第十九話 妄夢も信仰も欲深く
その場の全員が電光石火の行動を開始した。唯一人、心臓を貫かれて、なすすべなく斃れ行くジュイキンを除いて。
最も素早かったのはウォンだ。
彼は自分を妨害したディーディーを認めると、主人のロー・ジェンツァイもすぐそこまで来ていると確信。剣柄を握る手を捻り、刺し貫いた心臓を抉り出す。
グイェンはウォンを止めるべく、唐傘を振りかぶろうとした。疲労で鈍った腕が、のろのろと傘を持ち上げる間に、ウォンは彼の横をすり抜けていく。
数
ディーディーは最初、ジュイキンが刺されたのを見て追撃の手を止めていた。慌ててウォンに追いすがろうとする――が、時既に遅し。
ローが治療を選んだ時、ウォンは半欠けの
(ああ
悲鳴を上げたい気持ちで、七殺不死の男は山中を駆ける。
本来なら丸ごと奪うはずだったが、こうなった以上は致し方なし。
バックパックから円筒形の容器を取り出し、手早く心臓を封入する。あの人形娘にさえ邪魔されなければ、
かといって、それで
この無様な結果、戻れば何らかの罰が下されるに違いない。それでも、半分だけでもこれを取り戻す必要があった。チ・ジュイキンも、スー・グイェンも二の次だ。
あの気の狂った
(……それに、もう少しだ)
かつて父が奪った
(あの男が犯した罪をすべて
樹々の間を跳び渡りながら、不思議にウォンは深い自責とは別の何かが、自分の中に湧き上がっているのを感じていた。腑に落ちる、という感覚だ。
――神灵を殺すのは、お前も私もそのほかの人々も、みな生かすためだ。
――誰も彼もが人間として生きるためだ。
――
ジュイキンとグイェンの会話を聞いていて、気づいたことがある。
――あの新しい弟子、少しあんたに似てるね。
(大間違いだな、ショウ)
なんのことはない、あいつは自分ではなく、父に似ていたのだ。神灵を殺そうなどという発想も、それで人が救われるなどという考えも。
ルンガオ・シャウは、チ・ジュイキンの中に、同じ殺戒者の本能を嗅ぎ取ったに違いない。実の息子を絶縁しておいて、まったくとんだ
その
◆
青く涼やかな空気が錆つき、ぎしぎしと鉄臭さで淀んでいた。鮮血の異臭は鼻を突くに留まらず、喉をひっかき、肌を泡立たせるほどに濃い。
「う――」
えづきそうになってグイェンは口元を押さえた。体を折り曲げると、全身が一斉に軋みを上げ、激しく痛みを訴える。
けれど傷よりも堪えるのは、脳裏に浮かぶ昨夜の出来事。今そこで倒れている友達の姿と重なる、血まみれのリュイの姿だった。
その傍らを、ぱたぱたと羽織の裾を振りながら、ローが通り抜けていく。
「まったく、もっと
うつ伏せに倒れたジュイキンをひっくり返し、妖女仙は血溜まりの胸元を覗き込んだ。両手を伸ばして、水に沈めるように深々と差し込んでいく。
彼女は肉やあばらを無視して、何の抵抗もなく半欠けの心臓をすくい上げた。元は握り拳大だったそれは、今や頼りないほど小さく、断面は青い輝きを滲ませている。
神気の光は弱々しく、一定のリズムで明滅しながら、今にも消え入りそうだ。断面からこぼれ落ちる青白い雫は、きらきらと砕け散りながら、虚空に消えていく。
心臓自体はまだジュイキンの体とつながっており、その生命を維持し続けていた。だが、それもいつまで保つことか。
(……汚染の進みが早い)
この樹械心臓・
それがよりにもよって、忘生清宗に断ち割られてしまった。あの剣は人身御供で作られて二百年、贄となった娘の魂を宿しながら、殺業を積んでいる。
「ジュンちゃん、大丈夫?」
よろめきながら、グイェンはジュイキンの傍へ近寄った。血の臭いと疲労と痛みに顔をしかめ、地面に膝をつくと、そのままカクンと体が傾ぐ。
その肩を後ろから受け止め、ディーディーは倒れぬよう支えた。
「
小さく礼を言って体を離すと、グイェンはうつむいた。顔を上げ、真っ青なジュイキンの
「ジュンちゃんには、まだ訊かなくちゃならないことがあるから」
「そうですか。まあ、もうあの男には追いつけないでしょうしね」
でなくとも、グイェンには追跡するほどの体力も残ってはいない。ローがジュイキンに止血し、何やら手当てしてる様を見ようと、意識を保つので精一杯だ。
(う~ん、チ・ジュイキンを生かすだけなら、簡単だけど)
手の中の樹械心臓と、死にかけの青年を前に、ローは考え込んだ。時間はない。このまま半欠けの心臓を回収すれば、まだ再利用出来るだろう。
無論その場合、ジュイキンは確実に死ぬ。彼を生かして心臓を捨てるか、心臓を生かして彼を捨てるか。だが、どっちを選んでも安易な道だ、両方欲しい。
(若くて元気な、神灵殺しの意志がある殺戒者。出来れば手放したくないし、ウォンのやつも、私の欲深さを知っててやったんだろうねえ)
ルンガオ・ウォンに対する評価を改めねばならない。蒸気樹車で罠にかけたというのに、まさかあの緊縛を破った上、とうとう手痛い一撃だ。
(恨むよ、
前に狗琅真人と会ったのはいつだったか……やりすぎて討伐されたという話だが、どうせ
外法重魂体は、神灵殺しのための実験に過ぎない。
ローも本当ならば、人体ではなく兵器に天猟心母を積みたかった。そのために一時期夢中で自動人形をこしらえたものだが、結局ものにならず、今は最後の作品をディーディーに貸し与えている。
「……あのさ、なんで鳥籠かぶってるの」
「あの男が樹車で暴れた際、壊されまして。応急処置です」
「そっか。大変だね」
ディーディーの体が自動人形のそれだとは、グイェンは気づいてはいたが驚きもしなかった。普段ならもっと騒いだかもしれないが、今はジュイキンの容態が心配だ。
「グイェンくん、こっちにおいで」
ちょいちょいと手招きされ、グイェンは膝を詰めた。仰向けに横たわったジュイキンごしに、ローと顔を突き合わせる。
「君の心臓を一つもらいたい。彼を助けないといけないからね」
その申し出に、彼はすぐに答えることが出来なかった。きっと即座に返事するべきだったのだろう、そう思いながら、グイェンは大きく声を張り上げる。
「うん!」
「よろしい」
断るはずがないと知っている笑みで、ローはグイェンの胸に手を伸ばした。服の布地も肉も、水のように抵抗なくすり抜ける。
「ああ、動かないでね。今、君の座標振と共鳴させているから、まあとにかく痛くないだろう? 心臓を抜いたらしばらく死んでいると思うけれど、まあ要は
声もなく固まる十魂十神の胸から、ローは血まみれの心臓を抜き出した。
◆
部屋は厳重に戸締まりされ、淀んだ空気ときつく焚かれた香が、脳を痺れさせようとしていた。ここに十数分も居れば、耐性のない者はそれだけで気絶してしまう。
長年修行を積んだ僧侶たちは、この部屋に入ることで自動的に瞑想状態に入り、余計な感情の波を廃した精神状態を作ることが出来る。
八朶宗総本山・
――如夷霊母猊下の継嗣が、真っ二つに断ち割られた。
五年前、大逆者ルンガオ・シャウによって持ち出された継嗣は、反動集団・
問題なのは、奪還のために放っていたルンガオ・ウォンの不手際だ。心臓を抉り出そうとして、横合いから妨害の蹴りを受け、手元が狂った、と。
いかなる罰も受けるとのたまったので、望みどおり、彼は地下牢へ投獄した。議場は、継嗣が傷つけられたという衝撃におののいて、そこから先へ進んではいない。
少なくとも、ウォンが戻ってきた最初の日は、彼の処遇を決めた以上の進展はなく終わった。次の日も大して変わらない。翌日も、同様になるかと思われた。
それでも、議場に集うのは八朶宗を動かす最高幹部の高僧たちである。彼らは決断せねばならなかった。チ・ジュイキンの殺害、スー・グイェンの確保、継嗣の奪還。
そのためには、彼らはどんな外道でも働くのだ。
地下牢は、山肌をくり抜いた洞窟に設えられている。壁に等間隔に設置された灯りは最低限で、一つ一つの独房はほとんど闇に沈んでいた。
ここの鉄格子や枷は、どれもニングが透り抜けられない
「どうだい、調子は。出せる元気、ありそうかい?」
全身くまなく包帯で覆われたリュイ・ショウキアは、ある独房を訪れていた。鉄格子の向こうに、ウォンと思しき相手が壁に背を預けて座っているのが見える。
手枷足枷を付けられているのだろう、鎖を鳴らして
「退屈しているぐらいだ。傷はもういいのか」
「お陰様で。悪いね、手ぶらで。顔を見に来たけれど、見ない方がいいかい?」
鍛錬を積んだ拳士の身、その気になれば暗闇を見通すことなど容易い。
「そうしてくれ。どうせ目も見えないからな」
「物好きなもんだね」
大急ぎで傷の治療をしている間に、リュイも色々と話は聞いている。
なんでも、ウォンは罰として受けている拷問に「ぬるい」と文句を付けただとか。それで瀕死になるまで責め抜かれただとか。
とはいえ、やってしまったことを考えれば、寸刻みにして処刑されてもおかしくない身の上ではある。逃げずに逢露宮に戻ってきた、その忠義を差し引いたとしても。
「治らん傷はない身だ。当然の措置だと思うが」
「あんたのは注文がうるさいって言うんだ。ああ、いや! 具体的に何喰らったか、言わないでいいからね」
若干大げさに手を突き出すと、ウォンが笑うのが聞こえた。どことなく音程が外れているのは、さすがに責め苦が堪えているのか。あるいは……、
(ジュイキンもあんたも、やっぱり似たもの同士だね)
神灵を、霊母を殺すとのたまうあの青年は、間違いなく狂人の類だろう。何故よみがえりを否定するのか、それがリュイには理解できない。
けれど、信奉する霊母のために、何もかも捧げようとするウォンの有り様にも、彼女はどこか違和感を覚えていた。まるで教科書に載っていた、美談の登場人物だ。
向いてる方角も、走っている道も違うが、この二人は止まり方というものを知らないように見える。走って走って、自分の心臓を破るまでは、決して気が済まないとでも言うように。なんて馬鹿馬鹿しい!
「顔を見に来たって言ったけどさ。本当は伝言しようと思ってたんだ」
細く短くため息をついて、リュイはここに来た目的を語った。ウォンは何も言わないが、言葉の続きを待っているのが気配で分かる。
「僧正様がたは、あんたに継嗣の片割れを〝使え〟と仰せだよ。あの人身御供の光蘭刀を浄めたから、それと合わせて、チ・ジュイキンを討ち取れ、ってね」
◆
ジュイキンが目を覚ました時、即座に気がついたのはグイェンだ。彼はずっと付きっきりで、その時も手を握ったまま寝台の傍らで寝ていた。
自分の状態も、どこにいるのかもよく把握出来ないでいるジュイキンに、グイェンはきりっと唇を引き結んだ真面目な顔を作ってみせる。
「あのさ、怒らないで聞いてほしいんだけど」
ぼんやりした顔のまま、ジュイキンは首を傾げた。視界の隅で、丸まった黒猫が自分の横で寝ているのを見つける。
「ローさんが、オレの心臓くれって言って。多分それでジュンちゃんは助かるし、オレもそのぐらいじゃ死なないから、うんって言ったんだ。ジュンちゃんは、オレのことヒキョウモノー、とか、ジブンホンイー、とか、言ってたけど、あの。謝らないから! オレは、ジュンちゃん助けるためだったら、同じことするから!」
早口でまくしたてられ、起き抜けの脳にはまったく意味が染みてこない。そのため、グイェンはもう一度、同じような内容を繰り返ししゃべった。
ようやく何が言いたいか把握して、ジュイキンは力なく微笑んだ。
「……ついさっきまで、殺すの死ぬの言っていたくせに」
「あ、ジュンちゃん丸二日寝てたよ」
「そうか」
むしろ、あの状態からわずか二日で眼が覚めたことの方が驚異的だろう。よくも短期間の内に、立て続けにこんな目に遭うものだ。
「グイェン。私が怒っていたのは、惜しみなく自分の命を投げ捨てることだ。平気で身を削るのも、本当はよろこばしくないが……今回は助けられたから、礼を言う。ありがとう。だが、二度とするな」
「うん、二度と殺されないでね」
これからまた八朶宗に命を狙われるのだろうに、何を言っているのか。そうは思うものの、他に訊くべきこともあった。ジュイキンは室内を見回す。
ひどく無味乾燥で殺風景な部屋だった。石造りの室内、箪笥も机も窓さえない。あるのは寝台と出入り口、そしてグイェンが座っていただろうクッション一つだ。
「それで、ここはどこなんだ」
「ここは、多分、オレの家」
まだ自分は寝ぼけているのだろうか、言っていることがよく分からない。ジュイキンは手を伸ばし、頭を覚まそうとミアキンを撫でた。もふもふする。
「どういう意味だ?」
「オレが生まれた所だよ」
すなわち、かつて非道実験の咎で八朶宗に討伐された仙道・狗琅真人の洞。
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