第十六話 死天夜叉・参
もはや勝負あったかに見えた。ジュイキンは髪の弓矢に脇腹を貫かれ、炸裂したそれに中をかき混ぜられている。吐いた血は黒く汚れてないだろうか? にわかに立ち込めた雲によって、月明かりは暗く濁り、よく分からなかった。
一つ角を曲がれば、もうそこは
「
油断なく弟弟子に近づいたリュイは、剣を突き立てて宣告する。彼女はばさりと音を立てて髪を翻すと、それでジュイキンの武器を弾き飛ばした。
闇に染まった石畳の街路を、即席の剣が転がっていく。
「
リュイの表情はうごめく髪と夜の暗黒に呑まれ、判別がつかない。口元の血を舐めて、ジュイキンは「そうか」と、静かに彼女の顔を直視した。
だが、新しく魂を下賜してくれる訳でもない。ただ、
そもそもが、「幼い子供は魂が定着しきっていないから、よみがえらせることが出来ない」という点に嘘がある。グイェンは多くの赤子を殺して魂を……正確には魂の「素体」を集めて生み出された
素体、すなわち
神灵がよみがえりを拒否するのは、そこから離れてしまった個々の
実際、公教局幹部や高級官僚のような、一部の「特別な個人」の子息は、ひそかによみがえりの恩恵を受けている。
そうした裏事情を、ジュイキンは猟客になってから知った。神灵にとって、人の生き死になどその程度のことだ。
だから――そんな神灵など、ありがたがることなどあるまい。神聖視するなど
ぎらりと重く、落日のように双眸は輝く。失墜の只中にありながらも、奈落に抗う赤き情念の炎が、リュイの中にある迷いをほんの一瞬、照らし出した。
「……済まぬとは思っているよ。だがな」
ああ、
最初から相手の言葉になど耳を貸さず、黙って殺せばいいものを。まったく甘い女だ、やわな女だ……と。
「あたしは、あいつの幸せを願っているのだ。そのためならば、
西天異国より伝わる鬼神の名を出し、リュイは髪を伸ばしてジュイキンを縛り上げた。身動き出来ないよう、両手両足をそれぞれきつく纏める。
「終わりだ、チ・ジュイキン。お前を
「その後は、公開処刑と言ったところですか」
返事はなかったが、八朶宗のやりそうなことだとジュイキンは思った。
手足に食い込んだ髪は血流を阻害し、痺れを覚えてくる。内功においては血流も重要ゆえ、それを邪魔しているのだ。万事休すか? いや、まだ試せることがある。
ルンガオ・ウォンは「神気が根を張った」と言った。初めは意味が分からなかったが、今は体で理解している。自分の中に、生まれ持ったものとは別に、新しい神経のような、血管のようなものが広がり根付いていることを。
もうそろそろ、今までの呼吸法に頼らずとも、自分は内功を練ることが出来のだろる。この心臓で出来ることがどれだけあるのかは、まだまだ未知数だ。
多少武器を強化するコツは覚えた。今度は、その次の段階を試してみよう。
即席剣はくるくると回転しながら、女猟客の背中めがけて飛来した。身を捩ってそれをかわしながら、リュイは目を見張る。
「
伝説にいわく、神域の達人は手を触れずに剣を操れるようになると云う。が、それはあくまで伝説であり、実際には眉唾もの、不可能な技だ。
だが、そこに神灵の力が加われば、これこの通り!
(……いや、まさか本当に出来るとはな。何でも試してみるものだ)
一瞬緩んだ髪の拘束を、制御された即席剣が切り裂く。若草のように瑞々しい毛を振り払い、地面に落ちる寸前にその武器を握りしめた。
「何度でも言ってやる、霊母を殺してやるぞと! 貴様はどうなのだ、死天夜叉。愛弟子のためには何にでもなると言いながら、眷属で終わる身か!」
「比べられるものか! あの子も、幾百万の無缺環も!」
轟、と大気を震わせて、墨色の瀑布が襲いかかった。
どうやら訂正が必要だ、髪で人は殴り殺せないなど間違いであろう。もはやそれは丸太のごとく、複雑にあざなう鉄線の束だ。
体内に残った彼女の毛は、もはや内力もないただの異物。だが与えた損傷は大きく、深い。脇腹で燃える痛みに、ジュイキンはその場からほとんど動けなかった。
脂汗が吹き出し、視界が霞む。御剣を応用し、立ち尽くしたまま峨嵋刺を飛ばしたが、紙のように切り捨てられた。やはり剣に関して、リュイの技量は一流のもの。
その彼女がなぜ、一度は剣を捨てたなどと噂されたかは定かではないが、功夫が足りない身では、降ってわいた神灵の力でゴリ押しするより致し方なし。
確実に戦闘力を奪う一撃を叩き込まない限り、逃れるすべはないだろう。
だが、御剣を使ってみた感触はあまりに頼りなかった。釣り糸に物を引っ掛けて飛ばしているようなもので、柄を握り込むことも出来ない。
背後から、足元から、リュイの死角を狙って峨嵋刺を飛ばす。同じ手は喰わぬとばかりに、ことごとくが避けられ、叩き落され、いたずらに武器が減る。
それに頭蓋の底から響き続ける、警報のような激しい違和感。
脇腹の痛みが膨れ上がり、細胞の一つ一つが死に物狂いになって、自分の体から逃げ出そうとしているようだ。視界が歪む、四肢の末端から血が引く。
(……ダメ、か……!)
手を触れずに物を動かす、という不自然な行為は、思った以上に負荷が大きいらしい。こみあげるものに耐えきれず、ジュイキンはその場で胃液をぶち撒けた。
その隙を逃すリュイではない。殺意そのものの鋭角が、差し込んだ月光を集めていやに眩い。白刃のきらめきに眼を奪われながら、ジュイキンは猫の声を聞いた。
◆
その夜、角を一つ曲がった瞬間に、それまでのスー・グイェンは死んだ。
先を行く黒猫ミアキンを追いかけて、角の向こうで見た光景。目と鼻の先で、ボロボロの様子のジュイキンが、何者かに襲われている。
思考は脳より先に体に伝わり、動いた結果を頭が追認した。
すなわち、ジュイキンを突き飛ばし、白刃に身を晒す。そこまで来てから、初めて自分に迫るものが剣であると気づいた。
心も体も反応出来ないまま、わずかに軌道がそれ、刃が脇腹を切り裂いていく。吹き出した血が、凶刃を握る手に、その使い手の頬についた。
「ぁ――」
間の抜けた吐息を漏らしながら、グイェンは目の前の下手人を見やる。長い髪を振り乱して、月明かりと血飛沫を浴びた、リュイ・ショウキア。
剣と血と痛みと彼女。
その全てが揃って、グイェンの中で何かが弾けた。
体の中に収まっていた脆い卵がいくつも炸裂し、中身がぐしゃぐしゃに混ざって沸騰する、恐るべき惑乱のるつぼ。
しかも、卵の一つ一つに、純度の高い痛苦が詰まっている。
「あああああああ……」
思い出す、卵の中身を味わう、血の味、鉄の味、鋼の刃の味。それは自分の体を貫いた。斬り裂き切り開き暴き出し、命の源を探してかき混ぜた。
三人の男とリュイが、凶刃を手に、何度も何度もそれを自分に振り下ろす。
顔も覚えてない男たちと、彼女が、自分を殺した。
激痛に狂気へ落とされ、激痛で正気に戻され、その間にくるまれた魂がごろごろと砕けて散っていく。痛みに似た声が、傷の底から吹き出し、耳を穿つ。
――おゆるしくださいませ、お許し下さいませ。
――師父を討てと命ぜられ、その上でまた、こんな
――わたくしには出来ませぬ。この子を殺すことも、斬ることも。いえ、二度と人を斬ることなど――
「あ」目の前のそれを殴りつけた。
「あ」手にした唐傘に鈍い手応えがあった。
「あ」悲鳴が聞こえた気がした。
「あ」新しい血飛沫が宙に躍った。
「あ」友達が呼んでる気がした。
「あ」体が痛い、手が痛い、腕が痛い。
「あ」胸が痛い、腹が痛い、足が痛い。
「あ」耳が痛い、頭が痛い、眼が痛い。
「あ」痛いのはもう嫌だった。
「あああああああああ! うわああああああ!」
「落ち着け、やめろグイェン! 止まれ!」
肩を掴まれ、腕を捻られ、グイェンはようやく何が起きているのかに関心を向けることが出来た。自分の呼吸が嵐のようにうるさく、全身が燃えたぎっている。
手、震える手は片方は血に塗れ、片方は唐傘を握りしめていて。
これは誰の血だ? リュイの血だ、自分が今馬乗りになって、胸といわず腹といわず顔といわず殴打した、育ての親の、敬愛するお師さまの、痛めつけて流させた血だ。かすかに胸は上下し、辛うじて生きている、が。
かさぶたを剥がすように、グイェンは自らの体をリュイの上から引き離した。立つと余計に、彼女の怪我の酷さが
「おし、さま……?」
自分の声が震えすぎて、笑うのを堪えているのかと思ってしまった。
リュイは答えない、ただ手足を変な方向に曲げたまま投げ出して、壁と一緒にペンキで塗られた木の葉のように、真っ赤になって路面にくっついている。
どうして彼女がそんな姿になっているのか、どうして自分がそれをしてしまったのか、どうして自分は彼女に切り刻まれねばならなかったのか。
「おしさまが、おれを、おれが。ちちう……え、父上ぇぇぇええッ!!」
〝父上〟が死んで、殺されて、自分を殺そうとした三人の八朶宗。男が二人に女が一人、殺しても死なない不死身の子供、死ぬまで殺そうと彼らは切り刻み続けた。
最初に音を上げたのは彼女だった、リュイの嘆願と実際殺すことが出来ぬという事実でそれは受け容れられ、グイェンは生きることを許された。
思い出す。思い出してしまう。最初は犬のように牢獄で鎖につながれた。数日の間に薬漬けにされ、徐々に調整し、忌まわしい記憶を封じた後で、気がつくとグイェンはリュイの弟子として引き取られていた。それでも剣を見ると発作を起こした。
再び溢れ出す記憶の奔流と、リュイに対する感情の混乱は、グイェンの理性を押し流すには充分すぎるほど。彼は叫びを上げながら、その場から逃げ出した。
◆
遠くで聞けば雷鳴、近くで聞けば爆弾が炸裂したような震脚だった。
それを放ったグイェンは天高く跳び上がり、そのまま屋根から屋根へと移ってたちまち走り去っていく。後には、大きく陥没した路面が残されるのみ。
ジュイキンは仰向けに斃されたリュイを見た。無抵抗で弟子に殴られて、今にも死にそうだが、彼女はもとはといえばこちらを殺そうとした相手である。
「貴女の優しさは、愚かだ」
言って、口をぎゅっと結ぶと、ジュイキンはグイェンを追いかけ始めた。疲労と負傷が足腰に重くまとわりつくが、あのただならぬ様子の相棒を放っておけない。
走るのが億劫なミアキンは、走り出してすぐジュイキンの肩に乗った。
再び顔を出した月明かりの底で、街からは灯が消えている。
遠雷のように時折響いてくる轟きは、グイェンの震脚だろう。それを頼りに追いながら、ジュイキンはしばしば立ち止まっては、息を整え、痛みと疲労の回復に勤めた。やがて追跡は町を出て郊外、郊外から更に山へと入っていく。
(見失ったか……まずいな)
窒息しそうな山中の闇が、やがてふわふわとぼやけ、ほぐれて朝もやが流れ込んでくる頃には、ジュイキンは真っ青な顔で
五感がどれもこれもばかになって、何となく夜が明けたということだけが分かる。下手をすれば、このまま自分も山の中で方角を見失い、遭難するかもしれない。
それでも、戦闘者として鍛え上げられた心身はその機能を失ってはいなかった。乳白色のもやの向こうに、何者かが立っていることを察知する。
人にしては奇妙な形の影は、淡々と言葉を告げながら姿を現した。
「お迎えに上がりました、チ・ジュイキン様」
それは、自らの首を肩の上ではなく、鳥かごに入れて提げた少女――
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