第三幕

040 虚しき翼

 チチチ、チチテュウ、と小鳥が鳴いた。

 わずかな窓の隙間から聞こえてくるその声に耳をすまして、アルミナは微笑んだ。

 風を入れるために細く開くことができるだけの窓からは、アルミナの小さな手さえ出すこともできない。窓辺にかけられた渡り鳥の巣の中で、丸くふくれて鳴いている小鳥に触れてみたかったが、アルミナはそれをガラスごしに眺めているしかなかった。

 外から流れ込んでくる風が、いつのまにか冷たくなっている。窓辺に運んだ椅子に座り、アルミナは外の風景をぼんやりと眺めた。暮れかけた空が淡く茜色に染まりはじめ、小窓から見える尖塔の、沢山の小さい窓には、ひとつ、またひとつと灯りがともりだしている。

 もうじきこの部屋にも、世話係の神官オルハが灯りを運んでくるだろう。そう思って、アルミナはそわそわした。

 窓の外をよく見たくて、いつもすっぽりと被っていなければならない重たいヴェールを、肩口にはらいおとし、顔をさらしていたからだ。誰もいない部屋でのことといっても、オルハが見とがめれば、いつものように、はしたないとお説教されるにちがいない。

 でも、一日中ヴェールをかぶっているのは憂鬱で、息がつまる。

 結んだ肩までの金髪をほどき、窓から風を入れて、髪を涼風になびかせると、気持ちがよかった。アルミナは時々こうやって、こっそりと決まりごとを破り、窓辺に座っていた。世話係のオルハが目をはなす、ほんの短い時間だけのことだ。

 チチチ、とまた小鳥が鳴いた。アルミナは手袋をはずして、ガラスごしに小鳥に触れてみた。

 冷たくなめらかなガラスの感触がするだけで、やはり、小鳥のからだの温かさは感じられなかった。

 ふっくらした柔らかそうな羽根でおおわれた白い鳥が、じっとこちらを見つめるのを、アルミナはさびしく思った。


 親鳥が窓辺にやってきて、せっせと小枝をはこび始めたのは、夏のはじめの頃だった。

 重たい青銅の窓枠で囲まれた、質素な小窓のむこうがわに、アルミナの両手ほどの大きさのこじんまりとした巣ができあがると、渡り鳥はそこに卵を5個産んだ。

 5個も。

 こんな小さな鳥のからだのどこに、そんなに沢山の卵が入っていたのだろうかと驚いて、アルミナはオルハに尋ねてみた。するとオルハは、そういうものですよと、したり顔で言い、不思議がるアルミナには取り合わなかった。

 親鳥は交代で卵を抱き、しばらくすると、ちいさな白いヒナが丸い巣にぎっしりとひしめき、可愛い声で餌をねだるようになった。

 どうしても自分も餌をやってみたくて、アルミナはオルハが一日に2度運んできてくれる食事から、こっそりとパンのかけらを残しておくようにした。

 まだオルハがやってこない朝早くに起きて、窓辺にパンのかけらを押し出してやると、はじめは警戒していた親鳥も、そのうちそれが食べ物だと理解したようで、アルミナからの贈り物を受け取るようになった。

 窓辺から拾っていったパンを、親鳥が飲み下してヒナに与えるのを眺めていると、アルミナはいつも、なにか胸の奥がこそばゆいような、幸せな気持ちになった。

 だからそのことを、シュレーへの手紙に書いた。

 窓の外のことに興味を持つことも、戒律で禁じられている。ふしだらだと嫌われるかもしれないと不安だったが、思いきって話してみたのだ。

 何日かすると、天秤の紋章をつけた返事がやってきた。

 どきどきする胸をしずめながら、アルミナは手紙の鑞封(ろうふう)を丁寧にはがし、何度も深呼吸してから、中味を読んだ。整然と並ぶいつもの字、彼女の夫、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスの文字。

 アルミナは膝の上にある手紙の束のなかから、丁寧に折り畳んだ一通を取り出した。どれも同じ紙に書かれているが、何度も読み返すうちに、アルミナはどの手紙に何が書いてあったのか、なんとなく見分けられるようになっていた。

「その鳥はおそらく、ア・ユ・ルヴァンという名前で、大陸の中央部から南端のあいだを渡る種類です。夏のはじめにこの正神殿のあたりまで到達して繁殖し、夏の終わりには南にむかって飛び立ちます。空を飛びながら空中の虫をとらえて飛び続け、南の越冬地につくまで、ほとんど地上に降りない、飛翔力の強い品種です。一度の産卵で5個から7個の卵を産みます。卵の色は産卵地の砂と良く似た淡い茶色でーーー」

 アルミナは小さく声に出して、シュレーからの手紙を読みかえしてみた。今ではもう、内容のほとんどを憶えてしまっている。その手紙には延々と、ア・ユ・ルヴァンという鳥についての説明が、事細かに書かれているだけだった。

 シュレーからの返事はいつもそのようなものだ。

 正神殿内部の事細かな案内や、その歴史、その由来などについて、事実が延々と書かれているだけで、彼の言葉がほとんどない。今までに受け取った手紙をそらんじるだけで、一度も行ったことのない、シュレーたち正神官の住む区画を迷わずに歩き回ることができるのではないかと思えるほどの綿密さだ。

 そういう意味のない内容のものを、わざわざ書き送ってくることと、無味乾燥な内容のなかにちらりとあらわれる彼の本音が、いつもなぜか、アルミナの心を温めてくれた。

「猊下は、わたくしになにを仰りたかったのかしら」

 手紙を膝の上に置いて、アルミナは窓の外の小鳥に話しかけてみた。鳥は相変わらず風に吹かれて、小さな羽をそよがせ、黒く澄んだ丸い目で、アルミナを見上げている。

 黄色いくちばしを開いて、小鳥はチチテュウ、と親鳥に甘えるようなさえずり方をした。

 アルミナは、かすかな息をもらし、また微笑んだ。


 巣の中に残ったヒナは、もうこの一羽だけだった。

 夏が終わりはじめるころに、親鳥が何度巣立ちをうながしても、この一羽だけが飛ぶのを怖がって動こうとせず、いつまでも愚図っていた。

 冷たい風が吹きはじめると、親鳥もとうとう愛想をつかした。この一羽だけを後に残し、南への長い旅へと飛び立っていってしまったのだ。

 それからしばらくの間、餌を運んでくれる者がいなくなったのが分からないのか、残された一羽は、窓辺で必死にさえずり、親鳥を呼びつづけた。

 アルミナは、小鳥が飢えるのではないかと心配で、なるべく毎日、パンのかけらを置いてやるようにした。

 はじめは怖がっていた鳥も、ひもじさに耐えかねるのか、今ではアルミナが差し出した食べ物を取るために、巣の中からちょこちょこと歩き出てきて、パンのかけらをついばむようになっている。

 オルハは、この鳥はもうじき死ぬのだと言っている。

 冬がやってくれば凍えて死ぬし、それまでに飢えて死ぬかもしれない。他の兄弟達はみな、早めに飛ぶ練習をして、親から虫の取り方や、渡りのための心得を習っていたというのに、この臆病な一羽は、いつまでも巣のなかでじっとしているだけで、なにひとつ学んでこなかった。

 罪深い鳥なのです、とオルハは説教めいた口調で説明し、鳥に餌をやらないようにとアルミナに忠告した。

「猊下は、あなたはちゃんと飛べるとお考えなのかもしれないわ」

 身をかがめ、小鳥の目をのぞきこんで、アルミナは淡く微笑んでみせた。

「ア・ユ・ルヴァン、あなたは飛翔力の強い品種なのですって。だから今からでも、南まで飛べるに違いないわ。猊下は賢いお方なの、なんでもご存じなのよ。あなたが本当に罪深い鳥でも、猊下がそれをお許しくださるでしょう」

 チチチ、と餌をねだる声で、小鳥が鳴く。アルミナは困った。

 パンのかけらはもう全部食べさせてしまったし、次の食事は夕の祈りのあとで、まだ先の時刻だ。

 夜に窓をあけるのは戒律違反で、見回りの神官の目を盗んで餌をやるにしても、とても勇気がいることだ。夜の闇にかくれて戒律を犯すのは、もっとも恥知らずな部類だと考えられている。アルミナも、夜にはおとなしく戒律にしたがい、決められた作法で寝床につくようにしていた。

 でも今夜もひもじいままでいると、明日には鳥は死んでしまうのだろうか。どれくらい放っておかれると、この小さい命が消え失せるのか、アルミナは知らなかった。

 さびしそうに鳴いている鳥を慰めるために、アルミナは小声で歌いはじめた。

 祭祀のときに、ぶあつい格子の向こうから聞こえてくる美しい聖歌。アルミナはそれを何度も聞くうちに、すっかりおぼえて歌うことができるようになった。

 のどに指で触れ、声が大きくなりすぎないように、アルミナは風がそよぐほどの微かな声で歌った。

 夕暮れの匂う空。どこかから夕の刻限を告げる鐘の音が、いくつも聞こえてくる。目を閉じて歌うと、自分の声が体の中に満ちるようだった。誰もいなければ、喉のかぎりの声で歌えるのに。

 アルミナの歌声は、こじんまりとした部屋の窓辺でだけ、かすかに漂うように流れていく。


 神聖神殿では、やってはいけないことが沢山ある。歌を歌うのも戒律違反だ。

 でも、朝と夕方の祈りのたびに聖堂で聞く聖歌隊の歌声に、アルミナは憧れていた。あの美しい歌声のなかに、自分も混ざりたかった。

 それを言うと、オルハはお説教ではなく、本当に怒った。

 聖歌隊は、神殿種のなかでも階級の低い神官のつく官職で、性別のはっきりしないものの仕事だ。アルミナのような肉体的に完全な女で、聖母として皆に尊敬されるような者が、聖歌隊に入りたいと望むなど、とんだ気狂い沙汰なのだという。

 あれは下級神官にとって唯一の美しい仕事でございます、貴女様には他に、もっと美しいお役目がありましょうとオルハは怒った。

 アルミナは反省した。オルハを傷つけたのだと思った。オルハも中性体(ユニ)だったからだ。

 アルミナはオルハが好きだった。お説教ばかりなのは困るが、子供の頃からずっと自分の世話をしてくれた人だ。親身になってくれる、たった一人の人だ。傷つけたくない。

 だからその望みは、それっきり誰にも言っていない。

 もちろんシュレーへの手紙に書いたこともない。

 彼が自分に取り合ってくれるのは、自分が女(ファム)で、彼が男(オム)だから、それだけのことだとアルミナは理解していた。

 シュレーは親切で、心がやさしい。だから手紙の返事もくれるし、戒律をやぶってばかりいるふしだらな娘にも我慢してくれている。

 でも彼は、アルミナのことを煩わしく思っている。しかたなく一緒にいてくれるだけ。

 ふいに声が枯れて、アルミナは歌うのをやめた。窓から吹き込む風の音が、ひゅうひゅうと気味悪く鳴っている。

 手紙の束を見下ろして、アルミナは、シュレーが自分を愛してくれているといいなと思った。

 会うといつもそっけない、難しい顔をして、口をきこうともしないが、彼が自分のことを嫌っているわけではないことは、なんとなくわかる。

 ただ、好きなのかどうかがわからない。尋ねてみたいと思ったことはあったが、それはとてもきけないことだった。

 愛情を求めるのはふしだらだと戒律にもしるされている。戒律の命じることには、なぜ駄目なのか理解できないことが多かったが、アルミナはそれにだけは納得していた。自分が相手を好きだからといって、相手にも自分を好きになってほしいと望むのは、恥ずかしいことのような気がした。

 アルミナはシュレーが好きだった。それは戒律にも違反していない。アルミナがシュレーの妻だからだ。

 だが、2人が夫婦でなくなれば、自分のなかにあるこの気持ちも、ただの戒律違反のふしだらな思いに変わる。

 シュレーは婚姻の解消を申し出ると言った。別れ際に言ったことはそれだけだ。大神官台下に、婚姻の解消を申し出る、貴女はもう自由だ、とそっけなく言って、それっきり。

 彼がなにから自分を自由にしたのか、アルミナにはわからなかった。

 その時はただ、この方はこんな声をしておられたのだなという軽い興奮と、置き去りにされた寂しさで、なにも答えられず、馬鹿な娘のようにただ黙り込んでしまった。

 子供の頃から、婚姻の祭祀の時に聞いたシュレーの声を、アルミナはなんとか忘れないでいようと、毎日何度も思い返すようにしていた。でも、それから何年かたった今では、シュレーの声のほうが変わってしまっていた。

 大勢のなかから自分を選んでくれた彼の気持ちも、もう変わったのかもしれない。

 アルミナは切なくなって、膝のうえにあった手紙の束から一通を拾い上げ、胸に抱いた。そうしていると、遠くにいるシュレーが、いくらか自分の気持ちをわかってくれるような気がしたのだ。

 小鳥が、チチチ、とまた鳴いた。

 風が冷たくなってきた。

 ふと見ると、あたりはもう暗くなりはじめていた。遠くにある尖塔の輪郭が夕闇に溶け、窓からもれる灯りだけが、点々と明るい。

 オルハがやって来ない。

 アルミナは不安になった。

 いつもなら、暗くなる前に部屋に灯りを持ってきてくれるのに。

 椅子にこしかけたまま 、アルミナは自分の部屋を見渡した。薄暗く、誰もいない、小さな部屋。

 まだ幼い頃、眠る時間になって、オルハが灯りを吹き消しに来るのが、とても嫌だった。何も見えない暗闇のなかに、なにかとても恐いものがいるような気がして。

 アルミナが怖がっているのに気付くと、オルハはいつも、アルミナ様にはブラン・アムリネス猊下がついておいでですよと言ってくれた。その言葉は不思議な力をもっていて、幼いアルミナをほっと安心させた。

 そのころからいつも、不安なときはそう思うようにしている。わたくしはあの方と共にある。いつもあの方を信じて、ついていけばいいのです、と。

 いつも自分が、なにかに守られているような気がした。もし暗闇のなかに何か悪いものがいても、それはアルミナに触れるまえに消えてしまう。どんなに遠く離れていても、天使が、あの少年の翼が自分を守ってくれる。だから自分はひとりになることなんてない、そんなことは、心配する必要がない。

 アルミナはいつも、そう信じた。そして眠った。

「でも、もう猊下はお城にいらっしゃらないの」

 声に出して呟くと、言葉は夕闇の押し寄せる部屋のなかで、いやに乾いて聞こえた。


 突然、ばたんと乱暴な音をたてて小部屋の扉が開かれた。

 アルミナは驚いて立ち上がり、悲鳴をこらえて口を覆った。

 膝のうえにあった手紙の束がばさばさと流れ落ち、椅子が倒れた。アルミナがたじろいで後ずさったために、彼女の背におされた窓枠が閉じ、青銅のきしむ重たい音が激しく鳴った。

「アルミナ様」

 息をきらせたオルハが、長い神官服の裾を乱して入ってきた。浅い皿のようなランプに点った、小さな灯りを手で覆って庇い、オルハは揺れる火にあおられるようにして照らされている。汗の浮いた、オルハの白い小太りな顔は、今までに無い深刻な表情をうかべていた。

「オルハ、どうしたの」

 動揺を隠しきれず、アルミナの声は震えた。

「どうなさったのですか。ヴェールを!」

 ひそめた厳しい声が飛んだ。

 アルミナははっと気付いて、肩に払い落としていたヴェールをあわてて被りなおした。重たい衣の冠りものを頭に乗せ、顔の前に布を垂らすと、暗い部屋のなかは、もっと見えにくくなった。

 オルハの気配をさがそうとして、アルミナははっとした。

 たくさんの気配がこの部屋にやってきていた。囁きかわす翼の声が遠くのざわめきとして聞こえる。遠くを通り縋る者達や、見回りの神官たちの気配とは明らかに違う強い翼の気配。

 アルミナは体の芯から緊張した。

 その翼のさえずりは、男(オム)たちの声だった。まっすぐに、こっちへやってくる。

 そんなはずはない。この小部屋に入れる男(オム)は、アルミナの夫である天使ブラン・アムリネスだけのはずだ。

 しかしある翼は、遠くからでも聞こえる声で、誰かに囁きかけている。その声を、胸の奥で、アルミナの翼が拾い上げた。


 あの女(ファム)はみなで分けよう。

 独り占めするほど、けちじゃあるまい。


 チチチ、チチテュウ、と鳴く鳥のこえが、ガラス越しにかすかに聞こえた。餌をねだる小鳥が、くちばしでガラスを叩いている。

 いや、いや。来ないで!

 アルミナの喉は、息苦しくなるほどの早い息をついた。

 なぜ飛んでいかないの。翼があるのに。

 ここを離れて、幸せな南の空へ、飛んで行ってしまえばいいのに。

 しかし小鳥は怖じけるばかりで、いっこうに、飛び立つ気配を見せない。


 人だかりが扉の向こう側に立ち止まるのがわかった。

 きいっと小さな軋みを立てて、扉が開かれた。

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