間に皺を寄せた。

 何も持っていなかったら、貧民に施しをしてやることもできないし、民が部族の自慢にできるような、立派な建物を建ててやることもできない。だいいち、異民族と居並ぶときに、ほかより見劣りするようでは、話にもならない。

「神殿には贅沢な所蔵品もあるが、それを個人が持つ必要はないだろう」

「……あんた、おかしいよ。財産が誰のものかはっきりしなかったら、もめごとになるだろう。領地とか砂牛とか女とか、そういうのは誰の持ち物なのか、はっきりさせておくから価値があるんじゃないか」

 まじめに忠告してやったというのに、シュレーは気に病むどころか、困ったように笑うだけだ。

「神殿の社会は、君が想像しているようなものではない。地上での財産なんて、神殿種にはなんの意味もないんだよ」

「それは随分とお綺麗な御心(みこころ)だね」

 むっとして、スィグルは言った。

「彼らにとって、唯一価値があるのは、世界の終焉まで転生しつづけることだ」

 なにかを回想しているような、どこか虚ろな目で、シュレーが言った。

「世の終わりには、月と星の船がふたたびあらわれて、神殿種たちを楽園へつれもどす。神殿種にとっては、その時まで生き続けることだけが重要なんだ」

 シュレーは鋭く囁くように説明した。

 スィグルはシュレーの言っている意味がわからず、動揺した視線を神殿種の白い顔にむけた。

「世界の終焉て、なに?」

 口に出してみると、まるで幼子がきくような質問だ。

「レイラス、君が言った月と星の船の話は、それにまつわる伝承だ。今は聖典から削除されているが、むかしは創生神話の最初に、もう一節あった」

 空白になった頭で聞いたはずが、スィグルは自分の体に、うずくような緊張と畏れが走り抜けるのを感じた。指先がしびれて、鼓動が強くなる。耳の奥になにか、ぼんやりと熱いものがこみあげるような気持ちがした。その熱のなかで、ゆるやかな脈がつづいている。

 どくり、と鼓動が鳴る。

 スィグルはまっすぐに、神殿種の瞳と見つめあった。

「創生神話(ジェネシス)、第一章、第一節。いにしえの昔、翼あるもの、ルナより放たれてパス・ハーを巡り、月と星の船を駆りて、ル・フォアにおりたちぬ。

第二節。原初の竜、ふたつの卵を擁す。ひとつは白き、ひとつは黒き卵なり」

 よどみなく語って、シュレーはまじまじとスィグルの顔を見返してくる。

「続きは知ってるだろう?」

 念を押すように言うシュレーに、スィグルは小さく頷いて答えた。

「あまたの種、これより生まれ出づ。翼ある者、天より来たりてこれを牧す。これすなわち、世の初めなり」

 創生神話の続きを、スィグルは小声で引き継いだ。

「翼ある者 というのが、神殿種のことだとしたら、彼らはル・フォアの種族ではないことにならないか?」

「ああ……そうかもね……」

 ぼんやりと応えて、スィグルはシュレーから目をそらした。

 暖炉のそばに座っているのに、体の芯が冷えている。血色を失った指をひらいて、暖炉の火にかざしてみたが、芯からの身震いは治まらなかった。

「怖いかい」

 さも当たりまえのように、シュレーが尋ねてきた。

 怖い?

 そうかもしれない。

 知ってはならないことを、教えられようとしている予感がする。

「創生神話の結末は、予言書である詩篇の最終行にしるされていた。そこも今は削除されたので君は知らないだろう」

 ゆっくりと諭すように言うシュレーの声には、神殿の者たち特有の響きがある。

「あまたの種、絶え果てぬ。これすなわち世の終わりなり。月と星の船、呼び声に応えて再び来たり、翼ある者を楽土に導かん」

 シュレーを見つめる下目蓋がひくりと跳ねるように脈打つのを感じて、スィグルは目を伏せ、冷えきった指で目蓋を押さえた。 「どうして、削除なんか?」

「大陸の民が恐がるからだろう。君だって震えている」

 顔を上げてみると、指の間に暖炉の火を赤く透かせたスィグルの手は、確かに小刻みに震えていた。

「詩篇の内容は、本当に予言なのかい。いつか本当に……」

 震える指先を握り締めて隠し、スィグルはシュレーの顔に目を戻した。

「全種族が滅亡するなんてことが?」

 スィグルが尋ねると、シュレーは薄らと皮肉めいた微笑みをうかべる。

「それはありえない」

 シュレーがきっぱりと即答するのを聞いて、スィグルはほっと短い息をついた。

「神殿種だけは絶対に滅亡しない」

 囁くように続けるシュレーの顔は、恐ろしいほどの無表情だ。

「どんな部族が滅びようと、連中は意に介さない。救いなんてありえないよ。君達はみんな、神殿種が楽土にゆくための生けにえだ。さっさと死んでくれたほうが、都合がいいんだ。早く楽園に行きたい、そう思うのが普通だろう」

「……そんな。いくらなんでも、悪く言い過ぎじゃないのかい」

 冗談めかせて、スィグルは否定した。

 強ばった作り笑いを浮かべるスィグルの顔をしばらく見つめてから、シュレーはにっこりと、穏やかな笑みで応えた。

「神殿は着々と計画を進めている」

 脚を組み直し、シュレーは深く腰掛けた椅子のうえで、ゆったりと身じろぎした。

「天使会議では、君たち黒エルフ族の絶滅が検討されたこともある。戦いばかりで和平を受け入れないからだ。それを聞いた君の父上は、跪いて命乞いしたよ」

 説明するシュレーの言葉は、あっさりしていたが、どこか挑発めいた響きがあった。

 スィグルはぽかんとして、その話を聞いた。すぐには意味がわからなかった。

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