第二十一話 開幕・打天事変

 大閻帝国だいえんていこく東部・蘿州らしゅう賽革さいかく問天とうてん神領しんりょう――すなわち神霊庁の直轄国有地。その最果て、龍王の屍と知られる審骸しんがい山脈に、八朶はちだしゅうは本拠を構えていた。

 深山幽谷の当地に一歩踏み入れば、まず空の美しさに目を奪われるだろう。神樹の光輝が蒼穹に枝を垂らし、脈動となって、眼下の人間たちを見守る聖域だ。

 この地の空は澄み切って、なめらかな青の中で脈打つ光は、縦横無尽に駆け巡る流れ星の群れを思わせる。特にこれが美しいのは夜明け前だ。

 薄目を開けた空にかすれる夜闇の紫が、真紅から黄金、黄金から白い曙光へと刻一刻変化すると共に、金糸の脈動が絡まり合い、幾重にもグラデーションする。

 神秘的な光の芸術そのものだが、何事にも慣れてしまうのが人間というものだ。逢露ほうろきゅうで暮らす者たちは、今更、空模様にいちいち驚きはしなかった。


「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」

「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」

「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」


 山門と牌楼はいろうの間、石畳の参道で掃き掃除する無缺環むけつかんたちの挨拶に、返礼する者は滅多にいない。僧侶、あるいは猟客りょうかく、年若い修行者でさえそれを無視する。


「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」

「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」

「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」


 だがそんなこととは無関係に、彼らの声は一様に快活だ。


「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」


 最近、新しく環の一員に加えられたキンダー(青路せいろ)の朝は早く、夜は遅い。

 それは彼に限ったことではなく、逢露宮で働く無缺環のうち半分がそうだ。もう半分は日中を寝て過ごし、夜通し働く。


「おはようございます! 良い朝ですね。おはようございます! 良い朝ですね」


 ここへ来てもうすぐ一ヶ月になるが、彼の中で時の流れは意味を持たない。どれだけ日数が過ぎようと、キンダーの内面はもはや変化を覚えることはなくなった。

 仕事は環に加えられた時から、必要な作業のための記憶が植え付けられた。いつ何をすればいいのか、すべてが分かる。自分の能力で余る仕事は、他の者を呼ぶ。

 ここへ来る前は媽京まきょうに住んで、電樹でんきの栽培と販売を行う会社に勤めていた。彼は営業担当で、売った電樹は複合機械の部品になる。

 いい会社だったはずだ、多分。今はもう、「良い」の基準が分からない。現在の生活にとっては、給料も待遇も、無価値な基準でしかないからだ。

 そういえば家族もいた、妻と娘。妻は媽京に置いてきた。娘は、野良ニングに襲われた時一緒で、二人そろってニングにされてしまったのだ。逢露宮に来て間もなく引き離され、記憶の中の自分は随分とそれに抵抗していたものだが……。


 娘がいた、それは覚えている。引き離された、それは知っている。

 だが、キンダーの思考はそこから先へは決して進まない。

 今の彼の中から、その箇所は不要とされて封鎖されてしまったから。


「おはようございます! 良い朝ですね」

「おう、おはようさん。今日もご苦労ご苦労」


 本日初めて挨拶を返したのは、リュイ・ショウキアだ。二週間ほど前には大怪我をして全身包帯だったが、今はすっかり快復している。


(まだ、〝ならし〟の終わってないやつか)


 無缺環の自我調整は繊細なもので、感情や意志を多重に拘束しつつ、半年から一年をかけて馴染ませていく。不自然な表情と平坦な抑揚は、調整中の無缺環には顕著な特徴だ。リュイのキンダーに対する印象はそれだけだった。

 後は性別や年格好を認めただけで、目鼻立ちすら記憶に残らない。彼女は山門をくぐって、第一の主殿・吉燈殿きっとうでんへ、その前の足つき大香炉へ向かう。

 リュイは作法通り、持参した線香を、次に金紙を燃やして供えた。それぞれ火に焚べる場所や順番が決められており、供えるたびに三度のお辞儀をする。

 線香は甘く、花を潰したような香気が重たく立ち込めた。気怠く眠気を誘うそれに抗いながら、リュイは瞼を下ろして物思いに耽る。


(アタシは、何をしている?)

(いや、アタシは結局、まだ何もしちゃいない)

(じゃあ、何をすべきなんだい?)


 その問いが繰り返し繰り返し、リュイの脳裏で空回りし続けていた。

 ジュイキンに手を貸すことは出来ない、神灵カミ殺しなど論外だ。グイェンともども行方をくらましたままとはいえ、彼はいずれ逢露宮へ攻めてくるだろう。

 その時、リュイはまた武器を取り、ジュイキンを討つ。やるべきことはハッキリしている……それなのに、迷いが消えない。


――あたしはこれまで、いつも己の心に逆らって生きてきた。

――これが最善だと偽って、これぞ正義と騙して。


 呼吸の仕方を忘れたような焦燥感が、体の奥でくすぶり続けている。何かがおかしい、間違っている、だが何がかは分からない。

 例えばそれは、行方知れずになった愛弟子。例えばそれは、弟弟子と殺し合う心苦しさ。例えばそれは、変わり果ててしまった幼馴染。

 それぞれのことが、それぞれに苦しく、けれど何かが更に絡まり合っているような、漠然とした苦悩だ。

 目を開けると主殿を後にし、リュイは前日にしたためた霊符を取り出した。正気鎮心・逐怪ちくかい破邪はじゃ、不安定な精神や、苛立った神経を鎮める願掛けだ。


安命あんめい鎮心ちんしん嚇々陽々かくかくようよう、日ハ東方ニイヅル。兇惡ヲ断却シ、不祥ヲ祓除ふつじょス……」


 符を香炉に焚べ、祈りを口にし、辞儀して彼女は次の主殿へ向かった。

 足取りは軽く、背筋は伸び、肩は颯爽と風を切る。そう見えるよう振る舞いながら、リュイの心はずしりとした重みを抱え、臓腑は破れんばかりだ。

 彼女を知る者がその内心を聞けば、きっと〝らしくない〟と驚くだろう。だが、そうだ、何もかもがらしくない。最初から、すべて、らしくない。


――でもな、グイェン。正義なんてお題目は、所詮、強い者の言い繕いに過ぎんのよ。お前は、正義よりも、自分の心が正しいと信じるもののために、戦うといい。

――最善はきっと、お前の心こそが知っている。


(……偉そうに言っておきながら、情けのない)


 こみ上げる苦味は、毒々しいほどに己を蝕む。

 すべての主殿を回り終えたリュイは、それから練兵場で汗を流して休日を過ごした。やがて日が暮れ、赤い夕焼けが長く長く影を引き伸ばしていく。

 像身功ぞうしんこうで作られた、偽りの影。八朶宗の門人は逢露宮内であっても、常日頃から影を形作って気を抜かないのが習わしだ。

 無缺環は他者と魂魄をつなげることで欠損を補完し合うため、自らの影を持つことが出来る。故に、ここで影が無いのは、未熟な修行者ぐらいのものだ。

 だから初め、リュイは即座に異変に気が付かなかった。横を通り過ぎてから、その男が無缺環の服装をしていることに思い至り、後ろを振り返る。

 掃除から炊事の仕事に移っていたキンダーは、虚ろな眼で立ち尽くしていた。赤い欄干の回廊に、リュイの長い影だけがもたれかかり、男を幽霊のように見せている。

 何度目を凝らして見ても、その足元に、影が、ない。


「――ありえぬ――」


 思わずリュイは口に出した。ニングは影なき霊弱者、如夷霊母の力でもって魂を連結され、まったきヒトへ生まれ変わった。それが、影が、消えるということは。


「なに……を、した?」


 かすれた声はリュイではなく、キンダーのものだ。背筋から虫が息吹くような怖気に、彼女は思わず後ずさった。あってはならないことが起きようとしている、その予感に打たれ、武人としては情けないほどの戦慄を覚えている。

 だが、それは彼女ではなく、八朶宗の誰もが同じ反応をするだろう。無缺環が、ただのニングに戻るなど。それは彼らの神灵が、力を失ったにも等しいのだから!

 キンダーは血走った眼で詰めより、爪を立ててリュイの肩を掴んだ。


「なにをシた。わたしのくすだまたちに、迎えのひと、うさぎを放した?」


 支離滅裂な言葉に、充血する血潮は憤怒と憎悪。生きた人間の焼け付くような体温が、肩からリュイの体にも伝わってくる。

 それでようやく、彼女は無缺環が元はただの人間だったのだ、と不意に思い出した。八朶宗の一機能ではない、個々の人生と人格を持った、人間。

 自分たちは彼らに何をしてきた? ニングの運命から救うとうそぶきながら、その実は記憶や感情を都合よく捻じ曲げ、奴隷に、道具に変えたのだ。

 キンダーは足元にあった壺を持ち上げ、それをリュイの側頭部で砕いた。


「こんな……集まれ! 集まれよくもねねそま、ま、マネを!!」


 それは原初の炎を呼び覚ます怒りだった。自分と愛するものが踏みにじられた、内心の自由という冒されてはならぬものをズタズタにされた、いかなる人間も感情のスイッチを入れられずにはおかない、致命的核心。

 悪人でも聖人でも愚者でも、それが人間であるならば、己の全存在を懸けた怒りを覚える力を持っている。自分自身を根元から焚べ尽くしてでも、天高く炎を上げ、許されざるものを必ずや破滅させるべしと吼え立てるのだ。


「くじくるなよ湖畔垂れ昨日の隣はどこだ隣を返せ遅く遠く愛にいるんだ周波数きみたち絶対絢爛なる太陽まらしだ周波数周波数周波数周波数周波数周波数! 若さが決めた隣に土曜日の島を落とす! 迎えをまらして燃えぬ凱旋門!!」


 倒れたリュイの腹を蹴りながら、キンダーは自分でも訳の分からないことを喚いた。不意の切断処理によって言語野が破損している。

 蹴り足を掴まれ、キンダーはひっくり返った。顎に掌底を打ち込まれ、あっけなく気を失う。彼の怒りを、リュイの功夫は遥かに凌駕していた。

 だが立ち上がる彼女の体はふらつき、足は生まれ立ての子鹿のように震えている。自分たちが何を踏みつけにして生きていたか、ようやく思い知らされていた。

 八朶宗の歴史で一度も無かったことが、始まろうとしている。そして、これが誰の仕業か、彼女は既に承知していた。


「来るんだね……ジュイキン」


 欄干から辺りを見回せば、雲霞のように悲鳴と怒号が押し寄せていた。まもなく、殺戮と嵐が聖域に喰らいつき、飲み干そうとするだろう。

 迷いを抱えながら、リュイはそれでも欄干を飛び越え、戦いへおもむいた。


                 ◆


「初めに言っておくが、打神翻天われわれは弱い。国家機関である八朶宗とは、組織としての力があまりにも違う。だから、我々にしかない武器を活用しようじゃないか! 螢霊けいれい玄君げんくんたるこの私と、天猟てんりょう心母しんぼ――神灵の力を」


 ローはそう言って、対面に座すジュイキンを掌で指し示した。

 円卓に着いた打神だしん翻天はんてん幹部の眼が、一斉に注がれる。冷たくも鋭くもない、だが確実にこちらを値踏みする眼差し。

 耿月山こうげつざん守墓人洞しゅぼじんどうは、山中に縦へと掘り抜かれた地下施設だ。その第三層、改築で設えられた会議室で作戦会議が始まろうとしていた。

 そこには〝鬼道きどう魁手かいしゅ〟、〝五嵐舌ごらんぜつ〟、〝迅欲神じんよくしん〟等々、一角の武侠や道士の姿も見える。ジュイキンらは言葉を交わすのも顔を合わせるのも、これが初めてだった。

 これまで数度の交戦で、ジュイキンは打神翻天の構成員を殺傷しているが、そのことについては不問にするらしい。もっとも、こちらから仕掛けたことはなく、襲ってきたのもほぼシャン・スーバンを名乗っていたウォンの指示だ。

 物分りが良くて助かるが、それだけ天猟心母への期待が高いのだろう。あるいは、ロー・ジェンツァイの統率力のたまものか。


「さて、弱い奴はズルをするしかないのが世の常」


 卓上に置かれた甘い茶を一口飲み、ローは逢露宮攻略作戦を解説する。ジュイキンの隣、ガチガチに固まっていたグイェンが、それを見て茶に口をつけた。


「理屈上、天猟心母を手に入れた時点で、我々は八朶宗を滅ぼす力を持った。何しろ、彼らの組織基盤はその大部分を霊母の力に依存している。それを実際に運用するのは、権限を一部貸与された高僧〝太夫たいふ〟だが、最上位はやはり霊母だ。そして、その次代である天猟心母は、少し誤魔化してやるだけで同等の権限を獲得する」


 グイェンにならって茶を飲もうとしていたジュイキンは、思わずむせかけた。

 ローの言う通り、霊母を通じて魂を連結した無缺環と、それを利用した魂魄同調秘匿回線〝霊訊れいじん〟は、八朶宗の人的資源と情報力の大部分を担っている。


「つまり――彼らのシステムをすべて掌握できてしまえる」

「だから必死で取り戻そうとしてたんだねえ」


 自信深く言い切るローに、緊張感を無くしたグイェンがのんびりと同意した。ジュイキンは茶を飲みなおして問いただす。


「待て。向こうもそれは把握しているのだろうな?」

「ああ。といっても、ウォンは多分知らされていない。そのへんはかなり上の高僧連中ぐらいでしか共有されてない情報だ。私は、まあ神灵の性質には詳しくてね」

「ならば、事前に対策が打てるのではないか」

「それはない」


 迷いのない断言だった。


「対策するということは、神灵の内部構造に手を加える、ということだよ。そんな真似、神聖なる絶対不可侵の存在に対して出来るかい? 自分たちの信仰対象だよ? だから、彼らは分かっていても手の施しようがないのさ」


 納得してジュイキンとグイェンはふむふむと頷いた。

 いつの間にか空になっていた茶杯に、ディーディーが熱々のおかわりをそそぐ。西洋女給風のエプロンドレス姿だ。


「さて、私が考える作戦だが。実は少し前から、霊訊の盗聴には成功していてね」


 再びジュイキンは茶をむせかけた。


「!? なん――」


 椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。なんだそれはと訊こうとした瞬間、頭の上に柔らかい物が落ちてきた。大量の猫のぬいぐるみに埋もれながら抗議する。


「――だこれは」二重の意味で。

「はい静粛に。ルンガオ・ウォンのことは最初あまり気にしてなかったんだけれどね、ディーディーの躯体を調整している時、妙な電波を拾うから、調べてみたんだ。そこから何年もかけて、大変だったんだよ? おかげで、彼の通信記録に限ってなら、閲覧も可能になった。それで密偵だと知ることも出来たというわけさ」

「かーわーいー」


 ぬいぐるみを一個拾い上げてグイェンはご満悦だ。幹部連中は、こちらを見て忍び笑いを漏らしている。冷めた顔で見ている者も、いるにはいるが。

 ジュイキンは椅子に座り直し、仏頂面で肘をついた。先の風呂の件といい、こんな悪ふざけの塊のような女によく組織の長が務まるものだと不思議でたまらない。

 八朶宗は帝国全土から、一部は国外にまで無缺環を放って耳目としている。その情報網、諜報力は先の戦争でも活躍し、現在の地位を支えていた。

 盗聴不可能という点は、霊訊の最も重要な特性だったのだ。

 それが破られたというのは、まさに一大事と言えよう。既に八朶宗の身分ではないとはいえ、ジュイキンは少なからず動揺していた。


「天猟心母があるからと言って、即座に霊母の全権を掌握出来る訳じゃない。そのために必要な過程の一つが、霊訊の掌握だった。それがルンガオ・ウォンのお陰で既に糸口が掴めたのは僥倖だったよ。でなければ、逢露宮を攻めるのにあと数年の準備が必要だったからね。あと半月もあれば、無缺環すべてを支配下に置くことも可能だ」

「無缺環を?」

「霊訊に接続するための機構はディーディーの躯体に積んである。君は彼女を通して、霊母に侵入するんだ。何、接触は一度でいい、一瞬でいい。私が組んだ病毒を流せば、無缺環は一斉に八朶宗に襲いかかる」


 なるほど、という声が打神翻天から上がった。確かに無缺環は、逢露宮のあらゆる場所に入り込んでいる。ジュイキンもそうだが、多くの八朶宗は彼らに対しては、人間と言うより家具のような感覚で見ており、まったく注意を払わない。

 それが突如、殺意をむき出しにして襲ってくるのだ。戦う力のない僧侶や修行者は言うに及ばず、猟客であっても不意を打たれれば手酷い痛手を被るだろう。

 組織力ではあまりに劣る打神翻天が、天然の要害である逢露宮を正面から攻めることなど、現実的ではない。ならば内部から突き崩し、利用するのは当然と言えた。

 だが……精神を蝕む病毒は、彼ら無缺環の魂を完膚なきまでに喰い尽くし、破壊するだろう。八朶宗の鎮圧を生き延びても、確実に死ぬ。


「ディーディーと私は本陣から動けないが、ジュイキンくんは無缺環に病毒を流した後なら、離れて大丈夫だ。頃合いを見て少数精鋭で侵入し、直接、霊母を討ち滅ぼす。後は脱出の手はずだが、その前に何か質問はあるかな」

「霊母が生きている間は、直接支配権を奪われる可能性もあるのでは?」


 細身の男が挙手した。〝燦龍さんりゅう〟という通り名だか本名だかの武侠だ。


「無論ある。先も言ったように、権限の一部は高僧に譲渡されているからね。霊母そのものが機能不全に陥れば、第一から第八までの朶太夫がまず事態の収集にあたるだろう。だから、そいつらは最優先で殺すよう指示に書き込んでおく」


 燦龍は納得したようにうなずいた。

 他の者たちも細かなことを質問していく中、ジュイキンは腕を組んで考え込んだ。ローが殺戒者さっかいしゃの青年に水を向けるより先に、彼は隣の相棒に話しかける。


「グイェン、お前はこの戦い、手を貸さなくともいいのだぞ」

「なんで」


 落ちてきたぬいぐるみをかき集め、卓上や床に並べていたグイェンは、不思議そうに首を傾げた。


「無辜の人間が大勢死ぬ。これが最も犠牲が少ない作戦だろうが、非道なやり方ではある。そのことに異論はないか?」

「異論っていうか」


 グイェンはぬいぐるみを離した。


「オレが気が進まないからってジュンちゃん手伝わなかったら、相棒の名が廃るじゃん。コンビ組むことになったのは八朶宗の指示だけど、オレはジュンちゃん好きだよ。それに、この戦いはオレにも必要なことだし」

「それは、そうだが」


 以前、百八人の命を救いたいと笑っていたグイェンの顔を思い出す。行き過ぎた自己犠牲を諌めたのは自分だが、これでいいのかという疑問が消えなかった。


「ジュンちゃん。オレ、英雄になりたいって思っていたけど。違ったんだと思う」


 自分を真っ直ぐに見据えるグイェンの瞳を見て、ジュイキンはふと己が恥ずかしくなった。八歳でも、この子は立派な一人の人間だ。既にその意志は固まっている。


「オレは……、〝オレ〟になりたい。オレだけのオレに、父上も、母上も、兄弟も関係ない。ただの、人間のオレに」


 グイェンは小さく拳を握って、自分の胸に当てた。言葉はつたないが、言わんとしていることはジュイキンにも分かる。百八人の魂を背負わない、十魂十神でも、狗琅くろう真人しんじんの遺産でもない、ただのスー・グイェンになりたいと。

 そして、グイェンは元気よく手を振った。


「ローさん! オレも質問!」

「何かな、ぐいぐいくん」

「毒を流さなくてもさ、〝ぶつっ〟て、しちゃうだけでいいんじゃないかな!」

「保護者くん、翻訳」

「……つまり、無缺環の接続を切ることは可能、かと?」


 ジュイキンの訳を聞いて、ローは「嗚呼ああ~」と笑った。


「そりゃあ出来るさ。といっても、霊母と朶大夫を殺さない限り、再び彼らはつながれてしまうだろうけどね。ただ、解放された瞬間、元の寿命が尽きてるヤツはその場で消滅するし、突如放り出されたショックで心的外傷を得るかもしれない」


 それでも、ジュイキンらには病毒を流すよりマシに思えた。


「どうせ霊母を殺せば、彼らは無缺環の環から解き放たされる、それが少し早まるだけだ。自我を取り戻せば、それだけで逢露宮は充分な混乱に陥る」

「全員は無理だね、逢露宮に詰めてる連中に限定するよう調整しよう」

「可能ならばそれが一番いい」


 ジュイキンの横で、グイェンもうんうんと頷いた。どうやら、相棒の考えは正しく総舵主そうだしゅに伝わっているらしい。なんとなく心が通じ合う気がした。

 ローは深々と煙管を吸い、長い時間をかけて煙を吐き出す。


「だが、それはそれとして病毒は使う。朶大夫には確実に死んでもらわなくてはならないからね。ジュイキンくんが霊母に接触した時に、彼らを特定するから、その周辺にいる無缺環にだけ毒を流す。これは譲れないよ」


 ジュイキンはちらりとグイェンを見たが、そこには揺るぎない横顔があった。


「……いいだろう」

「では、決まりだ」


 それから細かい部分を詰めて、会議はお開きになった。


――二週間後、逢露宮で一斉に無缺環たちは自由を取り戻し、八朶宗を混乱のるつぼに叩き落とす。だが、そこから始まる〝打天だてん事変じへん〟こそが、閻国のみならず、神灵を戴くすべての国に激震を走らせるのである。

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