039 女狐の陰謀
山の夜にはもはや、夏の終わる気配がする。暖炉の火が心地よい。
火に半身をさらして立ち、ヨランダは長椅子にくつろぐ高貴な女主人を見守っていた。
豪華な絹とレースをまとい、素足になって火にあたっている山エルフ族の正妃は、長椅子にけだるげに身を横たえ、片目の侍女たちがひとりひとり毒見をした銀の杯を受け取り、葡萄酒の香りに目を細めている。
あるじの前で、火にあたるなど普通なら考えられない。しかし、正妃はヨランダにこの場所に立っているように命じた。あの高貴な血の女がなにを考えているのやら、さっぱりわからない。しかし、ヨランダは客のいう事に逆らう気はなかった。
「アルフ・オルファン、そなた敗北したようじゃな」
葡萄酒に口をつける気配もなく、正妃は末席に立たせた息子に、ちらりと流し目をくれた。
アルフ・オルファン。山エルフ族の継承者だ。ヨランダは型どおりの情報を反芻しながら、うつむいて立っている身なりのいい少年を、やや離れた場所からゆっくりと眺めた。
金髪の子供は叱りつけられるのを怯えている犬のように、哀れに震えていた。ヨランダは、山の部族の継承者は、母親が怖いのだろうと読んだ。額に締めた白銀の飾りも、これでは台無しだ。
「あれは……奇襲のためです、母上。義兄上(あにうえ)は卑怯な戦法を……」
「そなたの口は言い訳をするためにあるのかえ、アルフ」
取りつくしまもない冷たい声で、正妃はぴしゃりと言い、アルフ・オルファンの言葉をさえぎった。弁明を呑み込み、少年が拳を握るのが薄闇の中にもはっきりとわかる。
「どのような理由であれ、敗北は敗北。わたくしはそなたの軍旗が半旗として掲げられているのを見ました。これがまことの戦であれば、あの旗のもとには、そなたの首があったろう。だらしなくも、この母に屍(むくろ)をさらして、そなた、さぞかし誇らしかろう」
言い終えながら、正妃は優雅な哄笑で喉をふるわせた。ヨランダには、正妃が本当に面白がっているように見えた。
「母上…」
ふるえる声で、アルフが応える。あの言われようでは、申し開きのしようもないだろう。たかが遊びの戦でしくじっただけではないか。ヨランダはあきれた気分で、高貴な親子のやりとりを眺めた。
「死ねばそれまでじゃ、アルフ。そなたがなぜ勝てなかったのか、母に申してみよ」
「それは…」
オルファンは口篭もる。
「長子ではないからじゃ」
ぴしゃりと叱り付ける口調で言う母の言葉に、オルファンがぎょっとしたように深刻な顔をする。
「母上、違います。多勢(たぜい)に慢心し、力が及びませんでした…今後はもっと努力いたします」
言い返す息子の言葉は、思いの他強かった。一歩前に進み出た息子に、正妃は閉じたままの扇をつきつけて、厳しく脚止めした。
「いくばくかの努力など、お血筋の前にはなんの意味もありませぬ。そなたは正統な世継ぎではない。この部族の継承者のお血筋は、ヨアヒム様のものじゃ。そなたのお父上は……ヨアヒム様がお戻りになるまでの、代用にすぎぬ。そのお子である、そなたもじゃ」
有無を言わせぬ強い口調で、正妃はオルファンを責める。
ヨアヒム・ティルマンとは、山エルフ族のもとの継承者で、すでに死んだ男のはずだ。死人が帰ってくるはずはない。
ヨランダはため息をついて、自分のそばの炎を見下ろした。
「そなたに正統な継承者になっていただくため、ブラン・アムリネス猊下には世を去っていただかねばならぬ」
重苦しい息をついて、正妃の声が、いまいましげに言う。
「母上、神殿種を暗殺するなど、お止めください。もしそれが神殿の怒りに触れたら……部族にどんな咎(とが)が及ぶか、お考えになってください」
少年の声が言い終える前に、扇がなにかに叩き付けられる音が聞こえた。
「情けなや、なんと弱気なことを! そなたはやはり、ハルペグ殿のお子じゃ。用心深いばかりで、覇気がない…せめて族長位に恥じぬ威厳と誇りを身につけよ!!」
子供が息をのむのを、ヨランダは片耳でだけ聞いていた。
哀れなことだ。母親に愛されていない。自分が血を流して生んだ子を、こうも悪し様に罵る母を、ヨランダは初めて見た。高貴な連中の考えることに、なっとくがいったことはない。こういった連中は、たいていどこか狂っていて、その狂気を金に変え、毒殺師を雇うのだ。
アルフ・オルファンは押し黙り、応える気配がない。ヨランダはゆっくりと顔をあげ、ふたたび、うつむいて震える少年の姿を眺めた。
確かに威厳はないかもしれぬ。ヨランダは淡々とした気分で、ひ弱な子供を見た。だが、生まれつき威厳のある者など、そうそういるものでもあるまい。だいいち、地上で最初の味方がこれでは、自信の持ちようもないではないか。
「アルフ、そなた、よそ者に臣下の礼をとる姿を恥ずかしげもなくさらそうというのか……不甲斐ない、なんという無能な…いっそ死んでくださったほうが母への面目が立とうぞ」
銀杯をきつく握り締めて、正妃は震える息子に、厳しく告げた。そして、ふと、秘密を隠し持った少女のような、可憐な忍び笑いをもらす。
「ハルペグ殿もじゃ……」
笑いながらひとりごちる母親の声をきき、継承者がはじかれたように顔をあげた。
「母上……父上のご体調がすぐれないのは、何者かが父上に毒を盛っているせいという噂を聞きました。まさか……母上……」
「まさか……なんじゃ?」
唇を笑いの形にゆがめて、正妃がゆっくりと問い掛ける。
「……悪い噂です、母上。ちがうと聞かせてください」
跪いて、少年は母親の豪華な裳裾にとりすがった。楽しげな笑い声とともに、正妃のよく手入れされた少女のような足が、息子の膝を押し返す。
「大事ない」
にっこりと正妃は微笑んだ。
「ハルペグ殿が亡くなっても、そなたが力をつけるまで、戦はなかろう。そなたが立派な大人になるまで、神聖神殿が、同盟によってそなたを守ってくださる。一日でも早う一人前におなりになるよう、今はせいぜい勉学に励まれよ」
呆然と立ちあがり、あとずさるオルファンを、正妃は期待をこめた目で見上げている。オルファンはどこか遠くを見つめ、かすかに震えていた。
「ふふふ…心強いであろう、オルファン。神殿の天使様方が、そなたの後ろ盾じゃ。この母の尽力ぞ。地上で、これにまさる後見人があろうか。リューズ・スィノニムなど、恐るに足らず。海辺の者どもも然り、同盟が用済みになるまで彼奴らの子を囲っておいて、いずれ決戦の暁には、膾(なます)に刻んで送り返してやろうぞ。よい気味だこと。その日が来るのが楽しみじゃ」
うっとりと言い、正妃は杯に唇を寄せた。
「母上……父上を殺すおつもりなのですか。なぜそんなことをする必要があるのですか!」
葡萄酒を楽しむのを遮られて、正妃は露骨に不満げな顔をした。じろりと酒盃越しの上目遣いで息子を睨みつけ、正妃は声を低くした。
「わからぬのか。そなたは、お父上に裏切られたのですよ。ハルペグ殿は、我らの領土も、族長位も、なにもかも、あのふしだらな女の子に、くれてやるお積もりなのじゃ。そなた、その額冠(ティアラ)を、あのしたり顔の小僧に奪われる屈辱に耐えようというのか!」
激昂する正妃の声に、アルフ・オルファンがたじろぐ。
「父上は部族の行く末を心配なさったのです。きっと、ブラン・アムリネス猊下が、神殿の力を傘に着て、父上を脅したにちがいありませ……」
「愚か者!」
容赦のない正妃の叫びが、アルフ・オルファンの言葉を食い破った。
「そなたは愚かじゃ。お黙りなさい。愚か者の言うことなど、聞きとうない。そなたがもっと、才気煥発であれば、わたくしの気苦労も、いくらかは少なくてすんだろうに」
醜いものでも目にしたように、正妃は息子から目をそむけて、うめいた。女は本当に苦しそうに見えた。
「母上…」
「目障りじゃ、おさがり!!」
悲鳴のような声で言い、正妃は酒盃の中の葡萄酒を息子の顔に浴びせた。
アルフ・オルファンは呆然としている。ヨランダは、ゆっくりと顔をぬぐう少年の仕草を、伏目がちに見守った。
アルフ・オルファンは結局それ以上は母親になにも言わず、軽く作法通りの礼をとって、その場から去ろうとした。自分の前を歩いていく少年を、ヨランダはじっと目で追った。
へりくだる素振りを見せないヨランダに、アルフは気分を害したようだった。行きすぎようとして足をとめる少年の背中を、ヨランダは横目で見た。
「無礼者…なんだその態度は……」
声の変わりきっていない少年の言葉に、ヨランダは眉を動かした。くるりと振りかえって、アルフがヨランダの顔を睨みつける。少年の目には、やり場のない怒りが溢れかえっていた。
ヨランダは黙ったまま、少年の顔をみつめた。アルフ・オルファンはいくらか、ヨランダより背が高いようだった。だが、体格ばかり良くても、結局は子供だ。醒めた目で、ヨランダはアルフと見詰め合った。
アルフが腕をふりあげ、自分を殴ろうとするのがわかったが、ヨランダは避けないでいてやった。無傷のほうの頬が成り、火のなかに倒れそうになる自分の体を、ヨランダは暖炉の飾り枠を掴んでおしとどめた。
深い息をついて、アルフ・オルファンは憤然と立ち去っていった。
頬はひりひりと痛んだが、たいしたことではない。ヨランダは退屈した気分のまま、薄ぐらい室内に目を戻した。
「ヨランダ」
顔をしかめて、正妃がこちらに両腕をさしのべてきた。側へ来いという意味だと悟って、ヨランダは女主人のくつろぐ長椅子に歩み寄り、毛足の長い敷物の上に跪いた。金を払っている者には恭順の姿勢を見せろと、いつも母が言っていた。そうしたほうが、仕事がうまくいくと。
ヨランダは疑いもなく、いつもそうしていた。頭を下げて見せることなど、苦にもならない。そんなことで、自分の誇りが傷つけられるとは思えなかった。
「わたしくの息子をゆるしておくれ。あれは乱暴な子じゃ」
眉間に皺を寄せて、絹の手袋を抜き取ると、正妃は跪くヨランダの頬に温かい手で触れてきた。正妃の手は、しっとりと柔らかく、とても優しかった。アルフが殴りつけた頬を確かめる正妃の顔は、実の息子に向かうときより、よほど親身に見えた。
「ハルペグ殿はアルフを甘やかしてばかり。あれにはいつも好き勝手をさせて。継承者にふさわしからぬ気弱ぶりも無能も、すべてお見逃しになる」
口惜しそうに言って、正妃は唇を噛んだ。ヨランダはただ黙って、女主人の言葉を待った。
「ヨランダ、わたくしの寝支度を手伝っておくれ」
ヨランダの頬にかかる髪を指で梳いて耳にかけ、正妃はにっこりと親しげに笑いかけてくる。ヨランダはただ黙って、頭をさげた。
* * * * * *
何重にも重ね着した豪華な衣装を侍女たち脱がせていくと、正妃の体には生々しい火傷のあとが残されていた。白い絹の下着の、大きく開いた胸元からは、赤黒く引き攣れた皮膚がのぞいている。
甘い薔薇の匂いのする香油をたらした浴槽をかき混ぜながら、ヨランダは軽い驚きとともにそれを見やった。裸になりながら、正妃は楽しげにこちらを見て、火傷のあとを見つめるヨランダに、いかにも無邪気に、にっこりと笑いかけてくる。
浴槽に横になった旅疲れした正妃の体を、ヨランダは湯に浸した海綿で拭いてやった。隻眼の娘たちが、華麗な正妃の衣装を、楽しげに眺めながら片付けていく。
自分の肩をぬぐうヨランダを振り仰ぎ、正妃は傷のある顔を向けてきた。
「ヨランダ、そなた、しくじったようじゃな。なにゆえ、猊下はお亡くなりにならぬ。神聖な骸(むくろ)を眺められるものと信じて、女の身をおして、戦場(いくさば)にまで出向いたものを」
叱責されるものと思い、ヨランダは正妃の声を待っていた。しかし、正妃は機嫌良く体を拭かれているだけで、ヨランダを怒鳴りつける気はないようだった。
わけがわからず、ヨランダはしばらくの間押し黙って、正妃の顔を見下ろした。
正妃は、苛立つ気配もなく、機嫌の良い寛いだ顔で、ヨランダの説明を待っているようだった。いつまでも黙って睨み合っているわけにもいかない。
「毒は盛りました。でも、効かないのです、奥様」
ヨランダは正妃の視線を受け止めたまま、正直に答えた。
「……解毒しておるのじゃ。もっと別の強い毒を使うがよい。金子(きんす)が欲しければ、いくらでも払わせましょう」
気前良く言う正妃に、ヨランダは形式通り頭をさげて見せた。ヨランダは、主の望むまま、深入りするのは良くないと習っていた。どんな軽い仕事でも、必ず金を支払わせろと。ちょっとした情けで、ただ働きすれば、相手は次からもそれを求めてくる。そうするわけにはいかなかった。自分が死んでも、故郷の仲間たちは、今後も食っていかねばならない。
「今回は、解毒を見越して、ふたつの毒を使いました。片方の毒を解毒することで、もう片方の毒が働くように仕組んだのです。普通なら逃れられないはず。なぜ死なないのか、私にもわかりません」
正妃が目を細める。
ヨランダは責任を感じてはいなかった。失敗したわけではない。普通ならあれで死んだはずだ。自分がやった仕事に自信があった。だから、少しも気もとがめない。
「竜(ドラグーン)が奇跡を起こしたんですわ、正妃様」
盗み聞きしていたらしい侍女たちが、口々に噂するように、正妃に話しかけてくる。
正妃が面白そうに声をたてて笑った。
「竜(ドラグーン)が嘶(いなな)くのを、わたくしも聞きましたとも。やはり尊いお血筋か……恐ろしや」
ほくそえみ、正妃がつぶやくのを、ヨランダは黙って見下ろした。やはり、なにを考えているのか、よくわからない女だ。
「ヨランダ、そなた、いかに卑しかろうとも、毒殺師と恐れられるものの誇りを見せよ。なんとしても、猊下のお命を奪うのじゃ」
「いざとなれば刺し違えましても」
ヨランダが本心から言うと、正妃は驚いたように浴槽から体を起こして、濡れた指で、ヨランダの手首をつかんだ。
「それはならぬ。猊下は病死なさるのじゃ。そうでなければ神殿への申し訳がたつまい」
見開かれた正妃の緑色の瞳は、むしろ可憐だった。その目が無垢なことに、ヨランダは不覚にも絶句した。
「…心得ました」
ヨランダが頷くと、正妃はほっとしたように微笑み、浴槽の中に体を戻した。
侍女たちが笑いさざめきながら、籠いっぱいにむしりとってきた薔薇の花びらを、浴槽の中に流し込んだ。むっとするほどの青く甘い香りに、ヨランダは一瞬目眩を感じた。ただでさえ、花(アルマ)の咲く頃には、ものの匂いを強く感じるようになっている。そこをこの濃厚な香りに襲われると、強い刺激で、ふと気が遠のくような感じがした。
正妃は子供のように楽しげに、胸元に薔薇の花をかき集めて笑っている。正妃の胸は豊かだったが、醜い火傷のあとのせいで、見る影もなかった。
ヨランダがそれを見ているのに感づき、正妃がくすくすと笑って、こちらを見た。
「…わたくしの傷がなぜできたか、そなたは知りたいか?」
浴槽の中で体をのばす正妃は、くつろいでいるように見えた。
「いいえ」
正妃の手を洗いながら、ヨランダは正直に答えた。
「ヨランダ、そなたはよい子じゃ」
微笑んで、正妃はヨランダを見つめた。
「聞いておくれ」
親しげに頼ってくる正妃の言葉に、ヨランダは何と答えたものか考えあぐね、ただ黙り込んだ。正妃はそれを、承諾したものと受け取ったようだった。
「あれはもう、ずっと昔、わたくしがまだ、ほんの乙女だったころ」
物語を語って聞かせるような夢見る口調が、女主人の口から漏れ出た。
「ヨアヒム様たちが、今は亡き、先代の族長様のお供で聖楼城(せいろうじょう)へ……。そなたたちも知っておろう。決められた年毎に、族長様は聖楼城(せいろうじょう)へお出向きになるのじゃ。あのころ、先代様はすでにご老齢で、ヨアヒム様はその継承者として、神殿の方々にお披露目されるために、お父上のお供をなさった。ヨアヒム様は、部族の継承者にふさわしい晴れがましいお姿で……とてもご立派であった。ご衣裳にも、馬鎧にも、誇らしい大角山羊(ヴォルフォス)と白山百合のご紋章が……」
うっとりと遠くを見つめる正妃の心が、どこか遠い過去へ飛んでいるのを、ヨランダは感じた。女主人はしばらく夢心地で押し黙り、そして、ふと思い出したようにヨランダの顔に目をもどした。
「わたくしもそれに同行を」
顔を輝かせて話す正妃は、本物の少女のようだった。
「わたくしは生まれたときから決められた、山の継承者のための許婚(いいなずけ)で、ヨアヒム様の妻になるお約束をしていたのじゃ。ヨアヒム様が、天使様にお会いになる時に身につけられるご衣裳には、すべてわたくしがこの手で、継承者のご紋章を刺繍してさしあげた。わたくしは不器用で…何度失敗したか知れませぬ。それでもヨアヒム様はわたくしを誉めてくださった。無口なお方であったが…とてもお優しい方、ほんの一言お言葉をいただくだけで、いつも有頂天で、わたくしは幸せでした」
幸せそうに微笑み、自分を見つめる正妃の視線をあびて、ヨランダは居心地悪く、ぎこちない微笑みを返した。
年甲斐もなく、女主人が恋に浮かれているのが見て取れた。ヨランダにはそれが恐ろしかった。何がこの女を、そうも浮き立たせるのか。その男は遠い日にすでに死に、自分はもう別の男の妻だというのに、なにをいまさら、頬を染めて話すことがあるのか。
ヨランダが動揺して正妃の目を見つめていると、きらきらと輝いていた女の目に、ふともとの暗い狂気に似た表情が立ち戻ってきた。
「でも、あの夜…聖楼城には火が……」
正妃が凍るような声で言うと、浴槽の回りで控えていた隻眼の侍女たちが怯えて、お互いに身をすりあわせた。娘達が悲しげなため息をつくのを、ヨランダは横目で見た。
「聖母様たちのお住まいの棟が火事になり、おそろしいことに」
恐怖に引きつった表情を浮かべ、正妃はヨランダの手を強く握ってきた。甘い香りに濡れた女の手は、恐怖のためか、つめたく冷え始めていた。
「ヨアヒム様は勇敢にも、炎の中から聖母様たちを救い出された。わたくしもそのお供を。この火傷も、顔の傷も、その折に受けたものじゃ」
いまだに痛む傷に触れるかのように、正妃は恐る恐る、自分の顔に指を滑らせた。目許を横切る傷は焼け爛れ、無残だった。
「あの時、お一人だけ、逃げ遅れておられた聖母様がいらして……その方をお救いするために無理をしたせいで、わたくしはこんな醜い体に…」
うつむきがちに目を見開く正妃の瞳には、浴槽を漂う深紅の薔薇がうつりこんでいる。それは、女の目の中に浮いた、血のしみのようにも見えた。
「わたくしが、見つけてさしあげなければ…あの聖母様は、おそらく、あのままお亡くなりになったろう」
ぽつりと言い、顔をあげる正妃を正視できないのか、侍女たちがこそこそと遠巻きにしていく。娘達はなにかを怖がっているように、ヨランダには思えた。
結い上げた髪に指を入れ、正妃はがたがたと身を震わせている。寒いのかと思い、ヨランダは海綿に湯をひたして、起きあがっている正妃の肩に湯を垂らしてやった。
その手を、正妃が恐ろしいほどの力で掴んできた。
「それが、あの女じゃ!!」
髪をふりほどいて叫ぶ正妃の声は、人の声とも思えない憎しみに満ちていた。ヨランダは気おされて顔をしかめ、正妃の肩から手をどかした。触れているだけで、狂気がうつりそうな気がした。
「あの泥棒猫! 乙女の顔をした淫売女っ!! あの女が、わたくしのヨアヒム様をたぶらかしたのじゃ!!」
とっさに身をひこうとするヨランダの腕をつかみ、正妃は狂ったように言い募ってきた。
「わたくしが何も知らぬ小娘と思ってッ…あの女、ヨアヒム様にふしだらな真似を……!!」
血の滲むような正妃の絶叫が、部屋のすみずみまで響き渡った。侍女たちは、部屋のすみに寄り集まって震えている。ヨランダは逃げることもできず、薄闇の中でもらんらんと光る、正妃の瞳を見つめた。
「殺しておくれ…あの女の産んだ子を。苦しませて死なせるのじゃ! わたくしが味わった苦痛のほんの一片でも、あの女に思い知らせておやり!!」
ヨランダをとらえて離さず、正妃は食い入るような目で、懇願してきた。ヨランダは言葉もなく、何度も頷いて見せた。
突然ヨランダを力任せに押し返すと、正妃は花の浮く華麗な水面を叩きはじめた。飛び散るしずくに甘い薔薇の香りがする。浴槽の側に立ち尽くしたまま、ヨランダは女主人の狂態を見守った。
「あの顔……あの顔じゃ! あの女にそっくりな、あの顔、あの目、あの唇で……わたくしを馬鹿にしてッ……!! 何度殺したところで、飽き足らぬ。顔をつぶして、生きたまま焼いてやりたい…あの女の代わりに、あの小僧に、わたくしの無念を思い知らせてやる……!! 思い知らせてやるのじゃ!!」
涙もなく、怒りに震える体で、正妃は湯の中に身をかがめ、呪いの言葉を吐き出している。
「この部族は…わたくしが守る……ヨアヒム様がお帰りになるまで、わたくしがお守りする。邪魔をするものはみな殺します、汚らわしいハルペグ殿もッ…その子も、ブラン・アムリネスも、あの女も、みんなじゃ! ヨアヒム様がもう、この世にいらっしゃらないのに、屑ばかりがのうのうと生きている……ッ、そのような間違いは、わたくしが許さぬ。ヨアヒム様がお戻りになったら、わたくしが、この手で、あの族長冠をお返しするのじゃ……きっとまた、誉めてくださる…わたくしのことを!」
湯の中握り締められ震えている正妃の手を、ヨランダは思わず握ってやっていた。この女は、狂っている。それでも、どこかに正気はある。いっそのこと、完全に狂っていれば、もう少し楽だったに違いない。目覚めたまま夢の中をさまよって、恋しい男に抱かれていることもできただろう。
震える顔をあげて、正妃はヨランダを見つめ、泣きべそをかく子供のような表情をした。
「わたくしは、ハルペグ殿のお子など、産みとうなかった…」
ヨランダの胸にすがりついて、正妃は悲鳴のようなか細い声で訴えた。
「アルティラーナ(可哀想に)…」
ヨランダは心から、そう呟いた。
母ほどの歳の女主人は、ヨランダの胸で、目を見開いて震えている。その目を見下ろして、ヨランダは思った。おそらく、この女が自分の最後の主(あるじ)だろう。
「奥様、お望みのとおりに、私は誰の命でも奪います」
ヨランダが話しかけると、正妃はひきつった息に焼け爛れた胸を震わせ、目を閉じた。
「そなただけが、頼りじゃ。よろしく頼みます。そなたも女なら、わたくしの無念を、わかっておくれ」
ヨランダは頷きかけて、戸惑った。正妃の無念は、ヨランダには分からなかった。
今まで誰にも、恋をしたことがなかったからだ。
それは、どういったものか。どんな色で、どんな香りか。危険な毒のように、赤い色をしているのか。毒草オストラの根のように、甘い味で、人の心を狂わせるのか。それとも、禁断の毒薬アルスビューラのように、うっとりする香りと美しい赤で、おびただしい血を流させるのか。
ヨランダの心に、ふと懐かしい花(アルマ)の香りが蘇った。遠い北の、さびしい故郷の野を埋め尽くす、甘い香り。あれが、恋の香りか。
同じ香りを漂わせる、歳若い好敵手(ウランバ)のことを、ヨランダは思い出した。死にたくないといって震えていた、可哀想な子供。一緒に死んでもいいと言った男の、まっすぐに自分を見つめてきた、青い瞳を。
いずれ自分が死に、花(アルマ)の咲く時期が去れば、あの子供も何もかも忘れるだろう。部族の男たちの狂乱は長くはもたない。ほんの一時だ。花が咲きはじめ、最後の花びらが散るまでの間の、幻のようなものだ。
次の花(アルマ)が咲くとき、おそらく自分は死に絶えてこの世にいない。あの青い目は、今とは違う、本物の男になって、別の好敵手(ウランバ)を追っている。あるいは、別の女(ウエラ)を。
そう思ったとき、ヨランダは、自分の心の奥底の、ひどく乾いたところに、かすかな震えが走るのを感じた。
連れて行けばいい。花(アルマ)が散る前に、すべて刈り取って、連れていけばいいのだ。
「奥様、私にすべて、お任せを」
言い終えると、ヨランダは押し黙った。そして、震える女主人の肩を、いつまでも抱いてやった。
---- 第2幕 おわり ----
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