038 炎

 部屋の扉を開くと、居間の入り口の前で、灰色の目をした山エルフの執事が、イルスを見下ろしていた。小さなランプを灯しただけの暗い控えの間で、イルスは異民族の老人と向き合った。

「遅いお戻りです」

 淡々と咎める口調で、執事は言った。イルスは答える言葉を思いつかず、ただ黙って老人の顔を見上げていた。

「お夜食か、なにかお飲み物をお持ちいたしますか」

 老人は固い声で尋ねてきた。執事の声には愛想がなかったが、それでも、なにか今までと違う打ち解けた響きが感じられた。イルスは黙ったまま首を横に振った。

 イルスはしばらく黙ったまま、老人と見詰め合っていたが、やがて、そうしている意味がないことに気づき、目をそらして部屋に入ろうとした。

 すると、かすかに言いよどむ気配のあと、老人の声が追ってきた。

「本日の模擬戦闘では、陣営のご勝利、おめでとうございます」

 イルスが振りかえると、老執事はにこりともせず、祝いの言葉を告げていた。

「かような逆境にあってのご勝利。将軍閣下のお力のみならず、陣営のお味方のお働きによるものと存じます。ヨアヒム・ティルマン様の御在学中もかくやと、晴れがましく拝見いたしました」

 無表情に話す執事の後ろに、イルスは長い時の流れを感じた。

「…シュレーの親父を、知ってるのか」

「お仕えいたしました」

 抑揚のなく答える執事の声の奥にある誇りを、イルスははっきりと感じ取っていた。

「そういえば、お前の名前は?」

 イルスは向き直って、老人に尋ねた。

「ザハルと申します」

 老人は相変わらずの余所余所しい声色で答えた。

「俺はイルスだ。よろしく頼むよ」

 イルスが真顔で告げると、老執事ザハルは心臓を覆う仕草をして、深々と頭をさげた。そして、おもむろに居間へつづく扉を開き、イルスを中へ通した。

 すれちがう時も、老人は気難しげな灰色の目で、まっすぐにイルスを見つめていた。その年老いた顔を見上げながら歩き、イルスは自分が、この執事ほどの歳まで生きることがないことを考えていた。

 おそらく、自分は、この世界のことをなにも知らないままで、消えて行くのだろう。振りかえるための過去もなければ、誰かに語ってやる思い出もない。今までの自分の背後にあったのは、薄っぺらな死(ヴィーダ)への恐ればかりだ。それ以外のものなど、何一つなかった。

 この執事がいつまで生きているのかは分からない。だが、この先のいつかの日に、この山エルフの老人が別の主(あるじ)に過去を語る時、自分はイルス・フォルデスに仕えたのだと誇らしげに言ってもらえるような、立派な男になれるだろうかと、イルスはぼんやりと考えた。

 ただなにもせず漠然と生きて、人知れず無駄に死んでいくような者が、誰かの誇りになれるだろうか。そんな自分を、誰かが憶えていてくれるだろうか。与えられた時をあっという間に食い尽くし、砂の上の文様が満ち潮の波にさらわれ、永遠にかき消されるように、あっけなくこの世界から消えて行き、それきり忘れ去られる。今の自分は、その程度のものだ。

 扉の閉じる音におどかされたのか、びくりと引きつるような仕草で、暖炉の火が染める闇の向こう側から、白い細い手が長椅子の背を掴んだ。

「おかえり…」

 大あくびをしながら、のろりと体を起こして、長椅子に寝そべっていたスィグルがこちらを向いた。その、大仰に暢気を装った仕草に、イルスは苦笑した。

「猊下のご機嫌はどうだった?」

「最悪さ。俺は怒鳴り散らされたよ」

「それだけ元気なら、殺したって死なないね。命汚いやつだよ」

 あきれたような口調をつくって、スィグルが言う。

 イルスは居間を横切り、暖炉の火を眺められる長椅子に、スィグルと並んで腰を下ろした。優雅に脚を組み、肘掛に頬杖をついている黒エルフの少年の美貌の横顔に、ゆらゆらと踊る火影がうつっている。

「明日、シェルがシュレーを朝飯に誘うっていってた。やつに料理を教えるんだ。お前も一緒にこいよ。うまいもの食わせてやるぜ」

 イルスは自分の膝にひじをつき、炎を見つめる自分の頬を支えた。

「悪いんだけどさ、僕は、何を食べても味がわからないんだ。森の虜囚だったころからずっとそうで、今も治らないんだよ。多分ね…良くないものを食べたんで、罰があたったんだよね。イルス、君、ほんとは気づいてなかったかい?」

 ぼんやりと響く声で、スィグルが説明しているのを、イルスはただ揺れる炎を見つめて聞いていた。

「だったら余計にいいんじゃないか。シュレーが最初につくるもんなんて、どうせ不味いに決まってる。そんなもん食ってやれるのは、お前ぐらいのものだ」

「僕の口はゴミ箱じゃないんだぞ」

 喉を鳴らして笑いながら、スィグルが文句を言う。イルスは我知らず薄く微笑んでいた。

 スィグルの笑い声が消えても、イルスはそのまま、暖炉の炎を見つめていた。黙々と薪を焼く赤い炎。燃やし尽くせば消えうせると知っていても、燃えあがるのをやめない。

「俺、死にたくないんだ。ずっと生きていたい。みっともなく足掻いて延びる命がほんの一時でも、そのために足掻く方がいいような気がする。生きてると、俺はこの一瞬のためにいるのかなって思うことがあるけど、そういう時が、その、ほんの一時のうちに起こるかもしれないだろ?」

「へえ…」

 気のない風に、スィグルが相槌をうって立ちあがった。黒エルフの華奢な背中が、暖炉の前にうずくまり、白い手が、横につんであった薪の山から、2、3本の木切れをつかみとって、無造作に投げ込んでいく。スィグルが金属の火掻き忙で炎をつつくと、暖炉の火は、新しい命を得たように、ふたたびめらめらと勢い良く燃えあがった。

 あの女の髪の色だ。イルスは目を細めて、陶然と炎の色を見つめた。

「実は僕も、それを君に教えてやろうかと思ってたんだよ」

 すとんと長椅子に腰を下ろして、スィグルはまた脚を組んだ。

 ちらりと横目で相棒を見やると、黒エルフの金色の目が、じっとこちらを見ているのと出会う。

「ひとがせっかく、いつか勿体ぶって恩着せがましく話してやろうと思って、すごく楽しみにしてたっていうのに、君はほんと、気の利かないやつだね、イルス」

 にこりともせずに、スィグルが言った。イルスは思わず、にやりと笑った。それを見て、スィグルはこらえきれないというように、にやりと笑い返してきた。

「シェルを許してやれ」

「それとこれとは、話がべつだよ」

「へえ? どれとどれが、別の話なんだよ」

「うるさいな。君はほんとに、無礼で、がさつで、気の利かない海エルフだね」

 頬杖をついて微笑みながら、スィグルは無理に眉間に皺を寄せ、むつかしい顔を作って見せている。

「シュレーが死んだ方が、俺たちには都合がいいんじゃないかって、シェルが言ってたぞ。お前、それでも、シュレーを助けてやるのか?」

「ああ? あのウスノロの坊やに言われるまで、そんなことも気づいてなかったの? イルス、君、気が利かないだけじゃなくて、頭も悪いんじゃないのかい」

 くすくすと笑い声をたてて、スィグルか眠そうに肘掛にもたれ、暖かい炎のゆらめきに体を向ける。

「いいね。助けてやろうじゃないか。みっともなく死にぞこなって、ぶるぶる震えてみせるがいいよ。ほんのお慈悲で力になってやってもいいさ。あいつは僕が、ちょっとしたお情けで助けてやったんだって、生きてる限り毎日大声で自慢してやるよ」

 腹の底から搾り出すような、ひそかな声で、スィグルが独り言のように呟いた。イルスは薄く笑って、その横顔を見つめた。

「スィグル、お前は立派な男だ」

 イルスが誉めると、スィグルはぎょっとしたように振り向き、そして、虚をつかれた無表情になった。やがて、沈黙にしずんだスィグルの顔を、じわりとした作り笑いが覆い尽くした。

「やっぱりさ、イルスは頭が悪いよね…。そんなこと、君以外の誰も思ってないよ」

 笑いながら言うスィグルの声は、震えていた。

「言ってやらないと分からないみたいだから、親切で教えてやるけど、僕はね、このまま生きてても恥をさらすばっかりで、あんまり惨めだっていうんで、故郷を追い出されたんだ。誰が人質になるかくじ引きで決めたのは本当だけど、あの箱のなかにはさ…もともと、僕の名前を書いたくじしか入ってなかったんだ」

 イルスは驚いて、スィグルの顔を見つめた。すると、スィグルはいかにも楽しそうに聞こえる、緊張した笑い声をたてた。

「本当だよ。僕はね、見たんだよ。前の夜に、こっそりね。弟の名前を書いたくじを盗もうと思ったんだ。そしたら……僕とスフィルの名前のしか、はいってなかったんだ。…僕の弟、森にいる時から頭がおかしいんだ。すっかり狂っちゃってさ、あいつ、自分の名前も書けないし、手掴みでものを食うんだよ。そんなになってるのに、あいつ、毎日ちゃんとものを食いやがる。ぜんぜん死なないんだよ。腹がへったら僕を呼んで泣きわめくんだ……いくら、ここで死ぬだけでいいっていっても、そんなやつが来たら、部族の恥さらしだろ。だからさ、くじの残りの半分も、全部僕の名前に書き換えてやったんだよ」

 いかにも可笑しい話をするように、スィグルは陽気な声を出している。イルスは目を細め、黙ってそれを聞いた。

「父上は最後の慈悲で、僕に、ここで部族のために死んで、名誉を取り戻す機会をくれたんだよね。だから僕は、君と違って、ここで部族のために死なないといけないんだ。そうでもしないと、父上の面目がまるつぶれじゃないか。そうだろ?」

 歪んだ微笑で顔をくずして、スィグルは言いよどんだ。

「でも、僕も死にたくない。生きたまま帰りたいよ、タンジールへ。僕はさ、タンジールにいた頃、リューズ・スィノニムの再来だって言われてたんだ。神童だって。いつだって、父上の一番の自慢だったんだよ。すごいだろ。僕は君と違って頭もいいし、この通り、容姿も端麗。魔法だって誰より強くて上手い。アンフィバロウ家の誇りある血筋に見合った気位だって、ちゃんとあったよ。僕に言わせりゃ、他のやつらなんて、みんな馬鹿で低能で、度胸も誇りもない弱虫だった。リューズ・スィノニムの息子だって名乗れるほどの価値なんてないよ。ごみ屑みたいなもんだったのさ」

 微笑みながら言うスィグルの顔は、いかにも誇らしげで、晴れ晴れとしていた。イルスには、それが、ひどく哀れに思えた。

「でも今は、僕が屑だ。戦なんて起こらなきゃよかった。いつまでもずっと、父上の自慢の息子でいたかったよ」

 ため息のような笑い声をたてて、スィグルは炎に目を向けた。薄笑いしたままの華奢な横顔を、イルスは眺めた。

「父上父上って、お前はそればっかりか? 餓鬼じゃねえんだぞ。親父のことなんか知るかよ。俺は俺だ。あの野郎とは関係ねぇよ」

 イルスは気負って言い、スィグルの頭を小突いた。不安げなまま、スィグルは文句も言わず、苦しげに笑い声をたてた。

「イルス、あのさ…」

 笑いながら、スィグルは上擦った声で言った。

「今じゃないけど、また、いつか、僕の話を聞いてよ。この同盟が終わったら、きっと僕は死んでて、君は生き延びてるだろうと思うから、僕が森で何を見たのか、僕の代わりに、憶えておいてよ。今は無理だけど、そのうち話すから…」

 笑いの張りついたスィグルの顔を、イルスは見つめた。

「お前…俺より先に死ぬつもりでいるのか」

 イルスがぽつりと尋ねると、スィグルが困ったように押し黙った。

「アルティラーナ・アフラ・ウィー(お前も可哀想だ)」

 イルスが母国語で呟くと、スィグルは混乱した顔をした。だが、黒エルフの少年は、彼の金色の目でまんじりともせずイルスを見つめるばかりで、なにも問いただそうとはしなかった。

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