第三幕 殺戒者ジュイキン

原稿用紙約197枚

第十七話 生きていけない世界に生み落とされて

 樹々のまどろみと、若葉の目覚めが、朝露の湿り気やほの青い香りになって漂い、肌と鼻をくすぐる。血にまみれた己の姿さえ、洗われるようだ。

 夜明けの山は清冽な空気に満ちて、ジュイキンに逢露ほうろきゅうで修行に励んだ日々を思い出させた。その記憶は夜の淀んだ空気のように、新しい今日に押し流されていく。


 朝日の元に晴れていくもやの中で、それでも消えずに残る異形の影をジュイキンは観察した。蒸気樹車の中で出会った、付き人の少女。首も無いのに動いている。

 肩に乗っていた黒猫は、警戒して服の胸元に潜り込んでしまった。


「自動人形だったのか」

「いえ、わたくしは人間です。総舵主そうだしゅよりこの体を賜り、依り代にしていますので。……あいにくと、ルンガオ・ウォンが暴れたせいでこのような格好に」


 大閻だいえん伝統の紅い民族的連衣旗袍ワンピース姿の少女は、己の首を入れた鳥籠を掲げてみせた。それこそ人形のように無表情だが、語調にはやや辟易した響きがある。


「わたくしのことは、ディーディーとお呼び下さいませ、チ・ジュイキン様。操舵主がお待ちです、是非ご同行のほど、お願い致します」

「首をやられたのは災難だったな。お前たちに構っている暇はない」


 少女を無視して歩き出すと、踏み出した足に鈍い痛みがあった。疲労で足取りも重く、体中が休息を訴えている。当然のように、ディーディーは後ろをついてきた。


「何故? 難儀なされているなら、我々がお力添えいたします」


 ジュイキンは答えない。神灵カミ殺しを決意した以上、同じ目的の打神だしん翻天はんてんと手を組むのは悪い選択ではないし、あちらから近づくのも分かる。

 だが、首魁であるロー・ジェンツァイはどうも信用が置けない。


「スー・グイェン様のことがご心配ですか?」


 ディーディーのその言葉に、ジュイキンは歩みを止めた。途端、ふらつきそうになって、思わず傍にあった木の幹に手をつく。不快に濡れた感触がした。


「操舵主は樹車で出会った時から、あなた方に追跡の使鬼を仕込んでおりました。昨夜何事かあったようですが、彼の居場所ならば、操舵主がすぐ見つけられます」


 なるほど、こいつらは再び誘いをかける機をずっとうかがっていた、という訳だ。もはや、拒む選択肢はジュイキンにはなかった。

 木に手をついたまま振り返り、棘のある視線を送りつける。


「……グイェンを見つけろ。あいつと会って話がしたい、お前たちと手を組むかどうか、すべてはその後だ」

「かしこまりました」


 にこりともせず、ディーディーは頭を下げた。いや、首の入った鳥籠を胸の前で抱えながら、腰を折った格好だ。あの姿ではさぞかし不便だろう。

 その感想を最後に、ジュイキンは倒れた。


                 ◆


 時は少し遡って、夜明け前――汕廈さんか市郊外から更に北東へ進んだ、惠城けいじょうざん。その登山路線ルートからも、道路からも離れた奥地を、人の形をした嵐が駆けていた。

 空を飛ぶような軽身功が、助走のための震脚が、樹々をなぎ倒し、地割れを起こし、山を荒らしていく。その口からは、ただ悔恨の声が漏れていた。


「お師さま……お師さま……」


 これが狂奔したスー・グイェンの、なりふり構わぬ全力の逃走。それを追跡するのは、黒い僧衣の男たちと、軍用毛衣セーター姿のルンガオ・ウォンだ。


 漸江ぜんこうを上がってから傷を癒やしていた彼は、リュイ・ショウキアが失敗したとの報せを受けて、再びの行動を余儀なくされていた。

 逗留していた八朶はちだしゅう寺院・博麟閣はくりんかくから数名の猟客を率い、ここでようやく見つけてみれば、この状況。何が起きているのか。


「チ・ジュイキンはどうした。なぜ一人でここにいる」

「ッ……ジュンちゃん……ごめ……オレ……あああああ! ああああああ!」


 問いかけに対する返事は、力任せに投げられた倒木だった。

 愛刀・忘生清宗を抜き払い、一閃。真っ二つにしたそれを空中で足場にし、蹴って距離を詰める。その眼前に突き出される、グイェンの蹴り足。

 ウォンは横に跳んで避けたが、直後、後続が一人「潰され」た。死んではいないが、使い物にはなるまい。以前戦った時とは、明らかに様子が違う。


「いやだ! いやだ! いやだ! いやだ! いやだ! いやだ! いやだ!」

「チッ」


 振り上げられた唐傘を鞘で受けると、骨身まで痺れる衝撃が伝わる。この軍用セーターは内力を通すと防御性を増すが、それでなおこの威力は危険だった。

 型も構えも理論もない純然たる暴威。未熟な套路とうろで繰り出される動きではなく、むき出しの本能で身体運用の最適に達した、獣の動きだ。


「頭の中身も獣並か」


 ウォンは柄頭でグイェンの横面を殴りつけた。吹っ飛ばされ、地べたに這いつくばった青年に、筆架ひっか(※さい)や剣を持った猟客が次々と襲いかかる。


 それからは長い戦いとなった。猟客は一人、また一人と斃され、残されたウォンは単身、グイェンを相手取ること数時間。

 以前より手強くなったこの若虎は、殴り続ければ正気に戻ったが、事情について訊き出そうとするとまた狂乱するので始末に悪い。

 殴る。問う。殴る。問う。殴る。問う。相手が自由の身で襲い掛かってくることを除けば、やっていることは基本的な拷問と変わらない。


 大筋が分かった頃、ウォンはグイェンの体の上に、破壊された大木や岩を積み上げて動きを封じた。透り抜けられないよう、霊符も貼ってある。

 とんだ重労働だ。もはや朝食には遅く、昼食にはやや早い頃合いだった。手近な倒木に腰を降ろし、ウォンは棒状の携帯食料に口をつけ、なけなしの休息を取る。


(……こいつのために、ショウリュイは剣を捨てたという訳か)


 昔からそうだ、彼女は情にもろい。不憫ではあるが、いつかそこに足元をすくわれるのではないかと思っていたら、案の定だ。

 チ・ジュイキンを確実に仕留めるため、リュイは本気を出せる得物を選んだが、それがこうしてあだになった。

 やがてグイェンがうめき、ゆっくりと瞼を開く。


「どうして、お師さまがジュンちゃんを……」


 声は、まだ夢見るように茫洋としていた。それも、酷い悪夢にうなされた後の、かすれた弱々しい声音だ。ウォンはそれに答えるべく、携帯食を飲み込んで口を開く。


「むしろ襲わない理由があるのか。チ・ジュイキンはかの心臓、猊下の継嗣となる〝子株〟を宿しているのだぞ。いくら弟弟子でも放置出来る訳がない」


 この辺の事情は、尋問の際にあちらにも伝えた。


「でも……!」


 反論しようとグイェンは身を起こしかけるが、霊符と重量に封じられ、わずかに顎を浮かすだけに留まった。いかな外法げほう重魂じゅうこんたいも、疲れ切っている。

 ウォンは「その上」と言いながら腰を上げ、しゃがみこんで、血と涙と泥に汚れた青年の顔を覗き込んだ。


「チ・ジュイキンは、おぞましくも猊下を殺すなどとのたまった」


 口にするも厭わしい内容に、思わず語調は険しくなる。あの小僧はどこまで傲慢なのか。一刻も早く斬って捨てることを望みながら、ウォンは言葉を続ける。


「打神翻天と同じく、神灵殺しを宣言したのだ、やつは。自分の命惜しさに……いや、ついでに言えば、お前の命惜しさでもあるか」


 必死に首を巡らせて、グイェンはウォンと目を合わせた。

 その瞳がぐらぐらと揺れている、おそらく心もそうだろう。無理もない。図体がでかくとも、尋常ならざる内力を持っていても、中身は八歳の子供なのだから。


「やつの心臓を取り戻さねば、猊下は遠からず崩御なされる。だが、心臓が取り戻せない場合、第二の贄となるのが貴様だ、十魂じゅっこん十神じゅっしん

「それって、オレ、死ぬの?」

「無論死ぬ。その体は猊下の糧となって生き続けるが、スー・グイェンという人間は消え失せる。だが、そうだな――何事にも報いはあるものだ」

「報い?」


 因果応報、等価交換、それはまやかしだ。だが、この幼子はまだそれを学習してはいまい。ウォンは試しに、まやかしを舌に乗せた。


「お前が死ねば、チ・ジュイキンの命は助かる」


 すぐに返事はなかった。グイェンの瞳が内側に沈み込み、考えを巡らせているのが見て取れる。更にウォンは畳みかけた。


「師母を殺しかけたこと、悔いているのだろうスー・グイェン。猊下にその身を捧げるのであれば、お前とやつの罪もあがなわれようさ」

「えと、でもさ」


 自信なさげに、グイェンは疑問を口にする。


「樹車の時は、オレの心臓じゃダメだって言ったじゃん」

「俺がいつ駄目だと言った? 貴様はいざという時、猊下に延命していただくための大事な贄だ。無為に死なれては困る」


 一拍、二拍、三拍の間を置いて、グイェンは目を見開いた。


「……あ! ホントだ言ってない!?」

「そういうことだ。さて、その上でどうする、十魂十神」


 抜き払う忘生清宗の白刃、その切っ先を眼前に突きつけ、〝七殺不死〟ルンガオ・ウォンは威圧した。

 びくりと、刃物への恐怖にグイェンの顔がひきつる。だが、先刻までのような狂乱はない。己を保って、こちらの言葉にじっと耳を傾けている。


「一度神灵殺しを成してしまえば、やつはお前が贄になろうがなるまいが、救いようがなくなる。その前に何としても捕らえねばならない。分かるな?」


 十魂十神はじっと考えている。傷だらけの心と体で、疲労に軋む身体の中で。それを哀れと思わなくもないが、ウォンは同時に羨んでもいた。

 何しろ、霊母猊下にその身を捧げることが出来るのだ。七殺不死の魂は、既に擦り切れすぎて役に立たない。自分では駄目だった、だがスー・グイェンは違う。


「オレは……」


                 ◆


 惠城山の麓で、ロー・ジェンツァイは一振りの剣を差し出した。眠っている間にここまで運ばれてきたジュイキンは、仏頂面でそれを見やり、受け取ろうとしない。


「また妙な仕掛けはしていないだろうな」


 蒸気樹車では、ウォンは剣に仕込まれていた罠にかけられたのだ。昨日とはまた違う柄の羽織姿で、ローはかくりと首を傾げる。


「君を罠にはめて、心臓を取り出して、次の候補を探すのは手間だよ。……それより、急いだ方がいいんじゃないかい?」

「この山にグイェンがいるのだろう」

「そう、ルンガオ・ウォンと一緒にね」


 ニコニコと付け加えながら、ローは美味そうに煙管を吸った。その煙が吐き出される頃には、もうジュイキンの姿はその場にない。


「もらい受けて下さりませんでしたね」


 ディーディーは恭しくローから剣を受け取った。相変わらず首なしのままだが、鳥籠をワイヤーで固定して、なんとか頭を元の位置に戻している。


「ではこちらから届けに行ってあげようか。何、きっと気に入ってくれるさ」


                 ◆


 相棒の痕跡を見つけるのは容易かった。大まかな位置はあらかじめローが割り出していたとはいえ、山の深くまでに激しい破壊の跡があったためだ。

 その上、時折猟客らしきものの武器や、体の一部が落ちている。まるごと揃っているのもいたが、特に用はない。


 最初に見つけたのはウォンの姿だった。

 離れた所からでも、あの男が疲労しているのが見て取れる。ついさっきまで争っていたのか、立って向かい合うグイェンは血と泥と痣だらけ。

 ウォンは刀を納め、だらりと片手に提げている。その手が跳ね上がり、鞘の部分で投げられた峨嵋刺を弾いた。やっと相棒の存在に気づいたグイェンが声を上げる。


「ジュンちゃん、待って!」

「グイェン、こっちに来い!」

「いかない」


 隠れていた木陰から姿を現したジュイキンは、耳を疑った。

 思わず足を止めてから「しまった」と考えるが、不思議とウォンは動こうとはしない。刀も抜かず、腕を組んで、静観の構えだ。


「ジュンちゃん」


 グイェンの声は、今まで聞いたことがないほど真剣だった。傷だらけの体なのに、力強く両足を踏みしめ、透明な光のような眼差しを投げかけてくる。


「ジュンちゃん、霊母さまを殺すの?」

「ああ」


 躊躇ためらいなくジュイキンは答えた。それは嘘をつくことが許されない問いだ、決して誤魔化してはいけない部分だ。そして答えの結果から逃げてはいけない。


「それは、ジュンちゃんと、オレが死なないため?」

「ああ」


 返答しながら、ジュイキンはウォンの様子を観察した。不気味なほど動きがない。疲れもあるようだが、他にも思惑があるのか。


「じゃあ大丈夫だよ。オレが霊母さまの贄になったら、ジュンちゃんは手術して心臓を取るんだ。そうしたら、死ぬのはオレだけでいいんだから。だよね?」


 最後の言葉はウォンに向けられたものだった。問われて、口元を押さえながら七殺不死の男は答える。


「素晴らしい献身だ、スー・グイェン。お前の誠意と忠誠に、猊下も必ずや慈悲を賜われる。チ・ジュイキンの身柄は保証しよう」


 白々しい物言いに、ジュイキンの頭がかっと熱くなった。


「嘘をつけ!」


(霊母の継嗣を宿した私を、八朶宗が見逃す訳――)


 それを言った所でグイェンは止まるだろうか? 自分が神灵殺しを目論んでいることも、そのために幾百万のニングを見捨てようとしていることも事実なのだ。

 友達に向き直って、ジュイキンは言い募った。


「グイェン、己を簡単に投げ捨てるな! お前だって好き好んで死にたいわけではないだろう? いかに神灵の命と引き換えといえど」

「だって、万々歳じゃん。ジュンちゃんは死なないし、オレは無缺環むけつかんの何百人って人を助けられるんだ。大団円だよ」


 笑いながらグイェンは言った。

 太陽のようにどうしようもなく、まばゆく、底抜けの朗らかさで。それは聖人の笑みだった、人の幸せを投げ棄てた悲しく清い笑みだった。

 なんと恐ろしい、この世のものではない美しさだろう。


「……ばか! どこまで、お前は……ばか!」


――だって、ジュンちゃんは殺されたら死んじゃうじゃん! オレと違って!


――オレの心臓をジュンちゃんに上げたら、あんたは変な心臓が手に入るし、ジュンちゃんもオレも死なないし、これで解決じゃない? ね、どうかな!


 誰かが笑っている。グイェンではない、ウォンの堪えきれぬ忍び笑いだ。

 あの男が余計なことを吹き込んだのか。いや、グイェンなら、事実を知ったらこうするだろうとジュイキンもリュイも思っていた。


「お前は、生きていていいんだ、誰にはばかることなく! お前が何を犠牲にして生み出されたかなんて、気にかけることなく! お前はお前自身、ただ一人のために、そのためだけに、人生を謳歌すればいい! なのに!」

「だって、オレはこれ以上、誰も犠牲にして生きてたくないんだ」


 笑みを消して、グイェンは言い切った。

 ぞっと底冷えのする虚ろが、その眼差しに宿っている。いや、彼の目も鼻も口もすべて、暗い暗い虚無の闇に呑まれ、空っぽになったようだった。

 泣くでなく嘆くでなく、これまで抱え続けていた裏の側面。誰がこの子をこんな風にした? 自分が知っていたスー・グイェンは偽りだったのか?


 まだほんの八歳でしかない子供が、気の遠くなるような罪の意識を背負いながら、これまで生きてきて、更には進んで死のうとしている。

 何のために? 誰のために?

 彼を生み出しておいて、彼が生きていくことを許さない、この世界はなんだ?


「……ならば殺す」


 ジュイキンの片目から一粒、涙が青い炎になって散った。彼自身は気づいていないが、両眼が神気の光を宿して輝き始めている。


「お前が忌々しい神灵の礎になる前に。私は霊母を殺す」

「分かった。じゃあ、オレはジュンちゃんと戦う」


 当たり前のように、グイェンは言い切り、唐傘を拾い上げた。


「えーっと、なんて言うんだっけ、こういうの。そう、かかってこい! だ」


 正直、ジュイキンもこうなる予感はしていた。あのグイェンが、無辜の犠牲を出すような行いに、諸手を挙げて賛成するはずがない。それでも、やるしかないのだ。

 そのためにグイェンから憎まれても、蔑まれても、彼が彼個人として何はばかること無く生きていけるならば、何も厭うことはない!

 ジュイキンは両の手に峨嵋刺をはめて、構えを取った。


「受けて、立つ」

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