第14話

 明け方の部屋。遮光カーテンの隙間から朝日が微かに漏れている。昨夜の疲れを引きずったまま訪れたホテルの一室。ベッドサイドに置かれた二つのワイングラスは、両方とも空になっていた。ベッドは、修一が眠っている方しか使われなかったらしい。窓際のカウチにバスローブが一着、放りだされている。

 その寝顔に、何故か胸が締め付けられるような気がした。

 静かにベットの端に座り、千秋は修一の腕に触れた。

 「社長……」

 それくらいのことでは、起きないだろうと千秋は思っていた。しかし意外にも修一はすぐに目を覚ました。

 「どうした?……千秋?」

 「おはようございます」

 んん、と呻きながら修一は額に手を当てた。昨日は、千秋ではなく、別の相手と過ごしたはずだった。もう一度千秋を見る。いつもオフィスで見かけるのと同じような、隙のないスーツ姿だ。

 「慶は?」

 「帰りましたよ。起きそうもないから迎えに行ってくれと連絡がありました」

 「そうか」

 ベッドの中で軽く伸びをした修一はまだどこかぼんやりとした様子だった。

 「起こしにこなくても、大丈夫そうでしたね」

 そう言って微かにため息をついた千秋。立ち上がろうとしたその時、修一が手を掴んだ。

 「妬いてるのか?」

 「寝ぼけていらっしゃるんですか?」

 「いや。お前の顔を見たら目が覚めた」

 キスしてくれ、言いながら修一はシーツの上から固くなった自分自身に千秋の手を触れさせた。おざなりなキスの後で千秋は嫌そうに修一を見た。

 「昨日は、お楽しみだったんじゃないですか?」

 「いや、それがそうでもない。久しぶりに飲み過ぎて、多少遊んだが最後までやってない」

 「あまりお時間が」

 「朝食はお前でいい」

 「社長!」

 千秋をベッドに引きずり込むと修一は覆いかぶさって上着を脱がせた。

 「シャワー、浴びてきたんだろ?」

 いい香りがする、修一は片手でタイを緩めながら、もう片方の手で器用にシャツのボタンを外す。

 首筋をかすめた唇の感触に、千秋は微かに喉を鳴らした。

 寝起きの温かい肌に、千秋は不思議な安らぎを感じていた。慣れた重さ、愛撫の軌跡。半ば快楽に流されそうになっていた千秋を修一が突然現実に引き戻した。

 お前と、千秋の内腿に唇を寄せていた修一がゆっくりと顔を上げた。

 「昨日、誰かとやったのか?」

 「え?」

 甘い空気を断ち切るように、自分のことは棚に上げて修一は少しだけ表情を険しくした。

 「派手に噛まれてるぞ」

 気付かなかったのか、そう問われ、千秋は返す言葉を見つけられなかった。

 「一昨日はなかったし、俺はこんな痕つけてない」

 「社長……」

 同じ場所を甘噛みしながら修一は千秋の後ろに触れた。

 「中に、他の奴のなんか残ってないだろうな?」

 「あっ……止めて……ください」

 修一は乱暴に千秋の中をかき混ぜる。千秋は逃れようと身体をよじったが修一はそれを許さなかった。

 「しゃぶれ」

 耳元で千秋に命じて、修一は身体を起こした。千秋は身体を引きずるように起こすと修一を口に含んだ。

 修一は千秋の頬を両手で挟んだまま、千秋の愛撫を見つめ続けた。視線が気になるのか、千秋は時折上目使いに修一を見る。

 「飲みたいか?かけられたいか?」

 その顔を自分自身から引き離しながら修一は静かに千秋に聞いた。千秋は唐突な問いに戸惑いながらも修一の目を見返した。

 「かけて下さい。できれば、顔以外に」

 修一の苛立ちを感じる。自分は他の相手とも寝るのに、千秋がそうすることは許せないらしい。再び自分自身を咥えさせると、修一は軽くあごを突き上げて目を閉じた。

 「ん!」

 唐突に口内に吐き出された液体に千秋はむせた。修一を放した後で思わずせき込む。

 「全部飲めよ」

 あごを掴むようにそう言った修一を千秋は半ば驚きの中で見上げた。

 千秋の濡れた唇を、修一の指が乱暴に拭った。

 背信だと、そう思っているのだろうか。ベッドから下りた修一はすぐにタバコを咥えバスローブに袖を通した。

 「先に行ってろ」

 ですが、と言いかけた千秋を修一は肩越しに少しだけ振り向いた。

 「タクシーで行く」

 「わかりました」

 バスルームお借りしますと断って千秋は脱ぎ捨てた服を手に寝室を出た。

 千秋の足にできていた痣を思い出しながら修一は新しいタバコに火をつけた。

 どうしてこんなに腹が立つのか。

 平然としている千秋に対してなのか、千秋を好きなようにできる自分以外の男に対してなのか、それとも、こんな中途半端な関係性にも関わらず独占欲を抑えきれない自分に対してなのか。

 戻ってきた時、千秋はいつも通りきちんとしたスーツ姿だった。物言いたげな千秋の表情には気付いたが、言葉を交わすことなく修一はバスルームに向う。

 綺麗に整えられたバスルームに、千秋の細やかな気遣いを感じる。もう部屋を出ていっただろうか。

 千秋には、恋人がいるのか。それとも、飯田のように彼に興味を持った男と会っているのか。知りたいと思いながら、最初に自分が偉そうに宣言した言葉に修一は縛られていた。この上、プライベートまで束縛しようものなら、いくら千秋でも自分に愛想を尽かすかも知れない。そんな風になるぐらいなら、どっちつかずの関係でもこのままでいた方がいい。

 昨日は久しぶりに慶と会った。以前はよく一緒に遊んでいたが、ブラックドレスナイトで売れっ子になってしまったこともあり、いつしか店以外で会うことは少なくなっていた。千秋を使って籠絡した飯田のような人間は、ほぼ全員がクラブ・ライズの常連になっている。慶曰く、ぎりぎりのビジネス、だそうだが、千秋にはさせたくないことだったからこそ、彼らに慶を紹介している。慶自身や彼の人脈を駆使して、利用済みになった人間は極力千秋から遠ざけるようにしてきた。勿論、売上が増えるのだから慶たちにとっても悪い話ではない。

 全てビジネスだと、割り切ってきたはずだった。それがいつの間にか、私情に挟まっている自分に気がつく。休日であっても、仕事はいくらでもある。仕事の為にできることはたくさんある。その時間を、自分は今、何に、どうやって費やしているだろう。

 会社も、従業員も大切であることに変わりはない。その為には、誰かや何かを犠牲にすることも仕方ないと思っていた。しかし、今はそう思えない。少なくとも、完全に思いきることはできなくなっている。

 シャワーを浴び、修一はバスルームを出た。そこに千秋がいないことに安堵し、同時に失望する。

 窓辺のサイドテーブルには、腕時計と千秋のメモが置いてあった。

 ―八時二十分にはご出発下さい―

 相変わらず綺麗な字だなと感心しながら、修一はメモを見つめた。



 「珍しいですね。続けて一人で来てくれるなんて」

 今日は黒服姿の慶が上目づかいに笑う。

 「何か、あったんですか?」

 囁くような声音に潜む好奇心は修一の中のくすぶるような感情に油を注ぐ。

 何の話だとそっけなく言い放った修一。慶は空になったグラスを手元に引き寄せウィスキーを継ぎ足した。

 「修一さんの本命って、どんな人ですか?」

 「本命?」

 「いるんですよね?」

 「どうして?」

 「わかりますよ。僕、イロコイのプロですから」

 押し黙った修一は差し出されたグラスを取ると一気に半分くらいを空けた。

 「プロなら、どんな奴か当ててみろよ」

 そうですね、と慶は口元に笑みを浮かべる。焦らすような、楽しむような間があった。

 「見た目は、美人でしょうね。修一さん好みの、ちょっと冷たそうな感じがする……。性格もきっと、人前ではクールで仕事もできて、有能で、周りから怖がられてるような人じゃないですか?」

 答えは知っている、慶はそう言いたげな微笑みで修一を見つめる。

 「お前、性格悪いな」

 「ありがとうございます」

 にこりと微笑んだ慶は、好奇心を抑えられない様子で、だけど、と続けた。

 「二人でいる時はどうですか?」

 「ベッドって意味か?」

 「まぁ、そうですね。僕はそういうタイプ、あまり縁がないので」

 「そうだろうな。お前ネコだし」

 「僕はどっちもいけますよ?」

 試してみますか、と目を輝かせる慶に遠慮すると修一は首を振る。

 「お前、どうせどSだろ?」

 「わかりますか?そんな風に見えないってよく言われるんですけど」

 「いや、滲み出てるぞ?」

 そうですか、慶は気を悪くした様子もなく笑顔のまま何度も頷いた。

 「つまり、修一さんは、従順な人が好きってことですね」

 「そうだな。縛られてどつき回されたいって思うような趣味はないからな」

 「僕だってそうですよ」

 間延びした慶の声。こいつは怖いと修一は改めて感じる。見た目とのギャップという意味では千秋といい勝負かも知れない。

 「そういう人って、ベッドでは可愛いんでしょうね。修一さんが夢中になるくらいだから」

 「いつ俺が夢中だと言った?」

 「やだな。見てればわかりますよ」

 僕、プロですから、無邪気に慶は笑い、ねぇと甘えるような声音で修一を上目づかいに見る。

 「僕が、修一さんの好きな人と寝てみたいって言ったら、怒りますか?」

 「抱かれたいのか?」

 「いえ、抱いてみたいなって」

 「本人同士がいいなら俺に止める権利はないけどな」

 「そうですよね。僕、千秋さんに貸しもあるから」

 あ、言っちゃった、と悪びれず笑う慶に、修一は、やっぱりこいつは曲者だとため息をつく。

 「やっぱりそうなんだ」

 「は?」

 楽しげに修一の様子を見守っていた慶が不意にそんなことを言った。

 「千秋さんなんですね。修一さんが好きなの。今朝ホテルまで迎えに来てもらっちゃったの、まずかったですか?」

 「今さらだろ。そんなこと」

 不機嫌そうに杯を空けた修一のグラスを慶はそっと引き寄せた。

 「どうせお互い、認めてないんでしょ?」

 何がかと問うような修一の眼差しに慶は思わせぶりな笑みを浮かべた。

 「まぁ、本人同士がいいなら、僕は全然構いませんけど」

 「お前、そんな性格悪かったか?」

 「そんなこと言うの、修一さんくらいですよ」

 悪びれず慶は笑う。差し出されたグラスを手にとって、修一はそのままテーブルに置いた。

 「どうかしました?」

 「いや。少し、疲れた。車呼んでくれ」

 「かしこまりました」

 慶は恭しく頭を下げ、席を立った。

 慶からはそう見えるのかと、ここしばらく思い悩んでいた事柄の新しい面を修一は知った。夢中だとからかわれたが、そう言われても仕方ないのかも知れない。秘書だから、一緒にいれば楽だから、そんな理由で会社以外でも千秋を連れまわしているのは事実だ。

 千秋がそこにいることが、当たり前になりすぎた。今さら、適切な距離、を保つためにはどうすればいいのか。

 「車来ましたよ」

 慶に見送られ、修一は店の外に出た。

 「それじゃぁ、お休みなさい」

 慶は腕を伸ばして修一に軽いハグをした。

 「ああ」

 抱きしめてみると覚える違和感。慶は誰かより背が低い。そんなことに気がついてしまう自分にうんざりしながら、修一はタクシーに乗った。

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