003 銀の蛇

「怒ることないだろ。同じ部屋に住んでるからって、別にとって食いやしないさ」

 からかうように言って、スィグルはイルスに右手を差し出した。

「何のまねだ」

 突きつけられた白い手を見おろして、イルスは動揺した。

「手を握るんだ。黒エルフ式の挨拶だよ、知らないのかい。

同じ運命に翻弄される者同士として、最大の親愛を示したつもりだったんだけどね」

 スィグルが不満そうに眉をひそめたので、イルスは気がすすまないまま、スィグルの手を握った。

「最初が肝心だと思うから、言っておくけど…」

 握ったイルスの手を軽く降りながら、スィグルはにこやかに話し始めた。スィグルの手首を飾る銀の腕輪が、しゃらしゃらと涼しげに鳴る。

「僕を見た目で判断すると、痛い目にあうよ」

「見た目で判断されたくないなら、その格好を何とかした方がいいぞ」

 銀と宝石で飾りたてられたスィグルの黒髪をうんざりと眺めて、イルスは忠告した。

「親切だね、君は」

 笑い声をたてて、スィグルはイルスの手を強く握り返してきた。

 そのとたん、スィグルの腕輪に見えていたものが、銀色のヘビになって鎌首をもたげた。

「うわっ」

 手首の動脈に銀色の牙を突き刺されて、イルスは思わずスィグルの手を振り払った。そして、とっさに剣を抜こうとして、イルスは自分の手首に傷がないのに気付いた。

 「黒エルフの右手は、君がその腰に帯びている剣より危険だって、憶えておくと便利だよ、イルス。右手を握りあうのは、相手を信用してるって示すための儀式なんだ。

相手を認められないなら、差し出された手をとっちゃいけない」

 にっこりと笑って、スィグルは言った。イルスの前にかざしたスィグルの右手首には、元通りの銀の腕輪がはめられている。幻覚だったのだ。

 「この世界を案内しよう、イルス」

 右手を引っ込めると、スィグルはイルスの答えも聞かずに、扉に向かって歩き出した。


  * * * * * *



 「この学院の建物は、トルレッキオ山の中腹に建ってる。

南側から見るのと、北側から見るのとでは、建物の階数が違ってるんだ」

 学生寮のテラスから見おろせる建物を指さして、スィグルは説明した。イルスが部屋を割り当てられた建物は、敷地の中でも一番北、つまり山頂側に位置しており、学院を一望できた。

「だから、だいたいどの建物にも、地上階というのが決められている。その階を基準にして、地上2階とか、地下3階とかいうんだ。これも憶えておくと便利だよ、イルス」

 虫も殺さないような顔で、スィグルはにっこりと微笑んだ。

「あとは、階段に次ぐ階段に慣れることだね。でも、へたに歩き回って、道に迷うとひどいことになるよ。無計画な増改築を繰り返してるせいで、ずいぶん複雑な構造になってるからね。これだから、金髪の連中のやることは信用できないのさ」

 スィグルは尊大な態度で、学院の構造について批判した。たまたま通りかかった山エルフ族の学生たちが、ムッとした視線をスィグルに送ってきたが、それさえも、スィグルは嬉しそうに眺めている。悪趣味なヤツだと、イルスは内心でスィグルをののしった。

「ずいぶん立派な建物だと思うが?」

「イルス、君に僕たちの都を見せてやりたいね」

 首をふって、スィグルは嘆かわしそうに言う。

「うるわしのタンジール。砂漠の宝石だよ」

 黄昏に沈むトルレッキオ山を眺めおろしながら、スィグルは詩でも詠うようにつぶやく。

「自分の都が他よりよく思えるだけじゃないのか」

 もう二度と戻れないかもしれない都だ。

「イルスは思わないのかい。部族を愛するのは当然のことだよ」

 うっとりとスィグルは遠くを見つめる目をしている。この黒エルフは、その金色の魔法の目で、はるかに遠い砂漠の都を見通しているのかもしれない。イルスは、スィグルの芝居かがった口調がおかしくなって、無意識に微笑した。

「笑うのって難しいね。イルス。早く故郷に帰りたい。僕もそう思うよ」

 スィグルはすらすらと言って、イルスに微笑みかけた。

「僕らはいつまで、この忌ま忌ましい学院にいなきゃいけないんだと思う?」

 夕闇の迫る気色に目を戻して、スィグルは淡い微笑を残したまま、独り言のように言った。その問いの答えを知っている者など、いるはずもない。もし、いるとすれば、それは神聖神殿にいる大神官ぐらいのものだろう。四部族同盟が続く限り、イルスも、目の前にいる黒エルフの王子も、この学院で人質として生きていくしかないのだ。もしかしたら、一生をここで終えることになるのかもしれない。

 スィグルは、それを知っているように思えたので、イルスは何も答えなかった。先のない一生のことを確認しあったところで、虚しくなるだけだ。

 いつまでも黙っているイルスに気付いて、スィグルが振り向き、にやっと笑った。

「そんな、面白くなさそうな顔しないで、景色でも眺めるといいよ、イルス。ここからは、滅多に見られないようなものが見えるんだから」

 促されるままに、イルスは目を細めて、遠くの景色を見渡してみた。山陰に落ちようとする太陽は大きく赤く太り、落ち着きのない様子でゆらゆらと揺れている。金色に照らし出された山エルフ風の重厚な学棟は、針葉樹の森の緑に栄えて、美しかった。十数棟の建物を取り囲むように、背の高い学院の塀が続いている。外敵の侵入を阻み、学院の敷地を明らかにするために、その壁は延々と続いてた。気難しい山エルフ族がいかにも好みそうな、防御に徹底した要塞建築だ。

 はじめて見る異国の景色は、馴染みがなく、異様なもののようにも思えたが、イルスはその重厚な美しさを素直に感じていた。故郷の都市も、十分美しく華やかだと思っていたが、ここには降り積もる文化の香りがある。スィグルが悪し様に言う程に悪いものには思えない。それを認めることは、イルスには大した苦痛ではなかった。

 「ごらんよ、イルス。あれが僕らの世界の果てさ」

 学院の外周を囲む防壁を指差して、スィグルはまた、詠うような口調で言った。言葉だけを聞いていると、スィグルはなにやら楽しげだ。

「僕らがここから逃げられないように、ああやって取り囲んでる」

 灰色の石組みを遠目に睨み付けて、スィグルはうっすらと顔をしかめた。イルスはスィグルの横顔を見ていた。不敵に振る舞っている黒エルフ族の王子が、きゅうに、とても弱いものに思えた。

「この森と、陰気な学棟が、僕らの世界の全てだなんて、信じられるかい? まるで、たちの悪い冗談だ。この先ずっと、この小さな世界の中で一生を送るなんて、僕はいやだよ」

 静かな声で言い、スィグルは首をかしげてイルスを見上げてきた。もっともな話だった。

「…そうだな」

 しばらく答えを選びあぐねてから、イルスはやっとそれだけ呟いた。スィグルはなぜか、満足げに微笑した。

「いつか、この学院を出られたら、イルスにもタンジールを見せてあげるよ。それから、僕の持ってるオアシスも。砂漠で見る夕日は、ここのよりずっと綺麗だって知らないだろう。夕暮れにはいつも、タンジールの街に風が吹き抜けるんだ。乾いた砂の匂いと、甘い花の香りがする風だよ。僕のオアシスは、まだ小さい街だけど、そのうち、タンジールにも負けないような街に変えるのが、僕の数ある野望のうちのひとつなんだ。疫病も飢えもない、平和な街をつくるんだ。そこでは毎日、男も女も歌って暮らすんだよ。麦も焼かれないし、家畜も殺されないし、家族がさらわれたりしないんだ」

 イルスは、未だ一度も見たことのない砂漠のことを思い描いた。どこまでも砂ばかりが続くという、その光景は、海エルフの首都サウザスの浜辺に少しは似ているのかもしれない。海岸の白い砂が足裏を焼く心地よい痛みが、かすかに記憶の中に蘇ってくる。

「お前の街の名前は、なんていうんだ?」

「グラナダ」

 イルスが訪ねると、嬉しそうに、スィグルが答えた。小作りに整ったスィグルの美しい顔が、よりいっそう晴れやかに見えた。

「僕は、必ずあの街に帰るよ。必ず、生きたままで」

「綺麗な所なんだろうな」

「来れば解るよ。きっとイルスも気に入る。君のために、楽士を呼んで、毎日違う新しい歌を歌わせるよ」

 楽しげに言って、スィグルは黒エルフの言葉で短く歌を口ずさんだ。イルスは機嫌のいいスィグルを見て、我知らず微笑していた。

 「僕は、スィグル・レイラス・アンフィバロウだ。長いからスィグルでいいよ。いつまでここにいるのか分からないけど、当分の間、よろしく」

 スィグルはイルスの前に、右手を差し出した。その手首から、銀の腕輪が消えている。しゃらしゃらと音がしたのに気付いて、イルスはスィグルの左手を見た。腕輪はその手の中にあった。

 スィグルはイルスに見えるように左手を軽く振ってみせてから、ぽいっと惜しげもなく腕輪をトルレッキオ山に向かって投げ捨てた。銀色の輝きが吸い込まれるように、優雅な弧を描いて谷間に消えていく。

 呆気にとられているイルスに、スィグルは悪戯好きな子供のように笑いかけた。

「君のことはイルスでいいよね」

 いまさらのように確認するスィグルが急におかしくなって、イルスは思わず声をたてて笑った。そして、差し出されたスィグルの右手をとり、言った。

「イルス・フォルデス・マルドゥークだ。ゆっくりタンジールの話を聞かせてくれ、スィグル」

 スィグルはまた、にやりと笑ってイルスの手を握り返してきたが、もう銀の蛇は現れなかった。

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