第一幕
001 停戦会議
丸天井の荘厳な広間には、重苦しい沈黙がたれ込めていた。部屋の中央に置かれた豪華な長机は、会議のための席だったが、その場に席を与えられた男たちは、じっと沈黙するばかりだった。
磨きあげられた大理石の床には、永年使い込まれた建物ならではの、細かな傷が無数に残っている。そこに置かれた巨大な長机も、その回りに置かれた、ビロウド張りの重た気な椅子も、かつて名工の手によって作られて以来、創造主である職人が世を去った今にいたるまで、この広間で交わされる様々な密談や盟約の物言わぬ証人として、時を過ごしてきた調度品たちだ。
広間に集まった男たちは、それぞれ、ビロウド張りの椅子にゆったりと腰掛け、ある者は自信に満ちた表情で、ある者は高貴な無表情のまま、お互いの顔を見渡していた。彼らが身にまとった絹と亜麻の衣装は、富裕の証であり、額に巻いた金属の輪は、彼らがそれぞれの一族を率いる権力の座を占めていることを証すためのものだ。そして、彼らの細長く尖った耳が、肌の色や髪の色は違っていても、彼らの血統が、大陸で最も古い血統であると言われる、高慢なエルフ氏族に属することを示していた。
そもそも、同じ血筋に属していたはずのエルフ氏族は、今では大きく4つの部族に別れ、それぞれが、族長による絶対支配によって統率される、部族集団を営んでいた。大陸に古くから君臨する神聖神殿は、その4部族を正当な部族国家として認め、彼らの居住地によって、それぞれを、森エルフ族、山エルフ族、黒エルフ族、海エルフ族と名付けた。
新たな名を与えられてからの千年、同じ血から生まれた兄弟たちは、互いを喰らい合いながら強国へと成長していった。うちつづく戦いは、彼らを憎み合わせた。それがまた新たな戦いの火種となって、エルフ諸族の中に飛び火していくことのくり返しで、戦いの歴史には、果てがないように思われた。
ここ十数年の戦いに終止符が打たれたのは、すべての氏族の父であると言われる、神殿の一族の特別な計らいがあってのことだ。ある夜、無益な領土争いを止め、停戦会議の席につけとの命令書が、神殿から各部族長のもとに届けられた。金の箔押しで縁を飾られた豪奢な巻き紙には、白い翼を象った、神殿の紋章がいれられていた。地上で生きる者にとって、この紋章を帯びた命令書に逆らうことは、死と滅亡を意味していた。それは、エルフ諸族を率いる部族長にとっても同じことだ。
停戦会議が行われたのは、命令書が届けられたのち、20日後のことだった。4人の部族長たちは、山エルフ族の首都である、フラカッツァーに集まり、長き戦いの歴史を過去のものに変えるための会談を行うことになった。
だが、その席に座った時には、すでに、彼らが話し合うべき問題は、全て決着が付いていた。
「その書類に、おのおの血で署名を」
上座に席をとっている淡い金髪の男が、広間に集まった数人の男たちに言った。山エルフ族の族長、その人だった。その口調は穏やかだったが、選択の余地を与えない厳しさも持ち合わせている。
山の者は抜け目がない。薄笑いを浮かべ、若き海エルフ族の族長ヘンリックは、目の前に置かれた書類に視線を落とした。
それは停戦合意の旨が記された誓約書だ。海エルフ、森エルフ、山エルフ、黒エルフの四部族は、領境を現在の位置で凍結し、それぞれ矛を納めよという内容の文章が、そこに書かれている。長きに渡った民族闘争は、神聖神殿の白羽の紋章をあしらった、一枚の紙切れによって、終止符を打たれることになるのだ。
「お使い下さい」
背後で聞こえた声に気付き、ヘンリックが振り向くと、そこには金髪の子供が、抜き身の短刀を捧げ持っていた。宝石で飾られた儀式的な短刀は、血判を捺す時、自らの指を傷つけるためのものだ。
つい数日前までは、この山エルフの子供と同じ、白い顔金の髪は敵の代名詞だった。戦場では、山の者の戦斧が、数しれない部下達の頭蓋骨を叩き割ってきた。領土を守るため、あるいは野心のために、ヘンリックも数え切れないほどの白い頚を挙げてきたのだ。
ヘンリックが子供の顔を見つめると、向こうも、敵意のため強ばった顔で、ヘンリックをにらみ返してきた。
「お借りしよう」
「いいえ、この短刀はお納め下さい」
緊張のため早口になって、子供はヘンリックの言葉を遮った。
「停戦を祝って、大神官様が下賜なさった品です。
それぞれの族長様に、持ち帰っていただけるようにと、同じ短刀を四本…」
ヘンリックは、飾りたてられた短刀を受け取り、その柄に神殿の紋章が刻まれているのを確かめた。黄金の柄には大粒の真珠、透かし彫りのある刀身は銀でできている。美しい、見事な品だった。
「それでは頂戴しておこう」
ヘンリックが呟くように答えると、子供は頭を下げて引き下がった。
ヘンリックは、研ぎすまされた刃の上で指をすべらせた。するどい痛みとともに、血があふれだす。停戦の誓約書に署名をせねばなるまい。
金箔で装飾された誓約書の末尾には、山エルフ族領土内にある士官学校に、王族の男子を差し出せという条件がつけられていた。つまるところ、息子を一人、人質として差し出せというわけだ。
海エルフ族の族長ヘンリックは、誓約書に血文字で署名した。
戦いは終わったのだ。
* * * * * *
「戻ったら人質選びだな、マルドゥーク殿」
歌うような上機嫌の口調で呼び止められ、ヘンリックは立ち止まった。
停戦の手続きが完了し、広間に集まっていた面々は、交わす言葉もないままに立ち去ろうとしている。声がした方に視線をやると、広間を片付けるため立ち働いている山エルフの従僕たちの向こうに、黒ずくめの長衣(ジュラバ)をまとった一団がいた。黒エルフ族だ。
優雅な足どりで、黒エルフ族たちがヘンリックに近づいてきた。黒エルフ達は誰もが、象牙のような白い顔に、まっすぐな長い黒髪をしている。暗闇でも物が見えるという、彼らの猫のような瞳が、薄暗い通路に入ったとたん、すうっと丸く太る。
「久しぶりだ、ヘンリック」
美貌の族長が進み出て、ヘンリックに右手を差し出した。彼の白い指にも、つい今し方つけたばかりの傷が残っている。
3人の従僕を従えた黒エルフ族の族長リューズ・スィノニムは、一面、黒いオパールと銀糸の刺繍で装飾された、漆黒の絹の長衣(ジュラバ)で正装していた。いくらか疲れた表情をしているものの、悪巧みを隠したような毒のある微笑には、彼独特の危う気な魅力があった。族長に付き従う従僕たちの顔立ちは、どれも美しげで、見分けがつかないほどそっくりだ。多胎出産が珍しくないという黒エルフ族のことだ。おそらく、この従僕たちは3つ子なのだろう。派手好みのリューズは、美貌で知られる部族の中から、とりわけ見栄えのいい者を、装飾品代わりに連れてきたにちがいない。敵地に赴くというのに、屈強な護衛兵ではなく、華奢な少年兵を連れて歩くとは、彼らしい、酔狂なことだった。
「元気そうだな、リューズ。戦場でも、山の者どもの宮殿でも、お前は変わらないようだ」
黒エルフの族長リューズの手を握って、ヘンリックは微かに笑った。
「お前は戦場にいる時より若く見えるぞ、ヘンリック」
にやりと人の悪い笑みをこぼし、リューズはヘンリックの横に並んで歩き出した。
「停戦は大神官の差し金だ。山の者たちが神殿と繋がったのだろう」
金の柄の短刀を弄びながら、リューズは小声で話し掛けてくる。
「今、領境を凍結すれば、山エルフの領土は元の広さを凌ぐことになる。奴等には有利な成りゆきさ」
「ずいぶん物騒な顔をするな、リューズ。俺達はたった今、停戦に合意してきた所じゃなかったか?」
リューズと目を合わせないまま、ヘンリックは笑った。リューズがくつくつと咽を鳴らして笑うのが聞こえる。
「我が一族だけ出遅れて、三部族同盟軍に叩きつぶされるのは面白くないからな。
いかに旧来の友とはいえ、ヘンリック、お前もその時は俺の頚を叩き落とすのをためらうまい」
言葉もなく、ヘンリックはすぐ横を歩くリューズの顔を見た。かすかに片眉をあげて微笑しているリューズは、ヘンリックの心を透かし見ているような目をしていた。
廊下の終わりにある大扉が軋みながら開き、外の光を浴びたリューズの瞳が、針のように細くなる。
宝石で飾りたてられた美貌の黒エルフを眺めて、ヘンリックは重いため息をついた。華奢な頚だ。リューズの細頚など、一刀で打ち落とせる。しかし、長年の同盟者を、自らの手でほふるのは気が進まない。だが、敵と味方に分かれてしまえば、そんな世迷いごとは通用すまい。それが戦というものだ。
今までも、そのようにして多くの血が流れた。
リューズの金色の目が眩しいような錯覚をおぼえて、ヘンリックは目を細めた。
「ヘンリック、我が友よ、俺は戦いに飽きた。これ以上血を流し続けても虚しいばかりだ。これで最後にしたい」
不思議なほど無邪気な笑顔を見せ、リューズは短刀で傷つけた指先を舐めた。傷がふさがらないのか、リューズの指先には、まだ赤く血の滴があふれ出している。
「お前は血に飢えた男だと思っていた」
容赦なく敵の兵士を惨殺してきたリューズの戦果を思いだし、ヘンリックは正直に言った。
「俺が奴等を殺すのは、奴等が俺を殺そうとするからだ。まがまがしい、金髪の悪魔どもめ。奴等が、女を奪い、麦を焼き払うのをやめるというなら、俺は誰も殺さない」
リューズは憎しみを隠そうともしない口調で、言い放つ。
「リューズ、知っているか?
金髪の連中は、お前の事を『砂漠の黒い悪魔』と呼んでいるそうだ」
ヘンリックが皮肉めかして言うと、リューズは何も答えず、ただにっこりと笑って見せた。
「領土に戻ったら、息子の中から人質を選ばねばならないな。金髪の連中ばかりいる所へ遣るんだ。さぞかし俺の息子は目立つだろう」
長い戦いのせいで、部族間の対立は根が深い。停戦が整ったとはいえ、ついこの間までは敵地だった場所へ、息子を送り込まなければならないのだ。
「ヘンリック、お前の息子と俺の息子は、きっと気が合う。友達になってやってくれと、お前の息子に伝えて欲しい」
リューズは、戦の勝ち負けについて考えている時よりも、よほど不安そうに見えた。親馬鹿な友人が微笑ましく、ヘンリックは笑いながらリューズの背中を叩いた。
「がらにもなくメソメソするな。今夜は宴席を張るらしいじゃないか。久しぶりに飲み明かそう」
「お前に付き合って、酔いつぶれるのはごめんだな」
リューズは珍しく苦笑した。
「お前が弱すぎるんだ、リューズ。酔いつぶれた不意をつかれて、命をとられないように気をつけた方がいいな。何なら、俺の兵を護衛に貸すが?」
きらきらしい黒エルフの従僕をちらりと見遣って、ヘンリックは言った。こんな華奢な兵では、いざ族長の身を護らねばならない危機に直面しても、自分の体を盾にしてリューズをかばうのが精々ではないかと思えた。しかし、リューズは笑いながら首を横に振った。
「心配はいらない。3人とも魔法を使うから」
ヘンリックがもう一度振り返ると、黒エルフ族の3人の少年は、おそろしいほど無表情な目で、じっとヘンリックの目を見つめ返してきた。
「お前たち黒エルフは、油断できない連中だ」
ヘンリックは、独り言のように呟いた。
「なんなら一人進呈するぞ。なにかと役にたつ。3つ子だから、どれでも同じだが、選びたければ選んでもいい」
リューズが、薄く唇を開いて、白い歯をのぞかせた。
「いや…遠慮しておくさ。3人そろっているのが、お前の美学だろう」
ヘンリックは肩をすくめ、苦笑した。リューズは目を細め、ただ、にやりと笑っただけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます