第12話
隆生と初めて会ったのは、大学のオーケストラによる定期演奏会だった。
父親の会社の経営が悪化し、希望していた私立の音楽大学ではなく、国立大学の経営大学に入学して三ヶ月ほど経った頃だった。チェロへの未練はまだあったが、オケのメンバーには魅力的な人間が多く、アマチュアであっても音楽を続けられることは楽しかった。
公演後の打ち上げに大学OBである隆生はやってきた。学生時代から起業し、現在はオケのスポンサーまで引き受けている青年実業家は、後輩たちにとっては誇りであり、憧れでもあった。
端正な顔立ちの中で下がり気味の目が彼を優しく穏やかに見せていた。声も表情も柔らかく、話し方も仕草もどこか洗練されている。隆生がどんな企業を経営しているのかその時の千秋は知らなかったが、若くして成功した人間にありがちな強引さも傲慢さも隆生からは全く感じられなかった。
「初めまして。遠藤です。チェロ、弾いてたよね。新入生には思えなかったけど、プロ目指してるの?」
「いえ……祖父がチェリストだったので、小さい頃から習ってたんです」
「そうなんだ。一年生がソロパートやるってほとんどないから、驚いたんだけど、すごくよかったよ。名前は?」
「深澤千秋です」
大勢の人間の中で、隆生が自分だけを見つめている。周囲から羨望の眼差しを感じ、千秋は頭が真っ白になるような感覚に襲われた。
「千秋、いい名前だね」
甘く深みのある声がよろしく、と告げる。
それから二人とも同じ経済学部だということがわかり、経営に興味があるなら自分の会社でアルバイトをしてみないかと隆生に誘われた。勿論学業優先で、試験や公演が近くなったら休んでも構わないと隆生は言ってくれた。実家からの援助には甘えられないと思っていた時だったので千秋はすぐに承諾した。
「うちはいつからでもいいよ。ただ、他のメンバーには内緒にしておいてね」
驚いた千秋に隆生は秘密を打ち明けるように少しだけ笑った。
「希望すればコネ入社できる、みたいに思って安心しちゃうのは、皆の為にもならないから。正式なルートでしか学生は雇わないんだ。だけど、千秋は……何となく、他の子たちとは違う気がしたから。今から実戦を積めば社会にでても必ず役に立つし、お父様の力にもなれるかも知れない」
だからたくさん勉強しなさい、最後は父親か年の離れた兄のような表情で隆生は千秋の頭を撫でた。
それは考えられないような幸運だった。
隆生の会社は千秋でも知っている有名なインターネット検索サイトを運営する大手のIT企業だった。子会社にはネットサービスや通販、人材派遣、証券会社、銀行などがあり、隆生はクレバースグループ全体を統括する社長だった。
「千秋」
懐かしい夢を、見ているのだとそこで気がついた。彼は、どんな形であれ、自分を必要としていた。それが、ただ嬉しかった。彼に与えられる全てが、誇らしかった。当時の自分にとっては神にも等しかった存在。いつか捨てられる日が来るとしても、それでもかまわないと思っていた。
初めて足を踏み入れるようなホテルの豪華なスイートルーム。ブラインドを全て上げた大きなガラスの向こうには、東京という街が広がっていた。その壮大な眺めにさえ背を向けて、傲然と佇む男。
「おいで」
彼は告げて、自分を窓辺へ導いた。
「すごい……」
眼下の眺めに思わず漏れた感嘆。傍らの男は満足げに笑った。
「隆生さん……」
抱きしめられた時の衝撃。喜びと不安が同じ速さで千秋の胸に広がる。
千秋、と彼は呼んだ。
「愛してるんだ。お前を」
「え」
突然のことに返す言葉も見つからない。どうしてとか、いつからとか、そんな疑問さえ浮かばなかった。ただ彼が何を望んでいるかだけは感じとることができた。
「初めて会った時から、お前は特別だった」
千秋は息を飲んだ。出会った日のことは今でも鮮明に覚えている。穏やかに微笑む彼の、他の誰とも違った存在感に魅了された瞬間。まさかこんな日がくるとは考えもしなかった。
「千秋……嫌なら、そう言って?僕は、千秋に嫌われることが一番怖い。お前が望まないなら、ずっと今までのままでもいい」
「隆生さん」
頬にかけられた手に促され、視線が重なる。
見慣れた下がり気味の目元に漂う甘い柔らかさに千秋は見とれた。多くの人間の視線を集めるこの男が、今この瞬間、世界中で自分だけを見つめている。自分のことだけを考えている。憧れ続けた存在が、今、自分の気持ちを知りたがっている。夢の中にいるような浮遊感を千秋は感じた。
「嫌じゃないの?」
囁くような声で彼が問う。その問いに千秋は首を横に振った。
なら、と男は優しげな目元をさらに下げて微笑んだ。
「触ってもいい?」
頷くとすぐ柔らかく唇を塞がれた。初めはついばむように優しく、次第に情熱的になっていくキス。やがて千秋の背にガラスが触れた。その軽い衝撃に思わず目を開けると、彼はまた優しく笑った。
ベッドに行こう、そう囁いた男は自分の手首を掴んで寝室まで手を引いた。
キングサイズのベッドには真っ白なシーツがかけられている。思わず立ち止った自分の肩を抱いて、彼はゆっくりとベッドに腰掛けた。
「千秋は、初めて?」
頷いた自分に男は満足げな笑みを浮かべた。
「僕が全部教えてあげるよ」
初めて目にした彼の甘い笑み。囁き声。指先はあくまで優雅で繊細だった。いやらしささえない。彼に触れられ、次第に露わになっていく肌にも抵抗はなかった。上目遣いのまま、彼が自分を咥え愛撫する。その眼差しに、微かな笑みに、煽られていくことを感じていた。女のような声を上げ、彼に足を開く瞬間まで、全ては夢のような幸福だった。
初めて身体を貫かれた痛み。怖いのは痛みではなくて、彼を失望させることだった。他には何も、何もなかった。
「痛い?」
身体を繋げたまま優しい表情で彼が聞いた。悲鳴を上げそうな唇を噛んで、首を横に振る。
「可愛い。でも、我慢しなくていい」
泣いてごらん、彼はそう言って確かな力がこもった指先を自分のあごにかけた。
「あぁっ!」
「いいよ、千秋。もっとだ。もっと泣いて見せて」
彼の熱い唇が笑みを湛えたまま首筋を這う。
「あ……たか、お、さん……」
感情に関係なく、ただ涙が流れた。
悲鳴の止まない唇を、彼が激しいキスで覆う。感情では慰めきれない痛みに、千秋は男の下で震える。
「千秋……好きだよ」
「たかお、さん……おれも、俺も好きです……」
その背に爪跡が残らないように、手のひらで、指先でしがみつく。
彼は笑う。どんな力にも揺るがない、屈しない、彼は王者のようだった。その強い眼差しが自分だけに注がれているという事実が、その瞬間、何より誇らしかった。
彼は笑う。全てを手に入れた、そんな人間の優雅で傲慢な笑みだった。
あれから、と薄められていく闇の中で千秋は不意に目覚めた。
「……」
傍らでは修一が静かな寝息を立てている。起こさないようにそっと上体を起こし、明け方の冷たい空気の中、床に脱ぎ捨てられた服を見る。
いつか見た光景だった。
あれから何年経っただろう。それなのに自分は、あの時とは別の、同じような場所にいる。そんな状況に飽くことなく、甘んじている。
恋人という、優しく清らかな響きは、似合わない。愛人とか、情人とか、つきまとうのはそんな重たげで湿度の高い呼び名。それでも、修一を憎いとは思えない。
彼がもし、誰にも興味がないのなら、自分が大勢の中の一人でしかないのだとしてもかまわないと思っていた。修一はずっと、隆生より優しい人間だから、きっと自分を裏切るようなことはしないだろうと、どこかでそう信じていた。しかし、篠森潤と初めて会った時、修一の中には彼がいることを知った。
誰にも、期待などしてはいけない。誰のことも、信頼などしてはいけない。
自分はただ、必要とされているだけ。愛されているわけではない。
「千秋?」
「すみません」
「どうした?」
いえ、とベッドに上体を起こしたまま千秋は微笑んだ。
枕元の時計はまだ五時前だった。
「いつから起きてた?」
投げ出されていた手に指先で触れながら、冷たい肌に彼が一人で過ごした時間を修一は思った。
「少し前です」
嘘つけ、言いながら修一が千秋の腕を引いた。
「社長?」
「身体が冷えてる。気付かなかったのか?」
眠りから目覚めたばかりの人は、その身体は温かく、高い体温に守られるように千秋は修一の腕の中で目を細めた。
「抱いて、頂けないですか?」
「何だその言い方……」
どこまで俺を敬う気だと修一は呆れた顔で千秋を見る。
「玩具の方からせがむなんて、身の程をわきまえていないと」
「違うだろ?」
「え?」
自分の言葉を遮った修一を千秋は見つめる。
「お前を生身の玩具だと俺が思ってるとでも言うのか?そんなものに時間を割いて喜んでられるほど、俺は暇じゃない」
もっと、と修一は千秋に顔を寄せながら囁く。
「俺の心を掴む言い方、できないのか?」
「難しいことを、おっしゃいますね」
微かに苦笑する千秋の頬に修一はゆっくりと手をかける。
何かを期待するような好奇の眼差しに千秋は唇を震わせる。修一の手に手を重ね、指先を引き寄せて柔らかく唇で食む。
「貴方が、欲しい」
それは愛の告白のように真摯に聞こえた。そうきたか、と修一は口元だけで微かに笑った。
「どんな風にされたい?」
千秋の顎を指先で持ち上げながら修一は視線を重ねてそう聞いた。
「貴方の、お好きなように」
「殊勝なことを」
うっすらと微笑んだ千秋。見慣れているはずの修一でさえ、惚れ惚れするような美しく妖艶な表情だった。のしかかってきた修一を見つめたまま千秋はゆっくりと脚を開く。
「いい心がけだ」
「あ……」
修一はと千秋の内腿を手のひらで撫で上げ、首筋に唇を落とす。千秋は一瞬身体を震わせ、躊躇いがちに修一の髪に指先で触れる。
「朝一の定例、だるいな」
少し遅れても、と言いかけた修一の髪を撫でながら千秋はダメですと言い切った。そう言われることを見越していたのか、修一は微かに笑った。
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