第21話
日曜の礼拝の後、誰も残っていないはずの教会に、潤は人影を見つけ驚いた。
「遠藤さん……」
「やっとここに来てみる気になったんだ」
隆生はいつも通り穏やかだった。そして、いつになく静かな気配を漂わせている。
どうしましたと問いかけ、潤は口をつぐんだ。隆生は祭壇に目を細めながら、ここはと呟いた。
「静かだね。僕が住んでるのとは、違う世界みたいだ」
そうして耳を澄ませるように目を閉じた隆生を、潤は黙って見守った。
「祈りっていうのは、何かを手に入れる為にするものだよね」
「え?」
唐突に隆生に見つめられ潤は戸惑ったが、隆生はまた祭壇を見つめ、ゆっくりとベンチに腰をかけた。
「世界平和、誰かの幸せ、安全、健康、愛、あとは、許しもそうなのかな。祈るのは、何かが欲しいからだ」
隆生には、そう見えるのだろう。そして、それも決して間違いとは言えない。潤は隆生の傍まで歩み寄り、黙って穏やかなその顔を見守った。
「人は普通、何かを手に入れることで満たされる」
「どういう意味ですか?」
潤の問いには答えず隆生は少しだけ笑った。
「僕は、自分を満たす為だけに手に入れてきた。だから何でも欲しかった。自分の力で勝ち取れるなら、物でも、人でも、手当たりしだいね」
「それが、幸せだったんですか?」
「幸せか。考えたこともなかったな。ただ、手に入れたもので自分の空虚さが埋まっていくような感じがしてた。そうせずにはいられなかったんだと思うよ。今となっては、だけどね」
それを善とも悪とも潤は感じなかった。少なくとも、幸せになりたくて、隆生は、何かを求めていたわけではなかった。あれほど貪欲に、他を追い落としてまで求めたものも、結局、隆生を幸せにはしなかったし、満たしきることもなかったのだろう。
ああ、と不意に隆生が顔を上げた。夢から覚めたような、先程より生き生きとした眼差しは何を見ているのか。
「一つだけ、違ったのかも知れない」
「一つだけ?」
「ああ」
潤の方へ少しだけ顔を向けて隆生は微かに笑ったようだった。
「千秋だ」
思わぬ人物の名に潤は驚いて隆生を見返した。
「知ってるんだろ?深澤千秋だ」
「ええ」
隆生は再び遠くに視線を向けた。その穏やかな横顔を潤は黙って見守ることにした。
「初めは自分を満たす為だった。勉強しか取りえがないような学生が集まるつまらない大学だったから。飛びぬけて綺麗なのに、頭がよくてチェロが上手いなんて、千秋は珍しい子だった。話してみて、驚いたよ。見た目と全然違う。純粋で素直で、何にでも一生懸命で……。いつの間にか、僕の方が千秋を満たせる存在になりたいと思うようになってた。千秋の望む物は何でも与えたかった」
そこまで一気に話すと、隆生は潤に顔を向け
「千秋は何を望んだと思う?」
首を傾げるように潤を見つめた。
わからない、そういうように潤は首を横に振った。隆生は満足そうに微笑んでまた前を向いた。
「完璧な僕だよ」
「どういう意味です?」
「そのままだよ。千秋にとって僕は神みたいな存在だった。僕にできないことは何もない、僕は何でも持ってて、何でも思い通りにできる。千秋はたぶんそう信じてた」
奢りも虚勢もない。隆生は淡々と言葉を続けた。
「僕はあの頃、千秋の完璧な恋人だった。永遠にね、そのままでいたかったんだ。だけど、僕には家族がいた。大企業の幹部の娘と若い頃に結婚したんだ。その時は勿論自分の為にそうした。手っ取り早く金と信用が手に入るからさ。だけど意外と面倒なことも多くてね。千秋と出会った頃、あの時は、本当はまだ持て余してた」
「千秋さんは、知らなかったってことですか?」
潤の問いに隆生はそうと短く応じた。
「二つの心が、確かに僕の中にあった。何もかも打ち明けて、誰にも見せなかった自分を千秋には理解し尽くされたいと望んでた。それで、千秋の中の自分が完璧な存在じゃなくなるんだとしても、飽きられていつか千秋を失うんだとしても、いいと思えた。けど、結局僕は、千秋には理解できない完璧な存在のまま、千秋の中に残る方を選んだ」
「それが、千秋さんの為にもなると思って?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「千秋はずっと、僕を好きでいるだろうと思ってた。だから僕が望みさえすればいつでも戻れると思ってたし、万が一そうじゃないなら、自分の力でそうすればいい。僕のロジックからいくと、それだけのことだ」
「強引ですね」
潤が少しだけ笑った。憐れみも呆れもない、静かな微笑みだった。
「愛なき世界の根源は、僕にとっては力だからね」
「そんな話も、いつかしましたね」
潤の言葉にどこか嬉しそうに隆生は頷き、ふと腕時計を見た。
「人の心は、自分自身さえ裏切る。殺したいほど憎い相手に、同じくらい強く認められたいと願ったり、ただ大切にしたい相手に恐れられることを望んだり。力では制御しきれない、不思議なものだ」
ゆっくりと立ち上がった隆生につられるように潤は背筋を伸ばした。
「そろそろ時間だ」
「次は、何を手に入れに行くんですか?」
潤の言葉に隆生は口元だけで笑ったようだった。
「もう、何も欲しくなくなった」
隆生は、潤の傍らをすり抜け扉の方へ向ってゆっくりと足を進める。
「それに、もう何も必要じゃない。何もいらない。今は、そんな気がする」
それは、彼なりの後悔であり、懺悔なのかも知れない。
「もう……」
遠ざかる背中を呼び止めるように、潤は声を発していた。
「貴方自身を許してあげても、いいんじゃないですか?」
「神父様は、僕を許してくれますか?」
静かに振り向いて隆生は潤を見つめた。穏やかな表情だった。覚悟を決めた人間の、張りつめて、安堵した、これ以上ない程純度の高い目。
黙って、ゆっくりと頷いた潤。
貴方に許してもらえるなら、隆生はかすれた声で呟いた。
「懺悔の時間も、そう悪い物じゃなかった」
隆生は微笑みながら潤に背を向ける。
「さようなら」
同じ言葉を、潤は繰り返す。扉に手をかけた人にその声は聞こえたか、聞こえなかったか。隆生はそれ以上何も言わず教会を出ていった。
江島屋本社にある社長室で、号外を読み返した二人はほぼ同時に顔を上げた。
「こんな終わり方があるとはね……」
「私もそう思っていたところです」
江島と修一は顔を見合わせた。半笑いのような、けれどやるせない悔しさのような苦さもある。
「お話はされたんですか?」
「いや。弟は私の上をいく人間だったから、相談されるなんてこともなかったしね。それに、急なことだったので、私も驚いてますよ」
「そうですか」
クレバースグループ代表遠藤隆生社長逮捕。臨時速報が流れるほどのセンセーショナルなニュースだった。容疑は粉飾決算、脱税にインサイダー。
「本当のところはわかりませんが、私には意外でね」
「同感です」
「あいつがそんなしょうもない犯罪で自分の築いてきたものを壊すなんて、考えられない気がして」
ええ、修一は呟くように頷いた。
「運がなかった、そう言った人間がいたんです。ただ、私から言わせれば、隆生になかったのは運ではなくて、人徳だった気がする。カリスマ性と人間の徳っていうのは、全然別ものだと私は思ってます」
同じ経営者としてだからわかる。カリスマは生まれながらの才能にも等しい。人徳は、自ら育てることもできる、いわば努力の部分だった。隆生は、努力を怠ったのだろうか。恐れられることはあっても、愛されることはない、そんな孤独な経営者になることを、いつの間にか選んでいたのだろうか。
穏やかそうに見えた微笑みの中で、異質だった強い目の光。柔らかな声と口調で語られた大胆で残酷な計画。優雅に、けれど迷いなく刃を振り下ろす、遠藤隆生はそんな男に思えた。
ここからは、と遠藤が号外をテーブルに置きながら修一を見た。
「少し、個人的な話をしてもいいでしょうか。隆生の、兄として」
その言葉を修一は意外な思いで聞いたが、迷わず頷いた。それは江島が誰にも語ることのなかった、弟への思いだったのかもしれない。
ありがとう、そう告げてから江島はゆっくりと話し始めた。
「私と隆生は、母親が違う」
「聞いたことはあります」
江島は静かに頷いた。
「初めて私に隆生を紹介した時、父が何と言ったか、わかりますか?」
「いえ」
伏し目がちな江島の口元には悲しげな微笑が漂っている。修一は黙って江島が口を開くのを待った。
「血の繋がりはあるが、兄弟だと思わなくていい。隆生の前で、親父はそう言った」
修一の目を真っ直ぐに見詰めて江島は苦く笑った。
「隆生の母親は、父から慰謝料を取れるだけ取った後、あいつを放りだしたそうです。家に来た時、隆生はまだ小学生だった。私も母も扱いに困ったのを覚えてる……。連れてきた父は徹底的にあいつを差別した。誕生日もクリスマスも隆生には何もやらなくて。お前は政彦とは違う、何も与えられると思うな、お前は自分で勝ち取らなければ何も手に入れられない人間だ。いつもそう言ってた」
「よく言えば、お父様の望まれた通りの人間になったわけですね……」
修一の言葉に、江島は再び目を伏せた。
「そうかも、知れないですね……。私は親父が怖かった。母も、隆生もそうだったと思う。でも、隆生はよく努力した。父に認められたかったんでしょう。勉強も運動も、年こそ離れてましたが、きっと私よりよくできた。親父も本当はそれに気づいてた。私へのプレッシャーも年々きつくなりましたよ。どうして同じ子どもなのに、自分が認めていない子の方ができがいいのか、自分の判断は間違ってたのか。親父は自分の非を何一つ認めない人だったから……結局、隆生のことも死ぬまで認めなかった」
「江島さんも十分素晴らしい経営者ですよ。江島屋の社長にふさわしい方だと、俺は思います」
「隆生が跡を継いでいれば、もっと成長もしただろうと思いますよ」
それが素直な讃辞であることを江島も理解はしていた。しかし修一の言葉を素直に受け止められないのは、自分の能力への不安と弟への後ろめたさからだということにも気づいていた。
「私は兄として、あいつに何もしてやれなかった。あいつは俺とは違う、強い人間だってそう思い込んでた。いや……そうならいいと、思っていただけなのかも知れない」
悔恨なのか。江島は苦い表情のまま微かに口元だけで笑って見せた。
「いずれにせよ、もう済んだことですね……。これからはお互い、前を見て進みましょう」
「ええ」
江島から差し出された手を修一も力強く取った。様々な物を失いはしたが、それはどれも取り返せるものだと思える。失いたくない物はこの手に残った。恥じることも悔いることもない、修一にはそう思えた。
「一つ、提案したいことがあるんですが」
「何でしょうか?」
「千秋に、鷹取さんの後を任せたいと思っています」
「千秋を、社長に、ということですか?」
驚く修一に、江島は大きく頷いた。
「突然の買収で、従業員も動揺してるはずです。その上、鷹取さんが退くことになれば不安にもなる。千秋は鷹取さんのやり方をよくわかっているだろうし、他の役員からの信頼も厚い。うちから担当役員を入れることにはなるが、いったん、千秋に任せてみるのはどうですか?勿論、うちも全力でサポートする」
「まさか、そんなことを提案されるなんて、思ってもなかったですよ……私は勿論構いません。江島さんのご判断に従います。あいつは元々残ることになっていましたから、本人が納得するのであればぜひそうして下さい」
「わかりました」
修一にとってそれは思いもよらない提案だった。確かに自分の会社が会ったこともない親会社の役員に引き継がれることも、その新社長の下で千秋があの会社に留まることにも違和感があった。しかしここまで江島に世話になりながら、私情から出たわがままを言うわけにもいかなかった。これまで自分が作り上げてきた物を、今度は千秋が育てていく。考えたことさえなかったが、修一にとってもその申し出は願ってもないものだった。
さすがに千秋が頼りにしていた人物だ。修一は江島に真っ直ぐ向き直り、深く頭を下げた。
「後のことは、どうかよろしくお願いします」
「いや、こちらこそ。鷹取さんとは長い付き合いになりそうだ」
顔を上げた修一に、江島はそう言った。
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