041 邪眼

 暗闇の満ちた扉の向こうがわから、鴨居(かもい)をよけて身をかがめた純白の長身が入り込んできた。ゆっくりと厳かな動作であらわれるその姿は、たった今、闇の中から生まれ出てきているように見える。

 アルミナは震えながら、どうすることもできずに、それを見守った。

 男(オム)だ。

 普段着のための略装とはいえ、正神官の衣装を身にまとっている。見なれた中性体(ユニ)たちの着る、下位の神官のための衣装とは違って、その白は薄闇の中でも輝くように鮮やかだった。

 正神官が注意深く顔をあげ、灰色の目だけを動かして、アルミナの小部屋を見渡した。そして、彼は、窓辺にアルミナが立ち尽くしているのを、醒めた目でちらりと見つめてきた。おそろしく白いその顔には、血の通ったものの気配がしない。額の聖刻が、紙のうえにしたたった血のようだ。

 灰色の目に見つめられ、アルミナは身を固くした。

 オルハが短い悲鳴のような声をたて、ランプを持ったまま、床に膝をつき平伏した。浅いランプから油がこぼれ、炎がゆらいで、灯芯のこげるジジッという音が、静まり返った部屋に響いた。

「火に気をつけよ」

 こぼれた油を指差し、低い声で、正神官はオルハをとがめた。絹の手袋で覆われた正神官の手は大きく、骨張っていた。

 オルハが慌てて、身をかがめたままの姿勢で、ランプからこぼれた床の油をそで口でぬぐい、灯火を持って後ずさった。

 それを神経質に目で追っている正神官のうしろから、次々と新しい神官服姿が部屋に入ってくる。あとから来た者がたてる、低く笑うような翼のさえずりが、アルミナを混乱させた。

 どれも男(オム)だった。ぜんぶで3人。

 妻となった者は塔の部屋にかくまわれ、そこには夫である男(オム)しか入ることができないはずだ。その厳格な戒律が堂々と破られている。

 アルミナは無意識に、良く見えない暗い室内に、きょろきょろと目をこらしていた。

「口をきくなんて、何日ぶりだか、おぼえちゃいないよな」

 笑うような声が、無遠慮に響いた。戸口の近くから、じっとこちらを見つめている灰色の目の正神官の横をすり抜けて、強いくせのある金髪の別の神官が、ぶらぶらとアルミナの部屋の中程まで入り込んできた。

 天井を見上げてから、部屋の奥にある寝台に目を向け、くせ毛の神官はクスッとこえらたような笑い声をたてた。そしてにわかに、首をめぐらし、アルミナのほうに近寄ってくる。

 アルミナは恐くなって、冷たい青銅の窓枠に背中を押し付けた。それ以上後ろに逃げることができないとは知っていたが、無意識にあとずさってしまうのだ。

 すぐ目の前まで来た男(オム)が、見上げるような長身をかがめて、ヴェールの奥にあるアルミナの顔をのぞきこんできた。笑いを満たした男(オム)の目は、淡い青をしていた。

 アルミナは緊張で失神しそうな気がした。そうすれば何も考えなくていい。そのほうが楽かもしれない。

 乱れた自分の息の音を遠くに聞きながら、アルミナはひくひく痙攣する目蓋を閉じかけた。

 そのとき、足下でかさりと乾いた音がした。アルミナははっとして、目の前にいる男(オム)を半ば無意識に突き飛ばしていた。床に落としてしまった手紙を、彼の足が踏んでいたのだ。アルミナの軟弱な腕では、彼を押し返すこともできなかったが、足下に目をむけた正神官は、手紙に気付き、薄く微笑んで、折り畳まれた紙束を踏んでいた足をどけた。

「ブラン・アムリネスから」

 かがみこんで手紙をつまみあげ、くせ毛の神官は確認するように呟いた。床に膝をついたままの姿勢で、正神官は体をねじって後ろをふりかえり、戸口に立っている姿勢のよい2人に、ひらひらと手紙を振ってみせた。彼の手は、手袋をしていない素手だった。大きな手をしている。強い力を感じさせる男(オム)の手に、アルミナは怯えた。

「おーーーお返しください」

 胸の前で握り合わせた手に力をこめて、アルミナは懇願した。軽く驚いた顔で、くせ毛の神官が上目遣いにアルミナを見上げた。

「おしゃべりな女(ファム) だ。それもブラン・アムリネスの趣味? そのほうがいいっていうのかい、真面目腐ったあいつが?」

 ククッと喉の奥で笑い、穏やかな声で言って、正神官は立ち上がった。背をのばすと、彼は覆いかぶさってくるような長身で、アルミナはまた、壁ぎわで身を固くした。

「いやぁ、ちがうな。君はアムリネスの口には合わなかったらしいね。なんでも食いたい年頃のくせに、なかなかどうして、贅沢だよ、我らが末弟も。それとも、食い方を知らなかったのかなぁ、どうなの? 味見ぐらいはされたろう?」

 歯を見せて笑い、正神官は青い目でまたアルミナの顔を面白そうに覗き込んできた。彼の手に握られていた一通の手紙が、支えをうしなってはらはらと舞い落ちていくのに目を向けて、アルミナは彼の視線からなんとか逃れようとした。

「ディア・フロンティエーナ・アズュリエ・カフラ」

 ゆっくりだが断固とした厳しい声が、軽口をたたく正神官の言葉を止めた。口元を声のない笑いで歪め、片眉をあげて、アルミナの目の前にいた正神官は、身をよじって戸口をふりかえった。

「なんですか、兄上様」

「下品な話は止せ」

 無表情に、灰色の目の神官が命じた。

「なにが下品なんだ。どのあたりが? 具体的に指摘してくだされば、今後は気をつけましょう、ディア・フロンティエーナ・ノルティエ・デュアス」

「お前の口からもれる言葉の全てが破廉恥だ。戒律を犯している」

「たまには好きに話させてよ、声帯が錆びるじゃないか。ときどき使ってやらなきゃ具合が悪くなる。あれと同じで」

 言い終えると、くせ毛の神官はおどけたように肩をすくめて、首をかしげ、灰色の目の神官に目配せをした。灰色の目の神官、ノルティエ・デュアスは、むっと不愉快そうに眉をひそめた。

「兄上のは普段からよくお使いだから平気だろうけど」

 早口に付け加えられた言葉のあとの、ほんの一瞬、その場の空気がひきつるように緊張した。

 ややあって、ふっ、と遠慮がちにこらえた笑いを、戸口にいたもう一人の男(オム)がたてた。

「やめなさい、アズュリエ・カフラ、兄上に不敬ですよ」

「声帯だよ、声帯。声の話さ、なにが不敬なんだよ、ん?」 

 アズュリエ・カフラは首をそらし、そろえた2本の指で、自分の喉を軽く叩いて示した。

「もういい、黙れ」

 ため息とともに、灰色の目のノルティエ・デュアスが2人のやりとりを制した。

「ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ」

「なんでしょう」

 ノルティエ・デュアスの呼び掛けに、彼の背後からおっとりと応えて、もうひとりの正神官が言った。

「女(ファム)を今夜中に雑居房にうつせるように手配を」

 アルミナは、部屋の向こう側で話し合われていることの意味を、すぐには理解できなかった。だが、やがて、彼らが話しているのは、自分のことだと気付いて、思わず声をあげそうになった。

「大神官台下のご許可はいただけたのですか、兄上」

「そんなものは必要無い」

 早口に言い切るノルティエ・デュアスの顔を、やや後ろから見つめ、もうひとりの神官はしばらく微笑みがちなままあらぬ方向を眺めて、押し黙っていた。そして、長い息を吸ってから、ゆっくりと目を閉じ、口を開いた。

「私はご免です」

 優し気な目鼻立ちに微笑みをにおわせたまま、彼は首を振り、まっすぐな細い銀髪をゆらす。

「懲罰は兄上だけが受けてくださいますように」

「それでよい」

 動揺のない声で、ノルティエ・デュアスが即答した。

「これ以上、時を無駄にするわけにはいくまい。数限られた女(ファム)だ、休み無く産ませても足りないほどなのだからな」

 ちらりと灰色の視線がアルミナを見た。

「そうそう、勿体無いよ。まだちょっと半熟だけど」

 アルミナのそばに立っていたアズュリエ・カフラが、急に手をのばして、ヴェールのすそをめくった。アルミナはぎょっとして、顔を見られないように、ヴェールの垂れ絹を押さえて抵抗した。

「食べられないことはない」

 ヴェールの隙間から一瞬だけ見えたアズュリエ・カフラの顔は、複雑な表情を浮かべていた。彼がどこか悲しそうに見えて、アルミナはぎくりとした。

「産ませよう。健康そうだ。念のため診察してから、女(ファム)たちの雑居房に移すよ。予約待ちしてる逸材が、毎日切ながって困ってるんだ」

 アルミナのヴェールから手をどけて、アズュリエ・カフラは踵をかえした。

「娘の記憶を消せ」

 ノルティエ・デュアスが軽く振り返り、背後に立っている正神官、サフリア・ヴィジュレに命じた。サフリア・ヴィジュレは閉じていた目を開き、少しだけノルティエ・デュアスのほうに顔をむけはしたが、その視線は誰もいない空間に向けられていた。薄暗がりの中にいる彼の目は、みょうな色合いに見えた。黒い瞳をしているようでもあったが、どこかぼんやりと鈍い色をしており、焦点がさだまらない。

 彼には何も見えていないらしいことに、アルミナは気付いた。盲目なのだ。

「ブラン・アムリネスのことについてですか?」

 サフリア・ヴィジュレはやはり微笑んだまま、さらりと尋ねた。アルミナは息を飲んで押し殺した悲鳴をあげた。

「全てだ、この部屋のことも」

 厳めしい無表情のまま、ノルティエ・デュアスは手袋をはめた指を組み合わせ、絹と肌との馴染みを直した。

「女(ファム)は愚かだ。必要のない過去など憶えさせておくと、ろくなことにならない」

 ノルティエ・デュアスは言って、部屋を出て行こうとした。

「あ、あの、猊下、お待ちください」

 部屋のすみに控えていた世話係のオルハが、意を決したように進み出て、ノルティエ・デュアスに平伏した。

「私はアルミナ様にお仕えしております者です。私もアルミナ様のおそばに置いていただけましょうか」

 引き止められたことを不愉快に思っている様子で、ノルティエ・デュアスが振り返った。

「雑居房に住んでよいのは女(ファム)だけだ。そなたは中性体(ユニ)であろう」

「ですが、猊下、私はアルミナ様が御幼少の頃より身の回りのお世話をしてまいりました。アルミナ様はお一人では何もおできになりません」

 神官服の喪裾に取り付こうとするオルハを、ノルティエ・デュアスは押し退けた。

「汚らわしい中性体(ユニ)が、私に触るな!!」

 一喝するノルティエ・デュアスの声は、その場の者たちが息をのむほど鋭かった。緊張がさめはじめるころ、アルミナは自分のすぐそばで、アズュリエ・カフラがひゅうと風のような音をたてる微かな口笛を吹いたのを聞いた。

「この部屋は封鎖する。そなたも廃棄処分だ。房にこもり、身辺を整え、転生を祈りつつ時を待て」

 呆然としたオルハの顔にそれだけ言い捨てて、ノルティエ・デュアスは部屋を出ていった。

 アルミナは、ふたたび闇のなかに沈んでいったノルティエ・デュアスが消えたあたりと、床に倒れ込むようにして座っているオルハを、交互にせわしなく見つめた。

 さっき、あの人はなんと言ったのだろう。

 廃棄処分。それはどういう意味の言葉で、オルハになにをすると言っているのだろう。

 わからない。

 わからない、と繰り返しつつ、アルミナは泣き出してしまった。

 なにが始まろうとしているのか、わからない。

 突然吹き出した激しい嗚咽をこらえて、アルミナは床にしゃがみ込んだ。誰もが黙っている室内で、自分がしゃくりあげる声だけが、異質なもののようにはっきりと聞こえる。

「オルハーーーー」

 引きつる喉から、アルミナは親しい神官の名を呼んだ。

「オルハ」

 ヴェールごしに、アルミナは自分の顔を手でおおった。片方の手は、鳥に触れようとして手袋を脱いだままの素手だった。部屋に居残っている男(オム)たちに、素手を見られる。戒律違反だ。なんてふしだらな娘だと、みな驚き呆れるだろう。

 ブラン・アムリネス猊下は、ふしだらなわたくしをお許しにならなかったのだわ。だからわたくしをお見捨てになったのです。

 胸に湧いた自分の言葉に、アルミナはこらえきれずに声をあげて泣いた。胸の奥に隠した翼が熱く疼く。

 オルハが近寄ってきて、子供のころによくそうしてくれたように、アルミナの背中を優しくさすってくれた。

「アルミナ様、なにも御心配なさらなくとも大丈夫です。ブラン・アムリネス猊下が貴女様を守ってくださいます」

 疲れ切った小声で、オルハがやんわりと呟いた。

「猊下は慈悲深いお方、アルミナ様をお見捨てになったりするはずがありません。そのような愚かなことを仰っていると、今度お会いしたとき、猊下に笑われますよ。みっともない泣き顔をお見せしないで、いつも微笑んでいなくてはいけません。女(ファム)が感情をあらわにするなど、はしたない、戒律違反ですよ」

 背中を撫でるオルハの手が、声が、小刻みに震えているのが感じられた。

 アルミナはオルハの神官服の袖を握って、声をあげ、ただひたすら激しく泣いた。

 泣き止めば、自分もオルハもどこか恐ろしい場所へつれていかれるのだと思ったのだ。泣き続けていれば、いつまでもオルハは自分を慰めるために、そばにいてくれるのではないかと思えた。そのためなら、一生ここで泣き続けていたいような気がしたのだ。

「ブラン・アムリネスは守ってなんかくれっこないさ」

 突然のおどけた声に、アルミナもオルハも虚をつかれ、そばに立っていたアズュリエ・カフラを見上げた。その様子がおかしかったとでもいうのか、彼は肩をすくめ、声をたてて笑った。

「あいつは天使じゃないんだしさ。知らないの? 偽物なんだよねぇ。いやぁ、どうかな。少なくとも本物じゃないな」

 皮肉めかして言うアズュリエ・カフラからアルミナを守ろうとするように、オルハはものも言わず、2人の間に立ちはだかった。

「さあ行こう、今夜中に移せとノルティエ・デュアスからの命令だ」

 アズュリエ・カフラが小部屋の扉を指差し、外に出るように促した。

 アルミナは何度も首を横に振って、オルハの腕にとりすがった。

 青い目を細め、アズュリエ・カフラは困ったように笑うと、戸口にいるサフリア・ヴィジュレに助けを求める視線を向けた。

 それが見えるわけもないはずなのに、サフリア・ヴィジュレは目を閉じたまま、応えるように笑った。

「心配いりません、悲しいことは、すぐに忘れさせてあげます」

「それ自体は痛くも痒くもないから、心配することないよ。ただちょっと、翌日あたりに最悪の気分になるけどさぁ。ヴィジュレの技術的な問題だと思うんだよな。そこんとこは、どうなんだ、秘密?」

 含み笑いしながら、アズュリエ・カフラが尋ねた。

 サフリア・ヴィジュレが閉じていた目を開いた。

 アルミナは驚いて、思わず泣くのを忘れた。

 サフリアの瞳がまっすぐにこちらを向いた。なにかの光のいたずらで、サフリア・ヴィジュレの反面にだけ、淡い明かりがあたった。青白い光の帯は月明かりだろう。もう月がのぼったのだ。

 虚空を見つめて笑うサフリア・ヴィジュレの瞳は、血のように真っ赤だった。まるで、白眼のなかに丸い血の染みが浮いたよう。その視線には、おそろしい呪いが染み込んでいるように思えた。

「やさしくしますよ、なるべく壊さないように」

 慈愛にみちた微笑みを浮かべ、盲目の天使が告げた。

 チチチ、チチテュウ、と小鳥が鳴いた。いなくなった保護者に餌をねだる、幼い甘い声で。

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