第十九話 妄夢も信仰も欲深く

 その場の全員が電光石火の行動を開始した。唯一人、心臓を貫かれて、なすすべなく斃れ行くジュイキンを除いて。

 最も素早かったのはウォンだ。

 彼は自分を妨害したディーディーを認めると、主人のロー・ジェンツァイもすぐそこまで来ていると確信。剣柄を握る手を捻り、刺し貫いた心臓を抉り出す。

 グイェンはウォンを止めるべく、唐傘を振りかぶろうとした。疲労で鈍った腕が、のろのろと傘を持ち上げる間に、ウォンは彼の横をすり抜けていく。

 数公尺メートル離れた所でその様子を見ていたローは、ウォンの追跡とジュイキンの治療でごく僅かに迷った。

 ディーディーは最初、ジュイキンが刺されたのを見て追撃の手を止めていた。慌ててウォンに追いすがろうとする――が、時既に遅し。

 ローが治療を選んだ時、ウォンは半欠けの樹械きかい心臓を手に離脱していた。


(ああ猊下げいか、お許しを!)


 悲鳴を上げたい気持ちで、七殺不死の男は山中を駆ける。

 本来なら丸ごと奪うはずだったが、こうなった以上は致し方なし。躊躇ためらった瞬間、自分はローに捕らえられるだろうと彼はよく理解していた。

 バックパックから円筒形の容器を取り出し、手早く心臓を封入する。あの人形娘にさえ邪魔されなければ、霊母れいぼ猊下の継嗣を割ってしまうこともなかった。苦々しい思いで歯噛みするが、今はこれがなけなしの成果物だ。

 かといって、それで八朶はちだしゅうに許されるとは彼は考えていなかった。

 この無様な結果、戻れば何らかの罰が下されるに違いない。それでも、半分だけでもこれを取り戻す必要があった。チ・ジュイキンも、スー・グイェンも二の次だ。

 あの気の狂った殺戒者さっかいしゃは死にはすまい。少なくとも、ロー・ジェンツァイが生かして手元に置こうとするはずだ。残り片割れは、いずれ取り戻しに行けば良い。


(……それに、もう少しだ)


 かつて父が奪った如夷にょい霊母の継嗣が、半欠けになって己の手にある。必ずやチ・ジュイキンを殺し、片割れを神灵カミたる猊下にお返ししなければ。


(あの男が犯した罪をすべてすすいだ時、やっと俺自身の人生が始まるのだ)


 樹々の間を跳び渡りながら、不思議にウォンは深い自責とは別の何かが、自分の中に湧き上がっているのを感じていた。腑に落ちる、という感覚だ。


――神灵を殺すのは、お前も私もそのほかの人々も、みな生かすためだ。

――誰も彼もが人間として生きるためだ。

――無缺環むけつかんのような、人形ではなく。


 ジュイキンとグイェンの会話を聞いていて、気づいたことがある。


――あの新しい弟子、少しあんたに似てるね。


(大間違いだな、ショウ)


 なんのことはない、あいつは自分ではなく、父に似ていたのだ。神灵を殺そうなどという発想も、それで人が救われるなどという考えも。

 ルンガオ・シャウは、チ・ジュイキンの中に、同じ殺戒者の本能を嗅ぎ取ったに違いない。実の息子を絶縁しておいて、まったくとんだ自己陶酔者ナルシストというものだ。

 その妄夢ゆめ、我が篤信で打ち砕き、葬り去ってくれよう……!

 

                 ◆


 青く涼やかな空気が錆つき、ぎしぎしと鉄臭さで淀んでいた。鮮血の異臭は鼻を突くに留まらず、喉をひっかき、肌を泡立たせるほどに濃い。


「う――」


 えづきそうになってグイェンは口元を押さえた。体を折り曲げると、全身が一斉に軋みを上げ、激しく痛みを訴える。

 けれど傷よりも堪えるのは、脳裏に浮かぶ昨夜の出来事。今そこで倒れている友達の姿と重なる、血まみれのリュイの姿だった。

 その傍らを、ぱたぱたと羽織の裾を振りながら、ローが通り抜けていく。


「まったく、もっと免穢殻めんわいかくを頑丈にしておくんだったよ!」


 うつ伏せに倒れたジュイキンをひっくり返し、妖女仙は血溜まりの胸元を覗き込んだ。両手を伸ばして、水に沈めるように深々と差し込んでいく。

 彼女は肉やあばらを無視して、何の抵抗もなく半欠けの心臓をすくい上げた。元は握り拳大だったそれは、今や頼りないほど小さく、断面は青い輝きを滲ませている。

 神気の光は弱々しく、一定のリズムで明滅しながら、今にも消え入りそうだ。断面からこぼれ落ちる青白い雫は、きらきらと砕け散りながら、虚空に消えていく。

 心臓自体はまだジュイキンの体とつながっており、その生命を維持し続けていた。だが、それもいつまで保つことか。


(……汚染の進みが早い)


 この樹械心臓・天猟てんりょう心母しんぼは神樹の子株に管や液体回路を通し、凶を防ぐ天狗てんこう柘榴ざくろの実で包んだものだ。この柘榴の皮で作ったのが〝免穢殻〟、神樹にとって強すぎる人体の毒素――すなわち〝穢れ〟から守ってくれる。

 それがよりにもよって、忘生清宗に断ち割られてしまった。あの剣は人身御供で作られて二百年、贄となった娘の魂を宿しながら、殺業を積んでいる。


「ジュンちゃん、大丈夫?」


 よろめきながら、グイェンはジュイキンの傍へ近寄った。血の臭いと疲労と痛みに顔をしかめ、地面に膝をつくと、そのままカクンと体が傾ぐ。

 その肩を後ろから受け止め、ディーディーは倒れぬよう支えた。


総舵主そうだしゅにお任せしておけば、何の問題もありません。それより、あなたはルンガオ・ウォンを止めようとしましたね。彼を追いかけて行かなくて、良いのですか」


 小さく礼を言って体を離すと、グイェンはうつむいた。顔を上げ、真っ青なジュイキンのおもてを見つめて、口を開く。


「ジュンちゃんには、まだ訊かなくちゃならないことがあるから」

「そうですか。まあ、もうあの男には追いつけないでしょうしね」


 でなくとも、グイェンには追跡するほどの体力も残ってはいない。ローがジュイキンに止血し、何やら手当てしてる様を見ようと、意識を保つので精一杯だ。


(う~ん、チ・ジュイキンを生かすだけなら、簡単だけど)


 手の中の樹械心臓と、死にかけの青年を前に、ローは考え込んだ。時間はない。このまま半欠けの心臓を回収すれば、まだ再利用出来るだろう。

 無論その場合、ジュイキンは確実に死ぬ。彼を生かして心臓を捨てるか、心臓を生かして彼を捨てるか。だが、どっちを選んでも安易な道だ、両方欲しい。


(若くて元気な、神灵殺しの意志がある殺戒者。出来れば手放したくないし、ウォンのやつも、私の欲深さを知っててやったんだろうねえ)


 ルンガオ・ウォンに対する評価を改めねばならない。蒸気樹車で罠にかけたというのに、まさかあの緊縛を破った上、とうとう手痛い一撃だ。


(恨むよ、狗琅くろうの。君が作った外法重魂体に、私は手を焼かされつつある)


 前に狗琅真人と会ったのはいつだったか……やりすぎて討伐されたという話だが、どうせ尸解しかいして逃げ延びているだろう。グイェンは「捨てられた」という訳だ。

 外法重魂体は、神灵殺しのための実験に過ぎない。

 ローも本当ならば、人体ではなく兵器に天猟心母を積みたかった。そのために一時期夢中で自動人形をこしらえたものだが、結局ものにならず、今は最後の作品をディーディーに貸し与えている。


「……あのさ、なんで鳥籠かぶってるの」

「あの男が樹車で暴れた際、壊されまして。応急処置です」

「そっか。大変だね」


 ディーディーの体が自動人形のそれだとは、グイェンは気づいてはいたが驚きもしなかった。普段ならもっと騒いだかもしれないが、今はジュイキンの容態が心配だ。


「グイェンくん、こっちにおいで」


 ちょいちょいと手招きされ、グイェンは膝を詰めた。仰向けに横たわったジュイキンごしに、ローと顔を突き合わせる。


「君の心臓を一つもらいたい。彼を助けないといけないからね」


 その申し出に、彼はすぐに答えることが出来なかった。きっと即座に返事するべきだったのだろう、そう思いながら、グイェンは大きく声を張り上げる。


「うん!」

「よろしい」


 断るはずがないと知っている笑みで、ローはグイェンの胸に手を伸ばした。服の布地も肉も、水のように抵抗なくすり抜ける。


「ああ、動かないでね。今、君の座標振と共鳴させているから、まあとにかく痛くないだろう? 心臓を抜いたらしばらく死んでいると思うけれど、まあ要は替死たいしの固まりだからね、君は。怖くない怖くない」


 声もなく固まる十魂十神の胸から、ローは血まみれの心臓を抜き出した。


                 ◆


 部屋は厳重に戸締まりされ、淀んだ空気ときつく焚かれた香が、脳を痺れさせようとしていた。ここに十数分も居れば、耐性のない者はそれだけで気絶してしまう。

 長年修行を積んだ僧侶たちは、この部屋に入ることで自動的に瞑想状態に入り、余計な感情の波を廃した精神状態を作ることが出来る。

 八朶宗総本山・逢露ほうろきゅうの議場は、そうした薬物と精神修養からなる鉄の静粛さを誇っていた。それが破られたことは、八朶宗の歴史でも初めてのことだろう。


――如夷霊母猊下の継嗣が、真っ二つに断ち割られた。


 五年前、大逆者ルンガオ・シャウによって持ち出された継嗣は、反動集団・打神だしん翻天はんてんの手で樹械心臓に改造された。そこまでは、長年の密偵で把握している。

 問題なのは、奪還のために放っていたルンガオ・ウォンの不手際だ。心臓を抉り出そうとして、横合いから妨害の蹴りを受け、手元が狂った、と。

 いかなる罰も受けるとのたまったので、望みどおり、彼は地下牢へ投獄した。議場は、継嗣が傷つけられたという衝撃におののいて、そこから先へ進んではいない。

 少なくとも、ウォンが戻ってきた最初の日は、彼の処遇を決めた以上の進展はなく終わった。次の日も大して変わらない。翌日も、同様になるかと思われた。

 それでも、議場に集うのは八朶宗を動かす最高幹部の高僧たちである。彼らは決断せねばならなかった。チ・ジュイキンの殺害、スー・グイェンの確保、継嗣の奪還。

 そのためには、彼らはどんな外道でも働くのだ。


 地下牢は、山肌をくり抜いた洞窟に設えられている。壁に等間隔に設置された灯りは最低限で、一つ一つの独房はほとんど闇に沈んでいた。

 ここの鉄格子や枷は、どれもニングが透り抜けられない蔵魂器ぞうこんき。壁にも足元にも、魂を宿すために使った贄が無数に眠っていると言う。


「どうだい、調子は。出せる元気、ありそうかい?」


 全身くまなく包帯で覆われたリュイ・ショウキアは、ある独房を訪れていた。鉄格子の向こうに、ウォンと思しき相手が壁に背を預けて座っているのが見える。

 手枷足枷を付けられているのだろう、鎖を鳴らしていらえが返った。


「退屈しているぐらいだ。傷はもういいのか」

「お陰様で。悪いね、手ぶらで。顔を見に来たけれど、見ない方がいいかい?」


 鍛錬を積んだ拳士の身、その気になれば暗闇を見通すことなど容易い。


「そうしてくれ。どうせ目も見えないからな」

「物好きなもんだね」


 大急ぎで傷の治療をしている間に、リュイも色々と話は聞いている。

 なんでも、ウォンは罰として受けている拷問に「ぬるい」と文句を付けただとか。それで瀕死になるまで責め抜かれただとか。

 とはいえ、やってしまったことを考えれば、寸刻みにして処刑されてもおかしくない身の上ではある。逃げずに逢露宮に戻ってきた、その忠義を差し引いたとしても。


「治らん傷はない身だ。当然の措置だと思うが」

「あんたのは注文がうるさいって言うんだ。ああ、いや! 具体的に何喰らったか、言わないでいいからね」


 若干大げさに手を突き出すと、ウォンが笑うのが聞こえた。どことなく音程が外れているのは、さすがに責め苦が堪えているのか。あるいは……、


(ジュイキンもあんたも、やっぱり似たもの同士だね)


 神灵を、霊母を殺すとのたまうあの青年は、間違いなく狂人の類だろう。何故よみがえりを否定するのか、それがリュイには理解できない。

 けれど、信奉する霊母のために、何もかも捧げようとするウォンの有り様にも、彼女はどこか違和感を覚えていた。まるで教科書に載っていた、美談の登場人物だ。

 向いてる方角も、走っている道も違うが、この二人は止まり方というものを知らないように見える。走って走って、自分の心臓を破るまでは、決して気が済まないとでも言うように。なんて馬鹿馬鹿しい!


「顔を見に来たって言ったけどさ。本当は伝言しようと思ってたんだ」


 細く短くため息をついて、リュイはここに来た目的を語った。ウォンは何も言わないが、言葉の続きを待っているのが気配で分かる。


「僧正様がたは、あんたに継嗣の片割れを〝使え〟と仰せだよ。あの人身御供の光蘭刀を浄めたから、それと合わせて、チ・ジュイキンを討ち取れ、ってね」


                 ◆


 ジュイキンが目を覚ました時、即座に気がついたのはグイェンだ。彼はずっと付きっきりで、その時も手を握ったまま寝台の傍らで寝ていた。

 自分の状態も、どこにいるのかもよく把握出来ないでいるジュイキンに、グイェンはきりっと唇を引き結んだ真面目な顔を作ってみせる。


「あのさ、怒らないで聞いてほしいんだけど」


 ぼんやりした顔のまま、ジュイキンは首を傾げた。視界の隅で、丸まった黒猫が自分の横で寝ているのを見つける。


「ローさんが、オレの心臓くれって言って。多分それでジュンちゃんは助かるし、オレもそのぐらいじゃ死なないから、うんって言ったんだ。ジュンちゃんは、オレのことヒキョウモノー、とか、ジブンホンイー、とか、言ってたけど、あの。謝らないから! オレは、ジュンちゃん助けるためだったら、同じことするから!」


 早口でまくしたてられ、起き抜けの脳にはまったく意味が染みてこない。そのため、グイェンはもう一度、同じような内容を繰り返ししゃべった。

 ようやく何が言いたいか把握して、ジュイキンは力なく微笑んだ。


「……ついさっきまで、殺すの死ぬの言っていたくせに」

「あ、ジュンちゃん丸二日寝てたよ」

「そうか」


 むしろ、あの状態からわずか二日で眼が覚めたことの方が驚異的だろう。よくも短期間の内に、立て続けにこんな目に遭うものだ。


「グイェン。私が怒っていたのは、惜しみなく自分の命を投げ捨てることだ。平気で身を削るのも、本当はよろこばしくないが……今回は助けられたから、礼を言う。ありがとう。だが、二度とするな」

「うん、二度と殺されないでね」


 これからまた八朶宗に命を狙われるのだろうに、何を言っているのか。そうは思うものの、他に訊くべきこともあった。ジュイキンは室内を見回す。

 ひどく無味乾燥で殺風景な部屋だった。石造りの室内、箪笥も机も窓さえない。あるのは寝台と出入り口、そしてグイェンが座っていただろうクッション一つだ。


「それで、ここはどこなんだ」

「ここは、多分、オレの家」


 まだ自分は寝ぼけているのだろうか、言っていることがよく分からない。ジュイキンは手を伸ばし、頭を覚まそうとミアキンを撫でた。もふもふする。


「どういう意味だ?」

「オレが生まれた所だよ」


 すなわち、かつて非道実験の咎で八朶宗に討伐された仙道・狗琅真人の洞。

 耿月山こうげつざん守墓人洞しゅぼじんどうである。

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