第20話

 この店には、昔よく来たと、変わらない店内を見渡しながら千秋は席に着いた。ジャズの流れる広くはない店内に、客の姿はまだ多くなかった。

 本当にこれでいいのか、自分には判断ができない。

 注文をききに来たバーテンに、待ち合わせの相手が来てからでいいと告げ、時計に目を落とす。時間には遅れることのない相手だからもうすぐ来るだろう。

 その時千秋の耳は、聞き覚えのある曲を捉えた。

 Doubt。その曲名を不意に思い出す。あれも隆生が教えてくれたことだった。この店を教えてくれたのも。何の因果か、相手は待ち合わせにこの店選んだ。何度か一緒に訪れたこともあるから、それを思ってのことだというのはわかったが、やはり少しだけ苦しかった。

 「doubtの語源、知ってる?」

 「ダウト?さっきの曲ですか?」

 先程まで聞いていたジャズの曲名の話かと千秋は隆生を見上げた。

 「いや、語源そのものだよ」

 「疑わしい、っていう意味ですよね?」

 「そうだね」

 手の中で軽くグラスを揺らしながら隆生は頷いた。

 「もともとダウトは、二つのものの間で揺れ動く、っていう意味のラテン語が元になってるんだよ」

 「へぇ……そうなんですね」

 「自分の中の二つの心が、ばらばらにひかれていく。その不安定で、自分にも把握できないような状態を他人が見たら、きっと怪しげに見えるんだろうね」

 どうしてそんな話をするのだろう。そんな千秋の思いを見透かしたように隆生は優しく笑った。

 「不思議そうな顔をしてる」

 「すみません」

 「謝らなくていい。千秋だって、今の大学に進むか、音大に行くか、決める時は悩んだだろ?自分が一人じゃないみたいにいろんな考えも浮かんだはずだと思うけど」

 「そうですね。あの時は、すごく悩みましたけど……」

 隆生は何を言おうとしているのか。

 「今はまだいい」

 「え?」

 穏やかな声で、隆生は囁くように言った。

 「今はまだ、わからなくてもいいんだよ。だけど、いつか千秋にも、自分の心が二つに割れるそんな時がくる。その時に千秋が何を選ぶのか、僕はそれを楽しみにしてる」

 「……」

 あの時の隆生の言葉を、千秋はありありと思い出した。感情と理性なのか、欲求と思考なのか、それは自分にとっても疑わしい自分の二つの気持ちだった。どちらも正しいはずなのに、決して相容れない。

 隆生はこんな日が来るとわかっていたのだろうか。

 「待たせたか?」

 「いえ……今日はありがとうございます」

 時間ぴったりに姿を現したのは、江島政彦だった。

 千秋は江島とともに席に着きながらバーテンを目で呼んだ。

 「お前から呼び出されるなんて思ってなかったよ」

 「お忙しいところ申し訳ありません」

 「いや、謝ることなんかない。久しぶりに会えてよかった、そう言いたいところだが……」

 乾杯を済ませた後、江島はじっと千秋を見つめた。

 「何か、あったんだろ?」

 この人には隠し事ができない、厳しくも優しい父のような存在として自分は江島を慕っていると千秋は認識していた。

 「隆生と、また会ってるのか?」

 江島の思わぬ問いに千秋は驚いて顔を上げた。

 「どうして」

 声にならないほどの微かな声に、江島は自分の予想が正しいという確信を持った。

 「どうしてか。俺の方が聞きたいな。大方、またあいつの方から強引に近づいてきたんだろが……」

 「……」

 「図星か?」

 無言で頷いた千秋の横顔に江島はため息をついた。

 「あいつも、何を考えてるんだか」

 江島は手にしたグラスに目を落とした。しばらく千秋が口を開くのを待っていた江島だが、それが望めないことを察して、それで、と先を促した。

 「俺に、どうして欲しいんだ?まさか、近づくなと電話して欲しい、なんてことじゃないんだろ?」

 「ええ」

 千秋はグラスをテーブルに置くと、顔を上げて真っ直ぐに江島を見つめた。

 「鷹取に、会って頂けないでしょうか」

 「鷹取?鷹取社長か?」

 思わぬ人物の名に江島は驚いて聞き返した。千秋は迷わず、はいと頷いた。

 「これ以上、私の口からはお話しできない内容なんです。直接、お会い頂けないでしょうか」

 千秋の必死な訴えに江島はまさか、という思いを抱き始めていた。千秋の悩みと、鷹取社長の悩みの種は恐らく同じ、隆生のことだろう。しかし、千秋が自分に直接言えないような話題となると、かなり規模の大きな話になると察しはつく。

 思いつめた千秋の眼差しに、もう、と言いかけ江島はやっとの思いで踏みとどまった。

 「江島さん?」

 千秋が不安げに自分を見つめている。つくづく損な役回りだった。

 もう、これ以上、一人で傷つくことも苦しむこともない。隆生のことも、鷹取のことも忘れて、自分の元に戻ってくればいい。

 そう言えないのは、千秋の中で自分が、信頼に足る相手だということを理解しているからだった。それ以下でも、それ以上でもない。かつての上司として、古くからの知人として、恐らくは常識的な人間として、千秋は自分を信頼している。その信頼を踏みにじって残るものも、得られるものもきっとない。

 千秋、と江島が呼んだ。

 「お前は、それでいいのか?お前は、納得してるのか?」

 それは、と千秋の瞳が揺れる。ガラス越しの目に、かつて見せた彼の弱さが見え隠れする。そうだ、人なんて、そう簡単に変われるものじゃない。

 しかし、どこかで江島が感じた安堵を、千秋がゆっくりと壊した。

 「今は、ただ、鷹取を、信じています」

 迷いのない声に江島は目を見張る。

 「お前……」

 それ以上、何が言いたかったのかは江島にもわからなかった。ただ微かな恥じらいと、揺るぎない誇らしさを千秋の微笑に見つけた時、自分がつまらない策を弄するのは無駄でしかないということを江島は悟った。

 「……お前が、そこまで見込んだ男なら、明日にでもご足労頂こうか」

 「ありがとうございます」

 江島の言葉にはっとしたように千秋は居住まいを正し、深く頭を下げた。

 自分の言葉通り、千秋にそこまで言わせるのがどんな若造なのか、一度話をしてみるのもいい。今まで感じたことのない小さく、けれど確かな喪失感を抱えたまま、江島はグラスを手に取った。



 隆生なりの冗談なのかと、初めは江島でさえ思った。

 しかし修一と後ろに控えた千秋の表情、そしてそれまでの経緯を聞くにつれ、買収話が単なるブラフではないことが理解できた。

 「千秋、少し、鷹取さんと二人で話がしたいんだ」

 「かしこまりました」

 千秋は目礼すると静かに部屋を出ていった。

 「事情はよくわかりましたが、正直、複雑な気持ちです」

 「複雑、とおっしゃると?」

 江島はゆっくりと椅子から立ち上がると窓辺に立ってブラインドを少し上げた。

 「内情を知らなければ、これはただの敵対的買収です。御社を救うメリットが、本当にうちのあるかどうか。それに私自身、弟のように、カリスマのある経営者ではないのでね。なかなか役員や株主を説得するのに骨が折れそうだと思っています」

 「江島さんが引き受けて下さるなら、私は経営からも手を引きます。退職金もいりません。社員と、それから深澤を、江島さんに託せるならそれでいい」

 「本気でそんなことを?」

 「ええ。私自身の面倒までみて頂こうとは、さすがに思っていません。江島さんは、私にとっても尊敬する経営者の一人です。お任せできるなら、安心だ」

 「それで、鷹取さんはどうするんですか?」

 私ですか?修一は江島の顔を見上げながら少しだけ笑った。

 「デイトレーダーにでもなりますよ」

 何か言いかけた江島に、冗談です、と告げて修一も立ち上がる。

 「私のことはご心配なく。やることもやりたいこともまだたくさんあります。今の私があるのも、あの会社があるのも、深澤の働きが大きかった。借りを返して残る物がないなら、それが私の実力ということでしょう」

 「本気ですか?」

 「ええ。まさかこんな形で手放すことになるとは、さすがに思ってもいませんでしたが。上場すると決めた時にもっと、すべきことがありましたね。今思えば、浮かれてたのかもしれない。反省し始めたらきりがないですよ。情けないですが」

 甘かったですね、私は。負け惜しみでもないのか、修一の表情は穏やかだった。

 「隆生が、千秋にしたことはご存知ですか?」

 「ええ。一応」

 「昔から弟はよくできました。勉強もスポーツも、芸術的な才能まであって、何をやらせてもすぐ一番になった。だからなのか、他人の痛みがわからない、他人の感情に共感しない、そういう人間になってしまったようです」

 江島は、何を言おうとしているのだろう。自分に背を向けた江島の後ろ姿を修一はじっと見つめた。

 「隆生は、自分の欲望の為だけに、たくさんの人間を傷つけた。いや、欲望なんてものがあるなら、まだよかったのかも知れない。そんなものさえなくて、ただあいつは……自分が全知全能の神みたいなつもりで、他人を弄びたかっただけなのかも知れない。私には、よくわかりませんが……。ただ、あの頃の千秋は、本当に痛々しかった。今でも、隆生の代わりに現れた私を見た時の顔が忘れられません」

 江島はそこまで一気にしゃべると、短く息をついた。

 「私は、千秋を守れなかった。それどころか、救ってやることもできなかった。千秋の上司として、隆生の兄として、私ならどうにかできたかも知れなかったのに」

 「江島さん……」

 「少し、考えさせて下さい」

 振り向いた江島は頷きながら修一に告げた。

 「わかりました。よろしく、お願いします」

 深く頭を下げた修一。江島の言ったことは全て本当なのだろう。だからこそ、どんな結果が出るのか、修一にも想像がつかなかった。

 しかし、千秋を伴って会社に戻ってすぐ、修一の元へ江島屋の担当者から連絡があった。

 株式譲渡によって、修一の会社を完全子会社化をしたいという正式な申し入れだった。江島屋の傘下に入ってしまえば、クレバースグループとは言えもう手出しはできなくなる。

 「江島社長が、決断して下さったそうだ」

 修一の言葉に千秋は息を飲んだ。

 「幹部会を開く。すぐに手配してくれ」

 「わかりました」

 千秋の動きは相変わらず迅速だった。

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