第十三話 水底の夢
初夏の
濡れた鼓膜に聞こえるのは、くぐもった泡の立ち上がる音、遠ざかる船の唸り、そして、過去からの声。幾重にも、幾重にも、時を遡って。
◆
十大霊峰の一つ、
享年十四歳、ごくつまらない転落死だ。ただ少し、崖の上に登って、雲海の景色を眺めようとしただけなのに。
「どうしても、あいつの葬儀を出すんですか」
最後までルンガオ・シャウに言い募ったのはリュイだと、後からウォンは聞かされた。例え親がニングであろうと、新しく生を受けた子供は、まったき魂を持つ。
だが、権利の行使を決めるのは、あくまで生者の側。
「くどい。死んだものは死んだもの、終わった話だ。あいつはまだ若い、早々と転生の順序も回ってこようぞ」
「しかし……!」
死者の魂は冥府に赴き、そこで転生の時が来るまで暮らす。どの程度の間隔で転生するかは個人差が大きく、数ヶ月から数年、数十年。おおむね、若くして死んだ者ほど早い傾向にある。享年十四歳なら、二年から三年といった所だろう。
だが、転生は死者が帰ってくることでもなければ、復活でもない。かつて生きたその人としての記憶はすべて、失われる。
それでも、ルンガオは息子の復活を拒み、葬式を出した。仲の悪い親子だった訳ではない、むしろよく可愛がって、親ばかのきらいがあったほどだ。
我が子の死を嘆きながら、生き返らせることはしない――不可解な行動を、周囲は様々に噂したことだろう。そして、それ故にか、妙なものを引き寄せた。
「
男は一枚の写真に、別の写真を切り貼りしたような、違和感のある立ち姿をしていた。奇妙な装いという訳ではないが、何かが致命的にズレている。それが何なのか分からない収まりの悪さが、男を人の皮を被った異形に見せていた。
その正体は
「ご子息の亡き骸を、我が研究の献体に貰い受けたいのであるが。いかがかな?」
そんな申し出を、ルンガオはあっさりと承諾し、これにリュイは憤慨した。当時彼女はまだ十代、逢露宮に来て以来の一番の友人を亡くした傷は重い。
思わず掴みかかろうとして、兄弟子らに押さえられながら叫ぶ。
「師父はあたしに、空っぽの墓に参れとおっしゃるのですか!」
「空の墓も屍も、なんの違いがある。ウォンはもうこの世におらぬ。どこにもおらぬ。二度と戻っては来ぬのだ、二度とは」
――では、還ってきたこの俺はなんなのだ?
墓など大して意味がない、ルンガオがそう言った時の話を、リュイは詳しく語ろうとはしない。ウォンも積極的に訊ねようとは思わなかった。
転落死からおよそ百二十八日目。
狗琅真人は同時期に亡くなった数十名の魂を束ねて、ルンガオ・ウォンを蘇生した。そしてそれが、最初の
七殺不死――七度、殺されてなお死なずの化け物。高い内力を秘め、それを使いこなすことで恐るべき武術の冴えを生み出す。
狗琅真人はこれに味を占め、ウォンの時から更に倍の魂を、死んだ者からではなく殺した者から集めた。その結果、
多くの仙道は洞窟に住まい、修行すると言うが、狗琅真人の洞は監獄にも似た場所だった。窮屈で、薄気味悪くて、あれこれ実験されて不愉快な場所。
だが、一度外に出されてしまえばこちらのもの。逢露宮の一角にしつらえられたルンガオ邸の門を、ウォンは胸踊らせてくぐった。
「父さん、ただいま!」
その時、奥から出てきた父の顔は、父ではなかった。粘土の人形に、目と口の穴を開けただけの、何の感情も、通わせられそうな心もない
父の姿をした顔のない木偶は、傍の壁に架けてあった槍を取った。自分の笑顔が引き潮のように消えるのを感じながら、ウォンは辛うじて一撃を避ける。
ルンガオの背後で、母が悲鳴を上げた。金切り声が高く天井にぶつかり、バラバラになりながらこだまして、家族三人に降り注ぐ。
「あなた、やめて! あの子が帰ってきたのに!」
「ウォンならもう死んだ! こいつではない! 殺してやる! 私の前に二度と現れるな、その顔を見つけ次第、そっ首もぎ取るぞ!!」
木偶のような無表情で、声だけは龍が吐く烈火にも等しい。母に抱きつかれてなお、二撃目、三撃目の槍が繰り出され、穂先が頬や腕をかすめた。ざっくりとした傷口が熱く、血を流している。自分は確かにここに居る、なのに父は違うと。
今、曲がりなりにも攻撃に対処出来ているのも、父が武術の手ほどきをしてくれたからだ。猟客になりたいと無邪気に言った自分に、ニングでなくてはなれないと笑いながら、八花拳の
この男が、あの父と、本当に同じ人間なのか……?
「とう、さん」
「お前は誰だ」
白々しいほど明るい真昼の陽が、目の前に突きつけられた穂先を照らしていた。自分を見るルンガオの眼差しは、槍よりもギラギラと眩く鋭い。
殺されるのか――自分の父親に。
殺されるのか――せっかく還ってきたのに。
殺されるのか――なぜ、どうして、なんのために?
どうして、この俺が、殺されなくちゃならないんだ。
叫びを上げて、ウォンはその場を逃げ出した。地面を蹴った足の真後ろに、投げられた槍が突き刺さる。あと一歩遅ければ貫かれていた。
血の気は引き、汗は吹き出す。腹の底から一度に、様々な思いが沸き上がって嘔吐しそうだった。実際、もう大丈夫という所まで逃げた後、空の胃からげぇげぇと吐いた。幼児は泣きすぎると吐くらしいが、それに近い状態だったのだろう。
逃げ込んだ森で涙を流し、胃液を垂らし、息もできないほど嗚咽して、体の中と外が裏返る気がした。何が起きたかまるで分からないのに、父の殺意だけが、間違いなく本物であるという事実が、自分をバラバラに引き裂いてしまう。
逢露宮中を走り回ったリュイが見つけた時には、ウォンは脱水症状と疲労で動けなくなっていた。静養したしばらくの間さえ、周囲から向けられる憐憫と同情が惨めで堪らない。聞きたくもないのに、医師はルンガオが正式に絶縁の手続きをしたと伝えてくる。これから、身柄は八朶宗の預かりになると。
そのようにウォンの処遇が決まった頃、狗琅真人と話す機会があった。
「あれはね、
扇子で自分をあおぎ、ニヤニヤ笑って仙道は言う。
「かつて
「父は……つまり、生理的嫌悪で、俺を拒んだと」
「大雑把に言えば、そういうことであるなあ」
ふざけるな、と毒づく自分の声の禍々しさに、一瞬、我ながら戦慄した。
だが――ふざけるな。深く深く、想いは
自分は一体何なのだ。生まれてきたことも、死んだことも、よみがえったことも、死ねなくなったことも、すべて、俺のせいではないではないか。
最初から、生まれてこなければ良かったとでも言うのか。
そんな理屈は認めない、許さない、決して誰にも言わせない。
ごりごりと、錨が無意識の海底で動き、その小さな震動が、ウォンにある考えをもたらした。
――本当に永遠の命があるならば、なぜ人は死ななくてはならない?
死者は冥府に赴きそこで暮らすが、彼岸と此岸を分ける理由はなんだ。罪を犯した者が復活を許されないならば、死は罪人をつなぐ獄にすればいい。
この世界は、生も死も不完全だ。
より完全な生を、永遠の命を。
誰もが己のような、死なぬ人間に満ちた
幸い、外法重魂体はニングの一種だ。ウォンはかつて望んだように、猟客の道へと進んだ。帰依する者を多く抱えた神灵は、それだけ格を増す。
自分は霊母猊下にお仕えしよう、この死ぬことのない体で、何百、何千年であろうとも。そしていつか、猊下がもたらす永劫不死の世界を見るのだ。
そのように誓ったウォンの想いは、この時から九年後に裏切られる。
◇
「
土砂降りの中、それでも洗い落とし切れない血が、ルンガオの体から流れ続けていた。口から、胸から、腹から。それなのに、濁った声で笑っている。
町外れの廃墟、もたれた石壁は半ばウォンに切り倒され、今にも崩れそうだ。
「ぬかったな。殺しきるまえに、わたしがやられるか」
そう言う眼には、もはや光がない。勝負は既に着き、放って置いても死ぬだろう。だが、その前にウォンはどうしても訊ねたいことがあった。
「なぜ霊母猊下に逆らった、ルンガオ・シャウ」
血刀の切っ先を喉に突きつけ、詰問する。ひどく疲れていた、こうしてルンガオを追い詰めるまで、二度となく三度となく殺されている。それでも立ち上がって、ついに討ち取った。早く眠って休みたい、そう切望しながら、舌を動かす。
「貴様があれを持ち出したことで、霊母猊下がどうなるか分かって――」
「いったとこ、ろで。わかる、まいさ」
「――ふざけるな!!――」
喉を割らんばかりにウォンは絶叫する。体の周囲から、雨粒さえ弾き飛ばすほどのそれは、もはや
父に絶縁されてから数年後、母は心労が祟って病死した。ニングだったので、復活することも出来ない。ウォンは、その葬式に参列することさえ許されなかった。
挙句の果てに、今度は八朶宗を裏切り、霊母猊下をも滅ぼそうとするとは!
この男だけは許してはおかぬ。ウォンは刀の切っ先を突き出し――
◆
刀を握る手の感触で、ウォンは目を覚ました。やや濁ってはいるが、この水底にも太陽は届いている。無意識に抜こうとしていた鞘を戻し、水面を目指した。
電気が何百という虫になって体を這うような激痛があったが、どうにか泳ぎ切り、岸へと上がる。陸でごろりと横たわると、彼は深々と息を吐いた。
『あの新しい弟子、少しあんたに似てるね』
いつだったか、リュイがそんなことを言っていた気がする。ルンガオが取った最後の弟子、チ・ジュイキンを評しての言だ。聞きたくない話題なので深くは追求しなかったが、こうして顔を合わせた今も、どこが似ているのか、さっぱりだ。
リュイが師事した頃にウォンは死に、ルンガオはそれ以来新しい弟子を取ろうとはしなかった。本当にあれが自分に似ているのなら、父の内心はどうだ?
考えたくもない。
ぽつりと、ウォンは愛刀に語りかけた。鉄紺色の鞘はしとどに濡れて、いつもと違う艶を放つ。後でよく手入れをせねば。
「俺が似ているとしたら、お前の方だ」
忘生清宗。人身御供の剣。名も知らぬこの女は、本当に自ら父の打つ刀になったのだろうか。ロー・ジェンツァイは自分と、チ・ジュイキンと、スー・グイェンを兄弟のようなものと言った。それぐらいは認めてやろう。
ルンガオ・シャウの実子と弟子。
十魂十神と七殺不死。
そこに霊母猊下の継嗣たる、あの心臓までもが加わるのだ。あれを取り戻さなくては、猊下は近い内に崩御なされる、それだけは絶対に阻止しなくてはならない。
無論――リュイも上手くやってくれるだろう。
(だが、チ・ジュイキンだけは、俺の手で殺す)
ぎし、と唇を噛みしめるウォンの顔は、悪鬼の形相にも似ていた。あの小僧に心臓が宿っていると知った時から、絶え間なく胸を焦がす黒い炎。
お前はさぞかし、あの男に可愛がられただろうさ。一度か二度は死ぬほど打擲されたこともあろうが、身内にはとことん甘い人間だった。
くだらぬ嫉妬などと、貴様にだけは笑わせるまい。あの心臓が渡ったのが他の者ならば、ここまで憎まずとも良かった。
霊母猊下のお命を、永劫不死の神灵世を、ルンガオ・シャウと、チ・ジュイキンなぞに邪魔させない。
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