第17話
「また会ったね」
聞き覚えのある声に潤が振り向くと、そこにいたのはやはり遠藤隆生だった。
「というのは、嘘で、この時間なら会えるんじゃないかと思って待ってたんだ」
「どうか、なさったんですか?」
潤の問いに、いや、と遠藤は首を横に振った。
「特に何かあったってわけじゃない。何となく、また話したくなってね」
「そうでしたか。教会の方にお越しいただければほとんど毎日おりますよ」
「それも考えたんだけど、どうも僕にはああいう場所、似合わない気がしてね」
「場所が変われば人の心も変わります。いつでも遊びにいらして下さい」
「考えとくよ。少し、座らない?」
駐車場の片隅には古ぼけたベンチが置かれている。潤は頷いて隆生に従った。
「この前、僕にも後悔くらいあるって話をしただろ?」
隣り合って座ると隆生は潤の方へ顔を傾けるようにしながら口を開いた。潤は覚えていると黙って頷いた。
「その後悔をね、清算しようかと思って」
「清算、ですか?」
そう、隆生は前を向いた。その視線の先には小さな運動場と子どもたちの暮らす施設がある。
「違和感ある?」
「そうですね。後悔を清算するなんて言い方、する人、あんまりいませんから」
そうだよね、頷いた隆生の相変わらず穏やか横顔を潤は見つめた。
僕は、と隆生がゆっくりと口を開いた
「自分の欲しい物は、それが人でも物でも、何でも手に入ると思ってたんだ。手に入れるのも、手放すのも、全部自分の自由。何でも自分の思い通りにできる、そう考えてた。僕の意志だけが、全てを決めてるはずだった。だけど本当は、そうじゃなかった。あの時……羽をむしってでも、閉じ込めておきたかったものを、僕は手放した」
誰のことなのか。そう言った隆生を潤は見つめ続けた。
「閉じ込めておかなかったのは、何故ですか?」
責めるわけでもない。全てを受け入れてくれそうな慈しみに溢れた綺麗な声に、隆生はふと顔を向けた。潤の澄んだ真っ直ぐな眼差しは、かつて自分の傍らにいた誰かを思い出させた。
「何故だろうね。あの時の僕なら、そんなことは簡単だった。そうしようと思えばいくらでもできたはずだったのに」
「遠藤さん?」
隆生は微笑んで潤の右手を取った。その掌の中心には何かが刺さったような円形の傷跡が残っている。
「この前、名刺を渡した時、目についたんだ」
よく気がついたなと潤はいささかの驚きと尊敬の念を込めて隆生の顔を見た。
「この傷……こういう職業だと、聖痕だとかって、ありがたがられるの?」
潤は隆生を見つめたまま首を横に振る。
「まさか。普通の人は皆、ちょっと驚きますけどね。子どもの頃、山で転んだ時に木の枝が刺さってできた傷なんです。僕自身、普段は忘れてますよ」
大した意味はないと告げた潤。指先で傷跡に触れながら隆生は何を思うのか。しばらくじっと潤の傷跡を見つめた隆生がゆっくりと目を上げた。
「この傷に触れたがる人は多いでしょ?」
「そう、かも知れませんね……」
思わぬ問いに潤は一瞬戸惑った。しかし言われてみればその傷跡に気付いた人間は自分の手のひらに触れたか、そうしようとしていたことを思い出した。
「人が他人の傷跡に触れるのは優越感からだ」
「優越感?」
思わぬ言葉に潤は隆生を見返した。隆生は穏やかにも見える微笑みで頷いた。
「私は貴方の傷を許す、傷を負った貴方を許す、そんなところじゃないかな」
「心理学でも専攻されてたんですか?」
自分の方へ手を引き戻そうとした潤。しかし隆生はその手を離さなかった。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ご自身の経験から?」
その問いには答えず、傷跡に軽くキスをしてから隆生は潤の手を離した。
「傷を負った貴方でも、私は愛する」
「え?」
「傷跡へのキスは、そんな気持ちの表れだろうね」
愛を告げるように隆生は潤を見つめた。潤は苦く笑った。
「だけど、僕はそういう類の人間じゃない」
「どういう意味です?」
「僕なら、誰かの傷跡に優しく触れたりはしないってこと」
興味深そうに自分を見つめる潤に満足したように、隆生は、僕なら、とゆっくり続けた。
「迷わずその傷に歯を立てる」
どうして、とは潤も聞けなかった。隆生もその問いを求めてはいないように感じられた。遠藤隆生はそういう人間なのだと、潤は静かに思い至る。そういうどうしようもない強者が、世の中には確かに存在する。
「羽をむしって、閉じ込めなかったのは、もっと傷ついて、それでも必死に飛び続けようとするあいつを、見たかったからなんだと思うよ。だけど、今はまた、閉じ込めたいと思ってる」
「その方を、愛してるんじゃないですか?」
「愛か」
嘲笑うわけではない。隆生は潤の言葉を繰り返し、少しだけ首を傾げた。
「僕には、理解できない言葉の一つだけどね。だけど、使いやすい言葉だとは思うよ。そう言われて、喜ばない人間はいないから」
優雅で上品で穏やかなこの男の心には、何が住んでいるのだろうと潤は不意に思う。自分が望むものを全て手に入れながら、いつまでも満たされることなく、どこかで酸欠のような苦しさを感じているのかも知れない。
「僕を憐れみますか?神父様」
微かな笑みを含んだその問いに潤は首を横に振った。
「貴方は何でも持っているんでしょう?憐れむ要素なんてないですよ」
「篠森さんは嘘つきだな」
少しだけ驚いた顔で自分を見つめる潤に隆生は優しげに微笑んで見せる。
「貴方の目は、僕を憐れんでる。可哀そうな人だと同情してる」
「もしそんな風に見えているのであれば、それは申し訳ありません。愛がなくても生きていける人間を、僕も何人か知っていますよ。愛のある世界なら、愛は全ての源です。でも愛のない世界にはきっと、それに代わるものがあるんだと想像はしています。それが、不幸かどうかは、僕には判断できません」
潤の言葉に、なるほどと隆生は頷いた。
「篠森さんは面白い人だね。聖職者にしておくのが惜しいぐらいだ」
「褒められたんだと思っておきますよ」
「もちろん」
たくさんの人間を見てきたが、一緒にいてこれほど不安になる相手はそうはいない。隆生の穏やかにしか見えない微笑みを見つめながら潤は思った。
「前にも言ったでしょ?僕と篠森さんは同じような人種だって」
「覚えてますよ」
「篠森さんは悪人だから。僕は一緒にいて落ち着くんだと思う」
心外だと言いかけ、潤はやめた。
「失礼」
鳴りだした携帯電話を手に隆生は立ち上がった。
「遠藤です」
電話の相手は誰なのか。微かに笑った口元を潤は静かに見詰めた。
「お会い頂けるということですね。ありがとうございます。ええ、僕も直接お話しさせて頂く方が早いと思っていましたから。日程調整は秘書にさせますので。こちらから、またご連絡さしあげます」
それでは、と事務的な会話を終え、隆生は電話を切った。
「大丈夫ですか?」
控え目にそう声をかけた潤を見て、隆生は何も言わず微笑んだ。
「仕事の方が、少し忙しくなりそうだよ。しばらく子どもたちと遊ぶ時間が取れなくなるかも知れないけど、今日は、篠森さんに会えて良かった。また、お会いできますか?」
「勿論、いつでも」
よかった、呟いて頷く隆生はそのまま潤に背を向けた。
「それじゃ」
肩越しに振り向いて静かに歩き去っていく。迷いのない足取りはどこに向うのだろう。その後ろ姿が見えなくなるまで、潤は隆生を見送った。
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