第15話
何故あれほど怒りを感じたのだろう。
朝のメールチェックをしていた修一は、差し出し人不明のメールを開くと、マウスに手をかけたまま動きを止めた。
あの映像を見た直後、社長室にやってきた千秋を強引に抱いた。むしろ強姦に近いようなやり方だった。千秋は初め抵抗したが、修一を非難することはなく、無言で部屋を出ていった。
再び顔を合わせた時、千秋はいつも通り理知的な顔をしていた。朝の出来事などまるで忘れてしまったというように。
「話がある。帰りに家に寄れ」
オフィスを出る時、修一は短くそう命じた。
一瞬間があって、それからいつも通り、かしこまりました、という声が背後から聞こえた。
悪意に満ちたやり方だと、修一は思う。このメールの送信者がか、あるいは自分自身がか。
書斎のPCの前に座り、ウィスキーで唇を濡らす。千秋が来る前に、もう一度見ておくべきなのだろうか。あるいは、それは千秋ではないのかも知れない。
否。見間違うことなどない。
そんな躊躇いのうちに、時間は過ぎていき、インターフォンが鳴った。マンションの入り口ではなく、玄関の方だ。修一は重い腰を上げ、玄関へ向かった。
「お疲れのところ、申し訳ございません」
まるで、自分の方に用があってきたような、いつもと同じ言葉を千秋は口にした。
無言で部屋へ引き返す修一の背後で鍵をかける音が聞こえた。
リビングでも寝室でもない。千秋が通されたのは修一の書斎だった。打ち合わせの時には、ここをミーティングルームとして使うこともある。PCに接続されたホームプロジェクターがスクリーンに青い光を放っていた。
千秋は書斎の入口に佇んだまま修一を見た。
「お話というのは?」
「座れよ」
自らはデスクに座り、修一は顎でスクリーン前のローソファを示した。千秋は何も言わず修一の指示に従う。
「今朝、メールが届いた」
「メール?」
肩越しに振り向いた千秋を見ることなく、修一はPCを操作した。マウスのクリック音が響いた。
「!」
ホームシアターから聞こえた音声に千秋は驚いてスクリーンを見た。一瞬、ただのポルノかと思ったが、そうではない。
「お前だろ?」
両手を縛られ、目隠しをされた男が、苦しげにも見える表情で喘いでいる。例え音声がなかったとしても、修一にはすぐそれが千秋だとわかった自信がある。
「状況は把握しました。止めて下さい」
さすがの千秋も自分の痴態を大画面で見せられては冷静でいられないのだろう。
「いや。楽しそうだな。SMが好きとは気付かなくて悪かった」
「社長!」
ソファから立ち上がった千秋が修一の手元のPCに手をかける。
「お前がいくまで、ずっと続くんだ。気付かなかったのか?それとも、わかってて撮らせたのか?」
千秋の手を掴んで、修一はスクリーンに目を向けた。
「止めて下さい。お願いします」
千秋のそんな顔を、声を、修一は知らなかった。言いようのない苛立ちが、修一をさらに残酷な行為へ駆り立てる。
「これを見ながらやりたいと思ったんだ。朝はあれだけで我慢しただろ?」
社長、と千秋の唇が震える。嗜虐心を煽られて修一は荒々しく千秋をソファへ突き飛ばした。
「興奮するんだろ?こういう方が。縛ってやるから脱げよ」
言いながら修一は千秋のジャケットをはぎ取ってタイを外した。
珍しく千秋は修一に抗った。止めて下さいと弱々しい声で繰り返す。
「俺じゃ、満足できないってことか?」
修一は不意に動きを止めて、スクリーンを振り返った。
「いいとか、もっととか、俺とやってる時は言わないもんな」
オーディオから流れる生々しい息遣いと身体がぶつかり合う音。その合間に千秋は何度となく快感を訴えた。
「タカオ、って、今言ったのか?」
修一の下で、千秋が動きを止めた。否定したところで、音声を確認すればすぐにわかってしまうだろう。
「恋人か?」
その問いに千秋は小さく首を振る。
拒絶。千秋から感じ取れるのは、それだけの感情だった。心が冷たくなっていくのを感じながら、修一は怒りにも似た感情に任せて千秋を抱いた。千秋は一切の抵抗もせず、一度も声を出さなかった。ただ、全てが終わった後にその瞳からは涙がこぼれた。
「千秋?」
「……もうしわけありません」
そう言ったのだと思う。
映像はいつの間にか終わり、スクリーンには青い光だけが投影されている。
修一は一度部屋を出て、バスローブを着た。ミネラルウォーターと新しいバスローブを手に書斎に戻ると、持ち帰ったものを千秋に押し付けた。
千秋はぐったりとした様子でバスローブをまとい、再びソファに身を沈めた。よほどショックだったのか、ペットボトルを持った指先が微かに震えているようだった。
「説明しろ」
向かいに腰をおろしながら修一が千秋を見つめる。
申し訳ありません、千秋はそう繰り返して俯いた。
「それは、説明になってないだろ?」
「……」
修一にとってもこんな状況は初めてだった。千秋は俯いたまま顔を上げようともしない。そして、何かを釈明するわけでも説明するわけでもない。
顔を上げろと、苛立って修一は告げた。千秋はゆっくりと顔を上げたが、修一の方を見ようとはしない。
千秋と名を呼ばれると、千秋は小さく肩を揺らした。
「手間をかけさせるな」
「申し訳ありません。この件については、私の方で対処いたします」
「俺は説明しろと言ったんだ」
立ち上がった修一は再びPCの置かれたデスクに向う。何をしようとしているのかを察して千秋は、背後から修一を抱き止めた。
「止めて下さい。お願いします」
「お前が説明できないなら、何度でも見てみるしかないだろ?少なくとも相手がタカオっていうらしいことはわかったからな。他にも手掛かりが見つかるかも知れない」
「社長!」
「何だ?お前、何を隠してる?」
勢いよく振りむいた修一は逆に千秋の両肩を掴んだ。
「プライベートでお前が何をしようが、それはかまわない。だが、これは俺の社用のメールに送られてきたんだ。こんな映像が。俺以外の役員に送られてた可能性も否定できない。こんなものを撮らせたことも、流されたことも、お前の甘さじゃないのか?立場を弁えろ」
自身が何に対して怒りを感じているのかも修一にはわからなくなっていた。ただ、それらしく聞こえる理由で千秋を叱責することしかできない。そういうことじゃない、どこかでそう思っているのに、言葉はただ理性的に千秋を責める。
「おっしゃる通りです。お詫びの言葉もございません。即刻、解雇して下さい」
自分から目を背け続ける千秋。それが何より腹立たしいのだと修一はようやく気がついた。
「俺の目を見ろ」
「……」
申し訳ありません、聞き取れるかとれないほどの声で呟き、千秋は顔を伏せる。
「深澤、これ以上俺を怒らせるな」
感情を全て押し殺したような修一の声に千秋は驚いたように顔を上げた。
これは、と千秋がかすれた声を上げた。力なく落ちていく眼差しを修一もそれ以上咎めなかった。千秋は一度唇を引き結び、ゆっくりと俯いたまま声を発した。
「こんな物が存在していることは、知りませんでした。それに、他にないとも言い切れません」
一度だけでの相手ではないと千秋はそう打ち明けた。しかし千秋自身も相手がどういうつもりでそんな映像を撮ったのか、修一に送ったのかはわからないようだった。
「相手は、わかってるんだな?」
「……はい」
「誰だ?」
「それは……」
千秋は修一の目を見た。怯えても恐怖ともつかない表情で千秋は唇を震わせる。
「私が個人的な付き合いをしていた相手です。社内や、取引先の方ではありません」
「そうか。なら、どうして俺にこんな動画を送ってきたんだ?」
「え……」
引きつった千秋の顔からは完全に血の気が失せていた。冷たく乾いたその頬に手をかけて、修一はどうして?と繰り返した。
「俺たちの関係を、その男は知っているのか?」
「私から、話したことは、ありません」
真っ直ぐに自分を見返す千秋の目に、嘘はないような気が修一にはした。
「本当に、申し訳ございません。お怒りは、ごもっともです。後日、どんな処分を受けることになっても、それは覚悟しております。ただ、私の方でもすぐに対応いたしますので、本日は、失礼してよろしいでしょうか」
逃げるわけではないと、千秋は明言した。本人にとっても想定外の、それもかなりショックな出来事だったのだろうと、修一は少しだけ怒りをおさめた。
わかった、と短く告げ立ち上がると千秋に背を向ける。
「報告は必ずしろ。処分を考えるのはそれからだ」
「……わかりました」
社長、と千秋が控え目に呼びかけた。
「何だ?」
振り向くと、じっとした懇願するような眼差しの千秋に出会い、修一は戸惑った。
「一つだけ……先程の動画は、削除して、頂けないでしょうか」
何かをこらえるように俯いた千秋の語尾は微かにかすれていた。
「わかった」
その時の千秋がどんな顔をしていたのか、修一にはわからなかったが、千秋を残したまま部屋を出る。
どれくらいしてからか、玄関が開閉する音がした。
修一が書斎に戻ると室内は綺麗に片付き、プロジェクターの電源も切れていた。スリープしていたPCを立ち上げ、添付ファイルのついたメールを開く。アドレスはでたらめに見えるアルファベットと数字の組み合わせで、ドメインは大手検索サイトのフリーメールだった。
どんな理由からだったか、もう一度見たい衝動には駆られたが、そのままメールを削除する。
こんな卑劣な真似をする男と千秋は関係があったのか。そう考えると憤りを覚えるが、自分が千秋にしたことも十分卑劣だと認識はしている。
「くそ」
何に対してか苦い思いを吐き出して修一はPCをシャットダウンした。
「もしもし?」
「どうして、あんなことを?」
呼び出し音が途切れた瞬間、千秋は何より先にそう問いかけた。電話越し、男が微笑むのが気配でわかった。
「ご機嫌斜めだね。何をそんなに怒ってるの?」
「社長に、鷹取に、私の映像を送ったのは、貴方ですね?」
「ああ。そう言えばそんな悪戯をしたような気もするな。彼が見るという確証もなかったけど、その様子だと、叱責でもされた?」
「どうして、あんなことを?」
携帯電話を握る手に力がこもる。千秋は唇を噛んだ。
「どうして、か。お前と鷹取社長が深い関係らしいってことを聞いてね。少しやきもちを焼いただけだよ」
そんな理由であるわけがない。自分には彼を追い詰めるような言葉もないのかと千秋は再び無力感を味わう。何が目的なのか、それさえ知ることはできないのか。
「お前は僕のものだ」
しばらくの沈黙の後、隆生は囁くように優しく告げた。
「それを、彼に思い知らせたかった。ただ、それだけだ」
「貴方はずっと昔、私を捨てました。今さら、そんなことをしてどうなるんですか?」
「言っただろ。僕には珍しいことだって。捨てた物でも、他の人間が大切にしているとわかった途端、惜しくなったんだ。今は、後悔してるよ。お前を、手放すんじゃなかったって」
「私は、物ではありません」
千秋の言葉に、また隆生は笑った。
「いや、お前は物だ。美しくて可愛い、玩具だよ」
千秋、と隆生が電話越しに呼ぶ。隆生に愛されていると、必要とされていると信じていた頃と同じ声で。何も言えなくて、千秋はまた唇を噛んだ。
「僕は、お前が欲しい。他の誰かじゃ満たされない。ようやくそれに気付いた」
「……」
千秋は無言で携帯電話を強く握った。指先から身体が冷たくなっていく気がした。
「優秀で、賢くて、美しくて……それに、お前は弱い。縋るものが、信じるものが、全てを捧げる対象が、お前には必要だろ?僕は、いつでもお前の全てになれる。何でも与えてあげられる。帰っておいで。勿論、会社の中にもお前の席は用意するよ。僕の隣に」
「やめて下さい。もう……あなたには会いません」
「そんなことできるの?」
電話越し、隆生が微笑んでいるのを千秋は感じる。彼に対して自分がどれだけ無力かはよく分かっていた。それでも言わずにはいられない。
「あなたとのことは、誰にも、鷹取にも話していません。話せなかった。でも、今は、必要なら全て話してもいいと思っています。もう終わったことだと、胸を張って言えるようになるなら……」
「そんなに僕から離れたいんだ」
一瞬の間があった。千秋は自らを叱咤するように、はいと短く告げた。
「いいよ。お前がそうしたいなら」
「え?」
隆生の意外な言葉に千秋は耳を疑う。しかし隆生の声は微かに笑いを含んでいた。
「僕はお前を側に置きたい。その気持ちは変わらないんだ。だから僕は僕のやり方でお前を取り戻す努力をするよ」
「……」
何も言えない千秋に、またね、と隆生は告げた。一方的に切れた電話を耳に押し当てたまま千秋はしばらく動けなかった。
修一に何もかも打ち明けて、そして全部終わったことだと宣言できれば、それで済むような気がしていた。全てがおさまるような気がしていた。けれど、それは幻想だったのかも知れない。
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