第22話

 江島屋本社を出た修一は、自宅ではなく、古い友人のいる教会を訪れた。

 ステンドグラスから差し込む夕日に、建物の中は温かく静まり返っていた。二人は出口に一番近いベンチに腰を下ろした。

 「タイミング、悪かったんだって?」

 のんきな潤の声に、修一は苦笑いを浮かべた。

 「もう少し早くわかってれば、会社、手放さなくて済んだんでしょ?」

 「まぁな」

 潤は気落ちしているようには見えない友人が少し意外だった。

 「もっと落ち込んでるかと思ったよ」

 「そうだな。俺も意外だ」

 強がりではなさそうだった。修一の横顔から、潤は祭壇へ視線を移した。

 「告発したの、一番若い秘書だったみただね」

 「どうして、お前がそんなこと知ってるんだ?」

 驚いた修一の顔に潤は小さく笑った。

 「遠藤さん、僕、知り合いだったんだ。養護施設に寄付してくれてた、社長さんね、あの人だったんだよ」

 「ほんとか?」

 うん、と頷いた潤。どうしてもっと早く言わなかったのかと詰め寄りたい気もしたが、潤には何の責任もない。修一は言葉の代わりにため息をついた。

 「何となくだけどさ、あの人は、こうなることをどこかで望んでたような気がするんだ」

 「どうして?」

 修一の問いに潤は首を横に振った。当事者は知らない方がいい事実もある。悪い人間だと言われても、これからも自分は口を噤み続けるだろう。潤は隆生の言葉を思い出して少しだけ笑った。

 「っていうかさ、今日、こんなとこにいていいの?」

 友人の顔を覗き込みながら潤は意地悪く口元を歪めた。

 「いい加減、誰が一番大切か、自分でも気づいたんでしょ?」

 ピンとこないのか、首を傾げる修一。面倒くさそうに潤はそう言った。

 「意地になってても、僕、落ちないし。絶対。少なくとも今生では」

 「そこまで言うか?」

 「言うね。むしろ、それが修一の為。神の思し召しです」

 「まじか」

 珍しくため息をついた修一に潤は不思議そうな顔をした。

 「もしかして、はっきり振られるの待ってたの?」

 「何だそれ?いや、でも、何かふっ切れたな、今」

 「そう。なんかごめんね。とっくに気付いてると思ってたよ」

 あはは、と明るく笑った潤に修一も苦く笑う。

 「お前、ほんと、デリカシーないよな。それで迷える子羊救えるのか?」

 「どっちかっていうと、修一は悩める狼でしょ?」

 「まぁ、そうかもな」

 ほら、と言いながら潤が笑う。

 長い曖昧な片想いが修一の中で完全に終わった瞬間だった。千秋に対するのとは違う、けれど確かに特別な思いを潤には抱いていた。しかし、それも今日で手を離れた。

 「とりあえず、今日はもう帰りなよ」

 「そうだな。またな」

 「うん。またね」

 席を立った修一を見送りながら、潤はいつも通り手を振った。ドアを開けて出ていく後ろ姿がどことなく清々しい。

 自分はいつも人を見送ってばかりいるなと潤は不意に思った。



 バスタブの中で居心地の悪そうな千秋を背後から抱き寄せ、修一はその首筋に唇を押し当てた。

 「社長」

 微かに震えた千秋。その唇に修一は指先を押し当てた。

 「俺はもう社長じゃない」

 肩越しに振り向かせた千秋の唇に修一は唇を重ねた。濡れた手で千秋の髪を後ろに撫でつける。

 「千秋?」

 顔を寄せたまま顔をそむけた千秋の額に修一が軽くキスをする。どうした、と柔らかな声に囁かれ千秋はさらに俯いた。

 「今さら、どう接していいのか、わからないんです」

 「本当に今さらだな」

 修一は笑って抱き合うように千秋を膝に乗せる。

 「あ……」

 千秋の濡れた胸に唇を寄せると、千秋は震えて修一の肩に手をかけた。

 「千秋?」

 俯いて唇を噛む千秋の耳は真っ赤になっていた。どうした、と修一が頬に手のひらで触れる。

 「何だか、恥ずかしいんです」

 「こうしてることがか?」

 「それもそうですが」

 修一は千秋を抱き寄せ、なら、とゆっくり囁いた。

 「恋人になったことが?」

 千秋は修一の頭を抱いて今度は小さく頷いた。

 本の一時間前のことだ。修一が突然家に押しかけて来た。いろいろなことがあったのにいつになく晴れやかな顔をして、玄関で出迎えた自分を迷わず抱きしめた。

 「社長?」

 戸惑う千秋の肩を掴んで、修一はその目を真っ直ぐに見詰めた。

 「全部、片付けてきた。曖昧にしてたことも、全部だ」

 そうですか、と言うのも悪い気がして千秋は黙って修一の言葉を待った。修一は何かを言いかけ、それから笑った。

 「今さら過ぎて、何を言えばいいのかわからないんだ。ただ、これからも、お前に会いたい。できれば、一緒に生きていきたいとも思ってる」

 「え……」

 戸惑う千秋に修一はさらに続けた。勢いで気恥しさをごまかしたいのだということが、その時には千秋にも伝わった。

 「これからお前は、俺の部下でも、秘書でもなくなるだろ?だったら、恋人になってくれ」

 驚きと嬉しさで、千秋には返す言葉が見つからなかった。修一は苦く笑って千秋の頬に手をかけた。

 「答えろよ」

 千秋は抱き寄せられながら、修一の肩にあごを乗せ、目を細めた。

 「……よろしく、お願いします」

 「仕事か」

 修一はそう言って笑い、さらに強く千秋を抱きしめた。

 そして今もきつく自分を抱きしめながら頬に唇を押し当ててくる。

 「今さらだろ?してることは何も変わらない」

 修一は楽しそうに言いながら、千秋の足の付け根に手を滑らせた。

 「あっ……」

 快楽に耐えるように震える体。修一は千秋の身体を抱き上げてバスタブの縁に座らせた。

 「社長?」

 「もう社長じゃないって言ってるだろ?」

 千秋の片足をバスタブに乗せ、修一はその内腿に唇を押しあてた。

 「どうして欲しい?」

 上目づかいに自分を見つめる修一に千秋は長いため息をついた。

 悪戯をしかけた少年のような眼差しが千秋の答えを期待して輝く。千秋は修一の髪に指先でそっと触れた。

 「触って下さい」

 震えるようにかすれた声を修一は目を細めて聞いた。

 「敬語もやめろよ」

 千秋の手を取って、修一は指先にキスをした。千秋は驚いたように修一を見つめた。

 「ちゃんと言えるまでずっとこのままだ」

 修一は片手で腿の内側を撫で、唇で優しく千秋の指先を食む。見つめ合ったまま、千秋は唇を震わせた。そして

 「修一……触って……」

 かすれた声でやっとそう告げた。

 「やば……いいな、それ」

 一瞬驚いた顔で千秋を見上げた修一は、次の瞬間千秋を抱き寄せた。バスタブから湯が飛び散った。



 一週間ほどの自称充電期間を終えると、修一は早々にネット関連の事業を始めた。自らプログラムを組み、サービスやアプリを開発し、営業活動自体も楽しんでいるようだった。

 ブランド物のスーツばかり着ていた時とは別人のように毎日ラフなジーンズ姿で仕事にいそしんでいる。

 「楽しそうですね」

 長年の習慣か、なかなか敬語が抜けない千秋だったが、社長と呼ばなくなっただけでも大きな進歩だと修一は思っていた。

 「服とか、まじ、どうでもいいって最近よく思う。俺、よくあんな興味ないこと何年もやってたよな」

 そこまで言わなくても、と千秋は思ったが生き生きとしている修一を見ていると、これでよかったと思えるようにはなっていた。

 「今日、何時頃帰るんだ?」

 「十九時過ぎには帰れると思います」

 コーヒーを淹れながら、修一は千秋を振り返り、わかったと頷いた。

 「飯、何がいい?」

 「何でも」

 最近の修一は料理にも目覚めたようだった。フリーターにはとても住めないと、以前の高級マンションを引き払い、強引に千秋の部屋に押しかけて以来、実験とも呼べそうな試行錯誤の段階を経て、最近は店でももてそうな料理を作れるまでになった。

 「コーヒー、淹れたぞ」

 「ありがとう」

 修一の淹れるコーヒーは、また格別に旨い。料理の才能といい、SEとしての技術といい、元々器用なのだろう。

 コーヒーを一口飲んで、美味しいと微笑んだ千秋に修一は得意げに笑った。

 「俺って完璧な恋人だろ?」

 「そうですね」

 子どものように無邪気で野心的な恋人の笑顔に千秋はそっと手を伸ばした。それまで自分からは何も求めたことがなかったのに、気付けば自分から恋人に触れようとしている。

 行ってきます、と修一の頬に軽くキスをした千秋を修一が抱きしめる。

 強引に唇を重ねてきた修一の胸を千秋は押し返した。

 「修一」

 放っておくとどこまでもエスカレートしていきそうな恋人を千秋は短く諌める。修一は落ち込むどころか楽しそうに笑った。

 「お前の、修一、って言い方、社長、って言ってた時と同じ響きだよな。うける」

 「社長、の方が落ち着くならそうしますよ」

 微かに引きつった千秋の眉に、いや、と修一は首を振り、千秋を強く抱きしめ、腕を離した。

 「このままでいい」

 千秋は呆れたように微笑んでカバンを手に部屋を出ていった。

 一人になると修一は、完璧な恋人がいつの間にか用意してくれた自分用のマグカップを手に、PCの前に座った。


〈完〉

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完璧な恋人 -Lies,Lise- 西條寺 サイ @SaibySai

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