042 忘れざる想い

「怖がることないよ」

 こちらに背を向けて、水盆で手を洗っている男(オム)の背中を、アルミナは狭い寝台の上で縮こまり、震えながら見つめた。濡れた両手を胸の前にだらんと垂らした姿で、男(オム)は振り返った。

 細かく波打つくせのある髪は、あかるく濃い金色をしており、遠目にこちらを見つめる目は、淡い青。

 アズュリエ・カフラと呼ばれていた正神官だ。

 その名前が本当に彼のものなのだとしたら、彼は天使だ。ディア・フロンティエーナ・アズュリエ・カフラ。

 アルミナは、目の前にいる男(オム)が天使の一員だなど、とても信じられない気持ちだった。

 恐い人。恐い恐い恐い、恐い人。

 小部屋にやってきた男(オム)たちはみんな、アルミナを恐ろしい目で見ていた。そして訳の分からない恐ろしい話をして、アルミナを無理矢理、城のどこかにある別の場所に連れていった。

 どこをどう歩かされたのか、アルミナはおぼえていなかった。腕をつかまれて引き立てられる恐ろしさで、頭が朦朧としてしまったのだ。生まれてから今まで、今日ほど乱暴に扱われたことはなかった。

 男(オム)たちはアルミナがとても追いつけないような大股で歩き、なにも説明することなく、いくつもの階段をのぼらせ、小さな何も無い部屋にとじこめたり、また連れ出したりした。

 そして行き着いた先がここ。

 がらんとした何も無い白い部屋には、小さな寝台だけがあり、煌々と明かりが点されていた。

 ヴェールも外套も手袋もない、肌着姿にされて、寝台に乗せられ、青い目の男(オム)と2人っきり取り残されてしまった。

 恐い。

 アルミナは首をかしげて苦笑している男(オム)の顔を、震えながら見つめた。まばたきをするのが恐ろしかった。一瞬でも目をとじたら、その間になにかとても嫌なことが起こりそうな気がして。

「怖がることないったら。そんなにビクビクされたら、かえってその気になるじゃないか」

 くすくすと笑い声をたてて、男(オム)は無遠慮に近付いてきた。寝台の足下に腰をおろした彼を避けるため、アルミナは壁ぎわまで精一杯逃げた。素足になったつま先を肌着のスカートの中に隠し、膝を抱き寄せて、つめたい白い壁にぴったりとすり寄る。

 アルミナのほうを見て、アズュリエ・カフラは笑いを失い、眉間に皺を作って、うんざりと言いたげなため息をついた。

「おい。なんなら本当に、腰抜けのアムリネスの尻拭いをしてやってもいいんだぜ。何度も寝たはずの女(ファム)が未だに未使用だなんてバレたら、あいつだってゴミ箱いきだ。まあ、もっとも、その前にあいつのほうが逃げ出しちまったけどさぁ」

 厳しい声に、アルミナはびくりとしてアズュリエ・カフラの顔を見上げた。

「医師(ドクトル)だ、わかるな?」

 自分の胸を指で叩いて、アズュリエ・カフラはアルミナをさとすように言った。

 塔の小部屋にいたときと、彼の話す雰囲気が違っている。アルミナは、きょろきょろと彷徨う視線をアズュリエ・カフラに向けた。

「雑居房については知ってる?」

 いくらか穏やかな声で聞かれたこともあって、アルミナは少しだけ彼の言葉に聞く耳を持った。小刻みに首を横に振ってみせると、アズュリエ・カフラは納得したように、何度か小さくうなずきかえしてきた。

「女(ファム)ばかりが集団で生活している場所のことだよ。正神殿のなかに何ケ所かある。君はこれから、そこへいって暮らすわけ。集団生活の基本はなにか知ってる?」

 アルミナはその場所を想像しようとしたが、うまく思い描くことができなかった。不安になってアルミナがうつむくと、アズュリエ・カフラが、困ったなと言いたげにクスリと笑い声を作った。

「感染症を持ち込まないことさ。つまり、うつる病気だよ、わかる?」

 アルミナは、首を横に振った。

「そうか。まぁいいよ。君が特に重大な感染症を持って無いことは、定例の検査でわかってるから。感染症についての検診は形式的なものなんだ。もっと重要なのは、君がすでに妊娠してないかどうかについてさ」

 寝台の足下で足を組み、アズュリエ・カフラは深くため息をついた。

「ま、それについても、調べるまでもないと思ってるんだけどさ」

 アズュリエ・カフラは伏し目がちになって、ちらりとアルミナの腹のあたりを見た。アルミナは無意識に、自分の下腹に手をやった。リネンの布越しに触れる自分の体は温かかった。

 調べる。どうやって?

 アルミナは上目づかいにアズュリエ・カフラを見つめた。すると彼は苦笑して、天井を見上げ、アルミナの視線から逃れた。

「規則だから。規則、わかる? 戒律だよ。そうしなきゃ駄目だって決まってんの、ずっと昔から」

 言いながら、アズュリエ・カフラはくくく、と喉の奥で笑い声をたてた。

「誰が決めたか知ってる?」

 首を傾けていたずらっぽく尋ねてくるアズュリエ・カフラの顔を見つめ、胸の前で合わせた手をもっと体に引き付けるようにしてから、アルミナは首を横に振った。

「俺だ」

 いかにもおかしそうに、アズュリエ・カフラは笑いながら言った。

「正確には、今の体に転生する前の、その前の、さらに前の、ずーーっとずぅーーーーっと前の俺だ。俺は天使だからさ、前世の記憶を持ってるんだよ、わかるだろ?」

 アルミナに手を差し伸べるような仕種をして、アズュリエ・カフラはおどけたような言い方をした。

 その話はアルミナにも理解できた。天使は延々と転生しつづける。そしてその前の一生の記憶を持ったまま生まれてくる。原初の竜が卵を抱いていたころに生きていた天使と、今生きている天使は、まったくの同一人物なのだ。

 アルミナははじめて、ゆっくりと頷いた。にっこりと、アズュリエ・カフラが笑った。

「少しは落ち着いた?」

 いままでとは逆のほうに首をかしげ直して、アズュリエ・カフラが尋ねてきた。アルミナは、答えあぐねた。天使がまた、苦笑した。

「まあいいよ。わかるわけないもんな。俺だって信じないよ、自分が天使じゃなきゃさ。信じられっこないってのが普通さ。ブラン・アムリネスもそうだったろ? ん? 信じてなかったよな、そうだろ?」

 頷けというような口調で言われて、アルミナは動揺した。

 シュレーがそんな話をしていたことはなかった。

 もっとも、彼はアルミナと口をきくのをいやがっていたので、限られた一緒にいる時間にも、彼の翼が語りかけてくることもなく、声を使って話してくることもない。手紙の中でそれについて書かれていなければ、アルミナがシュレーの考えを知る方法はなにもなかった。

 それにしたって、アルミナがきかなければ、彼はなにも答えない。聞いたところで、返事が返ってくるとは限らないのだ。

 アルミナが黙り込み、なにも答えないでいると、アズュリエ・カフラが不機嫌そうに顔をしかめた。

「知らないの? それとも、俺を信用してないだけかい?」

 アルミナは何と答えたらよいかわからず、泣き出したい気持ちになった。

「あっ、ごめん、ごめんよ。そんな顔しないでくれよ。参っちゃうな」

 慌てたように腰を浮かしかけて、アズュリエ・カフラは早口に言った。そして、顔をこすり、ため息をついてまた腰をおろした。

「目を醒ましてる女の子と話すのは、苦手だよ。俺の患者はだいたい、眠ってる女(ファム)でね」

 くせ毛を手櫛で梳き上げ、アズュリエ・カフラはしばらくだまっていた。

 アルミナは、つんと鼻をさすつめたい匂いを感じながら、壁にぴったりとくっついて彼が再び話すのを待った。はじめ冷たかった白い壁は、アルミナの体温を吸って、生暖かくなりはじめていた。

「きみに幾つか聞きたいことがある。ここでは、口をきいても戒律違反にはならないから、素直に知ってるとおりのことを答えてくれ。そしたら君にも、それ相応の秘密を教えてあげるよ」

 まじめな顔で、アズュリエ・カフラは言った。

 アルミナは少しためらってから、怖ず怖ずと頷いた。男(オム)のいうことに逆らってはならないという戒律のためもあったが、アズュリエ・カフラがふざけているようには見えなかったことが、いちばんアルミナを納得させた。

「ブラン・アムリネスと、君のことさ」

 唇をなめ、言葉を選ぶように、アズュリエ・カフラはゆっくりと質問してきた。

「君は、アムリネスとは、そうだな、なんていうかーーーーーいや、まず違う方向から質問しようか」

 言い淀んでから、アズュリエ・カフラは早口に話を変えた。

「君は彼と何度か一緒に寝たよね、でも妊娠したことがない。それは、どうして? 君には毎月ちゃんと、生理がきてるよね。だから君が妊娠しないのは、君のせいじゃないんだ。ということは、どういうことか、俺が言いたいことは、何となくでもわかる?」

 アルミナは、黙ったまま、うつむいた。

 この人はなにを知りたがっているのかしら。

「君は、その、処女だよね。見りゃわかるよ、なんとなく。アムリネスはどうして、君との間に子供を作れなかったの? つまり、あいつには生殖能力がなかったかどうかってことさ。それとも、君が嫌がったの? どっち?」

 眉間に皺を寄せて、アズュリエ・カフラは声を低くした。

 アルミナは驚いて、ぽかんとした。なんと答えればいいのか、まるでわからず、そうするしかなかったのだ。

「アムリネスが嫌いだった? 彼が神殿種じゃないのが、気持ち悪かった? だから彼を、拒否してきたわけ?」

 アズュリエ・カフラの言葉が終わる前から、アルミナは何度も首を横に振ってみせた。

「ちがうんだね?」

 低い声で、天使は念押しをした。

「じゃあ、やっぱり、君の意志は関係なくて、アムリネスのほうの問題なんだ」

 独り言のように言って、アズュリエ・カフラはアルミナから目をそらした。

 寝台から腰をあげて、アズュリエ・カフラは頭をかき、部屋のなかを歩き回った。

 アルミナは、その薄く苛立った様子を、じっと見守った。

 やがて彼は何かを決意したような気配で、アルミナのほうに近寄ってきた。寝台のすみまで逃げてしまっていたアルミナは、自分の顔を覗き込んでくる男(オム)を避けようがなかった。

「きみたち女(ファム)の数がとても少ないことは知ってるね」

 ひそめた声で、アズュリエ・カフラは説明した。

「神殿種の男(オム)の大半は、繁殖しないまま死ぬんだ。選び抜かれた優秀な一握りだけが、繁殖の権利を持ってるんだよ。それも、若くて健康な一時期だけ。それ以外の者は、生まれてきた甲斐もなく、一世代で血を絶やすことになる。健康じゃなかったり、能力的に劣るものは特にそう。じつは、かくいう俺もそうでね、生まれつき駄目なんだよ、子種がとても薄いの」

 にやりと悪戯っぽく笑って、アズュリエ・カフラはアルミナの顔を間近でじろじろと見つめた。

「そう、だから厳密にいうと、俺は限り無く中性体(ユニ)に近いわけ。だけどこうして、今も立派な正神官様でいられるのはね、俺が天使だからなんだよ、天使アズュリエ・カフラの記憶を持って生まれたからさ。憶えてるのよ、俺はね、原初の竜(ドラグーン)のことをさーーーー」

 沈黙に吸い取られるように、アズュリエ・カフラの言葉が消えた。

 鼻をさす、薬くさい匂いのする手がのびてきて、アルミナの髪に触れた。アルミナの体は緊張のために硬直してしまい、引きつった喉が、かすかな息の音をたてただけだった。

 間近でみると、アズュリエ・カフラは不思議な顔をしていた。長い下睫で飾られた目のあたりには、細かい皺がいくつも浮いている。若いのか、歳をとっているのか、よくわからない。なんだか気味が悪い。彼の手が自分に触れるのではないかと思うと、とても恐ろしい。

「でも、ブラン・アムリネスは? あいつは、前世のことなんて何もおぼえてないみたいだよ。あいつは、もしかして、天使でもないし、男(オム)でもないんじゃないかな。だいいち彼は、神殿種ですらないよ。そんなやつを、正神殿で暮らさせるわけにはいかないよね。まして女(ファム)を独占させるなんて、ちょっとやりすぎじゃないの。いくら大神官の孫だからってさ」

 つらつらと言いつのってから、アズュリエ・カフラは、アルミナの反応を待つように、言葉を切った。

 アルミナが、あまりの侮辱ぶりに呆然としていると、天使は困ったように笑った。

「と、みんなは思ってる。そして、とても怒ってるんだよ。そろそろアムリネスに、自分がどの程度のやつか、よく理解させてやらないといけないんじゃないかって、ノルティエ・デュアスも真剣に考えてるようだよ」

 アルミナは、小部屋にやってきた、最初の天使の顔を思い出した。陰うつで、まるですでに死んだ者のような、白い顔。オルハにひどいことを言った、いやな人。ノルティエ・デュアス。

「猊下はーーー慈悲の天使でいらっしゃいます。わたくしの夫で、男(オム)でいらっしゃいます」

 精一杯の声で反論したつもりだったが、アルミナの声は震えていて、囁くような小声だった。しかしそれを聞いて、アズュリエ・カフラはにやっと笑った。

「可愛い声だ」

 呟くように言って、アズュリエ・カフラは膝を抱えているアルミナの手に、長い人さし指の指先だけを触れさせた。

「小さい手だ」

 すうっと指を滑らせてアルミナの手の甲を撫で、アズュリエ・カフラは言った。

「俺にも君みたいな、可愛い女(ファム)がいたらいいのになぁ。俺だったら君を、捨てていったりしない」

 含み笑いして、アズュリエ・カフラは言った。震えながら見つめると、天使の顔は、どことなく寂しそうだった。

「けどアムリネスは賢いよ。逃げ出さなかったら、きっと殺されていた。仕方がなかったんだよ、彼を恨んじゃいけない。君はもともと、神殿種の女(ファム)で、彼とは関係のない存在だったんだ。たまたまなにかの偶然で、彼と縁があっただけで。それでも彼のことが好きだったんなら、アムリネスがどこかで無事に生きていられることを、喜んであげなきゃ。今ここで、それを喜んであげて」

 アルミナに目配せして、アズュリエ・カフラは言った。アルミナは、きゅうに、目の前の男(オム)を恐ろしいと感じなくなった。

「今以外にはないよ。検診が終わったら、君はサフリア・ヴィジュレに記憶を調整されるし、そうなったらもう2度と、アムリネスのことを思い出さないかもしれない。彼のために祈ってやるなら、今しかない」

「猊下はなぜ、そのようなことを、わたくしに教えてくださるのですか」

 かすれた小声で、アルミナは尋ねてみた。アズュリエ・カフラは薄く笑った。

「君が可愛いから」

「なぜ、ブラン・アムリネス猊下が、お命をうばわれなければならないのでございますか」

 口に出すのも恐ろしいような気持ちで、アルミナは尋ねた。

「ブラン・アムリネスは死なないよ。殺されるのは宿主(ホスト)のほうさ」

「猊下のおっしゃる意味が、わかりません」

 心細くなって、アルミナは自分の肌着のスカートを強く握りしめた。

「君が生きていれば、ブラン・アムリネスにはまた会えるかもしれない。もしかしたら、君がブラン・アムリネスを産む可能性だってあるんだよ、天使は何度でも転生するからね。ブラン・アムリネスが君のことまで記憶しているかどうかは保証できないけど、とにかく彼はまた転生してくるよ」

 アズュリエ・カフラはもっともなことを言っていると思った。でも、アルミナは自分がまだ深い悲しみを感じてるのに気付いた。

「それでも悲しいかい?」

 目を細め、アズュリエ・カフラは密やかに尋ねてきた。アルミナは動揺した。

「わたくしは、今生のブラン・アムリネス猊下にお仕えしたいのです」

 口に出すとなぜか、とても悲しくなって、涙がぽたぽたと膝のうえに落ちた。アズュリエ・カフラは微笑み、アルミナの頭を撫でた。その手の温かさは、オルハのものと良く似ていた。いたわり慰めてくれる保護者の手だ。

「大神官台下も、今生の彼を惜しんでいるんだ。今の正神殿には、台下の味方はとても少ない、みんな、台下はもうじき亡くなって、ノルティエ・デュアスが大神官になると予想している。君は台下のお味方になってさしあげて」

「台下はなぜ、ブラン・アムリネス猊下をお守りくださらないのですか」

「台下は今までも、アムリネスを守ってこられたし、今後もそれは変わらない。ただ、それの邪魔をする者が大勢いるんだ。台下は偉大なお方だけども、全能じゃない。君にできることとできないことがあるように、台下にも、できないことはあるんだよ。だけど、アムリネスのためにできることをやらないような、薄情な方じゃない。君だってそうだろ?」

 アルミナは頷いた。

「サフリア・ヴィジュレの忘却処理が始まったら、抵抗しないでみんな忘れるんだ。いいね? 抵抗すれば、あいつは手荒なことをする。七歳から今までの記憶を全部消すなんて、それ自体危険なことだ、君の精神が壊れるかもしれない。サフリア・ヴィジュレは本当に記憶を消しているわけじゃない、君から見えなくしてしまうだけだ、君の心のなかに、なにもかもちゃんと残ってる、だから心配しなくていいんだよ」

「でも、わたくしはブラン・アムリネス猊下のことも、オルハのことも、みんな忘れてしまうのですか?」

 アズュリエ・カフラは小さく頷いて見せた。

「忘れたくありません」

 アルミナは頼み込むような気持ちで言った。

「今は忘れたほうが君のためだ。本当に必要なことなら、君はまた思い出すことができるよ。本当に大切なことを忘れさせるなんてことは、誰にもできゃしないんだ、サフリア・ヴィジュレにも、ブラン・アムリネスにも、君自身だって、ぜったいに」

 ジーッと低く唸る虫の声のような音が、部屋のなかに響きわたった。アルミナはビクッと体を引きつらせ、白い部屋の天井を見回した。アズュリエ・カフラは舌打ちして、ちらりと横目で背後の扉を見遣ってから、アルミナに向き直った。

「俺にも昔、好きな女(ファム)がいたんだ。何度か忘却処理を受けたけど、彼女のことはね、何度でも思い出せたし、今も忘れてないよ。だから君だってそうだ、心配いらない」

「その方は、いまどこに?」

 天使の寂しそうな表情が気になって、アルミナはついそれを尋ねてしまった。アズュリエ・カフラは伏し目がちになって微笑した。

「今は、台下にお仕えする。彼女とはいずれ会える、月と星の船で」

 ジーッと呼ぶ音がまた鳴り響いた。アズュリエ・カフラが扉のほうを振り返り、立ち上がろうとした。

「わたくしも猊下のことを思い出せるでしょうか」

 背中を向けられて、不安でたまらない気持ちになり、アルミナが問い返すと、アズュリエ・カフラは少しだけ振り返り、にやっと笑ってみせた。

 天使はつかつかと狭い部屋を横切り、扉を開けにいった。小振りな扉を開くと、部屋の外から、もうひとりの天使が入ってきた。サフリア・ヴィジュレだ。

 戸口を通るためにかがめていた身を起こし、略式の神官服の裾をなおすと、サフリア・ヴィジュレはアルミナのほうに顔をむけた。煌々と明るい白い部屋のなかで見ると、サフリア・ヴィジュレの両眼が、血のような赤であることがはっきりとわかった。アルミナは、その視線の上にいるのが恐ろしく、寝台の上で身を固くした。

「ずいぶんゆっくりしていましたね、検診はもう終わったでしょう」

 サフリア・ヴィジュレは、おっとりと響く声で言った。彼の目は、アルミナのほうに向けられたままだったが、こちらを見ているわけではない。自分のそばにいる、アズュリエ・カフラの気配と話しているのだ。遠目に見ていると、それがよくわかった。

「念入りに調べさせてよ、せっかくのお役得なんだからさぁ」

 小部屋で聞いたような、いかにも軽薄な雰囲気に戻って、アズュリエ・カフラが応える。

「よこしまな気持ちで職務にあたるとは、感心しませんね」

 ため息混じりに、サフリア・ヴィジュレが小言を言った。

「女(ファム)のスカートをめくる仕事で、よこしまな気持ちにならないほうが、不健全だと思うけどね」

 軽口をたたいて、アズュリエ・カフラは笑っている。しかしアルミナのほうを見た彼の顔は、笑っていなかった。強い視線で、天使はアルミナを見つめた。

 大切なことなら思い出せる、とアズュリエ・カフラは言っていた。そうでなければ忘れる、ということだ。

 思い出せなければ、それは、いま失いたくないと願っていることの全てが、自分にとってはどうでもいいことだったということになるのだろうか。

 アルミナは、今、自分は試されているのだと思った。

 この試練を乗り越えてゆけば、また、あの無口な少年と会えるような気がした。

 手紙をやりとりするだけでなく、触れれば手がとどくような、すぐそばで、彼と話してみたい。また会えたときには、なんと言えばいいのだろう。

 顔をみるといつも、胸がいっぱいになって、ただ黙っているだけしかできず、彼の言葉を待っているうちに、いつも眠ってしまい、すぐに朝がきて、彼はいなくなる。いつもそれの繰り返し。

 そんなふうに時を無駄にしているうちに、こんな日が来てしまった。

 今度会えたら、わたくしのことを愛してくださいますかと尋ねてみようとアルミナは思った。

 でもそんなことは、ばかな娘のする質問のような気もする。

 あの幼い日に、彼は大勢の娘達の中から自分を選び、この女(ファム)を妻に、と言ったのだ。そして天地にかけて永遠の愛情を誓ってくれた。その日からずっと、おそろしい夜の闇のなかでも、閉じ込められた部屋の孤独のなかでも、彼はアルミナを守ってくれた。

 これからも、ずっとそう。彼を信じてついていけばいい。そうすればまた会える。また会えると信じればいいのだ。そして彼への想いを消さないように。

「今夜中に雑居房に移すのでしょう。はやく始めなければ、すでに就寝の刻限を過ぎていますよ」

 かすかな苛立ちをひそませた穏やかな声色で、サフリア・ヴィジュレが言い、アルミナの前に立った。

 あの小鳥は今夜飛び立ったろうか、それとも、あのまま窓辺で凍えて死ぬつもりだろうか。

 死なないでほしい。飛べるわ、翼があるのだもの。

 アルミナは、自分を見下ろす赤い目をまっすぐに見上げた。

 何も見えていないくせに、天使はいかにも優し気な顔で、アルミナと見つめあって微笑んでいた。

 サフリア・ヴィジュレは神官服の肩掛けを脱ぎ、軽くうなだれるような仕種をした。彼の背中から、部屋いっぱいに広がるほどの巨大な翼があらわれる。

 淡く光り、半透明に透ける翼は、真冬のガラス窓のよう。

 そういえば、自分の背にも翼が。

 アルミナはふいに、それを思い出した。

 目の前を覆い隠すように広がった天使の翼が、アルミナを包み込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る