最高の一杯

無才乙三

最高の一杯

 私がそれに出会ったのは、今からちょうど十年前の冬、二十四の時だった。旅の途中に立ち寄った新潟のとある町で出逢った最高の一杯について、本日この場を借りて語ろうと思う。


 凍える寒さの中、冷えた身体を少しでも暖めようと晩酌をしに民宿を出た私は、一軒の寂れた店の前に立ち、茫然と店の中を覗いていた。

 店内には店主らしき人間が椅子に座り、机に肘をついてボーッとテレビを見ている。無論、客はいない。

 数多くの街々を旅してきた私は、観光地から離れた田舎の居酒屋など大抵このようなものだということは知っていたので、特別何も思うことは無かった。周囲には点々と民家があるぐらいで、他に店も無かったので期待せずその店に入ることにした。


 席に着くと温かいおしぼりと共に手書きのお品書きを手渡された。おっさん臭いなぁと思いながらも顔に温かいおしぼりを押し当て、はーっと冷たい息を吐いてから、達筆に書かれたそのお品書きに目を通していく。


 まずは、つまみだ。烏賊の沖漬け、子持ちししゃも、鯨の刺身、そしてモツ煮込み。そして肝心の酒は……あったあった。せっかくの新潟旅行だ、ビールやハイボールでは勿体無い。新潟の地酒を燗で行くのが良いだろう。通だ。

 などと偉そうに言ったが、二十四歳というと酒を覚え、日本酒にようやく挑戦し始めた頃。当時、あまり有名ではなかった山口県の銘酒、獺祭を飲み、こんな美味いものが世にあるのかと衝撃を受けたぐらいで、他の日本酒の事など全く知らない若造だった。


 メニューには八海山から始まり、越乃寒梅や越乃景虎など、越乃……の名を冠した酒が並んでいる。私が悩みに悩んでいると、ふとメニューに影が差した。この店の冴えない店主である。早く頼めと言わんばかりに店主が勧めてきたのは、越乃の名を冠してはいるが、見聞きした事のない名の酒だった。私があまり金を持っていないように見えたのかもしれない。それは、この店一番の安酒であった。

 私は心の中で笑った。こんな安酒、どうせ大したことの無い不味い酒だろう。だがせっかく勧めてくれた酒だから仕方なく飲んでやろうと店主に勧められるがまま、その酒をおすすめだという冷やで頼む。この寒い中、冷やで飲むのかと多少の憤りを感じたものの、これも経験だろうと私は自分に言い聞かせた。


 そうして私の前に置かれた一升瓶と、升とグラス。

 グラスに注がれていく液体はグラスを越え、升のきわで静止する。表面張力で止まったそれを見ながらグラスに口を近付けた。音を立て、口に入ったその酒は、舌で味を感じ、そして食道へと流れる。身体を暖める為に飲みに来た事を忘れ、私は喉を鳴らし、束の間の贅沢を味わった。


     ◇


 私のお気に入りの日本酒は、山形県の十四代、山口県の獺祭だっさい、そして二〇一三年に終売してしまった東京都の生太郎なまたろう。そして十年前、新潟のとある街で出会い、三つの中に仲間入りを果たしたのが、その酒であった。

 価格はバラバラだが、どの酒も米の香り豊かでフルーティー。芳醇でまろやか。そんな言葉がピッタリのサラッとした口当たりをした飲みやすい酒ばかりである。


 それを初めて口にした十年前のあの時は、本当に衝撃を受けた。十四代が美味いのは当然だが、安価で美味い酒も存在するのだと初めて知った。


 人との出逢いも一期一会だが、酒との出逢いも一期一会であるのだな、とその時ほど強く感じた事はない。


 旅の途中、醸造蔵である越後桜酒造の事を調べて知ったのだが、過去に何度も酒の鑑評会かんぴょうかいで金賞や優秀賞を取っている信頼できる有名蔵である事が分かった。そんな有名で信頼出来る蔵だからこそ、安価な銘柄でも信用出来るのである。


 一つ、日本酒以外のもので喩えるとしよう。

 腕時計にセイコーというメーカーがある。家電量販店などで大々的に宣伝しているのは、グランドセイコーという庶民ではまず手を出せない金額の腕時計なのだが、数万円程度の安価なモデルも実は存在する。

 安いから性能が落ちるのかと思いきや、そんな事はない。安くてもしっかりとした作りで何十年も保つ。実際に今、私の手元には三十年近く前のセイコーの時計があるが、変わらず正確な時間を示してくれている。まさに日本のわざである。


 少し話が脱線したが、日本人の作るものに関しては腕時計にしても、日本酒にしても、安価であっても「安かろう悪かろう」ではない。まさに日本人らしさ、日本の業・心そのものなのである。


 さて、その日本酒の話に戻るが、新潟から帰った後、その酒を購入しようと様々な酒屋を巡ったのだが、私が当時知っていた限りの酒屋を探し歩いたが、どこにも売っていなかった。良い酒であっても、安い酒であっても手に入れる事が叶わなければ意味がない。しかし、インターネットで調べるとすぐに購入する事が出来た。便利な世の中になったものである。


 ようやく見つけ、再び手に入れたその日本酒の名は、越乃こしの日本桜にほんざくら。あの寂れた店で出逢い、舌鼓を打ったその銘酒は、今では私の店のセラーに並んでいる。

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