第13話

 逃げているはずなのに、いつも追い込まれてしまう。

 修一に知られたくないと思えば思うほど、逃げ道は狭くなっていた。そうやって今夜も、隆生の隣に立っている。

 「懐かしいだろ、この部屋」

 「……」

 隆生に背後から抱きしめられながら、千秋は湾岸の夜景を見下ろした。水平線は闇の中で消え、橋とその上をいく車のライトが海を横切っている。

 「ここで、何度もお前を抱いたね」

 まだ、畏敬の内に愛情を抱いていた頃、隆生に触れられることは何にも勝る喜びでしかなかった。必要とされること、求められること、愛されていると感じること、隆生に与えられる全てが尊くて、それだけでいいと思っていた。

 「……」

 無言で唇を重ねてきた隆生。その腕に抱き寄せられながら千秋は身体の力を抜いた。

 どうして、自分はここにいるのか。どうして今でもこの男の言いなりになっているのか。もう全部失って、全部終わった筈だったのに。

 「チェロは?」

 「え?」

 「続けてる?」

 「ええ……」

 唐突な隆生の問い。千秋は戸惑いながら頷いた。

 「後悔、したことはない?」

 隆生の優しげな声に千秋は目を上げる。穏やかな目をして、まるで自分を労わるようにじっと隆生がこちらを見つめていた。

 「何をですか?」

 「チェリストの道を諦めたこと」

 「プロになれるような才能、私にはありませんでした」

 そうかな、と隆生は千秋の髪に触れながらその目を見つめた。

 「あの時、どうして選らばなかった?」

 あの時は、と言いかけ千秋は隆生から視線を反らした。

 もし今でも音楽の道に進みたいと思っているなら、音大を卒業するまでの学費と生活費は全て援助してもいい。本当にやりたいと思うことを選びなさい、隆生はかつて自分にそう言った。

 まだ隆生の全てを知らなかった頃、その言葉はただ自分を感動させた。こんなに寛大で尊敬すべき人間は、隆生以外にはいない、まだ若かった自分はそう信じていた。だからこそ、隆生の申し出を受けることはしなかった。

 あの時は、もう、隆生のいる世界が、何より魅力的に思えていた。隆生の傍にいられることが、演奏者として生きる道よりずっと輝いて見えた。だから選ばなかった。

 「実際、音大だって受かってたんだ。お前には才能があった」

 「いいんです、もう……終わったことですから」

 目を合わせないまま首を横に振った千秋。

 「千秋」

 何度この名前を呼ばれただろう。自分を待つような沈黙に耐えきれず、千秋は顔を上げて隆生を見た。その目は静かに自分だけを見つめている……かつて感じた陶酔にも似た感覚が蘇るようだった。

 「お前は嘘つきだね……。悲しい嘘つきだ」

 隆生は千秋の目に衝撃と恐怖が広がるのを確かに見た。何年も前に見た純粋で傷つきやすい美しい瞳がそこにはあった。

 「傷つくのが怖い?失望するのが怖い?手に入らないなら欲しがらない、いや、欲しくないと言い張るんだ。そうやって自分を守ろうとしてる。何年経っても変わらないな」

 「そんなこと」

 「そんなことない?お前の強がりは可愛いよ。抱きしめてあげたくなる」

 「やめて下さい」

 自分の腕に抗った千秋を軽々と抑え込みながら隆生は笑う。

 「それも強がりだ」

 「どうして……」

 「理由を聞くのが好きだね。どうして?」

 隆生の腕の中で千秋はただ立ち尽くした。

 どうしてと、聞いたところで隆生は決して答えなど与えてはくれない。わかっているのに、声を上げてしまうのは、それがほとんど言葉にはならない悲鳴だからだろうか。

 「答えられないなら、僕が教えてあげようか。不安なんだろ?全てが、自分が。自分の価値がいつでも不安で仕方ない。それなのに、自分の足で立つことを、自分の羽で飛ぶことを、誰より強く望んでる。自己矛盾は誰にでもある。だけど、お前はそれを一人で抱えるには弱すぎるんだよ」

 千秋は隆生の言葉に目を見開いた。

 「私はもう、子どもではありません」

 絞り出すようなかすれた声に、隆生は優しく微笑んだ。潤んでいるようにも見える千秋の瞳を、頬に手を添えながら覗き込む。

 「僕の前では、お前は永遠にあの時のままだ」

 拒絶する間もなく、重ねられた唇。千秋は目を閉じることなく、隆生を見つめ続けた。

 隆生の目が笑っている。

 抗えるなら抗えばいい、逃げられるなら逃げればいい。それができないことはお前が一番わかっているはずだ。

 そんな声を、千秋は聞いた気がした。

 「お前には僕が必要だ。僕はお前の自尊心を満たして、不安を打ち消せる。僕に必要とされることでお前は自分の価値を見出してた」

 違うの?顔を間近に寄せたまま、隆生は囁くようにそうきいた。

 「……ちがう」

 目を見開いた千秋はかすれた声で呟いて微かに首を横に振った。

 そんな千秋を憐れむように隆生は口元だけで笑った。

 「そうかな。お前が僕の傍で感じてたものは他人に対する優越感だったんじゃないの?」

 「ちがう……」

 「だったら教えて欲しいな。千秋はいつも僕の隣で何を感じてた?自分を見つめる他人をどんな風に眺めてた?」

 隆生に向けられる多くの羨望の眼差しが、すぐ側に立つ自分にまで向けられているということを、確かにかつての自分は知っていた。それを、どう感じていたのか。そんな視線を自分たちに、自分に向ける人間をどう思っていたのか。

 千秋には、目前で穏やかに微笑む隆生がただ怖かった。

 「千秋」

 答えを促すように隆生が呼んだ。千秋は弱々しく首を横に振って、隆生の肩に額を押しつけた。

 許して、そんな声が隆生の耳に届く。

 「いい子だ」

 隆生は囁いて千秋の髪を優しく撫でた。

 「千秋がどんな嘘つきでも、僕は千秋を責めないよ」

 千秋の髪に口づけながら、子どもに言い聞かせるように隆生は囁いた。

 おいで、と抱きしめていた腕を解いて千秋の手を引く。

 千秋はうな垂れたまま隆生に従った。手首を掴む隆生の手に、それほど強い力が込められているようには感じられなかったけれど、どうやっても自分はこの手から逃れられないのだろうと絶望的な気持ちになる。

 千秋の手を離しながら隆生はベッドに腰掛けた。微笑みのような表情で千秋を見上げ視線を合わせる。

 「鷹取社長は、知ってるの?僕と会ってること」

 「いえ」

 「そう……。まぁ、知ったところでいい気持ちはしないだろうからね。彼は、強そうでしなやかで、野生の肉食獣みたいだよね。それもまだ成獣に成りたてくらいの獣の、怖いもの知らずな無邪気さもある」

 息が詰まるような沈黙。穏やかな表情を崩さない隆生に、千秋はかえって不安になる。

 「千秋は、無口になったね」

 「え?」

 「昔から口数の多い方じゃなかったけど。でもそれも悪くないと思うよ。ベッドの中で余計饒舌に見えるから」

 隆生はベッドから立ち上がると千秋を腕に抱くようにしてジャケットを脱がせた。

 「タイはもっと明るい色の方が似合うよ。僕が昔あげたのは、もう持ってないの?」

 千秋のタイを外しながら隆生は囁くようにそう言った。隆生にはいろいろな物をもらったけれど、全て処分してしまった。隆生に関わる物は何一つ残しておきたくなかった。懐かしさより痛みが、愛しさより苦しみの方がはるかに勝るとわかっていたから。

 修一がシックな色合いを好んで身につけるので、彼以上に目立つような色を選ばないようにしていたというのもある。しかしそれ以上に、隆生が好きだった色、自分に似うと言って選んでくれたような色は無意識にも避けていた。

 こんな風に再び時間を共にすることなんて、想像もしていなかった頃、自分の中から隆生を消すことで頭がいっぱいだった。消せない、消したい、忘れたい、忘れられない、そんなせめぎ合いが何年も続いた。できるのはせめて、生活の中に残った隆生の痕跡を一つずつ消していくことだった。

 軽い音を立てて、隆生が千秋の首筋にキスをした。

 「何を考えてる?」

 かすれた声は甘く、重く千秋を戒める。冷たい手がそっとわき腹から胸を撫で上げた。それだけのことで千秋は息苦しさを感じる。

 千秋の髪に触れながら隆生は焦らすようにゆっくりと唇を重ねた。求めてくるのは隆生なのに、千秋には自分がいつも隆生を追いかけているような気がしていた。

 「ん……」

 巧みな隆生のキスに千秋が微かな声を漏らす。思わず隆生の腕を掴むと不意に唇が離れた。

 驚いたように自分を見つめる千秋に隆生は微笑んだ。

 「今でもキスだけで感じるんだ」

 「っ!」

 「鷹取社長はお前を可愛がってくれないの?」

 「何言って……」

 「彼が、好きなの?」

 ベッドに押し倒された千秋は茫然と隆生を見上げた。その顔にいつものような笑みはなかった。

 「僕がお前をここまで仕込んだ。ちょっとした刺激にもいやらしく反応するように。それなしじゃ生きられないくらい深くまで、僕はお前の身体に快楽を植え付けたつもりだよ。他の誰かが今はその恩恵を享受してる。最高の身体と」

 「あっ」

 「声と、表情と……」

 足の間に押し付けられた隆生の膝。痛みと快感の境界を心得たぎりぎりの力から千秋は逃れようと身体を浮かすが隆生はそれを許さなかった。

 「なのに……彼は、それをずいぶん安売りしてるみたいだね」

 千秋は息を飲んだ。隆生はそっと千秋の頬に指先で触れる。

 「それとも、悪いのは千秋なのかな……。一人の男じゃ我慢できなくて、売春まがいのことしてるの?」

 「そんなことしてない」

 悲鳴にも似た千秋の声。隆生はようやく微かに笑った。

 「そうか。それならいい」

 千秋と繰り返し呼ばれる名は、昔のような祝福でも栄光でもない。同じ声で同じ響きで、何も変わってはいないはずなのに、どうしてこれほど苦しくなるのだろう。

 目を閉じながら、修一を思った。その時初めて、修一に会いたいと、そう強く思った。

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