005 決闘

「戦が終わったなんて信じられない」

 小さなテーブルに気怠げに頬杖をつき、スィグルは壁際の席から、大理石の広間を見渡して呟いた。

 スィグルが常連になっているという店の料理は猛烈に不味く、とても食べられたものではなかった。かなり空腹だったはずのイルスが、すっかり食欲を失ってしまったのを見て、スィグルは店の料理の不味さが自分の想像以上だったと言い、イルスを別の店に連れていったのだ。

 こちらは打って変わって盛況だった。壁を象牙色の大理石で飾られ、床には茶と緑色のメノウで幾何学模様が描かれている。山エルフの好む、菱形と長方形を組み合わせた複雑な図柄だ。イルスには馴染みのない意匠だった。

 広間に置かれたテーブルには、金髪の学生たちが座り、それぞれの話題で盛り上がっている。ランプの明かりの中で見ても、誰もがまぶしいような白い肌をしている。誰もまじまじとは見つめてこないが、その純白の空間のなかで、イルスとスィグルはひどく目立った。そこはかとない注目を感じ、イルスは居心地が悪かった。

 「僕がどうしてあの店を毎日使うか、わかっただろ」

 横目でイルスを見て、スィグルは気味良さそうに言う。イルスはため息をついて頷いた。

「でも、料理はこっちの方が数段ましだぞ」

「味がいいって人気らしいよ、ここ。ごらんの通りの盛況ぶりさ。見渡す限り山エルフばかり。まるで敵陣にたった一人、置き去りにされた気分じゃないかい」

「大差ない状況だろ」

 むっつりとイルスが呟くと、スィグルは低い声で笑った。かすかだが、語尾があやしい。スィグルは酔っているようだった。

 「昔々…神様がこの大陸の生き物を作るとき、白い卵と黒い卵を産んだ。全ての人はその二つの卵から生まれた。白い卵から生まれたのが白系種族。黒い卵から生まれたのが、僕らみたいな黒系種族……」

 歌うような抑揚のある口調で、スィグルは誰でも知っている創世神話の一節を話し始めた。スィグルの視線が広間の山エルフたちの上をさまよっているので、イルスはそれが自分に話しかけるための言葉なのかどうか悩んだ。

「違ったのは卵のカラの色だけだろ。神話には、それだけしか書いてない。神様は白い卵と黒い卵を1個ずつ産んだって書いてあるだけだ。それだけだ」

「お前、酔ってるんだな」

 苦笑して、イルスは指摘した。スィグルが酒に弱いらしいことがわかって、イルスはなぜか安心した。全く隙のない相手だと思いかけていたが、この人を食ったような黒エルフにも、ちゃんと弱点はある。

 「酔った僕は危険だよ。なにしろ嘘がつけないからね」

 くつくつと喉を鳴らし、スィグルは懲りもせずに葡萄酒のグラスを上げる。イルスは全く酔いを感じていなかった。もともと、酒には強い血統らしく、酔っても軽く意識が漂う程度までだ。そういえば、父ヘンリックが何度目かに黒エルフ族と軍事同盟を結んだ祝いの席で、黒エルフの族長リューズを酔いつぶれさせたという話を、侍従から聞いたことがある。きっと、スィグルの父親も、酒には弱いたちなのだろう。海エルフに飲み比べを挑むなど、無謀なことだ。

「酔ってなくても、お前は充分危険だ」

「失礼だなあ。素面の時は、僕なりに自制してるんだよ、イルス」

 酔いに任せた上機嫌で、スィグルは調子良く答える。

「それじゃ早く酔いを醒ましてくれ」

 空になった自分のグラスに葡萄酒を注ぐため、イルスはスィグルから目を離した。

「それは難しい相談だなあ。君がどんどん飲むもんだから、つい、つられて……」

 スィグルの言葉が、きゅうに途切れた。嫌な予感がして、イルスは葡萄酒を入れた壷を持ったまま、向にいるスィグルに向き直った。

 「なにか用事でも?」

 席の後ろに立った一団と視線を合わせるため、スィグルは軽く仰け反るようにして、不自然な振り向き方をしていた。

 スィグルの後ろには、数人の山エルフが立っていた。全員が、薄緑の絹のシャツに、革のチュニックを重ねた学院の制服を着ている。同じような顔立ちに、短く刈った金髪のため、イルスには一人一人の見分けがつかなかった。少なくとも、この学院で学ぶ学生には違いないだろう。

 「同盟のためにいらっしゃった人質の殿下でいらっしゃいますか」

含みのある口調で、山エルフの少年が言い、スィグルの肩に手を置いた。すぐに振り払うだろうというイルスの予想に反して、スィグルはかすかに肩を動かしただけで、にこにこと張り付いたような微笑を浮かべている。

「恐れ入りますが、この広間は白系専用という規則になっておりまして」

「その上、女人禁制の厳しい掟をご存知ないとは驚きですね、黒い姫君」

 笑いながら、金髪の少年たちは言い、宝石で飾られたスィグルの髪を引っ張った。

 イルスはむっとした。制服の連中は帯剣している。スィグルは飾り帯にさした同盟の短剣以外には武器もなく、見た目にも華奢な様子だ。山エルフたちがスィグルのことを、人数がかりで喧嘩をしかければ、簡単に打ちのめせる相手だと思っているのが、直感的に読みとれた。愛用の長剣を帯びているイルスとは、目を合わせようともしない。

 「やめろ」

 不機嫌な声で、イルスは忠告した。

「そいつを甘く見てると後悔するぞ」

「おや」と淡い緑の目をした長身の山エルフが大仰に驚いくふりをする。

「海辺からお越しの殿下もいらしたんですね。どうりで魚臭いわけだ」

「ルガイズューレ」

 スィグルが急に楽しげな笑い声をたて、黒エルフの言葉で何か呟いたので、イルスはとっさに腹を立てるのも忘れてしまった。

「おっと失礼、君たちは公用語で言ってやらないとわからないんだね」

 肩をゆらして笑いながら、スィグルは酔った口調で続ける。

「クソ野郎」

 山エルフの手を払って立ち上がり、スィグルは相手の淡い緑色の目を覗き込んだ。

「…っていう意味だよ、憶えたかい? 忠告するけど、僕を見た目で判断しないほうがいいよ。イルス、なんでか教えてやって」

 スィグルの金色の目で見つめられて、山エルフはたじろいでいる。イルスは苦笑して、スィグルの望みの言葉を言った。

「気をつけろ、そいつは魔法を使う」

「そう、正解」

 嬉しそうなスィグルの声と同時に、緑の目の山エルフの体が、広間の中央まで吹き飛んだ。途中にあったテーブルや人垣をなぎたおし、山エルフの体は子供に投げ捨てられた人形のように、あっけなく床にたたきつけられた。苦しげに潰れた悲鳴が、広間の中央から上がる。

 予想していた以上の力を見せられて、イルスは思わず立ち上がっていた。吹き飛ばされた山エルフは、激しくせき込み、血の混じった液を吐いている。ちょっとした売り言葉への応酬にしては、それは力加減が強すぎた。

「やめろ、スィグル」

 広間の中央に歩いていくスィグルの背中を、イルスは鋭い声で呼び止めた。しかし、スィグルはそれが聞こえていないのか、息をのむ人垣を抜けて、床に倒れている山エルフの少年のそばに歩み寄った。

 山エルフは、屈辱を味わっている表情をしていた。しかし、スィグルの華奢な顔を見上げる緑の目には、隠しきれない怯えがある。スィグルは唇をゆがめて悪魔的に微笑した。獲物をいたぶる猫に似ている。

 「怖かった?」

 せき込むたびに揺れる山エルフの胸を、スィグルは砂漠風のサンダルをはいた足で踏みつけ、獲物の青ざめた白い顔を覗き込んだ。

「心配しなくていいよ。もう戦は終わったんだ。殺したりしない」

 飾り帯に挟んである短剣の黄金の柄に手をやり、スィグルは恭しくその銀の刀身を引き抜いた。

「君たちがなにもしなければ、僕も何もしない。だけどね、僕は売られた喧嘩は買うよ。そうやって怯えてる君の目、たまらないね。自分より強い相手に挑むなんて、本当に馬鹿だよ」

 スィグルが、殺しさえしなければいいと思っているように、イルスには思えた。それに気付いた瞬間、イルスは無意識に走り出していた。悲鳴をあげる山エルフの緑の目にむかって、スィグルが銀の短剣を振り上げるのが見える。広間に立ち尽くす山エルフたちの口から、悲鳴とも怒号ともつかない声がもれた。

 「ばか、やめろ!」

短刀を握っているスィグルの右手に飛びついて、イルスは黒エルフの華奢な体を引き倒した。間一髪で難を逃れた山エルフは、つい今までスィグルの姿が占めていた辺りを見上げたまま、悲鳴をあげつづけている。

 イルスは、自分の体の下で、スィグルの骨ばった肩が震えているのに気付いた。笑っている。信じられない思いで、イルスはスィグルの顔を覗き込んだ。スィグルは、いかにもおかしそうに小さな笑い声をたてていた。

 「イルス、本気だと思ったね?」

「お前は本気だった」

 昂揚のため、イルスの声は荒くなっていた。ちらりと倒れている山エルフの方を見やって、スィグルは床に座りなおす。

「こいつ漏らしてる。目玉の一つや二つ、なくしたところで死ぬわけでもないだろうに、情けないヤツだ」

 友達をからかっているような気安いスィグルの口調が、今はまがまがしく聞こえる。

「同胞の不名誉を雪ごうっていうヤツはいないのか?」

 挑発的な口調で言い、スィグルは言葉もなく立ち尽くしている山エルフたちを見回した。

「それとも震え上がって動けないか? 間抜け面の豚どもが。それでも金髪の悪魔と呼ばれた部族の血を引いてるのか。お前らには冥府の便所掃除がお似合いだ。腰抜けはさっさと帰ってベッドで震えてろ」

 綺麗な顔に似合わない罵詈雑言が、スィグルの口からすらすら流れ出る。周りで立ち尽くしていた山エルフたちの顔に、あきらかな怒色がひろがっていく。

「もうよせ」スィグルの腕を引いて、イルスは忠告した。

しかしスィグルは、その上気した顔に嬉しそうな笑みを浮かべ、嫣然と答えた。

「もう遅いよ」

 確かにそうらしい。鞘走る音がいくつも鳴るのが、イルスの耳にも、はっきりと聞こえていた。どう考えても多勢に無勢だ。スィグルがどの程度の技量を持っているのか知らないが、故郷の師匠はいつも言っていたものだ。勝ち目のない戦いを挑むのは愚か者のやることで、間抜けな海ネズミに生まれ変わるよりも恥ずかしいことだと。しかし、師匠はイルスにこうも教えた。敵に追いつめられ死を待つほかはない戦友を見捨てて逃げだし、己の命を長らえるくらいなら、ともに戦って死に、卑しい船虫に生まれ変わる方が何倍もましだと。

 師匠の教えは矛盾している。それに今まで気付かなかった自分を、イルスは呪った。このまま故郷に戻れずに死ねば、師匠にそれを指摘することは永遠にできないままになるだろう。

 「畜生、なんでこうなるんだ」

長剣の柄を握り、イルスは少しためらってから抜刀した。使い込まれた刀身が小気味よく鳴り、マルドゥークの紋章が刻印された、青白い刀身がきらめいた。

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