第二十五話 涙一粒にも満たない
淡く翡翠に色づく小太陽が、
障害物の多い下を諦め、壁の上を走っていたグイェンは、棒立ちになってその様子を見た。目を丸く大きくして、それから眩しさに細める。
「……なにあれ!?」
『ルンガオ・ウォンの仕業だよ』
白紙で折られた鳥が、グイェンの頭上を飛びながら言った。ミアキンのように分霊を憑依させた自動操縦ではなく、本陣からの通信と遠隔操作だ。
『彼は妖剣・忘生清宗の柄に込められた
「いたっ。いたたたっ」
『いいから走る走る! なんでまた女の子を拾って、さっきの抜け道に戻るかな!? ジュイキンくんが本当に死んじゃうぞ!』
「ごめんなさい! ホントごめんなさい!」
リュイが先にあちらへ到着したことを、ローは黙っておくことにした。それでグイェンが油断して、また寄り道されては困る。
状況が切迫していることはグイェンにも分かっていた。
ただ腕を血に染めた小さな女の子が、泣きながら歩いていて、挙句に視線を合わせて「たすけて」とまで言ってきたのだ。降参するしかなかった!
こうしている間にも、友達のジュイキンがどうなっている気が気ではない。ローのお小言を聞きながら、グイェンは山頂目掛けて
◆
少し遊びすぎただろうか、とウォンは苦笑半分に考える。
万全を期すために四肢をもいでから、チ・ジュイキンの心臓を抉って殺すつもりだったが……あの青年の苦悶は、なんとこれまでの溜飲が下がることか。
元はと言えば、お門違いの逆恨みにも等しい想い。それでも、あの男の罪と目的を背負った最後の愛弟子を、許す訳にはいかぬ。
――ただ、
認めるのは業腹だが、チ・ジュイキンの言うように、自分は信仰の道を踏み外したのだろう。
ひとえにそれは、〝知りたい〟という欲望を抑えることが出来なかったがため。
彼女は、そこにいますか? 二百年も前に死に、剣になった女が、その名残すらも消された魂が。それでも、森羅万象――この宇宙のどこか彼方に、神灵の眼差しの届く
声が聞こえた訳ではない。言葉があった訳でもない。ただ、問いをもって触れた時、その感触は温かく、優しかった。
そこには何もないなどとほざく不信心者はいっそ哀れだ。これまで己が手にかけたもの、残らずすべて、神灵の御元にある。
そうでなくてはならぬ!
幾千幾億光年の彼方にて、在りし日の死者たちに出会った時、自分が殺した者たちに復讐されるとしても。人の命は、魂は失われてはならない。
その恩寵を与えて下さる唯一のものを、あの狂人に奪われてなるものか。ただ奪われ続けるだけのこの人生で、今度は、自分が奪ってやる。
◆
ウォンの顔を見るのも何年ぶりだろうか、とリュイは思い返す。最後にきちんと顔を合わせたのは、グイェンの弟子入りが決まった時の祝いだから五年だ。
二週間ほど前の
そして今――思っていたより男前になっていて安心したが、酷い傷痕だ。それに、全身にベルトを巻きつけたような拘束衣じみたお仕着せ。
こちらは使っていた棍が折れたので、拾い物の三節棍で間に合わせたが、さてこれでどれだけ相手出来るか。
「俺にお前を殺させる気か、ショウ」
「やれるもんならね」
そうして、リュイは軽々と死線を踏み越えて見せた。友人の肩でも叩こうとするような、気安い一歩で両者の間合いを交わらせる。
それに遅れを取るウォンではない。構えさえ取っていない脱力した状態から、堰を切ったような激しさで剣戟の
傍から見れば、鋼と鋼が軽く、だが神速で触れ合うばかりの応酬。その内実は熾烈な先の読み合いであり、技を競い合う精神の闘争だ。
三節棍を頭上で旋回させる
互いが互いに技の出始めからそれを封じにかかり、応じて次から次へと型を変えていく。合わせ鏡のように技と技が連環する果てなき迷図だ。
どちらかが応じ損ねれば最後、必殺の一撃が炸裂して果てるのみ!
リュイの三節棍は木ではなく精錬された金属だが、ウォンの白刃は内力と神気を漲らせ、容赦なく棍本体を切り刻み、削り取っていく。
と、切っ先が狙いを変えた。棍と棍をつなぐ環が澄んだ音を立てて切断される。リュイは短い棒となった棍を頭上に投げ上げ、自分の髪で掴み取った。
真っ二つになった金属棒は、鋭利な切断面を持って気絶したままのジュイキンの傍に突き立つ。その後に、毛先を斬られたリュイの髪がはらりと舞った。
辺りの夜気をそよめかすのは、両者のぶつかり合いが生んだ
「お前との
微かに瞼を震わせたジュイキンの耳に、ウォンの声はわずかに柔らかさを持って、不可解に響いた。長い時を過ごした幼馴染にだけ向ける声だ。
「そうだよ、あたしが勝ち越したままなの、覚えてるかい?」
「二十八対、二十七だったか」
「そ。将棋はあんたの勝ち越しだったけどね。その分、勝たせてもらうよ」
距離を取っての軽口はそこまでだった。ウォンの纏う空気が、呼吸が鋭いものに変わる。気息を巡らす導引、更に深い練り込みへ。
「ショウ、俺に勝てるつもりでいるのか。まだ俺を人間と思っているのか?」
「そうさ、あんたを連れ戻しに来た」
「願い下げだ」
ウォンは目を細め、瞳の奥からざらつく眼差しを送った。
「俺はな、ショウ。ただの一振りの、剣になりたかった」
「それは剣じゃない、剣鬼だよ。そんなんで、あんたの人生はどこへ行くんだい?」
鬼神についての知識はリュイには無い。だが、ここまでの比武で、決定的な変化を彼女も感じ取っていた。諦めるべきかと自分に問い、否定し、食い下がる。
「ルンガオ師父のやったことを、あんたが背負って苦しんできたのは知ってる。それを片付けて、自由になれるんじゃないのかい! それなのに、これは」
「――猊下の中に愛を見つけた」
「なんだって?」
その一言で、リュイの表情筋は硬直と脱力という相反する二つの運動を同時に、そして見事に行った。次いで、目の前の幼馴染が何を言っているのか理解に苦しむ。
つ、とウォンは忘生清宗を持ち上げた。
氷のような白刃が、冴え冴えとした気品を募らせる妖剣。一瞬、彼が女性を抱き抱えているように見えたのは、あまりに悪質な錯覚だった。
「分かるか、俺はこれ以上に美しいものを知らない。これまで出会うことがなかった運命だ、過去も未来も斬り伏せる摂理だ。それと出会うために生まれてきたのなら、喜んでこれまでの
晴れ晴れと微笑んでウォンは言った。
幼い頃、リュイと共に野山を駆け回った時の、無邪気な顔を思い出す。懐かしいそれとよく似ているのに、同時に、底抜けに歯車が狂ってしまった笑い。
毒気が無さ過ぎるがゆえの純粋毒のごとき、聖人の笑みだ。
「つまりお前は、進んで神灵の慰みものになろうと言うわけか」
挑発する声は、震えながら身を起こそうとするジュイキンのものだった。黒猫が何か言いたげに袖を噛んで引っ張るが、彼は気にも止めようともしない。
翡翠の陽光の下で、血にまみれた隻眼隻腕は壮絶な有り様だった。
「人間を愛することも愛されることもない剣鬼め。なるほど、このまま神灵の剣になれば本望だろうさ。そうなる前に、私が貴様の命も魂も絶ってやる」
傍に突き立っていた三節棍の残骸を掴み、それを支えに立ち上がろうとする。が、その足は生まれ立ての子鹿のように震え、痙攣していた。
その少し離れた場所――山頂へ続く最後の山門前へ、グイェンの姿が近づいているのをその場の全員が認めた。
「それなら貴様はなんだ、
愛弟子を殺すと言われ、リュイの口元と眉が大きく歪んだが、もはやウォンは一顧だにしなかった。天猟心母さえ手に入れば、十魂十神を生かす理由はない。
「兄と師の仇と
改めてウォンはジュイキンに向けて愛刀を構える。
「畜生のまま、死ね」
「それで、あんたも畜生以下になるのかい!」
憤怒の女猟客が再度割り込んだその瞬間、ウォンは一気呵成に剣を放った。これまでのようなリュイに付き合った技比べではなく、鬼神の力を持って。
震撼、そして轟音。引き裂かれた音速の壁、その断末魔が地を舐めた。衝撃波が砂埃を巻き上げ、木々の梢から葉を叩き落し、腹の底まで稲妻を走らせる。
もうもうたる粉塵がゆっくり晴れた時、爆心地の中心でリュイ・ショウキアは、心臓と脊椎を貫かれ、断ち切られていた。
「……は、」
「嗚呼。そうか、そうか、こうなるか」
色のない声音が、ぽつりとウォンの口から漏れる。超音速の空気抵抗によって、彼の上着はただの布切れと化し、傷だらけの肌が露わになっていた。
初めて鬼神の力を使ったものの、ウォンは標的を違えた訳ではない。あくまで邪魔をするならば、まずは彼女から斬って捨てようと決めてのこと。
「では仕方がない。さらばだ、ショウ。幾千幾億光年の彼方にて、また逢おう」
捻りを加えて剣を引き抜き、
その様子を、山門を超え、走り寄りながらグイェンは見た。
「お師さまぁ――――ッ!!」
あえて母と呼んでみても、先に口を突いて出るのは慣れ親しんだそれだ。地に膝をつき、最期の力を振り絞って、リュイの瞳が愛弟子を見る。
その眼が曇り、濁り、光のない
魂無きニングの末路であり、ニングに殺された者の末路である。冥府に彼女はいない、だが、霊母猊下の胎内で待つだろう。
その時、ウォンは油断していた訳ではない。
そこに出来た僅かな意識の切れ目は、涙一粒にも満たない哀悼の念。
彼自身意識しないほどの、友を殺め、もはや取り返しがつかぬという小さな動揺を、ジュイキンは見逃さなかった。
その狙いが、ウォンの五体いずれかであれば、あるいは彼の反応は間に合ったかもしれない。ジュイキンの殺意は、あくまで彼自身に向けられていたからだ。
だがその一撃は、別の所へ向いていた。リュイとのやり取りを地べたで聞きながら、ジュイキンの心に芽生えた静かな洞察。
愛に報いろと言うならば、貴様の愛を奪ってやる。
復讐と執念の一念が見出した答えを、突き出した割れ棍で真っ直ぐに打つ。
ウォンとてまったくの無反応だった訳ではない、その意図に気づいた瞬間、戦慄しながらも腕を上げて防ごうとした。だが僅かな、致命的な遅れがそこにあった。
踏み込みも拍子も完璧。
若き殺戒者をして会心の奇襲。
ジュイキンは、忘生清宗の刀身を半ばから叩き折った。
「――グイェン!――」
業物の澄んだ断末魔をかき消して、すぐそこまで来ている相棒を呼ばわる。あいつなら、どうすればいいか分かるはずだ。そう信じて。
果たしてその通りに、グイェンはすぐ後ろまで来ていた。その眼には一度に様々な物が映り込む――ジュイキンの傷が、師母なき空虚が、空を舞う折れた剣が。
予測されうる葛藤を無意識が抑え込み、代わっていつかの記憶を喚起する。
それを掴んだ、シャン・スーバンと名乗った男の手。
……そして、気合一閃の投擲。
「いたくない!」
折れた忘生清宗、その刀身を投げ放ちながらグイェンは叫んだ。掌が、指が、切り傷にまみれている。指を落とさなかっただけ重畳だが、顔面は涙に歪んでいた。
いくつも、いくつも涙は流れて、もう二度と止まらないのではないかと思う。
「オレは、もう、こんなの、痛く、ないっ!」
剣に切り刻まれる恐怖を、友達を喪うかもしれない恐怖が凌駕した、相克の一撃。それは狙い
無惨な姿になった愛刀が生え、血潮がじわりと広がる傷口。それを呆気にとられた様子で見下ろすウォンの表情は、中々に見ものだっただろう。
その
あの時は、剣への執着に、闘争心が勝っていた。
この時は、剣への執着が、闘争心を凌駕した。
その差が――ウォンの敗因を作ったのだ。
「私たちの勝ちだ、ルンガオ・ウォン」
剣柄を引き抜き、心魂万感の思いで、ジュイキンは宣言した。
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