第二十二話 潰れる果実のパノラマ


 審骸しんがい山脈中央・龍眼りゅうがんほう頂上。かつてこの地にたおれた、娑馗しゃき龍王りゅうおうの眼窩であったという巨大な空洞から、神樹の光輝が空へとそびえる。

 そのふち、荒涼たる岩地の中に、塚のような、岩の塊のような何かがあった。そばで見れば、それは体をくまなく霊符で覆われた人間だ。

 何らかの罪人が墓で眠ることも許されず、番人として屍を晒されているのだろうか。しかし、ほとんど呼吸もせず、心臓の拍動も遅いが、それはまだ生きていた。

 仮死状態だが感覚だけは鋭く、半径十公尺メートル内に何かが近づけば、即座に目を覚ます。だが、今〝それ〟は――彼は、遥か遠くにある存在に起こされた。


「―――――――…」


 如夷にょい霊母れいぼの本体へたどり着くには、この穴から山の内部へと降りていかねばならない。チ・ジュイキンが宣言通り霊母殺しを行うなら、必ずここへ来る。

 今、ルンガオ・ウォンが仮死状態から目を覚ましたのも、もう一つの神樹継嗣が近づいてきたことを察知したためだ。

 目覚めてまず襲ってきたのは、目の中、背骨、胸、腹、指先、全身をくまなく幾千本の針に貫かれている感覚。痛みは麻痺し、虫が入ったような異物感が疼く。

 霊母猊下の継嗣を割ったことに対する罰として――半ば以上は自ら望んで――受けた傷の、治療と言うよりも改造の結果だ。

 体の中に樹械きかいと呪物を詰め込まれ、元の自分がどれだけ残っているか怪しいものだった。それも……今となっては、たいしたことではない。


「――――……―…」


 なめらかで冷たい多幸感が、彼の胸を満たしていた。

 霊母猊下の、神樹の御元みもとにこれほど近づけたのは光栄の至りと言うほかないが、安らぎの中心にはぽっかりとした虚ろがある。

 その奥に、己を見つめる自分自身の眼差しを感じた。固まった関節を無理やり動かしながら、ウォンは握りしめた愛刀を見やる。

 忘生清宗はもはや、元の光蘭刀こうらんとうの原形を残していなかった。雷、あるいは植物のように、刀身が枝分かれし、何かが脈打つように淡く明滅している。


「…―…―…………―」


 人身御供の剣。それを浄化する、と僧侶たちは言った。かつてこの剣になった名も知らない女は、意味を分解され、思念や感情の名残りもすべて抹消されたのだ。

 いつかその女のことを知りたいと思っていた。ロー・ジェンツァイが仕掛けた罠が発動した時、おんなが哭く声を聞いたと感じた。錯覚でもなんでも良い。恋でもなんでもない。ただ、このけんのことを知れば、そのまま心底惚れてしまうだろうという予感があっただけだ。愛せるかもしれなかっただけの、愛していないなにかだ。


「――そ……――れ……」


 贄になった女は消えた、だがその魂は剣の中に残されている。意味を失い、重さを失った魂魄に、新たに代入された意味が、霊母猊下の継嗣、その片割れだ。

 何も憂うことはない。敬愛する猊下の分身を、剣という形で手に出来たこと、法悦の限りであろう。だから、これ以上望むものなど何も、ないのだ。


 この戦いが終わった時、自分は自分自身を忘れるに違いない。

 苦しい浮き世を忘れ、心は彼岸へ流れ去る。

 後に残るのは、半永久的に門番として動く樹械人間だ。


「――……それで……――」


 それでお前は満足か? ルンガオ・ウォン。


                 ◆


 うだるような熱さの中で目を覚ますと、視界がチカチカと眩しく、頭が痛くなるような耳鳴りがした。暗い密室、息が詰まって重苦しい。

 この熱さは、体に刻まれた巫化ふか霊導れいどうが白く光り、体温を上げているせいか。額を拭おうとすると、手首には蔦の束が巻きついている。

 苛立たしい気持ちでそれを外そうとして、ジュイキンはようやく自分の状態を思い出した。手首、胸元、首、頭部に蔦の束を巻かれ、あるいは先端の棘を刺された拘束状態。蔦の先にあるのは、放射線状に体を開いたディーディーだ。


「どれぐらい気絶していた?」

「気絶じゃない、思念速度飛翔と言うんだ。上位自我での行動だから、現象自我の君には認識できないだけで。時間にしてたった九秒だ」


 答えたローの額には、縦に瞼を開けて、第三の眼が現れていた。白目のない赤く輝く眼球は、生きた宝玉のようだ。千里眼、というやつだろうか。


「え、もう終わり?」


 斜め後ろからグイェンの声が聞こえる。ジュイキンは椅子に腰掛けたまま、横の棚に置かれた時計を見やった。確かに、ほとんど針が動いていない。


「接続自体は一瞬だったから、数秒遅れたのはジュイキン君の意識の問題だね。なに、人間としては早い方だよ、内功を鍛えているからちょっと違うんだろう」


 言って、ローはジュイキンの胸元から棘を抜いた。にじみ出る血を指ですくってぺろりと舐め、絆創膏を貼る。痛みではなく、ジュイキンは眉をしかめた。


「彼女も、その思速度飛翔を?」


 蔦を外されながら、ジュイキンはディーディーを改めて観察した。

 可憐な少女ニングの面影は、いまや瞑目する頭部にしか残されていない。その体は部位ごとに分解され、奇妙な内部構造を露出させながら、ローが配線した淡く光る蔦につながれていた。人形の体で組み立てた、巨大な蜘蛛の巣だ。


「いや、そもそも飛ばない。この子の意識は深く沈み込んで、寝てるだけさ」

「そうか。……上手く行きそうなのか?」

「首尾は上々、後は結果を御覧ごろうじろ、ってね」

「凄いなあ」

「グイェン、水をくれないか」

「あーい」


 ローは霊母への接続は一瞬でいいと言ったが、その瞬間のために費やす準備がとにかく長かった。差し出されたグラスに口をつけると、水を飲むのが止まらない。


「ジュンちゃん、あわてないで」

「そこに栄養剤を置いてあるから、飲んでおきなさい。この後が本番だからね」


 言ってから、ローは「やっぱり排熱が問題だなあ」と何やら独り言を始めた。巫化霊導図のことならば、長時間こんな熱を出されては確実に体力を持って行かれそうなので、ぜひ改善してほしいとジュイキンは願う。


「さてさて、これから逢露宮は修羅のちまた。聖域を踏みにじり、血と火で穢して神灵を討つ。大罪担う覚悟は充分かな? すべての神灵を滅ぼす大事業、生涯を賭しても終わらぬ仕事だ。しかも末永く、君は悪魔よ魔王よとそしりを受ける」


 ジュイキンは椅子を下りて体を伸ばすと、足元に寄ってきた黒猫を撫でた。先日体を洗ったので、サラサラした手触りは鈴が鳴るような心地だ。


「魔王か。殺戒者さっかいしゃ呼ばわりよりは聞こえが良いな」

「ジュンちゃん、ちゃんとした二つ名ないもんね。〝ヒツムジョー〟より、ナントカ魔王のほうが格好いいよ!」

「いやそう言われると、急にかっこ悪い気がする」

「えー」

「みゃー」


 グイェンが不満げに口を曲げ、ミアキンが構えと鳴く。軽口を叩きながら、ジュイキンは緊張がみなぎっていくのを覚えた。

 十二年暮らした逢露宮を焼き、八朶宗を潰す。その先に、如夷霊母とルンガオ・ウォンが待っているのだ。魔王でも何とでも、余人は好きに呼べばよい。

 世界は美しいと、無条件に信じていた頃があった。

 兄に見捨てられ、初めて世界のおぞましさを知った。

 あの頃と変わらないのは、夕日の美しさ、滅びゆくものの愛おしさだけだ。


「グイェン」

「ん?」


 相棒の顔を見る。もう一度、世界が美しく色づいて思えたのは、ルンガオ師父と過ごした日々と、この少年との出会いがあったから。

 死の間際に見た兄の顔が脳裏をよぎる。


「私は神灵というものが、昔から大嫌いだった。そんなやつらも、滅びる時だけは、きっと美しく愛おしいに違いない。きっと夕日のように――沈めてやろう」

「ジュンちゃん、怖いね」

「そりゃ怖いさ、魔王だからな」


 滅びゆくものは美しい、死にゆく者は愛おしい。

 だから――神灵々々カミガミよ、死ぬがいい。


                 ◆


 祭礼さいれい斎醮さいしょう。八朶宗は暗殺組織であるより以前に、如夷霊母を奉じる宗教集団だ。そのため、年間を通して多くの祭儀と醮儀しょうぎが行われる。

 斎とは醮に先行する潔斎けっさい斎戒さいかい、すなわち身を清め、肉食や性行為を断ち、不浄を遠ざけ祭礼に臨む。醮とは、神灵に対する祭りと饗餐きょうさんだ。

 そのため、一定期間の間に殺生を行った猟客は、祭礼中は逢露宮を離れるよう命ぜられることが多々あった。

 傷の療養に勤めていたリュイは、此度の祭礼で定められた期間に殺生を行っていない。だが、多くの猟客はそうではなかった。


「散れ散れ散れ! こちとら手加減は出来ないよ!」


 事態の収拾を図ろうと走り出したリュイは、即座にその目論見が儚いものであると知った。それでも、適当に拾ったこんを手に、群がる暴徒を蹴散らし、孤軍奮闘する。

 逢露宮に残っていたのは、彼女のような少数の例外と、引退した元猟客、僧侶、そして実戦前の修行者たち。警備のほとんどは、無缺環むけつかんによって賄われていた。

 八朶宗の強さは、その組織力と、個々人の功夫。そのどちらも封じられてしまえば、あまりに脆い。

 何より、無缺環の解放という異常事態は、霊母猊下の御身に何かがあったということを示し、その事実から来るショックは大きい。

 本来、率先して対処にあたるはずの高僧のうち、八人が速やかに始末され、指揮系統は麻痺しきっていた。


「リュイせんせえ」

「ほら、急いだ! 泣くな! 落ち着いて!」


 年少の修行者たちを先導し、リュイは避難場所を探していた。日の落ちた薄暗がりは、いつにない圧迫感がある。

 この子らは祭礼に参加するため集められていたが、二十名ばかりいた人数のうち、三分の一程度しか見つけられていない。逃げたのか、さらわれたのか、あるいは。

 美しく刈られた樹々が燃えていく。壮麗な石垣が打ち壊される。主殿に供えられた供物が、神像が、香炉が倒され転がされていく。

 庭園の池が血と火の赤に染まり、そこかしこに人型の焦げ跡が残されていた。すえた臭いの中、悲鳴や罵声に混じって、銃声まで聞こえてくる。

 二十年を過ごした逢露宮だ。それが崩れ落ちていく様は、目の前で家を焼かれながら、次はお前の番だと告げられた幼児の時を、リュイに思い起こさせた。

 楼閣の上で、勝どきを上げるように旗が翻る。


「我らは打神翻天! 神殺しの兵器・万神ばんしん万死ばんし天猟てんりょう心母しんぼの力をもって、如夷にょい霊王母れいおうぼ娘々にゃんにゃんしいしたてまつる者なり。八朶宗は今日ここで滅び去る!」


 ロー・ジェンツァイの声は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した逢露宮全体に、朗々と響き渡った。いつもの羽織と小袖ではなく、閻国伝統の民族衣装を身に着けている。

 襦裙じゅくんという閻式の短い上着と巻きスカート――その上に何枚も重ね着し、腰帯を締め、翡翠の佩玉はいぎょく等の装飾品をあしらう、まさに仙女然とした姿であった。


「聞け! 八朶宗にて隷属させられたる者たち! 如夷霊母の天命は既に尽きた」


 以前、ウォンを笛津てきしん市に出向させたように、打神翻天はいくつかの都市に別れて細々と活動しており、その全容は八朶宗にも把握されきっていない。

 そこにいる戦力となりそうな人物に声をかけ、あるいは呼び戻し、更に傭兵まで雇い、今日この日のため、集めに集めた武芸者たちは、いい働きをしてくれた。

 贄に使ったニングと、火薬で威力をブーストした方天戟を操る〝没義もぎ戴天たいてん〟。

 人間の耳では捉えられないほど高音のしょうを、鉄扇によって指向性を持たせて叩き込むことにより、三半規管と運動機能を狂わせて殴殺する〝廻聲かいせい舞手ぶしゅ〟。

 外道仙人の実験によって、生まれる前から魂を割られ、「一人で二人」になった魂魄分割者・ユン(かん)姉妹こと〝剪式せんしき撕魂しこん花魄かはく〟。

 重度のニコチン中毒で肺を病み、ローの治療を受けねば生きられないが、比類なき居合の達人・〝如意にょい来悟らいご〟。


「天猟心母は霊母の半身。命衰えしかの女神に代わって、次代を継ぐべき神樹の子株。それは今、我らの手にある!」


 戦場を睥睨するローの背後に、ジュイキンとグイェンは進み出た。ロングコート状の黒い革鎧を与えられ、万全の戦闘準備を終えている。


「この神灵殺しを担う若者、チ・ジュイキンの胸の中に。八朶宗に隷属させられたる諸君、今こそ神灵のくびきを逃れて自由を勝ち取る時だ。我らと共に来たれ! ニングを生み出す、悪しき神灵々々の呪いを焼き尽くせ!」


 ローの手振りに合わせ、ジュイキンは巫化霊導図を浮かび上がらせた。他愛もないパフォーマンスだが、既に暴徒と化し、血に酔った無缺環らには有用だったらしい。

 この図形を彫り入れられて二週間、天猟心母はますますジュイキンの中に根付き、神気は細胞の一つ一つに行き渡った。体は軽く、しかし心は重い。

 眼下に広がるのは、惨憺たる見晴らし。心なごます風雅な庭園は見る影もなく、歴史を感じさせる威容は崩れ去り、黒煙と叫声は止むことがない。


(これが……、絢爛なる逢露宮の最期か)


 神灵殺しに挑む限り、見続けるであろう光景。

 それは腐った果実に似ていた。潰れた果肉が重く垂れ下がり、果汁は吐き気を催すほど甘ったるい。しかも顔面に投げつけられて、二度と取れなくなりそうな。

――それがいわゆる罪悪感だと気づいて、ジュイキンは慄然とした。

 打ち壊されて初めて覚える愛惜の念を振り払い、足早にその場を立ち去ろうとする。その時、不意に聞き覚えのある声がした。もう一度、今度ははっきりと。


「ジュイキン! グイェン!」

「お師さま!?」


 石壁の際に、子どもたちを引き連れたリュイが居た。血にまみれているが、遠目には負傷のほどは分からない。何か言いたげにグイェンがこちらの顔を見る。

 みなまで言う必要もない。ジュイキンは微笑んだ。


「言いたいことを言ってこい、私は先に行って待ってる」

「単独行動は控えてほしいにゃあ」


 口を挟んだのは、ローの声でしゃべるミアキンだ。ジュイキンは眉をしかめて、肩に乗った黒猫の首根っこを掴んでぶら下げた。

 ローの疑似分霊を憑依させた通神鬼……というものらしい。ミアキンには余計な影響はない、と重々確認した上で、ジュイキンはこの処置を承諾した。


「その口調はやめろ」

「せっかく借りてるんだから、雰囲気は大事だにゃん?」

「やめい」


 ローはミアキンをしゃべらせている間にも、演説を続けている。どういう並列作業かは分からないが、この女が神仙のたぐいだという話は間違いないようだ。

 仙道と言った場合、多くの場合は道士を指す。仙術を極めた本物の神仙は、遥かなりし仙界へ渡り、余人が目にすることはない。


「オレ、行ってくる」


 居てもたってもたまらない様子で、グイェンは楼閣を飛び降りた。がごん、と大きな音を立て、着地点に亀裂が走って半円状にへこむ。

 多くの者が足を取られて転倒したが、当の本人は気にもかけず、まっしぐらに師母の元へ走った。

 その様子を微笑ましく見たのは一瞬で、ジュイキンは顔を引き締める。ぶら下げたミアキンの体を肩に戻し、楼閣の階段へ降りながら問うた。


「ロー・ジェンツァイ。お前はなぜ、心臓移植を自分の手でやらなかった?」


 盗まれた神樹の子株を改造したことに始まり、ディーディーの躯体を製造し、あげくに〝霊訊〟の不正接続から神灵の内部機構改竄とまで来ると、ローが単なる山師ではないと認めざるを得ない。だが、それだけに疑問がある。


「天猟心母のような重要な物、お前自身が執刀すべきだったのではないか」


 であれば、自分が巻き込まれるのはともかく、兄のフージュンは、今も生きていたかもしれない。ジュイキンの胸中に見透かしたように、ローの声に笑いが混じった。


「だって当然だろう? は人の手で殺してこそ意味があるのさ」


 その意味を問うた所で、仕方がないのだろう。ジュイキンはそれ以上の詮索を諦め、楼閣の扉の前に立った。


「ああそうそう、待ち構えているだろうウォンとの対決に際して、ディーディーからの伝言だ。『私の首の仇もお願いします』ってね」

「ならこう返してくれ。『先約がある。諦めろ』」

「私は電話じゃないよ」


 腰にはローから渡された長剣がある。その手応えを確かめながら、ジュイキンは外へ出た。あとは打神翻天の精鋭が、如夷霊母への道を切り開いてくれる。

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