004 継承者

「イルスは、どうして人質に選ばれたんだい」

 先に立って薄暗い階段を登りながら、スィグルは振り向きもせずに話しかけてくる。意外と足の早い黒エルフの背中を追うために、イルスはかなり努力をしなければならなかった。

 学院の中を案内するという名目で、スィグルは石造りの階段を使い、上の階へ行ったり、下の階へ行ったりと、イルスを引っ張り回している。ここを曲がると図書室への近道に出るのだとか、西にある別の寮に行くには、この真上の階の渡り廊下を使うといいとか、申し訳程度に説明をしてはくれるのだが、この学院に着いたばかりのイルスが、そんな複雑な構造を一気には憶えられるはずもない。たちの悪いことに、スィグルもそれは承知しているらしく、あまり熱心に説明する気がないようだ。

 微かにシャラシャラと金属の鳴る音がするのは、スィグルが身に付けている銀の飾り物が、ぶつかりあって鳴る音だろう。その音が規則正しく続いているのは、スィグルが一定の速度で階段を登っているせいだ。見た目に華奢で、まるで女のようだと見くびっていた黒エルフが、自分よりも健脚なことを思い知らされて、イルスは悔しかった。

「どうしたんだい、遅いよ。もうバテたのか?」

 ひょいと振り返ったスィグルの顔は、イルスの返事を聞く前から、もう笑っていた。

「平気だ」

 ムッとした口調で、イルスは答えた。嘘だった。イルスが肩で息をしているのを見て、スィグルはまた、ニヤッと歯を見せて笑った。

 「人質に選ばれたわけは?」

 いくらかゆるめた歩調で、スィグルはまた階段を登り始めた。

「高度な政治的判断てやつじゃないのか」

 不機嫌なせいで、イルスは普段より大きな声で答えた。

「俺は妾腹で、母上はもうとっくに亡くなったし、もともと大した貴族じゃなかった。成人前で、特にこれといった官位もないから、俺が死んでも親父殿は困らないのさ。息子なら他にもまだ、4人残ってるからな」

「へえ、そうなんだ」

 なにがおかしいのか、スィグルはなぜか声をたてて笑っている。薄気味悪いような、腹が立つような気分で、イルスはますます憮然とした。

 「うちはね、あと16人いるんだ。僕は第16王子。同腹の弟が1人いるだけで、あとは全部腹違いの兄が上に15人だよ」

「第16王子…」

 あっけにとられて、イルスは繰り返した。スィグルがまた笑い声をたてる。

「砂漠では、よく子供が死ぬからね。父上は念のため、たくさん子供をつくっておいたんだ。でもそれが全員、意外と生き延びてさ。今じゃ、10人いる母上たちが、王宮の部屋割りで毎日モメる始末なんだ。面白いだろ」

 さも楽しげに、スィグルはイルスをちらりと振り返る。笑っていいものかどうかわからず、イルスは驚いた顔のまま、スィグルの視線を浴びるしかなかった。そもそも、面白がるような話でもない。

「父上は昔、好きな女がいたから、その人を正妃にしたんだ。でも、その人が妊娠して王宮から下がっている間に、権力争いのせいで殺されちゃってね。腹をたてた父上は、謀殺の疑いのある貴族の娘を全員、妾妃として召し上げた。それが今いる10人の母上で、そのうちの1人が僕の母だ。亡くなった正妃と同じ苦しみを味わわせた上、愛のない夫に耐える苦痛を与えて復讐するんだと父上は言ってる。執念深い性格なんだよね、多分」

 面白おかしい昔話でも話して聞かせる口調で、スィグルは淀みなく説明している。

「女は愛せないけど、自分の血を分けた子供はみんな、分け隔てなく可愛いって父上は言ってたよ。うちは、誰を人質にやるか、くじ引きで決めたんだけど、僕が当たりを引いたときは、父上は泣いて別れを惜しんでくれたよ。まあ、誰が引き当てたところで、父上は同じようにしたと思うけどね。イルスの父上も、特別イルスのことが必要ないなんて思ってないと思うなぁ。案外、君んとこでも、裏でくじ引きしたのかもしれないだろ?」

 そこまで聞いて、イルスはやっとスィグルの言いたいことが理解できた。

「別に俺は親父殿を恨んでるわけじゃない」

「あれ、そうなの? せっかく慰めてみたのに、残念だよ」

 本当に残念そうに、スィグルは顔をしかめる。

 「お前…変わってるな」

 本心から、イルスは言った。とんでもない奴と、同じ部屋で暮らすことになったのではないかと思うと、なにやら不安だ。これならいっそ、金髪に青い目の異民族との同居の方が、いくらかマシかもしれない。

「他の部族の風習は、ちょっと変わってる風に見えるものだろ」

 もっともらしくスィグルは言う。

「黒エルフって、みんなお前みたいな感じなのか?」

「どうだろう」スィグルは真剣に悩んでいる気配だ。

「タンジールを出発するときに、僕の守り役が、殿下、客地での奇行はお慎み下さいって言ってたから、案外、僕はちょっとズレてるのかもしれないよね」

 イルスは少し安心した。こんな奴が砂漠にうようよいるのかと思うと、気分的に穏やかでない。

 「着いたよ」

 突然スィグルが立ち止まったので、イルスはとっさに避けきれず、黒エルフの背中にぶつかった。スィグルの髪飾りがシャランと冷たい音をたてる。

「なにやってんの、イルス」

 ザッと身をひいて、スィグルはかみつきそうな顔をした。黒エルフでは、相手の身体に触るのは、たとえ偶然であっても、絶対に避けなければいけない不作法なことなのかもしれなかった。

「悪かったよ」

 なんだか情けない気分で、イルスは謝った。ぶつかった時、スィグルの背中に浮き上がっている肩甲骨の感触がした。見た目の通り、スィグルはかなり華奢な体格のようだった。それでも、これだけの階段を登ってきて、息が乱れていない。

 呼吸を整えるために深く息をつきながら、イルスは長旅で鈍った身体を鍛え直す決意をした。



  * * * * * *



 スィグルがイルスを連れてきた場所は、学院の食堂だった。階段のすぐ横にあった薄暗く短い廊下を通り、黒檀の大扉をくぐると、天井の高い広間が現れた。漆黒の大理石を敷き詰めた床に、天井の梁からつるされた無数のランプが映り込んでいる。星空をうつした水面を歩いているような、不思議な感覚をおぼえる。

 「ようこそ、殿下」

 食堂の給仕役が、スィグルの顔を知っているらしく、にこやかに近づいてきた。

「今日は連れがいるんだ。2人分たのむね」

 定席があるのか、スィグルは案内を待たずに、店の奥に歩いていく。給仕役のお辞儀を受けながら、イルスは大人しくスィグルの後についていった。

 その席は店の一番はしにあり、窓から学院の敷地を見渡せる場所だった。イルスに席をすすめてから、スィグルは向かいに座り、絹のクロスをかけたテーブルに肘をついた。

 「悪いんだけど、ここの料理はものすごく不味いらしいよ」

 にやにやしながら、スィグルは忠告した。イルスは、訳が分からなくなってこめかみを押さえた。確かに、この店はかなり空いている。

「それを知ってて連れてきたのか」

「いや、まあ、そうだといえばそうだけど、僕は毎日ここで食事してるんだ」

 少し困ったように、スィグルはいいわけをした。

「不味いって評判らしいけど、僕には料理の味がわからないんだよ」

「お前の好みには合うってわけだな」

「さあ。よく分からない。食事には興味ないから」

 給仕役がやってきたので、イルスはそれ以上なにも聞かなかった。

 給仕役は、イルスとスィグルの前に、クリスタルのグラスを恭しく置き、血のような暗い赤色の葡萄酒を注いだ。ふわりと濃厚な葡萄酒の香りがたちのぼる。山エルフは葡萄酒を作るのが得意な民族だと聞いているが、この店で出している酒も、かなり良い品物のようだった。

「学院が酒蔵を持っているらしいんだ。山の連中は酒を飲むのが好きで、これがないと生活できないんだとか」

 スィグルは葡萄酒のにおいをクンクンとかいで、不思議なものでもみつけたように首をかしげる。

「殿下、お気に召さなければ、別の樽の葡萄酒をお持ちします」

  給仕役が恭しく言う。

「いや、僕は葡萄酒の味も匂いも、全然理解できないから、水でも酒でもなんでもいいよ」

 給仕役が、やはり恭しくお辞儀をする。スィグルは本当に葡萄酒の善し悪しが分からないようだった。イルスは軽くグラスに口をつけ、それが間違いなく上質の葡萄酒であることを確かめた。すくなくとも、味のわからない黒エルフに飲ませるようなものではない。ちらりと不安げに給仕役がイルスを見た。

「…いい酒だな」

 イルスが言うと、給仕役は満足げに微笑み、軽くお辞儀をする。

「こちらの殿下にも、同じ料理をお出しすればよろしいですか?」

 スィグルは尋ねられて首を振った。

「イルスには、普通の料理でいいよ。好き嫌いはない?」

 スィグルは、軽く首をかしげて尋ねてくる。

「……たぶんな。ここの連中が何を食ってるのかにもよる」

 慎重に、イルスは答えた。

「鴨はいかがですか」と給仕役。

「食える」とイルスは答え、少し安心した。

「うえ」とスィグルが低く呻いた。

「殿下は肉料理がお嫌いなんでございますよ」

 給仕役が、気を効かせて説明してくれた。別に、ここの鴨料理が最悪だという意味ではないらしい。

「それでは、ローストした鴨に特製のソースをかけてお持ちします、殿下」

 どちらに話しかけているのか定かでない口調で言い、給仕役は何度もお辞儀をしながら下がった。ペコペコと頭をさげる様子がおかしいのか、スィグルは頬杖をついたまま、くつくつと喉を鳴らして笑っている。

「僕やイルスの額冠(ティアラ)を見たせいじゃなくて、あいつは、誰にでも殿下って言うんだよ。そう呼ばれて怒る奴なんて、そうそういないだろ。そんなヤツは、この学院に一人しかいないんだからさ」

「…どういうことだ?」

 スィグルが、いかにもイルスもわかっている風に言うので、イルスは不安になった。トルレッキオに到着したばかりで、この学院にどんな顔ぶれがそろっているのかも知らないイルスに、そんな詳しい事情などわかるわけがない。スィグルはふと笑うのをやめて、不思議そうにイルスの顔を見た。

「本当に知らないの?一人いるだろう、『殿下』より身分の高いヤツが。知ってるはずだよ、イルス」

「待ってくれ、本当に知らない。俺は、人質に選ばれたその日に出発して、今日、ここに到着したばかりなんだ。本当に何も聞いてないんだよ」

 軽い目眩をおぼえながら、イルスは説明した。スィグルがあっけにとられる顔を、イルスは初めて見ることができた。

「イルス、君、やっかいごとを押しつけられやすい性格だねって言われない?」

「ああ、よく言われる」

「正しい評価だね。同情するよ。ろくな説明もしてもらえずに、今夜にも寝首をかかれるかもしれない場所へ、人質として送り込まれるなんて。まあ、何も聞かずに平然と言うことを聞いているイルスにも問題あると思うけどさ」

「それも、よく言われるな」

 同盟の短剣を手渡す時の父ヘンリックの顔を、イルスは思い出した。何か聞かなければいけないと思いはしたが、何から話していいかまるで見当もつかず、イルスは結局何も言わずに短剣を受け取ったのだ。父を前にすると、なぜかいつも、思っていることが言葉にならない。

 同盟のための人質になるのがイヤだと言ったところで、誰かが代わってくれるわけでもない。息子がトルレッキオで客死することも十分考えられると、父が知らないわけでもないだろう。それを考えた上で決めたことだ。トルレッキオへ行けと命じるのは、そういう意味だ。場合によっては、そこで死ねと命じられたのだ。それ以上、なにを尋ねればいいのか、イルスには今でも言葉が見つけられない。気をつけろとか、生きて戻れとヘンリックが言いさえすれば、あるいは、再びこの目で故郷の海を見る日が来るのかと尋ねられたかもしれない。

 「でも、別に俺は平然としちゃいない」

グラスの中でゆれている異郷の酒を見おろしたまま、イルスは呟いた。それは、自分の耳にも、充分、泣き言のように聞こえ、イルスは情けなくなってため息をついた。

「泣いてもいいんだよ、イルス。なんなら僕の胸をかそうか?」

 にやりと笑って、スィグルが楽しそうに言う。

「からかうな」

 苦笑しながら、イルスは葡萄酒を飲んだ。

「それより、さっき言ってた『殿下』より身分の高い一人っていうのは誰だ?」

 イルスが言うと、スィグルは思わせぶりに片眉をつりあげ、腰の飾り帯から何かを引き抜いた。テーブルの上に差し出されたのは、真珠と黄金で飾られた銀の短剣だった。

「この紋章を持ち物に刻むのを許されてるヤツがいるんだよ」

 スィグルが示したのは、短剣の柄がしらに象眼された、神聖神殿の紋章だった。純白にきらめく貝で象眼されたその紋章は、大きく広げられた一対の翼の形をしている。持ち主のない翼だけが羽ばたく、神殿の紋章だ。

 この翼の紋章を許されているのが何者か、王族に生まれていれば知らないはずはない。イルスも、もちろん、それに関する教育を受けていた。この紋章は、神聖神殿を継承する大神官と、その血を分けた一族を表すものであり、同時に、神殿が大陸全土に及ぼす強い支配力の象徴でもある。

 今回の四部族同盟についても、そもそもの始まりは大神官の調停によるものだと聞いている。山エルフ族が神殿と結び、その威光を借りて、自分たちに有利な条件のもとに同盟をもちかけてきたのだ。神殿が召集すれば、大陸全土の部族を動員しての討伐軍を編成することも可能だとあっては、残る三部族の中に、同盟を拒否する無謀さを持ち合わせた族長など、いるわけがない。領土争いは平和裏に終結し、神殿は平和の使者として、大陸全土にその名を知らしめた。

 だが、当の領土争いの火種を撒いたのも、それを鎮圧したのと同じ、神聖神殿だというのは、今では知らない者のいない事実だ。大陸全土から、神殿は恐れられていた。民衆にとっては、慈悲深い神の代理人である神聖神殿だが、部族を率いる者たちにとって、白羽の紋章は恐怖の対象でしかない。

 「ヤツは、ここではシュレー・ライラル・フォーリュンベルグと名乗ってる。山エルフ族の王族の一人として、学院に在籍してるけど、実際には神聖神殿の血を引いてて、もっと長い名前を持ってるのさ。シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス『猊下(げいか)』、神籍だ。次の大神官の最有力候補だって噂だよ」

「…長い名前だな」

 うんざりして、イルスは言った。

「ディア・フロンティエーナっていうのは、神殿の直系血族だってことを表す称号だろ。それから、ブラン・アムリネスっていうのは、官職の名前らしいよ。古代語で、えーと…静謐(せいひつ)なる調停者、だっけ?

忘れたけど、とにかく、そうやって分けて覚えるといいよ。ライラルは僕らのと同じ洗礼名だから、要するに、名前はシュレー、そういうことだよ。神聖なる一族の直系の息子にして、静謐なる調停者シュレー・ライラルだ」

「ただのシュレーじゃダメなのか?」

 憶える気もせず、イルスは軽く首を振った。

「だめだよ、マルドゥークの末裔イルス・フォルデス」

 楽しそうにスィグルは答える。

「自分の名前が長くていやだと思っていたけど、考えを改めなきゃいけないみたいだな。上には上がいる」

「そういうことだよ、マルドゥークの末裔イルス・フォルデス。僕の名前を憶えてるかい?」

「スィグル…なんだっけ? スィグル…なんとかアンフィバロウだ」

「僕はレイラス殿下だよ、イルス・フォルデス・マルドゥーク。スィグル・レイラス・アンフィバロウだ。洗礼名を忘れるなんて、君は失礼な海エルフだな、イルス・フォルデス・マルドゥーク」

 いかにも楽しそうな口調で、スィグルがからかう。イルスは頭を抱えた。

「イルスでいいよ。俺は長い名前を憶えるのが苦手なんだ」

「まあ、僕も別にスィグルでいいけどさ…さっきの猊下の名前は憶えておいた方がいいよ。なんなら、毎晩寝る前に10回ずつ暗唱するのに付き合おうか?」

 急にまじめな顔をして、スィグルが言う。イルスはため息をついた。

「余計なお世話だ。そんな雲の上にいる神籍のヤツになんて会うこともないさ。名前を憶えてなくてもバレない」

「そうでもないよ」

 またニヤリと口元をゆがめるスィグルを見て、イルスはうなだれた。どうしてこの黒エルフは、自分をからかうのがそんなに気に入ったのだろうか。イルスは苛立ちを紛らわせようと、グラスの葡萄酒をあおった。

 「その猊下が同盟の人質の1人だって知らないんだろう」

 葡萄酒を吹き出しかけて、イルスはむせた。スィグルは仕掛けていた落とし穴に誰かが落ちたのを見たように、気味良さそうな笑い声をたてた。

「なんで神官が同盟の人質になるんだよ!?」

 テーブルに置かれていた布で口元を拭いながら、イルスは言った。

「だから、最初に言ってるじゃないか。例の猊下は、山エルフの王族ってことで来てるんだよ」

「どうして?なんでそうなるんだよ」

「大神官の継承者でありながら、山エルフの継承権も持ってるんだってさ。イルスや僕みたいに、ゴミみたいな継承権じゃないよ。大神官の継承権は第3位、山エルフの継承権なんて第1位だ。山エルフの次期族長だった男が、大神官の娘と駆け落ちしたのさ。その二人の間に生まれたのが、例の、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下。次期大神官は、現職の指名によって決まるしきたりだから、彼が選ばれるのは時間の問題だってさ。なのに今は、神殿を出て、父親の故郷である山エルフ族の王族におさまって、名前も変えたってわけ。だけど、山の連中はみんな、彼のことをブラン・アムリネス猊下と呼んでるようだよ」

「なんで、そんなやつが人質なんかに?」

 心底驚いて、イルスは尋ねた。スィグルの顔から急に笑いが消える。

「さあねえ、神様のお戯れってやつじゃないか?哀れな人質の境遇を御自らご体験遊ばすという計画だろう。白い連中のやりそうなことさ。冗談じゃない」

「………」

スィグルの長い睫に縁取られた黄金の目に、一瞬、明かな憎悪がよぎるのを見て、イルスは沈黙した。スィグルはそのまま目を細め、絹の布で覆われたテーブルの中央あたりをじっと見おろしている。

 「殿下、料理をお持ちいたしました」

 給仕役の声を聞いて、スィグルはハッとした風に顔をあげた。

「うわ、本当に鴨を焼いてきたんだな」

 顔をしかめるスィグルを無視して、給仕役はうまそうに焼けた鴨をイルスの前に置いた。次々と料理の皿がテーブルを埋めていくが、スィグルの前にはほんの少しの野菜料理が並ぶだけだ。

 「けっこう腹がへってきたね。どんどん食べて、イルス」

 にこにこと愛想よくイルスに皿をすすめて、スィグルは遠慮する気配もなく、自分の料理に手をつけ始めた。

「自慢のソースでございますよ、殿下」 給仕役はお辞儀をして、後ろ歩きのまま歩み去った。鴨の上に、どろりとした緑色のソースがかかっている。かすかに苦みのある匂いが漂ってくるが、これは山エルフ風の味付けなのかもしれない。

 食器を手にとって、イルスは鴨を一切れ口に運んだ。

「どんな味だい、イルス」

 興味深そうに、スィグルが尋ねてくる。

「……ものすごく不味い」

 口の中のものを呑み込んでから、イルスはひきつった声で答えた。本当に、今まで食べたもののなかで、一、二を争う不味さだった。

「やっぱり、本当にこの店って、不味いんだなあ」

 やっと納得できたという様子で、スィグルが嬉しげにうなづく。

「野菜はうまいのか?」

 肉をつつきながら、イルスは低く尋ねた。遠くから、給仕役がそわそわとこちらを見守っている。

「一口食べていいよ」

 スィグルは自分の皿から、茹でた芋にソースをかけた料理をとりわけ、イルスの方に押してよこした。材料の見当がつかない、うす赤い透明なソースがかかっている。イルスは一口でそれを食べた。

「どうなんだい」

「……………」

 芋をかみ砕くイルスを、スィグルは葡萄酒を飲みながら眺めている。

「こんなもの、よく毎日食えるな、お前」

 二杯目の葡萄酒を自分で注いで、イルスはそれを飲み干した。まともなのは葡萄酒だけだ。甘いような苦いような、まとまりのないソースの味が、のどの奥に残っているような気がして気分が悪い。

「僕、食べ物の味が全然わからないみたいなんだ」

「そうらしいな」

 平然と微笑むスィグルを、イルスは恨みのこもった目で睨んだ。

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