048 第四大陸

「はじめてお見かけするお顔が多いようだ」

 教室を見回してそう言ってから、クム・ロウ師はまた、シェルの顔に目をむけた。

「わたくしの姿を見て、さぞ驚かれただろう」

 答えをうかがうように、師は言葉を休め、何人かの学生の顔をのぞきこんだ。しかし、教室からの答えは返らなかった。

「サイレンシア(沈黙)?」

 低くうなるような声を立てて、師が笑う。とても古い言葉だ。誰も答えないのは、教室にいる誰もが、彼がつぶやいた言葉の意味を理解しなかったからだろう。

「僕ら森エルフは沈黙(ソウェト)、と。ここにいる人達はみんな、サイリス(沈黙)といいます」

 シェルは考えるより早く立ち上がって、必要もない大声でそう答えていた。

「わたくしの部族では、サイレンシア、と……」

 シェルに目を戻し、師は楽しんでいるふうな気配のする声で、ゆっくりと言った。

「大陸公用語では、沈黙(シリス)と。この言葉によって、わたくしたちは語り合うことができる。神聖神殿がわたくしたち大陸の子らに分け与えた大きな恵みのひとつです」

 師の言葉には、神殿への崇拝よりも、数知れない異なる部族が、同じ一つの言語を話すことへの驚きが感じられた。

「君は、アシャンティカの森の部族から来たのだね」

 シェルにむけて、クム・ロウ師は優しく問いかけてきた。シェルは、師が故郷の森の精霊樹の名を知っていることに、嬉しい驚きを感じた。

「はい、そうです!」

 シェルが意気込んで答えると、師はかすかに笑い、四つある皺だらけの灰色の手の平の一つで、シェルの椅子を示した。

「座ってよろしい。発言は、座ったままでかまいません」

 シェルははっとして、慌てて椅子に座り込んだ。そのとたん、教室の緊張がいっせいに解けたような忍び笑いが湧くのが聞こえて、シェルは耳の先まで真っ赤になった。

「神殿は諸君のことをエルフと呼んでいる。そのような名前でいうなら、わたくしはノーヴァです。これは、新しい、という意味の、とてもとても古い言葉です」

 息を継ぐために、クム・ロウ師は話をやめ、端目にもはっきりわかるほどの大仰な深呼吸をした。シェルはその様子をみて、師がずっと、息をしていなかったのに気づいた。

「諸君はおそらく、ノーヴァという名の部族など聞いたことがないでしょう。しかし、わたくしたちは諸君たちエルフがこの土地にやってくるはるか以前から、この山々に暮らしていました。わたくしたちは、とても古い種族で、諸君、エルフ族がこの大陸にあらわれる以前から、神殿に仕えているのです」

 ちらりと師の黒い目が、自分の横に向けられるのを感じて、シェルも同じように、視線を動かした。

 クム・ロウ師は、シュレーを見ていた。

「諸君が見ているのは、ノーヴァ族の最後の一人でしょう」

 師があまりにさらりと言うので、シェルはすぐには言葉の意味を理解できなかった。

「諸君の父祖は、わたくしたちの知識と長命を尊敬し、わたくしたちからこの土地の多くを学んだ。諸君はわたくしから、この山々を継承してゆく最後の世代かもしれません。聞く耳を持って、必要なことがらの全てを、学び取っていかれますように」

 シュレーを見つめて話すクム・ロウ師は、他の誰でもない、シュレーたったひとりに、話を聞いて欲しがっているように思えた。

 シュレーが目を細め、表情を歪めるのを、シェルははらはらしながら見守った。

「エルフはたいへん美しい。まるで天使のように」

 にっこりと笑った表情を時間をかけて作り、クム・ロウ師は言った。

「諸君は健康な産声をあげて母親の胎から生まれ出て、活発に動き回り、あらゆる場所に住み着き、好戦的で、多くの子どもを産み、早々に死ぬ。すばらしいことだ。諸君、わたくしが何年生きたかおわかりかな?」

 軽く首を傾げて、師は誰にともなく尋ねた。

「今年で、300と56年」

 驚く学生たちを、師は楽しげに眺めている。彼がこんな風に学生たちの驚愕を眺めるのは、今までにも何度となく繰り返された光景なのだろう。

「ノーヴァは非常に長命な種族で、ごらんのように、二対の腕と、高い知性を与えられている。飢餓と寒冷に強く、環境が劣悪になれば仮死状態になって、それを凌ぐ。わたくしたちの使命は、この山々の開拓でした。同じ使命を負った種族と争いながら、わたくしたちは目的を成し遂げました。いま、トルレッキオにある川や湖、地下を流れる水脈は、わたくしたちノーヴァがこしらえたものです」

 言い終えてからしばらく、師はぼんやりとしていた。目にみえない何かを辿るように、クム・ロウ師の手の平がゆらゆらと空中を撫でている。

「諸君はなにを?」

 かすかな、吹き過ぎる風のような声で、師はつぶやき、学生たちの顔をひとつひとつ、なにか初めて見る不思議な生き物と向き合うような澄んだ眼差しで見つめた。

「何のために、この大陸にいるのだろうかと、考えたことは?」

 年老いた彼自身、その問の答えを求めているように、シェルには思えた。なぜか切ないように思って、シェルは眉間に淡い皺をよせ、クム・ロウ師の灰色の顔を見上げた。

「諸君はまだ幼く、この大陸の土を踏みしめて間もない。たくさん知りなさい。世界を知ることで、諸君は自分自身を知る事ができるでしょう」

 壁の世界地図を指さして、クム・ロウ師は学生たちの視線を導いた。

「第四大陸(ル・フォア)です。中央にあるのが、聖楼城(せいろうじょう)、神聖神殿の正神殿。ここに住まう神聖なる種族が、この大陸で最も古い血筋です」

 ちらりと興味ぶかげにシュレーに目をくれて、クム・ロウ師は言った。

「大陸中央部以北には、未開墾の土地が多い。気候風土が厳しく、生活に適さないのです。第四大陸に棲む種族の数は、全部で500とも、600とも言われております。未だ生態を記録されていない種族もあり、すでに滅び去った種族があり……今まさに、滅びに瀕する種族がある。……猊下にお尋ねしてもよろしいかな」

 思い切ったようにシュレーを名指してから、クム・ロウ師は大きく深呼吸をした。

「今、厳密には、第四大陸には幾つの種族が?」

 じっとシュレーを見つめ、師は忠実に主人の言葉を待つ飼い犬のような目をした。

 沈黙を差し向けられて、シュレーが居心地のわるそうな咳払いをする。

 シュレーがなかなか答えを返さないのは、知らないからではなく、答えたくないからだ。シェルにはそんな気がした。

「私はそれを、あなたから習いにきたのだ」

 穏やかな声で答え、シュレーは諦めたようにため息をついた。

「わたくしの知識よりも、猊下がご存知のことのほうが、よほど正確に今の世界を写しとっていることでしょう」

「神殿で得た知識は、おいそれとは口外できない。私に沈黙の誓いを破れと?」

「それは畏れ多いことです。では、こうしましょう。わたくしが推論をお話しいたします。猊下はただそれをお聞きください」

 クム・ロウ師は穏やかななかにも、得体の知れない熱意のこもった声で提案した。シュレーは堅い無表情で押し黙るだけだ。

「わたくしの師はかつて、こう教えておられました。この大陸には、2000種もの種族がひしめいてる、と。しかし、わたくしが師からこの教壇を受け継いだころには、すでにそれは誤った知識でした」

 にこりとクム・ロウ師が微笑む。師の顔を覆う皮膚は、とても硬く、分厚くなっていて、微笑みの表情をつくるのにも、ぎこちない、儀式めいた用心深さがあった。

「わたくしが猊下におあいするのは、二度目です。一度目は、わたくしの師の、最期を看取りにいらした折に。今とは別の、もっとお年を召したお姿で。おぼえていてくださいましたでしょうか」

 震えた声で、クム・ロウ師は力無く問いかけた。尋ねられたシュレーの目元が、ひくりと震える。

「……ル・フォアの全種族を合わせても、今やすでに800種、そのうちの200種は滅びに瀕している。哀れな、わが大陸の子らよ、そなたらを救わぬ、我が翼のむなしきを呪え、我が慈悲の甲斐なきを、呪ってくれ、私が哀れなそなたたちを、忘れぬように!」

 教室からしばらく、息をする物音すら消しさるほどの、尋常でない大声で、クム・ロウ師は叫んだ。シュレーは背筋をのばし、毅然とした態度を変えなかったが、シェルには彼が、他の学生たちと同じように、動揺と緊張で身を固くしているのがわかった。

 残響の残る静けさの中に、クム・ロウ師が深く息を吸い込む音が聞こえる。

「猊下が、そう仰ったのです。わたくしたちの手をお取りになって。賎しいわたくしたちの手を……なんというお慈悲。またこのトルレッキオにおいでになるとは……またお目にかかることができるとは、わたくしは夢にも思いませんでした」

 シェルには、師がシュレーを責めているのか、それとも、天使と再会できたことを喜んでいるのか、区別がつかなくなって混乱した。師は、小さな子供が喜ぶ時のような、素直な喜びに浸っているように見える。それと同時に、深く静かに怒ってもいる。複雑な感情の気配を感じとって、シェルは苦しくなった。

「さきほど、醜いわたくしを御覧になって、猊下は驚かれました。わたくしたちノーヴァのことは、すでにお忘れなのですね。そして、あの時は少しも惜しまれなかった秘密を、今は惜しんでおいでです」

 言葉の持つ怨念とは裏腹に、クム・ロウ師の声も目も、とても穏やかだった。怒りよりも、諦めに似た深い悲しみが、ゆっくりと浸みわたるように辺りを満たしていく。シェルは自分のものではない悲しみに呑まれ、瞬いた睫が重く濡れるのを感じた。

 クム・ロウ師が話したのは、今のシュレーの事ではなく、転生する以前の、別の者の思い出だろう。神殿の天使が昔、この学院を訪れていたのだ。慈悲の天使、静謐なる調停者、ブラン・アムリネスが。

 でも今ここにいる少年は、シュレー・ライラルだ。彼はそう名乗りたがっている。

「わたくしの推測では、第四大陸の種族数は、当時よりさらに減っているはずです」

「ル・フォアには今、328種の種族が・・・うち169種は絶滅の瀬戸際に。さらに42種は、その存続について協議中だ」

 淡々とした態度を装った声で、シュレーが突然答えた。クム・ロウ師が、はっとする。

「猊下、せめて、いま仰った42種だけでもお救いいただけるように、天使様がたや大神官様に命乞いを……」

 クム・ロウ師の声がおろおろとうろたえている。

「むろん、救済についても協議されている。私は助命をうったえた。絶滅は、天使たちの合議による結論だ。神殿の決定に異論をとなえるのは、あなたのためにならない」

 シュレーの呼吸が、ひどく深かった。ゆらゆらと大きく揺れ動く彼の心を静めようと、シェルはシュレーの横顔を見つめた。

 教壇のクム・ロウ師を見上げるシュレーの表情は、とても厳しい。何かに頼ることを、根本から拒否したような孤高の顔だ。

 頼ってくれてもいいのに。

 事の次第もわかっていないというのに、シェルは、シュレーのかわりに何か弁解したい気になった。しかし、何を言えば弁解になるのかさえ、シェルには分からなかった。

「猊下はなぜ、またトルレッキオへ?」

 クム・ロウ師は、どこかしら呆然として、問いかけてきた。

「エルフ・フォルト・フィアの同盟を成立させるためだ」

 強い口調で、シュレーが答える。自分が尋ねた時と、答えが違う。シェルはそれに気づいて、ひどく傷ついた。シュレーは答えを使い分けている。本当のことなど、答える気がないのだ。

「なぜ、猊下がお越しにならねばならないのでしょうか。猊下には、神殿でのお役目がおありでしょう」

「私の力など……」

 押し殺したシュレーの呻きに遮られ、クム・ロウ師が言葉を失う。シュレーは視線を床に落とし、顔をしかめて、石造りの文様をじっと睨みつけている。

「救われたいのなら、そなたたちも愚かに争い、憎み合うのをやめよ」

 低く擦れた声で、シュレーが言った。

「殺し合うために、この大陸にいるのか。お互いを根絶やしにするために? なにがそう憎いのだ。もとは同じ、一つの船に乗っていたというのに……なぜ争ってばかりいるんだ」

「つまり猊下は、わたくしたち大陸の民を、お見捨てになるのですね」

 静かに言うクム・ロウ師の言葉を聞き終えずに、シュレーが勢い良く立ち上がった。

「ちがう」

 青ざめて、シュレーがつぶやく。

「なにが違うのですか。この土地で、一体、猊下になにがおできになりますか。黒い大理石の球をとるのはお上手でも、滅びゆく大陸の民は救えないと仰る。ご自分が一体、どなたなのかすら、お忘れになったのです」

「私は、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ」

「ヨアヒム・ティルマンの息子など、誰も欲しがっておりません」

 クム・ロウ師がさらりと口にした名前は、押し殺されていた教室のどよめきを呼び戻した。ひそひそと耳ごこちの悪い言葉を囁き交わす学生たちの声が、渦を巻く水源の流れのように溢れだして、シュレーを溺れさせようとしている。

 シェルは半ば無意識に立ち上がっていた。それでどうなる訳でもないが、一人で溺れるよりは、二人のほうがましだ。

 そう思ってシュレーを見つめると、彼は余計なお世話だと言いたげに、じろりとシェルを横目に睨み、すぐに教壇に向き直った。

「それでも私は父の息子だ」

「それは猊下の身勝手です。あなたは慈悲の天使としてお生まれになりました。お身にふさわしい場所に、お戻りを。そして、滅びゆく大陸の子らに、お慈悲をお与えになってください」

 静かに訴えるクム・ロウ師の言葉に、シュレーは何も答えなかった。

 軽く目を伏せ、短いため息をもらすと、シュレーは席を離れて歩きだした。教壇を迂回して教室を横切ってくるシュレーを恐れて、口々に批判をしていた学生たちがぴたりと押し黙る。シュレーはそれに目もくれず、よどみない早足で毅然と教室を出ていってしまった。

 一瞬の困惑から醒め、シェルはあわてて、シュレーのあとを追おうとした。役にたたないかもしれないが、せめて何か励ましの一言だけでもと思ったのだ。

 シェルは、教室を出るために歩きだした。しかし、目の前で席を立ったスィグルに驚かされて、思わず立ち止まってしまった。

 スィグルは一瞬じろりとシェルを睨みつけてから、ゆっくりと、教壇に立つ灰色の異民族を見上げる。

「教師ふぜいが、傲慢な口のききようだ」

 尊大な態度で、スィグルが言った。彼の澄んだ声は自信に満ちあふれていて、教室じゅうによく通った。

「自分の職務を忘れているのは、お前のほうだ。僕には、役にも立たないお前の恨みごとを聞いてやる義理はない。これのどこが講義なんだ。……不愉快だよ」

 気位高く顎をあげて言い、スィグルは心底不愉快そうに顔をしかめた。そして、ふん、と苛立ったため息をついて、さっさと教室を出ていってしまった。

 硬い床を踏む、スィグルの長靴(ちょうか)の音が、ゴツゴツと静まりかえった教室に響いて、消えた。

 シェルはどうしようもなくなって、少しの間、おどおどと立ちすくんだが、すぐに二人のあとを追いかけようとした。

 だが、何かがシェルの上着の背中を掴み、むりやりシェルをその場に引き留めた。びっくりして振り返ると、イルスがシェルの制服の上着を掴んでいる。

「あいつに任せておけよ」

 イルスは密かに忠告して、シェルを自分の隣の空席に座らせた。よろめいて椅子に座り込みながら、シェルは居心地の悪い教室を見回した。

「任せるって・・・レイラス殿下がなにかしてくれるわけないと……」

 押し殺した声で、シェルはイルスに訴えた。

「スィグルはシュレーに借りがある。あいつも、それぐらい分かってるさ。信用してやれ」

 同じようにひそめた声でイルスが答える。

 スィグルがなにか、シュレーに恩義を感じていたなんて、シェルは想像もしなかった。

もし、イルスの考えが間違っていて、誰もシュレーの味方になってくれなかったら。シェルは困惑したが、すでに立ち上がる機会がない。

「確かに、わたくしは貴重な講義時間を浪費した。諸君には、またお詫びをしなければ」

 クム・ロウ師は静かに詫び、また深い息を継いだ。冬の梢を吹き抜ける、枯れきった風のような音が聞こえる。

 師は黒い小さな目で、壁の地図を見つめ、しばし黙り込んだ。

「地図を……描き変えなければ」

 師の見つめる第四大陸を、シェルも見つめた。教室に初めて入ってきたときに眺めた、この古びた豪華な地図が、正確に盤状に分けられている理由が、今になって漠然とわかった。地図はところどころ新しく、鮮やかな色彩を帯びている。

 書き換えられた跡なのだ。

 その升目には、かつて、今はもういない部族のための王国があったのだ。

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