第16話

 夜の礼拝を終えた静かな教会。誰も残っていないはずの礼拝堂の入り口に佇む人影に潤は一瞬驚いて目を凝らした。

 「千秋、さん?」

 ええ、と力ない声が返る。いつもと同じ隙のない立ち姿には、どこか傷つき疲れた者の気配が色濃く漂っていた。

 「どうされたんですか?修一なら、今日は来ていませんよ」

 ゆっくりと歩み寄って、潤は千秋の端正な顔を見上げた。そして、彼が悲しみの淵に佇んでいることを悟った。

 「さっきケーキを頂いてしまって、一人では食べきれないと思ってたところなんですよ。よかったら少し手伝って頂けませんか?」

 千秋は潤の申し出に驚いたように目を見開いたが黙って頷いた。

 千秋を私室に通すと、潤は私服に着替えてから紅茶をいれチーズケーキを切り分けた。

 どうぞ、と差し出すと、千秋は小さく頭を下げた。

 「どうして、ここに来てしまったのか、私自身にもわからないんです。ただ、神父さまとお話をしたくて」

 「潤でいいですよ。修一と何かありましたか?」

 眼鏡の下の美しい瞳が微かに見開かれる。潤はゆっくりと頷いた。

 「これでも聖職者ですから。伺ったお話は誰にも他言しません」

 ありがとうございます、千秋は目を伏せて、口元だけで微かに笑った。

 ひとつ、確認したいんですが、と控え目にしかし躊躇することなく潤が千秋を見ながら口を開いた。

 「千秋さんは修一の恋人というわけではないんですか?」

 「私が?まさか」

 「それは失礼しました。僕はそうなのかとずっと思っていたので」

 俯きがちに微笑んだ千秋は首を左右に振った。

 「私では、ダメだと思います。いえ……それ以上に、社長がそんなことを望んでいらっしゃるとは思えません」

 カップを手に取った千秋を潤は黙って見つめた。

 「それは、プライベートでもプラトニックな関係だってことですか?」

 「え」

 驚いたように顔を上げた千秋。潤は慈愛に満ちた、とも形容できそうな穏やかな微笑を湛えていた。

 「あ、いえ……恋人ではありませんが」

 それ以上は言いにくそうに言葉を濁す千秋に、そうですかと潤は頷いた。

 「修一は、あれで優しい人間だと僕は思っています」

 「そう、ですね……私も、そう思います」

 よかった、何に対してか呟いた潤はカップを静かに口元へ運んだ。

 「社長は、篠森さんがお好きなんだと思います。それに、篠森さんと一緒の時だけ、何というか、とても楽しそうに見えます」

 それを聞くと潤はカップを持ったままくすくすと笑った。子どものように屈託のない笑顔だった。

 「長い付き合いですからね。幼馴染なんです。小学校から大学まで一緒でしたし。修一がこれまでしてきたことは、彼のご両親よりよく知ってますよ。知りすぎてて、黙っているのが大変なくらいです」

 潤の言葉に千秋はようやく少しだけ笑った。

 「私には、篠森さんのように、社長を理解することはできません」

 「喧嘩でもしたんですか?」

 「そんなこと、できるような間柄ではないですよ」

 「そうなんですか?僕には、そうは思えませんけど」

 意味深な笑みを浮かべる潤。その顔は神父というより天使に近い。

 「すみません」

 唐突な千秋の謝罪に潤は笑顔のまま首を傾げる。

 「篠森さんに、何をお話ししたかったのか……いえ、どうして来てしまったのか、本当に自分でもわからなくて」

 「何かお困りのタイミングで思い出して頂けたのなら光栄ですよ。勿論、そうじゃない時であっても」

 ありがとうございます、潤の言葉に千秋は俯きがちに微笑んだ。

 「篠森さんは、不思議な方ですね」

 「僕がですか?」

 はい、と千秋は頷く。

 「ご職業柄というだけじゃなくて、何だか何でも話したくなるような雰囲気があるからなのか……一緒にいるだけで安心できる。社長も、そういうところに惹かれたのかも知れないですね」

 「腐れ縁ですよ。お互い、友人が少ないので」

 まんざら冗談でもなさそうに応じた潤に、千秋はまた少しだけ笑った。整った顔立ちのせいか、知的な雰囲気のせいか、千秋は一見理知的で冷たそうに見える。しかし少し話してみると、驚くほど繊細で臆病な人間なのではないかという気がしてくる。

 「修一と、一度、ゆっくり話をされてはいかがですか?月並みなアドバイスのように聞こえると思いますが。修一は、優しいですよ。少なくとも、他人に対して悪意を向けるような人間ではないし、理由もなく他人を傷つけられるような人間でもありません。それは、僕が保証します」

 「ええ……そうですね」

 何を思うのか、寂しそうにも見える微笑み。千秋はありがとうございましたと不意に告げた。

 「社長のことを、社内の人間に相談するわけにもいかないので……篠森さんにお話しして、少し気が楽になりました」

 「それはよかったです」

 「急にお邪魔して申し訳ありませんでした」

 「とんでもない。いつでもどうぞ」

 千秋を表まで送ると、潤は千秋に頭を下げた。

 「修一を、よろしくお願いします」

 千秋は微苦笑といった表情で曖昧に頷き、潤に別れを告げた。

 潤にとっては千秋こそ不思議な人物に思われた。修一のことだけではない。何か胸に秘めた物があるのだろう。

 鈍感な友人は、それに触れないことを相手への思いやりだと思っている節がある。他人の傷を指摘しない、触れない、それも確かに思いやりなのかも知れないけれど、親しい相手であれば、相手が言い出しにくいことをあえて聞き出すことが必要な時もある。悪意のない嘘をつき通すことは、きっと疲れる。善良な人間であればある程余計に。

 千秋の後ろ姿が大通りへ消えたのを見届け、潤は礼拝堂に戻った。もう少し、修一が大人ならいいのにと、潤はため息をついた。

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