第19話

 「お待たせしました」

 申し訳ありません、修一は形式的にそう詫びた。

 「こちらこそ、お忙しいところお呼び立てして申し訳ありません」

 隆生は口元だけで微笑むと、修一の背後に佇む千秋に目を移した。

 「ずいぶん、お疲れのようですが、大丈夫ですか?」

 「ええ。先ほど少し無理をさせてしまったようで」

 そうですか、隆生はじっと千秋に視線を注ぐ。

 「辛いんだろ?座ったら?」

 深澤、と修一も千秋を促した。千秋は恐れ入りますと軽く頭を下げると末席に着いた。

 「鷹取さんも、意外と可愛いところがおありですね」

 千秋から修一へ、椅子をひいた隆生は口元の笑みを濃くしながらゆっくりと口を開いた。

 「あてつけのつもりですか?僕に会う直前、強引に抱いたんでしょう?まだ、目が潤んでますよ。本人は気付いていないようですが、抱かれた後の色香はその辺りの女性より魅力的ですからね」

 「ええ。時間もなかったので、少し手荒いやり方だったかも知れません」

 「それが、千秋を手放したくない理由ですか?」

 「私は感情だけでは動かない人間です。私的な感情だけで誰かを求めたり、手放したりはしませんよ。深澤は優秀な秘書です。コーポレートプランニングにおいても、うちには必要な人材ですから」

 そうですか、微かな声で呟いた修一は口元だけで笑った。

 「よかったね。千秋。僕が君に教え込んだことは無駄にはならなかったみたいだ」

 「……」

 隆生の眼差しを受止める強さは自分には既に残っていない。そう感じて、千秋は目を伏せる。本当は残っていないのではなく、初めから持っていなかったのかも知れない。隆生の視線が自分に向けられたままであることに恐怖に近い感情を覚える。いつでも隆生は絶対の存在だった。

 蒼白な千秋の横顔に修一は内心激しい怒りを感じた。勿論千秋に対してではなく、遠藤隆生に対して。学生時代には憧れたこともあった。目標とし、いつか追いつきたい、追いぬいてみたいと一方的な闘志を燃やしていたことさえある。もしかすると、千秋も同じだったのかも知れない。強烈なカリスマと揺るぎない自信に溢れた目の前の男は、学生だった自分が直に接することがあれば、大きな影響を受けただろう。千秋は、遠藤という強大な力の、犠牲の一人なのかも知れない。そんな考えが、不意に修一の中に浮かんだ。

 深澤、と修一が呼ぶと千秋は怯えたように顔を上げた。修一の知らない顔だった。

 「お前は部屋に戻れ。これからは経営者同士の話だ」

 千秋は一瞬だけ隆生を見たが隆生にも異論はないらしい。ゆっくりと立ち上がり、二人に軽く礼をする。

 部屋を出る間際、千秋、と隆生が呼んだ。

 肩越しに振り向いた千秋に隆生が目を細めて微笑む。

 「またね」

 「……失礼いたします」

 千秋は再び目礼し部屋を出ていった。

 「鷹取さん、一つ、勘違いなさっているようなので、その誤解を、解かせて頂いてもよろしいですか?」

 千秋が出ていくとすぐ、隆生がそう切り出した。乗り出すように修一に向き直り、ゆっくりとテーブルの上で指先を組む。

 「どうぞ」

 「ご存知かと思いますが、うちのグループはIT系の人材派遣を元に僕が作ったものです」

 「勿論、よく存じ上げております」

 「それは光栄です。人材業だからこそ集まってきて優秀なエンジニアと、これまで様々なITサービスの分野でビジネスを展開してきました。ちょうど、次に打ち出すサービスについて、社内で検討していましてね。それが、ファッション事業部、それも海外ブランドの拡充だったんです。おわかりですよね?作るより、出来上がった物を吸収する方が早い。ビジネス以外でも、どこにでもある手法です。その候補の一つが、御社だということです」

 「いいんですか?そんな機密情報を漏らして」

 「僕は鷹取さんを経営者として尊敬しています。勿論、信頼もね」

 「……」

 これが、遠藤隆生という人間なのかと修一は目前の男をじっと見つめた。穏やかな微笑みを絶やすことなく、けれど自信に満ち溢れ、王者のような貫禄を漂わせている。

 「現状を逆に言えば、他にも、候補はあるということです。若手が多いもので、役員会ではもっぱら御社を推す声が多いんです。ただ、決裁権限は僕にしかありません」

 「数千人の生活を左右する決断が、実際は一人の存在を得る為の賭けですか?」

 「賭け?」

 隆生は修一の言葉を繰り返した。

 「ええ。かつての愛人を取り戻す為に、社運を賭ける、そういうことになりませんか?」

 ふふっと隆生が笑った。何がおかしいのかと修一がその顔を睨むと、隆生は失礼と表情を改めた。

 「自分の会社を投資にはリスキーな物件だと経営者自身が判断していると知ったら、千秋は勿論、鷹取さんについていらっしゃる社員の皆さんもがっかりされるのではないですか?」

 「そんなことを言ったつもりはありません。遠藤さんのやり方があまりに私情に流され過ぎているようで、同じ経営者として心配になっただけです」

 なるほど、隆生は微かな笑みを湛え視線を指先に落とした。女のように手入れをしているわけではないだろうが、綺麗な手指だと修一は思った。

 鷹取さん、ゆっくりと視線を上げながら隆生がまっすぐに修一を見つめた。

 「もう一つ、勘違いをされているようだ」

 「何です?」

 「僕は、自身の手腕について絶対の自信を持っています。今、買収先として名の挙がっている企業、どこを買い取ったとしても、事業は成功します。勿論、選定の基準も、買収の条件も重要ですが、要は自分の物にしてからどう生かすか、それだけです」

 「……」

 始まる前から、勝者が決まっているゲームというものは、確かに存在する。修一もそれはわかっていた。しかしその勝者が不意に自分にゲームを持ちかけてくると想像したことはなかった。

 「ないとは、思いますが、もし千秋が鷹取さんの会社を出ていくようなことになれば、僕はやはり御社を買収します」

 第三の選択肢など存在しないのだと、常に勝ち続けるゲームの支配者は告げる。その柔らかな物腰や声音、優雅な話し方や仕草からは想像さえつかない、遠藤隆生はある種の怪物だった。

 「あと三日だけ、時間を差し上げます。そこで最終的な結論を出して下さい。御社が上場している株式の半分は、既に抑えてあります。買おうと思えばいつでもうちの物にできる。関連会社の方も、意外と好意的でしたよ。まぁ、長い物には巻かれろということなんでしょうが」

 首元に刃物を突き付けながらも、決してとどめは刺さない。自ら死を選ぶように人を仕向ける、遠藤はそういう人間なのだろう。

 それでは、といつも通りの品のいい微笑みで隆生は部屋を後にする。

 残された修一は椅子に深く腰掛け天井を仰いだ。



 部屋に戻ると千秋はソファに身体を沈めた。

 寝乱れたベッドが視界に入る。怖いかと、聞いた修一の声が蘇る。

 約束の時間を待ちながら、ソファでメールチェックをしていた修一を千秋は驚いて振り向いた。

 「遠藤が、怖いのか?」

 ゆっくりと立ち上がった修一はそう繰り返しながら千秋の目前に立った。

 何を言うべきか、言うべきではないのか、躊躇う千秋はそっと修一から目を背けた。

 「社長?」

 「そう簡単にお前を手放すつもりはない」

 修一は千秋の頬を両手のひらで包み込みながら唇を重ねた。

 「ん……」

 性急で激しいキスから、千秋は修一も冷静ではいられないのだと気付いた。

 「あ」

 唇から首筋に。修一の熱く濡れた舌を感じ、千秋は思わず声を出す。

 「社長」

 これ以上は、と言いかけた千秋の腕を掴んで修一はベッドに押し倒した。

 「時間がないんだ」

 「それは存じておりますが」

 「早くしろ」

 千秋のジャケットを脱がせた修一はそう言って自分のベルトを外した。

 もう何度となく触れ合わせた肌だった。修一の高い体温に包まれていると何故かひどく安心する。抱かれることに安らぎを感じる相手は、修一だけだった。

 僅かな時間の中で身体を合わせ、修一は千秋を解放した。

 ぐったりとベッドにうつぶせになったままの千秋に修一はのしかかった。

 「お前以外の人間を、俺はもうずっと抱いてない。男も、女もだ」

 修一は何を言わんとしているのか。千秋は驚いて修一を見つめた。

 「手近なところにいつでも抱ける人間がいる。だから満足してるんだとずっと思ってた。けど、そういうことじゃなかった。他にそういう人間がいたとしても俺は、結局お前しか抱かないだろうと思った。俺自身がそうしたいと思ってるからだ」

 それは愛の告白のようだった。

 「俺を信じろ」

 千秋の髪に唇を寄せ修一はそう囁いた。千秋はその声を目を閉じて聞いた。

 「わかったか?」

 優しげな声に問われ、言葉もなく微かに頷く。

 修一は千秋の頬にキスをして身体を起こした。

 どんな思いで、修一はあの言葉を自分に告げたのだろう。そんなことを考えていると、ドアの方で物音がした。

 「社長?」

 不意に開いたドアに千秋は駆け寄った。修一は微かに笑って千秋を抱きしめた。

 「お前に、頼みがある」

 静かに、そして力強く修一はそう切り出した。

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