第十四話 死天夜叉・壱


 降り注ぐ太陽の下、川面を漂う空気は涼やかで鷹揚だった。狭苦しいトンネルを捨て鉢に駆け巡る風と違って、頬に吹き付ける開放感が心地よい。


 漸江ぜんこうを行く発動樹船モーターボート内、ようやくカバンから出されたミアキンは、大変ご立腹のようだった。襲撃を受けてから小一時間、閉じ込められ振り回され、怒るのも無理はない。尻尾から頭頂まで、一直線に毛を逆立ててジュイキンを睨む。


 が、自分が船上の猫になったのだと気がつくと、なおー、と小さく鳴いて、そそくさとカバンの中へ戻ってしまった。そのまま不貞寝でもするのだろう。

 グイェンの応急処置を受けたジュイキンは、一通り、蒸気じょうき樹車きしゃでの顛末をリュイ・ショウキアに説明し終えた。


「そうかい。ウォンが……」


 聞き終えた姉弟子は瞼を閉じ、重苦しい顔になる。

 一瞬、その表情は何十年も一度に年老いて見えたほどだ。年月と苦悩の地層が重みに耐えかねて、そのままボロボロと崩れ、下から暗いうろが現れてきそうな。

 近寄りがたさに圧されながらも、ジュイキンは遠慮がちに問う。


「師姉はあの男のことをご存知で?」

「まあね」


 小さく笑ったリュイは、いつもの、若く溌剌とした女傑の顔に戻っていた。


「幼馴染みたいなもんだ、あたしは六歳、あいつは八、九歳って頃からのね。そんな付き合いだよ」

「幼馴染!?」


 手当てが終わるなり、蒸気樹関の観察にふけっていたグイェンが、初めて反応した。何しろ生まれてこの方山育ち、船も河も珍しくて仕方ない。

 船体後部に積まれた蒸気樹関は金属製の切り株状で、そこから伸びる排気枝は、ぷすぷすと煙を吐き出しては身をくねらせる。その様子が面白かったらしい。


「そっか……お師さまは生まれた時からお師さまじゃなくて……なんかもっとこう、小ちゃくて可愛くて平べったかったころが……」


 自分の両手の平を見つめ、空を仰ぎ、グイェンはわなわなと震えた。

 新たなるこの世の真実にまた一つ開眼した求道者のような真面目くさった横顔を、ジュイキンは冷めた眼で見やる。一応、老化と成長という現象について付け加えた。


「この世の大抵のものは、大きくなったり小さくなったりしていくからな」

「あたしはこれ以上大きくならないと思うけどね」


 冗談めかして言うリュイの声音には、しかし、温かみがない。それに気づいてか気づかずか、グイェンは何かを思いついて人差し指を立てた。


「つまり、お師さまはこれからまた平べったーくなってしまう? い……嫌だ!」


 自分の発言で、グイェンはこの世の終わりのような顔で叫んで立ち上がり、頭を抱え、体を真っ二つに裂く勢いで身をよじった。


「嫌だ! 絶っ対に、嫌だ――ッ! 男みたいに真っ直ぐ平面なお師さまなんてオレのお師さまじゃない!! お師さま! ちょっとまだ平たくならないか確」


 川面に、重量八、九〇千克キロ程度の物が落ちる水柱が立った。


「師姉はあれの報告を受けた際、逢露ほうろきゅうに戻れ、と仰ったそうですが」


 背後で懸命にもがき泳ぐ者を放置して、ジュイキンは話を戻した。

 不意に投げ落とされたといえ、この程度の水練も出来ないようでは猟客りょうかくとは言えない。船は一旦停止したので、溺れるより先にきちんと追いつけるはずだ。


「そう言うしかないだろう。八朶はちだしゅうがお前たちをどうするか知った上でも、な。そのかわり、こうして迎えに来た。どうする、お前たち」


 涼しい顔で答えたリュイは腕を組み、ジュイキンと、早速船に這い上がってきたグイェンをそれぞれに見た。船員から浴巾タオルを受け取って、まずグイェンが言う。


「どうって、オレはお師さまについてくよ。ジュンちゃんは?」

「師姉が私をどうなさるおつもりか、によります」


 それは身じろぎ一つしないまま、内的に身構えて発せられた言葉だった。一瞬後に殺し合いになってもいいように、ジュイキンは出方を見ている。


「そりゃ、出来ることなら逃してやりたいがね」


 それが分からないリュイではないが、彼女は平常を保ったまま、やれやれと肩をすくめてみせた。ジュイキンはますます眼を細く、鋭くする。

 体を濡らす水ではなく、不穏さに寒気を覚え、グイェンは小さく震えた。


「お師さま」

「情けない顔をするな」


 弟子の額を指で小突き、その指で今度はジュイキンを指す。


「いいかい、師弟。まずは逢露宮へ行ってもらう、そうしたら、その心臓が何なのか、八朶宗がなぜそれを必要としているのか、全部話す。……逃げようなんて無理な話だよ、我らはこの国中に根を張っているんだから」

「ええ。存じております」


 取り澄ました顔でジュイキンは頷いた。重苦しげに眉をしかめるリュイに対し、自分の顔なのに、仮面でも被ったように表情を動かさない。


「……でも、お師さまは味方だよね?」


 体に巻いた浴巾タオルを強く握って、グイェンはリュイの元まで膝を寄せた。その様子に、師匠たる彼女は母親の顔になって、頬と口端の緊張を解く。

 声は、ジュイキンからすれば白々しいほど明るかった。


「あれだ、八朶宗だって、無理やり胸を掻っ捌いて心臓を取り出すなんて危ない真似はしたくないのさ。どうせ取るなら、医者に手術してもらった方がいい。その上で別の樹械心臓を移植すりゃ、何も問題ないだろう?」

「あ、そっか!」


 グイェンは手放しで喜んでいるようだが、はたしてどうだろう、とジュイキンは考えていた。〝神気が根を張った〟というウォンの言がどうも引っかかる。

 この世に神気宿すものといえば、神灵カミす神樹しかない。それは現世における神灵の肉体そのものであり、穢すことは不敬にして絶対の禁忌。


 傷つけるのはもちろん、その一部を自分の体に取り込むなどもってのほか。かつて神樹の葉を口にした人間が処刑されたという話は、八朶宗なら誰でも知っている。

 あの一言で、ジュイキンは自然と心臓の正体にたどり着いていた。同時に、自分は決して八朶宗に許されないだろう、とも。ならば、せめて探りを入れよう。


「なぜ、打神だしん翻天はんてんは神灵殺しなど求めるのでしょうな」


 神灵の力を宿した人間に、神灵を討たせる。確かに理屈としては可能だろうが、行動の理由が今ひとつ解せない。


「この世すべての神灵を殺し尽くし、生きとし生けるものすべてがニングに堕して、新たに生まれる命は何の祝福も受けられない。そのような末世が彼らの望みなのでしょうか。それは……あまりにも」


――あまりにも、なんだ? いっそ、そちらの方が――


 胸の奥に違和感を覚えて、ジュイキンは口をつぐんだ。


「そんなのダメだよっ」


 憤慨したようにグイェンが声を荒らげる。拳を握り締めて、「あいつらの陰謀は絶対止めないと!」と真っ直ぐな瞳で高らかに言った。

 何の迷いも、恥じることもなく、堂々と。眩しいくらいに、羨ましいほどに。

 じり、とやましさがジュイキンの胸を焦がした。一瞬前に覚えてしまった違和感に、自分は何を考えようとしたのかと恥じ入る。


「まっ、そんなヤケっぱちになる連中が出てくるのも……分からなくはないさ」


 愛弟子の頭を軽く撫で、のびのびとした声でリュイは語りだした。


「お前たちも見てきただろう。売り飛ばされて、見世物にされたり、痛めつけられる可哀想な奴らをさ。そんなのは、ごく一部だ。生きているだけマシな、ね」


 かすかに電磁蒸気の跡が漂う青空に、女猟客は視線をさまよわせた。空を見ている訳ではなく、どこにもない景色を探すように。


「昨日まで優しかったご近所さんが、ニングになった子供を焼き殺して始末することだってある。あたしはそうなる所を、ルンガオ師父に助け出されたけどね」


 それは、ごくありふれた話だった。ニングを下手に追い詰めると、反撃されて自分もニングになってしまう可能性がある。だから専門の兒訝じが猟客りょうかくが必要とされるのだが……相手が弱々しい、子供や老人のニングならば、どうか。


 ニングに襲われた老人はそのまま死ぬ確率が高く、若くして変化した者は、年老いるまでに大抵が亡くなる。だから、私刑に遭うことは非常に稀だ。

 だが、ニングになった子供はその逆だ。


 ジュイキンは幸運だった、大人たちは最初に彼を拘束して閉じ込め、兄が猟客を呼んでくるまで手出しをしなかったのだから。それに気づいたのはずっと後のことだ。

 ぐす、と隣ではなをすする音がした。グイェンが目をうるませている。


「お師さま……」

「そんな眼で見るな! もうずーっと昔のことだし、あたしはこうしてピンピンしてんだからね。しょぼくれた顔してたら、飯がまずくなる!」

「そうだけど……なんか、他にも、たくさん……」


 自ら何かを背負い込んで、その重みに耐えかねるように、グイェンは項垂れる。


「ニングも、打神翻天も、お兄さんも、ジュンちゃんも、八朶宗も、なんで、なんでこうなんだろう。あいつらの好きにさせちゃいけないってのは、わかるけど。でも、それだけで、いいのかな。オレ……十魂十神だって言われて、なんか凄いはずなのに、なんにも出来てなくて」

「大砲で餅はつけんぞ、グの字」


 ごす、と肘で相棒の肩をついてジュイキンは例え話をした。


「人にも物にも本分というものがある。火に水の仕事は出来ないし、あんずの木に桃は実らない。衆生救済なんぞというものは、そうだ、灵仏みほとけにでも任せておけ」

「その通り!」


 我が意を得たり、とリュイは両手を打ち鳴らし、グイェンを指差した。


「この間、話したろ? あれを忘れなきゃいいのさ、お前は」

「……うん!」

「うん?」


 通じ合った師匠と弟子の横で、置いてけぼりにされたジュイキンは首を傾げた。だがまあ、相棒の顔が明るくなったので良しとする。

 船の駆動音に紛れ込ませるように、リュイが何事かを呟いた。それを聞き逃さなかったのは、彼女の様子を終始つぶさに観察していたジュイキンだけだろう。


――「なんであんなこと、言っちまったのかねえ」――


 それが何に対しての、何を意味する言葉なのかは分からない。ただ、声音が帯びる深い自嘲の色が、妙に印象に残った。


                 ◆


 漸江のほとりに広がる町・汕廈さんか市。ここは規模が小さいために灰魚ツイグーも放たれず、技術改革が入るまでは蒸気樹関の煙害がきつい土地柄であった。


 ここから南下すると、媽京まきょうに匹敵するもう一つの特別行政区・笛津てきしんに、北東に進むと鍾杏しょうあん市だ。汕廈さんか市内の客棧ホテル沛苑はいえん酒家しゅかに、ジュイキンらは宿を取った。

 露天風呂で蒸気樹車での汚れを落とし、たっぷりと食事をとったグイェンは、ふかふかの寝床で高いびきをかいている。部屋を抜け出す者には気づきもしない。


「ミアキン、あいつと一緒でなくていいのか?」


 窓の月明かりを浴びた黒猫は、さも当然のように、みあーんと澄んだ声で鳴いた。抱き上げると、ふにゃふにゃした体がゆですぎた餅のように柔らかい。

 正直、置いていくことも考えていたが、これからの道行きを考えれば、愛猫がついてきてくれることはありがたかった。


「お前は危なくなったら、すぐ逃げるんだぞ」


 猫をおろして、ジュイキンは沛苑酒家の廊下を風のように移動した。ここへ入った時に構造は頭に叩き込んだので、的確に壁をり抜けていけば、瞬く間に外だ。ミアキンは後から、窓やら隙間やらを抜けてついてくる。


 升降樹エレベーターシャフト鋼糸縄ワイヤー伝いに降り、巡回の警備や従業員を像身功ぞうしんこうでやり過ごし、誰にも見咎められることなく脱出した。外は明るい星月夜だ。


 客棧ホテルの側近くには、大帝たいてい坎宮かんきゅう斗母とぼ正神せいしんを祀る紫花しか尖荊せんけいびょうがある。山門をくぐるまでもなく、廟の前は道が開け、ちょっとした広場のようになっていた。

 戦うには、おあつらえ向きの場所だろう。だから。


「どこへ行く、師弟」


 不意に上からかけられる声に、意外さはない。


「グイェンなら、貴女の元にいれば安心だろうと思いましたので」


 ウォンは、グイェンだけなら見逃してやってもいいと言っていた。八朶宗が彼に手出しする気がないのなら、自分と一緒に居ないほうがいい。

 壮麗な山門の上に立つリュイが、ため息混じりに跳び下りた。鞘に納めた直剣を提げ、身軽そうな袴子ズボン襯衫シャツ姿で。


「わざわざ宿代や食事代まで置いていきおって」

「ただより高いものはなんとやら、でしょう」

「しかり! あたしはお前から、金銭ごときでは値のつけられんものを頂く!」


 抜き払われた刃が、月光を照り返して冷たく光った。結局はそういうことか、と、穴が開いたような失望がある。


 リュイならば、グイェンの前で彼の友人を襲わないだろうと思っていた。それは当たっていたが、ついでに、このまま自分が逃げるのを見過ごしてくれれば良かった。

 まさか図々しくも、八朶宗に逆らってジュイキンを守ってくれる、などと。そんなことは期待していない。期待してはいけない。だが、兄の顔が、脳裏をちらつく。


――ああ、そうだ。今度はお前が、僕を見捨てる番だよ。


 嘘をつけチ・ジュイキン、蒸気樹車から飛び降りた時、お前は確かに期待したはずだ。リュイならば、八朶宗とは無関係に、自分を助けてくれるのではないかと。

 儚い望み、ですらない、恥ずかしげもないわがままだ。


「やはりこれは、霊母猊下ゆかりのものですか」

「そうさな、そいつは猊下の分身のようなもの。もっと言えば、お世継ぎだ」


 なるほど、八朶宗が必死になるはずだ。

 神樹は神灵々々カミガミの器、それは数百年に一度転生の時を迎える。時が近づけば、神樹は次代の器たる子株を用意し、信徒は祭礼をもってその引き継ぎを歓迎する。


「そんなものを……師父は盗み出したと?」

「残念ながら、それが事実だ。ルンガオ師父は戦争の英雄だった、その際の功績が大きかったこと、継嗣が盗まれたという事の重大さゆえ、伏せられていたがな」


 ぴしりと、血管にそって自分の体にひびが入る気がした。裂け目から吹き出すのは、鬼か、蛇か、それとも血か。問う声音と瞳は、凍てつく炎に似てる。


「師姉は、知っておられたのですか」

「最初からな。盗まれた時からな。……ああ、そうだ! お前を気にかけているなどと言ったのも、やましかったからさ。だって、あたしはあの場にいたんだ、ウォンの奴が自分の父親を殺しに行った時、返り討ちにされて、くたばりかけていた!」


 怒りよりも可笑しさがこみあげて、ジュイキンは握り拳を震わせた。所詮、こんなものか。人を信じたいなどと思ったばかりに、こんな、ばかばかしい。

 どろどろと灼熱する猛毒の感情が、自分の全身に広がっていくのが分かった。殺気立つ心は、それ自体がむごたらしい苦痛のようで、今にも叫び出しそうだ。これから逃れるには、目の前の相手にすべてを叩き付けるしかない。

 ジュイキンの様子を見て、リュイは制止するように手の平を構えた。


「ああ、だが、大事なのはそんなことじゃないんだ。あたしのことはいくら責めてもらっても構わない、だが、あいつは、グイェンは違う。なあ師弟、片方しか生き残れないとしたら、お前は自分とグイェンの命、どちらを取る?」


 虚を突かれ、ジュイキンは思わず問い返す。


「何ですか、それは」

「お前が死なねば、グイェンが死ぬ、と言っておるのだ」

「死ぬ――不死だというあいつが?」


 厳密には、グイェンは魂の数が多いから死なないわけであって、魂すべてが尽きるまで殺し続ければ、いつかは死ぬ。だが、それがなぜ心臓の件と結びつくのか。


「不死だからこそ、だ。転生が行われなければ神樹が滅び、霊母猊下は天へお帰りあそばされる。次に地上へ来臨なされるのは、何千何万年も先。我ら八朶宗は、それをなんとしてでも阻止するだろう。だから、それを防ぐには」


 リュイは一旦言葉を切って、躊躇ためらいがちに続けた。


にえがいる、せめて、猊下がもう一度継嗣を生み出す力をつけるまで、延命できるだけの贄が。多くの魂が。さもなくば、密度の高い特別な魂。

――それを出来る最適な贄を、あたしもお前も知っている」

「……ええ」


 すべて得心がいった。なるほど、リュイがグイェンの前で襲わずにいた訳だ。こんな話、あいつが知ったら自らを差し出してしまうに決まっている。

 何しろ、自分の心臓をやるなどと言うような、バカなのだから。

 手絹ハンカチでも差し出すように、

 文房具を貸すように、

 簡単に言ってしまうあいつだから。


「あやつの師母ははとして言う。――死ぬがよい、チ・ジュイキン。そなたが心臓を差し出さねば、我ら八朶宗は、十魂じゅっこん十神じゅっしんを霊母猊下の供物に捧げることになろう」


 剣の名手、死天してん夜叉やしゃ。その評判はジュイキンも聞き及んでいる。ここ数年は剣を執らなくなったという話だが、どうやら今宵ばかりは、本気で刃を揮う気らしい。

 もはや殺し合いは避け得ぬ必然。だが、その前にどうしても解せないことがある。


「黙って襲えばいいものを、なぜわざわざご説明を?」

「それではあまりに情が無かろう」


 今更、情と来たか。思わずジュイキンは鼻で笑った、嫌味ったらしい、グイェンが見たこともないような底意地の悪い顔で。


「甘いと笑わば笑え、お前はあれに出来た、初めての友だったのだから」


 それがどうした。はらわたを捻られるような忌々しさに、唾でも吐きたくなってくる。もはやこれ以上、話し合う意味もない。

 ジュイキンは両手に峨嵋刺を装着した。いや、最初に声をかけられた時から、それはリュイの死角で準備していたものだ。ミアキンは避難したのか、既に姿はない。


「私の心臓は、復讐を果たすまでは誰にもくれてやる訳にはいかぬ。グイェンも殺させぬ。その申し出は、お断りだ!」

「兄と師父の仇が討てれば満足か? ルンガオ・ウォンが殺せれば、心臓はくれてやると? 違うだろう、チ・ジュイキン。貴様はここで仕留める!」


 リュイの髪が緞帯リボンを引き千切り、月を隠して広がった。自在に毛髪を操る羽髪うはつこうだ。彼女は髪と、剣で戦う猟客だった。


 勝てるかどうかは分からない。だが、手にした峨嵋刺は既に淡く青い光を帯びている。この神気を使いこなせれば、一抹の勝機があるだろう。

 こんな所で斃される訳にはいかない。痛いほどの憎悪と惑乱の中で、目が醒めるようなひらめきを覚えた。動き出す自分の唇に、何を言うのかと耳を澄ませる。


。奪うだけの神灵など殺す。兄にもらったこの心臓が、本当にそんな力を持つと言うのなら、私は喜んで神灵殺しになってやる!」


 清々しいほど荒唐無稽な宣言だった。心の底から笑いたくなるほど愉快だった。

 喉からそれを吐き出しながら、舌に乗せて語りながら、呆気に取られる女八朶宗に聴かせながら、一言一句が空気を震わすごとに確信する。

 これこそが最善の道、自分の成すべきことだ、と。


 いつからかあった違和感――人が生き返ることが気持ち悪い。

 自分は、きっと、この神灵坐す世が厭だったのだ。死にたい訳ではない、死ぬほどの理由でもない、だからそれなりに生きてきた。


 けれど、この一ヶ月。

 兄と再会し、グイェンと出会い、やり直せると思った矢先に兄が死んだ。そのことを悲しく思いながらも、兄がもし生き返れるとしたら、どうか。

 その時、自分はきっと、否とするだろう。


 かつて生きていた兄は、神灵の御業であっても戻ってこない。最初から「死なない」グイェンとは違う、生き返ってきた兄は、以前の彼ではないのだ。無缺環のように、人ではあっても、その人個人とは根本的に違う、死者の似姿に過ぎない。


 それは理屈では説明し難い、ジュイキンの中に深く根ざした感覚だった。いにしえの時代、地上に神灵はなく、永遠の命もよみがえりも存在しなかった頃の本能。


 殺戒者さっかいしゃ――その意識が、初めてジュイキンの中に目覚めた瞬間だった。

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