第18話

 都内ホテルの中にある会員制ラウンジで、二人は向き合って座っていた。海に面した大きなガラス窓が個室の息苦しさをいくらか紛らわせている。しかし部屋の空気はどこまでも重苦しかった。

 「悪くない話でしょう。従業員一人の引き抜きと、御社自体の買収とではインパクトが違い過ぎる」

 「失礼ですが、お気は確かですか?」

 膝の上でゆったりと指を組んで、遠藤隆生はええと微笑んだ。学生時代から起業し、カリスマ経営者と恐れられる男とは思えないほど、優雅で品のいい笑みだった。この男が、と修一の腹の底から怒りが湧き上がる。

 「僕には、こんな条件で迷われる鷹取さんの方が不思議ですよ」

 どの口がそれを言うのかと、修一は驚きと呆れの中で遠藤を見返した。

 会社を乗っ取られたくなければ、深澤千秋を渡せ。遠藤が持ってきたのは、要はそういう話だった。

 「よく、ご検討下さい。今回はご挨拶だけでもさせて頂ければと思ったもので。こちらからのお願いにも関わらずお呼び立てしてしまい申し訳ありませんでした」

 話はそれだけだと、腰を浮かせた遠藤に修一も倣った。

 「次にお会いする時には、結論を伺いたいですね。会社の譲渡をご希望でしたら、その際に具体的な計画についてもお話しさせて下さい」

 譲渡、という言葉に修一は微かに眉根を寄せた。そんなものじゃないだろうと内心思ったが、それ以上表情にも言葉にも出すことは我慢した。

 それでは、と先に個室を出ていったクレバースグループ社長の品のいい笑顔にどす黒い怒りを覚える。

 しかし遠藤の名刺を見直した瞬間、修一は自分が見落としていた事実にようやく気がついた。

 「遠藤、隆生……」

 タカオさん、そう熱に浮かされたような声で千秋が呼んでいたのはこの男だったのか。何故千秋が事実を語ることをかたくなに拒んだのか。修一にはようやくわかった。

 「お呼びでしょうか」

 会社に戻るとすぐ、修一は千秋を部屋に呼んだ。久しぶりに社長室で二人きりになったと、千秋の緊張した雰囲気から修一は思い出した。表面上は冷静を装っているが、今の千秋からは怯えたような緊張を感じる。

 「遠藤社長と、今日会った」

 千秋が目を見開くのを、修一は確かに見た。

 「お前の動画を俺に送ったのは、あの男だろ?」

 「……」

 「隠さなくていい。遠藤隆生、お前が呼んでいたのもあいつだ」

 千秋の手がぐっと握られた。何も読み取れない無表情の中で、瞳だけは不安げに揺れている。

 「答えは、イエスかノーかだ。お前の口から、事実が聞きたい」

 しばらく無言で見つめ合った後、千秋は不意に視線を外した。

 「社長の、おっしゃる通りです」

 消え入りそうな声だった。

 そうか、と修一も応じる。それ以上、何を言えばいいのか、修一自身にもわからなかった。

 申し訳ありません、千秋は何に対してかそう言って俯いた。そして、不意に思い出したように顔を上げて修一を見る。

 「あの……どうして、お会いになったんですか?」

 「ある、商談を持ちかけられた。それだけだ」

 「商談?」

 ああ、と頷いた修一は千秋から離れ自席に戻った。

 「どんな、商談ですか?」

 デスクの前に立った千秋を修一は一瞥し、すぐにPCに視線を落とした。

 「企業のトップ同士の話だ。お前にもまだ話せない」

 「そうですか」

 千秋は頷いて一歩デスクから離れた。

 「時期が来れば話す。もう下がっていいぞ」

 「かしこまりました」

 千秋は物言いたげな眼差しのままそう告げると目礼し、社長室を出ていった。

 確かめたかったのは、これだけのことだったのか。千秋が出ていったドアを見つめ、修一は微かに表情を曇らせた。千秋は、この話を遠藤からは聞かされていないのか。何か感じるものはあったのかもしれないが、恐らく話が会社の買収にまで及んでいるとは知らないのだろう。

 ばかばかしい、と何に対してか修一は思った。

 こんなふざけた取引を持ちかけた遠藤隆生にか、あるいはそんなつまらない選択で迷っている自分自身になのか。

 それから半日、仕事はほとんど手につかなかった。様々な想像と、現実的な今後の対応策が秩序立たず頭の中を巡る。

 やっと会社を出ることができたのは、夜10時を回ってからだった。もういないだろうと社長室を出ると、前室のデスクには千秋がいた。

 「まだいたのか?」

 驚いて声をかけると、千秋は席を立ちながらはいと頷いた。

 「先日の、報告をさせて頂けないでしょうか。今日、お会いになったなら、既にご存知のこともあるかも知れませんが」

 無表情の仮面には取り繕うことのできない皹が入っているように修一には感じられた。

 ああ、と応じた修一に、千秋は軽く頭を下げた。



 修一の自宅マンションのリビングで、二人はそれぞれソファに身を沈めていた。どちらのものだったか、グラスの中の氷が鳴った。

 千秋はゆっくりと顔を上げ、私はと、重い沈黙をようやく破った。

 「まだ、学生だった頃、遠藤社長と知り合いました。それから……私は、すぐ、あの人の虜になりました」

 「虜?」

 修一の方に少しだけ眼差しを向け、千秋は悲しそうに微笑んだ。

 「あの人のことが、本当に好きでした。あの人の、役に立つことができれば、何でもしたかった。死ねと言われれば死ねたでしょうし、誰かを殺せと命じられれば、やはりそうしたと思います。だから」

 そこまで一気に話すと、千秋は不意に口をつぐんだ。修一は、ゆっくりと、だから?と促した。

 「抱かれることなんて、何でもないことでした。むしろ、必要とされることが、求められることが、誇らしかった。当時の私には、あの人が完璧な人間に思えたんです」

 遠い日を見るように、千秋は目を細めた。どんな感情も読み取らせないその表情。胸の内には、どんな追憶を思い描いているのか。

 「あの男が?」

 「ええ……。私の、昔の相手です」

 修一が聞きたいのは、そんなことではないはずだと心のどこかではわかっている。けれど、自身の心に踏み込まれるのは怖かった。自分でも目をそらし続けてきた事実に、今さら向き合う勇気はない。表面的なことならいくらでも話す。話すことができる。けれどそれ以上は、修一にも、いや、修一だからこそ立ち入って欲しくなかった。

 「あの人との関係は、七,八年続きました。でもある時、私は捨てられました」

 「捨てられた?」

 聞き返した自分に、千秋は柔らかく笑って見せた。力ないその笑みは、千秋の暗い目の中にすぐに消えていった。

 「あの人を、待っていたんです。いつものホテルで。でも、現れたのはあの人じゃなかった。遠藤社長の、お兄様、当時の私の上司だった江島さんでした」

 「江島屋の?」

 ええ、と千秋は頷く。ため息をつくようにゆっくりと息を吐いた。

 「そこで、初めて知りました。ご家族がいらっしゃることも、私のような相手が何人かいたことも。私は、子どもでした。何も知らなくて……知らないことだけが、幸福だったなんて、考えたこともなかったんです。いつか、あの人の役に立てたら、あの人の為に死ねたら、そんなことを考えていたのに、あの人にとって私は、取り換えがきく玩具でしかなかった」

 そこまでを一気に話すと、本当は、と千秋は俯いた。

 「ただ、側にいろと、言われたかっただけなんです。ずっと、あの人についていこうと思っていました。どんな形でもいいから」

 千秋と呼びかけた修一に、千秋はまた少しだけ微笑む。

 「笑って下さってけっこうです。ばかばかしくて、お話する気になれなかったんです。それが、事実です」

 それから何年かして再会したこと、かつてのように身体の関係を求められたこと、そこから逃れようとしたこと、千秋は淡々と語った。そしてようやく、修一に差出人不明のメールが届くことになる。

 社長、そう優しげな声で呼びかけながら、千秋は居住まいを正した。

 「これまで、大変お世話になりました」

 「千秋?」

 「これ以上、ご迷惑をおかけするわけには参りません。社長の下で過ごさせて頂いた時間は」

 「急に、何を言ってるんだ?」

 社長、と労しげに千秋は呟いた。苦しげな表情の中で、口元だけは必死に笑みを浮かべようとしている。それが僅かな痙攣のように、千秋の顔を歪ませる。

 修一は立ち上がると千秋の傍らに膝をついた。

 「お前は、俺の為には死ねないのか?」

 驚いて間近に修一の顔を見上げた千秋。修一はいつになく真剣な表情をしていた。

 「俺の役に立ちたいとは思えないのか?」

 「そんなこと……」

 「俺の秘書は、役不足か?」

 まっすぐに修一の目を見つめて、千秋はゆっくりと微笑を浮かべた。それは心の底から湧きあがったような柔らかな笑みだった。

 「社長は、とても素晴らしい方です。経営者としても、人としても。私はきっと、足手まといになります。いえ、会社にも、社長にも、もう既にご迷惑をおかけしています。今日、社長が遠藤さんにお会いになったと聞いて、やっとわかりました。社長が思っていらっしゃるより私は、会社のことも、社長のことも、愛しています」

 「それは、告白か?」

 「え……」

 「お前がそんな風に思ってるなんて、考えたこともなかった」

 でも、戸惑う千秋の頬に手をかけ修一は微笑んだ。

 「悪い気はしない」

 唇が重なると、千秋は目を細めて修一の背中に腕を回した。

 「何も、心配しなくていい」

 修一は千秋を強く抱いて、ゆっくりとそう告げた。

 「だから、逃げるな、もう」

 長いキスの後で、修一が千秋の耳元に囁く。どういう意味かと顔を上げようとした千秋を修一は許さなかった。

 「もっと俺に縋れ。頼って、離れられなくなるくらい、俺の傍にいろ」

 「……」

 そんな情熱的な言葉を、感情を、修一はこれまでどこに隠していたのか。顔が熱くなるのを千秋は感じた。しかし、修一は理解しているのだろうか。自分を手放さないという決断が、どんな犠牲を彼に強いるのか。幸福感から一転し、千秋は胸が冷たくなっていくような気がした。

 社長、そう呼びかけながら千秋はそっと修一の両肩を押し、身体を離した。

 「あの……」

 「どうした?」

 自分の腕の中で顔を上げた千秋を修一は間近に見詰めた。

 「遠藤さんとは、どんなお話を?」

 言えないとは言ったものの、本人にも関わることなのだから、気になるのは仕方ないだろう。自分が話さなくても、遠藤隆生が千秋に話すかも知れない。そうなれば千秋は、きっと一人で決めてしまう。

 最悪の事態が頭を過って、修一はため息をついた。そして、千秋の目を真っ直ぐに見た。

 「会社を売れと言ってきた」

 「え……?」

 「それが嫌なら、お前を渡せと」

 そんなと絶句する千秋の頬に修一は手のひらを押し当てた。

 「そんな顔するな。何か方法はあるはずだ。それを考えてる」

 千秋は苦しそうな表情で、修一の手に指をかけた。

 「社長を、皆を、大切に思っているからこそ、私はここから離れないといけないと思います。社長が社員を、会社を愛して守りたいと思っているように、私にも、同じ気持ちがあります」

 「だから、自分一人が犠牲になるってことか?」

 まっすぐな修一の眼差しに千秋は思わず目を伏せた。

 「私一人の問題と言い切るには、もうご迷惑をおかけし過ぎているのは、認識しています。でも、元々は、私と、遠藤さんの関係に端を発したことです。自分の責任は、自分で取りたいんです」

 「それは、具体的にはどうすることだ?」

 「え?」

 驚いたように顔を上げた千秋。その頬を、修一が両手で包み込んだ。

 「あいつの会社に移って、また愛人になるってことか?」

 「……他に方法がないなら、そうなるかも知れません」

 視線だけを背けた千秋に修一は短くため息をついた。

 「お前は本当に強情だな」

 「……」

 「頑固なのは結構だが、後悔するとわかってる選択をする奴はただのバカだぞ?」

 「後悔?」

 驚いたように自分を見つめた千秋の顔を修一はゆっくりと、引き寄せた。

 「後悔、したんだろ?それを繰り返そうとしてるなら、それは愚かな選択だ」

 返す言葉もない。千秋は黙って修一の目を見つめ返す。貴方に何がわかるのか、そう言いたげなどこか反抗的な眼差し。それさえ修一には、千秋の強がりに思えた。

 「あいつの好きにはさせない」

 千秋の目を真っ直ぐに見詰めたまま、修一は力強く断言した。

 「今度の面談の時は、お前も一緒に来い。それまでに、どうするか考える。だから」

 俺を信じろ。

 そう言った修一に目を見張った千秋は、何かを言いかけてやめ、

 「わかりました」

 目を伏せて頷いた。

 「心配するな」

 修一は再びそう言って千秋の髪を撫でた。

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