第十八話 供物の子よ、救いの絵になるなかれ
むせ返るような食べ物の匂いと、喧騒に満ちた
足音が、呼び込みの声が、蒸し物や焼き物の匂いが、どれもこれも
一ヶ月前――
その一角に座席を確保し、揚げパン(閻式油条)と豆乳という定番の朝食を堪能しつつ、ジュイキンは対面に座る相手に話しかける。
「お前も〝
大根スープのさっぱりとした麺をすすりながら、昨夜顔を合わせたばかりの青年は顔を上げた。名前は確か、スー・グイェンと言っただろうか。出会い頭の印象が最悪だったので、ジュイキンは名前を覚えるのも億劫だ。
「ひつむ……? あ、うん。お師さまから聞いてるよ、むかーし、すっごい暴れん坊だったけど、大師父にコテンパに懲らしめられて、それから心を入れ替えたって」
おとぎ話の悪役じゃあるまいし、とジュイキンは鼻白む。
豆乳に浸した揚げパンを口にすると、歯ごたえのあるパンが硬さと脂っぽさを絶妙に中和され、美味しい。だがそれはそれとして、朝食を楽しむ気分が薄れた。
「今もあまり変わっとらんかもしれんぞ」
「でも、昨日は骨も折られてないしさ。勝手にあそこで寝てたオレが悪いのに」
流石にばつが悪いのか、グイェンは申し訳なさそうに頬を掻いた。
「……師父殺しの噂もある」
「本当にやっていたら、今頃キミ、生きてないんじゃないかな」
「
テーブルの下で、ジュイキンはグイェンのつま先を踏みつけた。作法に照らし合わせれば、目上の叔父弟子に「キミ」呼ばわりは失礼極まりない行為である。
「直接手を下していないだけで、手引きをしたのかもしれんぞ」
しばらくつま先を押さえて悶絶していたグイェンは、気を取り直すと、心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「……なんで、自分は悪いヤツだぞって、そんな頑張って言うの?」
その時、とっさにジュイキンは言葉に詰まり、何も言えなかった。
猟客となって三年、どれほど多くの相棒と組まされただろう。どいつもこいつも、一年と保たず、死ぬか異動していくかだったものだ。
嫌な奴も弱い奴もいた。ジュイキンに関心なく、淡々と仕事をこなす者もいれば、こちらを囮にして事を有利に運ぶはた迷惑なやつもいた。
半ばは身から出た錆。多くの同期を再起不能にした悪童・畢無情、師父殺しの噂が立つロクデナシ。そんな人間と仲良くやりたがる者はいない。だが。
「キ……師叔は良い人だと思うな! オレ、信じるよ!」
そう言って笑う顔は、嘘やおべっかのようには思えなかった。わざとらしく親指を立てて、そのくせその間抜け具合がよく似合っている。
不意打ちで人の胸をノックする笑顔。陽だまりのようにあったかくて、生きていると面白いことがたくさんあるね! と同意を求めてくるような、溢れんばかりのきらめきだった。思えば自分は、初めからその笑顔に勝てないと知っていたのだ。
(そうだ、あの表情だ)
――僕は、ずっとお前に裁いて欲しかったんだ。
兄が死の間際に見せたものと同じ笑みを、グイェンに浮かべて欲しくない。なのに今、あいつは何もかも覚悟した聖人のような顔つきになっている。
そのことが、ジュイキンはひどく許せなかった。
「お師さまは言ってた、一番善いことは、お前の心が知っている、って! だから、オレはこうするんだ。オレが正しいって思うことを!」
そして、これが現在の現実。山の中で、相棒との殴り合い。
戦端が開かれると共に、その場からルンガオ・ウォンの気配が消えていた。おそらく、こちらの隙を突いて襲う機会を伺っているに違いない。
「言っただろう、衆生救済なぞ
ここへ来るまでの破壊の跡と、傷だらけのグイェンの様子から、さっきまで戦っていたことは明らかだ。昨日の昼間と合わせて、連戦の疲れがあるのだろう。
今しばらく持ちこたえれば、
「変わるよ。一人でも多くニングが助かるなら、その一人にとって、助かるか助からないかは、全然違うよ。今だったら、それが、一度に何百人も助けられる! オレはオレが死んだら、マイナス百八人だって思ってたけど、その倍プラスなら!」
赤い唐傘を振り上げ、振り下ろし、繰り返しグイェンは打ち込んでくる。それらを峨嵋刺で守った拳で受け流しながら、ジュイキンは血が出るほど唇を噛み締めた。
「卑怯者め」
凍てつく声音が、舌の上で刺すような血の味になる。
「お前のその行いは、所詮、自分本位の身勝手だ! 誰も望んじゃいない、自己満足だ! お前一人だけが、満足して死ぬ、卑怯なやりくちだ!」
苦痛を覚えたようにグイェンの顔が歪むのを見て、暗い悦びが胸にこみ上げた。聖人の笑みを崩してやったぞ、と。攻勢に転じ、言葉を畳み掛ける。
「数字に眼がくらんだ
舞いにも似た拳の乱打に、グイェンは防戦一方になった。傘を開いて盾にすることも出来ず、襲い来る峨嵋刺の牙を必死で受け流す。だが眼の戦意は衰えない。
「無駄じゃない! みんな死ぬより、オレ一人で済めば、無駄じゃない!」
「それが思い上がりだと言うのだ!!」
地を蹴って体を浮かせ、中段からの蹴り。槍のような一撃を胴に受けて吹っ飛び、グイェンはごろごろと斜面を転がった。彼我の距離が開く。
しゃべりながら戦うなど愚の骨頂、呼吸は乱れるし舌を噛みそうになる。それでも、互いに言わねばならぬことがあった。
「
――そうだとも。俺自身が八朶宗なのだからな。
列車で聞いたあの男の言葉。
「ルンガオ・ウォンは八朶宗の命で動き、我が師父ルンガオ・シャウと、我が兄チ・フージュンを死に至らしめた。更には私を亡き者にしようとし、あまつさえ弟分であるお前の命まで貰い受けようとしている」
地べたで咳き込んでいるグイェンが、「弟分?」と眼で問いかけている気がした。
「グイェン、お前とて父を八朶宗に殺された身の上だぞ。連中のために役立ってやる必要などあるか! いいように利用されているだけだ!」
「でも、父上はたくさん子供を殺したんだよ!」
「それは確かに悪人だ、大悪人だ。だが、そんな事がお前に何の関係がある?」
いいや、関係などない。それはジュイキン自身が、過去の自分に言ってやりたい言葉だった。ルンガオが死に、それが八朶宗に逆らったためであると薄々気づいていながら、それならば仕方がないと思い込もうとしていた。
「お前自身はなんの咎なくして父親を奪われ、無惨に切り刻まれた。それでいいのか? 本当に、お前の命の使い
「ありがとう、ジュンちゃん」
傘を支えにして立ち上がり、十魂十神の青年は微笑んだ。鬱蒼と樹々が生い茂る森の中、不意にそこだけ日が差し込んだような、柔らかな表情。
一転、口を一文字に結び、両足を踏みしめ、傘を構える。
「それでも、ジュンちゃんがたくさんの人を犠牲にするなら、オレは殺してでもジュンちゃんを止める。絶対にそんなことさせない」
真理のように澄んだ瞳で――あくまで己の命よりも、他者の命を優先したいという姿勢を崩さない。何も、変わらない。変えられない。
これだけ言っても、この子には通じないのか。暗澹たる気持ちが泥のように
「お前も絵になるのか。写真もなく、形見もなく、私が記憶の中から引きずりだした、絵に姿を残すだけの幽霊になるつもりか。兄が死んで、私がどう思ったと!?」
もっと兄と話したかった。あんなきつい言葉じゃなく、優しく声をかけて、二人で笑い合えるようになりたかった。けれど、それももう叶わない。
「兄は勝手に私を助けて、一人で逝ってしまった! 今も昔も、私が生きているのはあの人のお蔭だ。でも。それでも」
「いいよ、ジュンちゃん。もういい」
そよそよと、風のようにグイェンは首を横に振った。
「一緒に死のう。
なんか、薄々分かってきたんだけど。多分……八朶宗はジュンちゃんを殺すし、ジュンちゃんも、
仕方ないけど、オレが一緒に死ぬから、寂しくないよ」
グイェンの左頬骨に、ジュイキンの拳がめり込んだ。
大柄な十八歳の体が空中で縦に一回転し、八歳の魂は一瞬意識を手放して飛びかけ、ぎりぎりで地上に踏みとどまったが、たちまち激烈な痛みの歓迎を受けた。
樹上で虎視眈々と事態を見守っていたウォンも、思わず目を見張る。ジュイキンは瞬間移動も同然の速度で間合いを詰め、グイェンを殴り飛ばし、マウントを取った。
自分が火山ならば、地形が変わるほど噴火していたに違いない。
「――――この史上最大級の
生まれて初めて感じるほどの激怒が、ジュイキンの内側で炸裂していた。
「どれだけ人の話を聞いておらんのだ貴様! この駄犬! ボケナス! アホ! ばか! 間抜け! 痴れ者! 頭に詰まっているのはキノコか? 豆腐か? 鼓膜を破壊して蜘蛛の巣と取り替えるぞ貴様! 勝手に死ぬな! 殺すな! 生きろ!」
きっと自分の毛細血管は、この怒りだけで数本破裂したに違いない。
峨嵋刺はとうに投げ捨てていた。胸ぐらを掴み、
「私は許さない。生きて絵を描け、私やミアキンやたくさんの景色を。いつか絵に飽きてもいい、好きなことをすればいい。でも、絵にだけはなるな」
「……じゃあ、やめてよ。神灵殺しなんて」
顔を腫らし、ジュイキンの剣幕に圧されながら、なおも
「ジュンちゃんがやめないなら、たくさんの人が、絵になるんだ」
「ならんさ。ならない。ただのニングに戻るだけだ」
胸ぐらを掴む手を離し、ジュイキンは首を振った。熱いものが滲む目頭を拭う。
「お前はかつて言ったな。一つのことに良いものと悪いものが、一緒に存在している、と。いつだってそうだ。どちらかでしかない、ということは滅多にない」
我ながら屁理屈をこねる、とジュイキンは自嘲した。
「だから、お前次第だ。善悪どちらの私を選び、殺すか、手を組むかは」
マウントポジションを解除し、身体の上からどいて立ち上がる。
「神灵を殺すのは、お前も私もそのほかの人々も、みな生かすためだ。誰も彼もが人間として生きるためだ。
もう一度目元を拭い、ジュイキンは相棒の手を握って引っ張り起こした。自分より大きい、熱い手。けれど顔の方は、血と痣で酷いことになっている。
さんざんに殴ってしまったなと思いながら、神灵殺しの心臓を持つ青年は微笑みかけた。とくりとくりと自らの鼓動を聞きながら、この命の使い所を思う。
「私を信じてくれ、グイェン。出会った時のように」
彼を死なせたくない。
誰にも、何にもはばかることなく、日の下で笑えるようにしてやりたい。
そのためにも、自分は殺されてなどやらない。
神灵を殺し、復讐を果たし、グイェンと共に生きるのだ。
「狂人の戯言だ」
声が耳に届くのと、刃先が胸を貫くのと、どちらが先だっただろう。
目の前にいるはずのグイェンの顔が、すっと闇の中へ沈んで見えた。そこでようやく、ジュイキンはしまったと歯噛みする。
ルンガオ・ウォン。相棒の説得に必死になるあまり、この男の存在を忘れるなど!
◆
その瞬間、いくつかの出来事が同時に起きていた。
グイェンがほだされると見たウォンは、隠れていた樹から降りて、ジュイキンの胸を忘生清宗で貫いた。それは本来なら心臓の「横」を貫くはずだった。
その数瞬前にこの場へ駆け付けた打神翻天、ロー・ジェンツァイは、伴っていたディーディーを奔らせ、凶刃を止めさせようとした。
ディーディーの蹴りがウォンの脇腹に入り、手元を狂わさせ、人身御供の剣は、「真ん中」からその心臓を貫いたのだ。
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