第二十六話 神威落日

 決着は、翡翠の陽光降り注ぐ中で。

 鬼神に身をとし、音速すら超える力を得たルンガオ・ウォンは、今まさに命の灯が潰えようとしていた。そのことに対して、彼自身抗しようとも思っていない。

 愛刀・忘生清宗の亡き今、もはや生きる目的もなし。そもそもが、自分は最初にあれと出逢った時、その刃に斬られてみたいと思ったのではなかったか。

 であればこれは、最初で最期の抱擁に相違ない。

 自分の心臓を貫く刃。共にこうして逝けるのであれば、奪われ続けるばかりだった人生の締め括りには、充分に過ぎる。……悪くない、まったく悪くない。


「なんだ、その顔は」


 力尽きて座り込んだウォンの顔には、いつしか安らかな微笑みが浮かんでいた。それを訝しんで、ジュイキンは眉根を険しくする。


「貴様の大事なものを叩き折ってやった。お前の目的、望みも命も、もはや叶うことはない。もっと悔しそうな顔をしろ! 悲嘆と絶望にまみれて死ね!」


 折れた剣を握った手で、ジュイキンはウォンの顔を殴りつけた。

 これを引き抜く時、内力と神気を注ぎ込んで内臓も経絡けいらくもズタズタに破壊してある。余命は残り数秒もないだろう。

 だが、その前に。


「お前が――兄と同じ、満足げな顔をして逝くんじゃない!」


 繰り返しウォンの顔を殴り続けながら、ジュイキンは叫んだ。……それでもなお、恋人と共に過ごしているような柔らかな笑みが、この男から消えない。

 それは、胸の奥深くから滲み出している幸福の影だった。

 ジュイキンには決して奪うことが出来ない、ウォンただ一人のためだけの温かな色彩が、死相の隅々に行き渡り、血の代わりに潤している。

 それを悟って拳を下ろした時、ついぞ流れることのなかった涙が頬を伝った。無念を抱えさせて葬るはずが、なぜ自分の方が敗北感に打ちひしがれるのだろう。

 復讐は徒労だった。その理解に体の力が抜け、これまでの疲労と負傷が鉄槌のように襲いかかる。大きく傾いだ体を、後ろから来たグイェンが受け止めた。

 二人の目の前でウォンは事切れ、姿が黒く蒸発していく。


(……最後の最期に勝ち逃げか)


 ああ、もう一度殺してやりたい。もういない男にそんな思いを募らせること自体が、あまりに屈辱的だった。噛み締めた唇から、ぷつりと血が流れる。


「ごめん、ジュンちゃん」


 行き場を失った復讐心が、己自身に牙を剥きかけた時、その声が聞こえた。


「……オレ、間に合わなかった。お師さまも、ジュンちゃんも……」


 謝りながら、グイェンはジュイキンの背中に掌を当てて内功治療を始めている。

 温かなものが流れ込み、乱れた気脈と血流を整えていた。電撃を受けているような激しい全身の痛みが、無視できるほど小さく尖った違和感へ収められていく。


「いや、ちゃんと大事な所に、お前は間に合った」


 安心感と心地良さに誘発された眠気が、ジュイキンの無念を解きほぐした。石畳に焼き付けられた黒い痕、仇敵が最期に居た証に目をやる。

 そこには、消魂しょうこん時の燃焼現象から焼け残った刃が、鈍く光っていた。


「お前なら、私を取りこぼさないと思っていた。リュイ師姉も、お前なら上手くやるだろうと信じてくれていたろうさ」

「……うん」


 グイェンの返事がどこか遠く聞こえるのは、ジュイキンが意識を手放しかけているためだ。だが、あともうひと仕事が残っている。


「さてさてお疲れ様! いよいよ最後の仕上げだよ、ジュイキンくん!」

「……言わずもがな」


 足元でけたたましく騒ぐ黒猫の姿を、ジュイキンは不機嫌に見やった。愛猫をそんな風に見たことはないが、その体を借りているローに関しては鬱陶しい。


「いやあグイェンくん、この結果は中々上等だよ。ウォンが鬼神化した時は、君の魂を二割から三割ばかり叩き込めば、まとめて霊母ごとをころせるものと計算していたけれど、こうして温存することが出来た!」

「グイェンは火薬庫ではない」


 上機嫌で語る黒猫の首根っこをジュイキンは掴み上げた。


「大丈夫だよ、ジュンちゃん。そうやって一つ一つ魂を削っていけば、最後にオレ一人だけが残る。それでいいんだ」


 何かを吹っ切ったようなグイェンの声に、少し考え、ジュイキンは猫を下ろした。どのみち、積もる話は後だ。空を見上げれば、翡翠の小太陽が低い。

 ウォンが事切れた瞬間から、それはゆっくりと山を降りつつあった。

 龕宮がんぐうに戻るのではなく、ようやくすべて揃った自らの世継ぎ――二つに割れた天猟てんりょう心母しんぼを目指している。

 猫の影がぐぅっと大きく伸び、人の……ロー・ジェンツァイの形を取った。それはすぐに厚みを持って立ち上がり、闇色に染まったローの姿になる。


『さ、ちょっとその柄を貸しておくれ』


 言って、手を伸ばすローの影に、ジュイキンは折れた忘生清宗を渡した。

 彼女の指が刃を挟むと、柄の部分がぱらぱらと一センチ四方の破片に次から次へとめくれ上がって、中から脈打つ翡翠色の塊が現れる。

 分解され、紙吹雪のように宙を舞う剣柄の残骸にローは頓着しない。残った部分を足元に投げ捨てると、折れた刃はそれでも業物の鋭さを持って、深々と突き立った。

 ローが天猟心母の片割れを掴み、ジュイキンの胸に押し付けると、何の抵抗もなくそれは体内へと吸い込まれていった。


「……こんな簡単でいいのか?」

『今だけなら、ね。後できちんと定着するよう手術するから安心しなさい』


 一抹の不安を覚えながらも、ジュイキンは空を覆う翡翠の小太陽を見上げた。巫化ふか霊導れいどうが起動し、熱を持った白の光線が体表を覆う。

 ジュイキンは懐から、残っていた峨嵋刺を取り出した。牙が届く所まで来たのならば、得物はなんでもいい。指に峨嵋刺を嵌めて、くるくると回す。


「それでは、如夷霊母猊下――」


 こちらへ近づく太陽は、巨大な女の顔に変わりつつあった。これがローの言っていた、神灵の元になった人柱なのだろうか。そう思うと、いささか哀れではあった。


「――しいしたてまつる」


 せめてもの手向けに宣言し、ジュイキンは光に向かって拳を突き出した。


                 ◆


 ミンリー(鳴律めいりつ)は泣きべそをかきながら、一人夜の山道を歩いていた。彼女はほんの一ヶ月かそこら前に、八朶はちだしゅうに来たばかりの幼い少女だ。

 ニングに襲われ、大怪我をして、それがやっと治ったと思ったら今度は逢露ほうろきゅうが戦火に見舞われた。どうして、こんな目にばかり遭うのだろう。


「おとぉさぁん……おかあさぁん……」


 母は媽京まきょうで、父は一緒に逢露宮まで来たが、最初の日に引き離されてからずっと会っていなかった。もしかしたら、父もこの争いで死んでしまったのだろうか。

 どこをどう逃げたのか自分でも覚えてないが、気づけば片腕をざっくり斬られていた。手は動くけれど、熱くて痛くてしびれてて、腕がとても重たい。


「おとう、さん……おかあさぁん……」


 逃げ回る中で出会った青年に助けを求めたら、彼は親切にも壁の外の抜け道まで案内してくれた。「この道を進んだら、先に行った子たちがいるから!」と告げ、急いでどこかへ行ってしまったが、それから誰にも会っていない。

 青年に出会う少し前から、緑に輝く太陽が出て辺りは明るくなっていた。それでも、暗い夜の森に入るのは怖くて足がすくむ。

 勇気を出して踏み入ったけれど、行けども行けども人がいる気配はしない。緑の光が差し込む夜の森は、お化け屋敷のように思いがけず気味悪かった。

 結局、心細さに負けてミンリーは来た道を引き返している最中だ。

 壁の所まで戻った時、人影が見えた。安堵するよりも、また襲われるのではないかと慌てて木陰に隠れようとする。だが、聞こえた声は懐かしいものだった。


「ミンリー!」

「おとう……さん?」


 ウォンの死に寄って解放された元無缺環むけつかん・キンダーは、ようやく自分の娘を見つけた。顔は青アザだらけで、誰のものとも分からない血と煤に汚れ、無惨な有り様だ。

 それでも、今この瞬間だけは、彼は自分の傷を忘れて娘を抱きしめた。ひとしきり、互いの無事と再会を喜び合う。


「逃げるぞ、ミンリー」


 キンダーの言語野に起きた障害は一時的なもので、今は二度目の切断がショックになったため、逆に回復していた。


「こんな所に居ちゃいけない。あいつらは、ニングを助けるなんて口先ばかりだ! 大丈夫、お父さんと一緒なら、きっとやっていけるさ」

「おとうさんといっしょなら、どこでもいい」


 我が子を抱きかかえ、森へ分け入ろうとしたその時、二人の背後で猛烈な閃光が起きた。けれど、爆音や地響きといった破壊的な音はしてこない。

 一体何が起こっているのか……恐る恐る、手でひさしを作りながらキンダーは振り返った。そこに広がった光景に、思わず目を見張る。


 逢露宮の中から、輝く光の巨樹が天へ向かって伸びていた。


 一瞬前まではなかったはずのそれは、今も刻一刻と年輪を増やし、枝を長くし、葉を茂らせ、空を覆っていく。その全てが、淡く翡翠に色づいた白光で出来ていた。

 瞬く間に鐘楼を超える大きさに成長したその樹は、不意に光を失うと、たちまち萎れ、朽ちていく。葉は瑞々しさを失って散り、枝は自重を支えきれずに折れ、幹は内側から裂け、雪崩を打つように塵へと変わり、消えてしまった。

 後には、空に焼き付いた巨樹の残像だけ。ぽかんとした父子の内、先に口を開いたのは娘のほうだ。


「おとうさん、あれ、なに?」

「……分からん。分からん、が」


 キンダーは再び、逢露宮に背を向けた。


「わたしらは、自由だ。行こう」


 そして二人は、夜の森へと消えていった。

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