第十二話 鉄血蒸気行・参


 ピン、と両端を角のように反らせた瓦屋根が、ある所には塔のように積み上がり、ある所には折り重なるように連なって、川面を望んでいた。

 角に見える部分は、大閻だいえん建築伝統の神仙や鳥獣の飾り物だ。赤や緑の屋根が織りなすのは、まるで鱗模様のような美しい町並み。


 漸江ぜんこう媽京まきょう笛津てきしんの間を通って、南中海に注ぐ大河であり、流域面積にかけては大閻帝国で第二の広さを誇る。そのほとりに広がる都市は、西方の風が入らない、昔ながらの景観そのままだ。

 それを横目に、漸江を行く一隻の発動樹船モーターボートあり。操船を一人の男に任せて、若く溌剌とした女が甲板に立ち、眼前に広がる華沓かとうきょうを見つめていた。


 逢露ほうろきゅうから霊道を開き、鍾杏しょうあん市の晶体樹林から、夜を徹して駆けつけたリュイ・ショウキアである。

 川面は午前の太陽を幾千幾万の細切れに映し、船に蹴散らされる白波は、輝く流氷にも似ていた。ギラギラとした水辺の光を受けながら、リュイの表情はどこか暗い。


「あいつら、まさか揃ってやられたんじゃないだろうね……」


 普段、気丈な彼女を知る者が聞けばのけぞるような細い声音。瑞々しく、たわわな果実にも似たこの美女は、今や自分の弟子とその相方を案じて心を砕いている。

 鉄道の発車時刻のズレと考えても、そろそろ先頭車両が隧道トンネルを抜けてもいい頃のはずだった。船には武器も積んでいる。覚悟は決めた。


「頼むから、早く……!」


 天を仰ぎ、希望を探すように目を凝らして、祈りを呟く。神灵カミにではない、如夷にょい霊母れいぼは人の祈りなど受けつけない。自分自身の、過去と未来に、彼女は祈る。


                 ◆


 神灵がしろしめす世界で、絶対的な終わりとしての死は、魂を砕かれた時に訪れる。だから、生きている内から魂を損なったニングの生は、ただ一度きりだ。


 仲間と思っていたはずのシャン・スーバンに斬り殺された彼らは、最後の形相けいそうを黒く床に焼き付け、消え失せた。

 影無きニングに許された、最期の、そしてただ一度切りの影。それも辺りを浸す血の下に飲まれていく。後には貨物室の電灯に照らされる、油っぽい水面だけ。


「お前は私を殺したいのか、逃したいのか、どちらだ」


 不可解さと警戒心を問いに込めながら、ジュイキンは武器になるものと、ミアキンが入ったカバンの置き場を探した。


 自分がスーバンの素性を思い出したとしても、彼が今も昔も八朶はちだしゅうだと断定することは出来ない。この男はそれがどうしたと流して、自分たちを囲んだ打神だしん翻天はんてんを指揮することも出来たはずだった。それをあっさり殺すとは。


 包囲網が消えたということは、それだけ脱出が容易くなる。その上でわざわざこのような行動に出たこと、そして先程の言葉。嫌になるほど絶望的な予感があった。


「いずれにせよ、行き先は変わらんさ」


 シャン・スーバン、改めルンガオ・ウォンの返事に、やはり、とジュイキンは唇を噛み締めた。この男は今も八朶宗であり、ジュイキンから心臓を奪うことは、教団の方針でもある――蒸気じょうき樹車きしゃを降りても、行き着く先などない、と。


「ま、待って、待って」


 考えを巡らせていると、お使いに出たはいいが道に迷い果てた子供のような声で、グイェンが混乱を訴えた。交互に相棒とウォンを見遣り、しきりに指を差す。


「こいつが、ルンガオたい師父しふの、息子?」


 頭の上で衛星巡回する疑問符を追うように、グイェンはぐるぐると目を回した。首ごと回りそうになる頭をたしっと掴んで止め、ジュイキンは説明を試みる。


「〝密偵〟は分かるか? こいつは八朶宗から打神翻天に、正体を隠して送り込まれたんだ。おそらく、心臓を探すためにな」


 グイェンはそれを聞いて、ぱっと顔を明るくし「あ! そうか! じゃあ仲間……」と、ウォンを指差した。

 が、すぐさま「……仲間?」と自信なさげに首をひねる。眉根がうねる。


 ジュイキンは、猫が何かを訴えて鳴くカバンを置く場所を見つけた。そして資材の中から、適当に鉄パイプを拾い上げる。間合いの不利を何とか埋められそうだ。

 特に構えた風もなく、ウォンはゆったりと立ったまま口を開いた。いかなる体勢にも即座に移れる、流れ水のように柔軟な姿勢。


「ともに同じく霊母れいぼ猊下げいか眷属けんぞくだな。その分をわきまえよ、チ・ジュイキン。大閻だいえんのどこにでも八朶宗の手は届く。運良く国外へ逃げたとしても、無駄なことだ。どうせ助からぬなら、苦しまぬよう済ませてやろう」

「なんだよそれ!」


 ジュイキンが口を開くより先に、グイェンが顔を赤くして燃え上がった。びしっと指を突きつけ、激しく口調を荒らげる。


「お前、打神翻天でも八朶宗でも、どっちみちジュンちゃん殺す気じゃん! お兄さんも殺しておいて、なんでそんなに!」

「仕方なかろう、十魂じゅっこん十神じゅっしん。あの男に罪がないとでも思うか? 弟の方もそうだ、心臓を取っても死なぬ体なら良かったな。お前のように……」


 はっとグイェンは両目を見開いた。何かを思いついたのか、「あっ、じゃあさ」と人差し指を立てる。そして、昼食の献立でも決めるような調子で、こう言った。


「オレの心臓をジュンちゃんに上げたら、あんたは変な心臓が手に入るし、ジュンちゃんもオレも死なないし、これで解決じゃない? ね、どうかな!」


 外では、先頭車両が天梯象てんていぞう隧道トンネル出口に差し掛かっていた。

 理屈上は確かに可能だろう。それを口にするグイェンの言葉には、何の迷いも淀みもなく、真理のように澄んでいた。すべてこれで上手く行くと信じて、瞳が輝いている。その光は、ジュイキンにとってもウォンにとっても眩しい。


「健気なものだな、十魂十神」


 低く笑いながら、ウォンは手のひらで自分の顔を撫でた。眩しさから逃れようとするような仕草、その指の隙間からジュイキンを見やる。


「すこぶる懐かれているようで羨ましいぞ。ああ、そちらの十魂十神だけなら、見逃してやってもいいのだがな……」


 ウォンはだらりと手を下げると、腰の刀に添えた。


「あの時は無辜の子供と思い助けたが、此度こたびはそうもいかん。心臓を奪うこと、チ・ジュイキンを処刑すること。これは八朶宗の決定事項だ」


 あの時――拷問される惨めな姿を、この兄の仇に見られていたのだ。

 そのことを思うと、ジュイキンの胸には新たな殺意が沸き上がってくる。大きく息を吸うと、焼けたような吐息が自分の喉から漏れた。

 拾った鉄管を手に、身構える。


「貴様の命と交換出来るのなら、この心臓、くれてやってもいいがな。お互いのために、手間を省くというのはどうだ? ルンガオ・ウォン」

「魅力的だが、本当に大事なことには、手間を惜しみたくないのでな。女の格好でおねだりされても困るので、断るとしよう」


 言われて、ジュイキンは自分が女装していたことを思い出した。襯衫ブラウスは白い煤にまみれ、裙子スカートは動きやすさと包帯の確保のため引き裂かれている。髪を括っているのは、可愛らしい緞帯リボンと七宝焼だ。……早く着替えたい。


 ウォンが忘生清宗を抜いた。


 心臓に噛み付くような三連突き。強烈な殺気に騙されそうになるが、これはジュイキンの体勢を崩し、仕留めるための前座だ。

 右に、左に、バクてんで刺突を躱し、鉄管を床に突き立て、それを支点に体を回す。その勢いのまま、迫るウォンの横腹に蹴りを放った。空振り。

 刀の軌道が蛇のように地を這い、鉄管を切断する。貼り付くほど身を低くしたウォンは、落下するジュイキンに向けて切っ先を昇らせた。


「ジュンちゃん!」


 白刃のきらめきを恐れ、固くまぶたを閉じながらグイェンが叫ぶ。

 ジュイキンは鉄管を放してウォンの肩を掴み、体を引っ張り上げるようにして刃から逃れた。真っ直ぐに、緊身衣タイツに包まれた脛が切り裂かれる。そのままウォンの背に手をついて側転し、着地。体勢を立て直す間もなく追撃が迫る。

 迫る凶刃が土嚢の袋を裂き、土砂が床に撒き散らされた。ジュイキンは飛び退って距離を取りながら、横合いから袋を投げた者を見る。


「グイェン、助かった!」


 相棒は目を閉じたまま、こちらも鉄管を握り締めていた。ひどく興奮している様子で、汗をかきながら、震えながら、喉に怒気を上らせる。


「なんでだよ! おかしいじゃん、オレの心臓じゃ、ダメなのかよ!」


 刃物が怖いなら、それを眼にしなければいいという理屈。八花拳にも肉眼に頼らぬ気配察知の技法はあるが、グイェンはそれを修得しているのだろうか。

 案じながら、ジュイキンは「落ち着け」と声をかけた。


「八朶宗は、一度いらぬと切り捨てたものには冷たい。救うニングと殺すニングを区別するようにな。あれほど働きのあったルンガオ師父さえ、無慈悲に殺したのだ」

いな


 固く凍えたウォンの声音が、振り上げた刀と共に、鋭くジュイキンの言葉に割り込んだ。体を横にずらし、刀身の腹を掌で打ちながら避ける。


「あれほどの者だからこそ、最後の慈悲に霊母猊下は死を賜われた。他の者であれば、まだ魂を無限地獄で責め苛まれているだろうさ」


 その響きは不協和音じみて、ただ苦々しいだけでは済まない、音のない叫びが奥底にこだましていた。それとは対象的に目は虚ろで、表情には何の感情的揺らぎも見られない。この男は今、叫びを上げる自身の内面を覗き込んでいるのだ。


 そういう表情には、ジュイキン自身も覚えがある。取り出した峨嵋刺を装着し、拳を守りながら、攻める機を探って口を開いた。


「父親を殺した八朶宗に忠義を尽くすか。お前も中々、泣ける話だな」

「そうだとも。


 不意に、ジュイキンは音のないウォンの叫びを、その意味を悟った。誤解していた、父を殺された悲しみと憎しみを堪えているのだと。

 止める間もなく、取り返しのつかない質問が口を飛び出した。


「――師父を殺したのは、お前か?」


 答える代わりに、ウォンは再び、割れ硝子のような笑みを向ける。思わず、背骨を駆け上がるような、嫌悪の寒気を覚えた。

 貨物車両が隧道トンネルを抜ける。窓は塞がれているが、斬り開かれた出入り口から陽が差し込む。重たい空気の殻を脱ぎ捨てるように、車両の立てる音が変わった。


「そこかぁ!」


 グイェンが唐突に飛び上がり、天井を鉄管で突いて揺らす。屋根に待機していたであろう、打神翻天の気配を誤認したらしい。

 外で悲鳴が上がり、やがて遠ざかっていった。相手は屋根から橋の下へと、落下していったのだろう。グイェンは「間違えた!」と見当違いの方向に、またも鉄管を突き出している。あまり頼りには出来ない、とジュイキンは判断した。


 震脚。積まれていた鉄板を跳ね上げ、ウォンの視線を一瞬だけ隠す。火花を散らしてそれが切り裂かれるのを横目に、ジュイキンは背後を取ろうと回り込んだ。

 ウォンはジュイキンを挟んで、ちょうどグイェンの対角線上になるよう常に位置取りをしている。これでは目を閉じていようがいまいが、相棒はジュイキンの体が邪魔になって攻めあぐねるばかりだ。だから、これで位置取りを崩す。


 ジュイキンの目論見通り、グイェンが横合いから鉄管を突き入れた。

 呼吸や体温、存在感といった気配、そして音声。それらを頼りに、グイェンは今度こそ正しく敵の位置を割り出していた。


 像身功ぞうしんこうを利用すれば、それら手がかりをゼロにすることは容易いが、打ち合いの最中にそれを行うことは思いもかけぬ消耗につながる。

 従って、ウォンはあえて像身功を使わずに、そのままグイェンを捌くことに決めた。それだけ侮っているとも言えるが、実際、相手取れるだけの力がある。


 ウォンは自分の背中と脇に挟んで攻撃を止めた。体を捻り、鉄管ごとグイェンの体を持ち上げ、床に叩き付ける。肺から叩き出される酸素。

 ジュイキンはそこへ足払いを仕掛けた。痛烈!

 妨害の蹴りが側頭に叩き込まれ、傾ぐ顎へ更に追撃。がら空きに晒された腹は、まるでまな板に載せられた魚だ。床を叩いて無理やり体を起こす。


 峨嵋刺と忘生清宗が衝突し、青い火花がほとばしった。まるで割れ鐘のような、奇妙に歪んだ金属音。刃と峨嵋刺の接触点が、青白い光を放っていた。いや、峨嵋刺全体が、淡く青い輝きを帯びている。そして、どこか痺れるような熱をも。


「神気が根を張ってきたか」


 ウォンの舌打ちに、これが心臓の恩恵だと理解した。この男を降すには、それを利用するしか無い。どうやって、どんなことが出来るかもよく分からないが。

 起き上がったグイェンが再び打ちかかる。ウォンは剣指を立てると、それをグイェンに向けて気合一閃、振り抜いた。


 しょうによる発声こそ伴わないが、それは純然たる剣気の塊だ。目を閉じてなお、グイェンは瞼の暗闇から幻の刃に襲われ、手足を腹を切り裂かれて、膝を突いた。

 血が引き、体温が下がり、全身を支配する苦痛が、自分自身を追い出そうとする。恐ろしく生々しい感覚に、グイェンは本当に斬られたと疑わなかった。


(それ……でもっ!)


 頭の中で考えていた作戦を反芻する。リュイの顔を、言葉を思い出す。自分自身にしがみつけ、痛みも怖さも良いものも悪いものも残らずひっくるめて。


「ちゃんとオレは、お前と戦う方法を考えてたんだ!」


 グイェンは歯を食いしばって、震脚を繰り出そうとした。大通りの路面をめくったあの一撃で、車両全体を揺らしてしまえば、いかなウォンといえど隙が出来る。

 その間に逃げることさえ出来れば、自分たちの勝ちだ。


「舐めてくれるな、十魂十神!」


 二度同じ手が通用すると考えるとは、片腹痛い。ウォンは鍔迫り合う刀を不意に引いた。刃を押し返そうとしていたジュイキンは体勢を崩し、為す術無く胸ぐらを捕まれ、投げ飛ばされる。行き先は、グイェンが踏み降ろさんとする足の下だ。


「う……っ……わ!?」「グ――!?」


 剣気と幻痛に惑わされながらも、グイェンは寸での所で足の軸をずらした。相棒を踏み殺すことは避けたが、ジュイキンとぶつかって二人もみくちゃに転倒する。そこへ、後ろの壁際に置かれていたミアキン入りのカバンまで巻き込む。

 峨嵋刺が放っていた熱は霧散し、割れ鐘の音も消えた。起き上がろうとして、互いの膝や脚がぶつかってしまう。その数秒は、ウォンには充分過ぎた。


 まずは首だ。ひたりとジュイキンのうなじを見据え、忘生清宗を構える。ただただ真っ直ぐ振り下ろすだけの一撃――この世で最も歪みのない直線を描く。


 線は空間を割り、無数のひび割れを生んだ。ぱりぱりと音を立てそうな変化はまず刃を、そして柄を握るウォンの両手を飲み込み、がちりと凍り付かせる。

 それは刃の中から現れた、彼を捕らえるための罠だった。動きを止められたウォンを、体勢を立て直しながらジュイキンらは呆気にとられて見つめる。


「これは――」

「こらこら、あんまり喧嘩しちゃいけないよ」


 思わず息を飲むウォンの背後から、妖気が吹き付けた。振り返りたくとも、万華鏡の中のようなひび割れは、手から肘、二の腕、肩と体を飲み込んでいき、自由と体温を奪っていく。いつもあの妖女仙が吸っている、煙の匂いが鼻をかすめた。


「君たち三人は、兄弟みたいなものだよ。ねえ?」


 自動人形の体を持つディーディーを従え、打神翻天首魁ロー・ジェンツァイは貨物室に踏み入った。警戒心も露わに、ジュイキンはそれを睨みつける。


「……なんだと」

「うわ、凄い。どうなってんのこれ」


 グイェンは興味深そうに、固められていくウォンに近づいた。膝から崩れ落ち、何やら水晶の原石のようなものに飲み込まれていく、訳の分からない有様。

 硝子のような、水晶のような、鏡のような結晶体に顔を半ばまで埋め尽くされながら、ウォンは呻いた。ギラギラとした憎悪の溶岩が、眼の中で渦巻いている。


「貴様……刀に仕込みを……」

「うんうん、びっくりした? 面白いだろう、これ」


 誕生日祝いの驚奇サプライズを明かすような調子で、ローは嬉々と説明した。


「君のために色々用意したんだけれどね、一番厄介な奴を、真っ先に選んでくれて嬉しいよ。演算樹コンピュータに使っている次元歯車ってあるだろう? あれは君たちの世界ではただの歯車にしか見えないけれど、あれが本来属する世界、一つ上の次元では、もっと別の形をしているんだよ。けれど、この世界にその形は収まり切らないから、その影だけが、何の変哲もない歯車になって見える。おっと、つまりね、君には逆に、一つ下の次元に、少ーし体を押し込めてもらってる所なのさ」

「ジェンツァイ様」


 ディーディーに止められ、ようやくローはジュイキンらに注意を向けた。その傍らで、ウォンは気を失ったようにがくりとうな垂れている。


「……まあそれで、チ・ジュイキン、スー・グイェン。こちらの話はこちらの話。君たちと私たちの話をしよう。おともだちにならないかい?」


 肌を紙やすりにこすられるような怖気を覚え、ジュイキンは顔をしかめた。眼鏡の奥でニヤニヤと笑みを浮かべるこの女が、実に気に食わない。


「貴様、いつからその男の裏切りに気づいていた」

「おやおや、その質問は減点だよ。私が罰点を下す前に、ちゃんと話を聞きなさい。君の知りたいことはなんでも教えてあげる、ただし、おともだちになってから」

「断る。貴様は信用できん」

「なんでオレたちが」


 二人共、間髪入れぬ答えだった。それをあらかじめ予想していたローは、涼しい顔で煙管をふかす。車内に漂う紫煙が、絡みつく蜘蛛の糸のようだ。

 ディーディーはその背後で、本当に人形のように微動だにせず立っている。


「君たち、八朶宗に戻っても死ぬだけじゃないか。あの教団に寄らずにニングが生きていくには、我々のような共同体に属する必要がある。それぐらいは分かるだろう? ああ、お兄さんの仇はそこの彼だから、こちらに恩讐は絡めないでおくれよ」

「だからといって、貴様らの仲間など御免こうむる」

「そーだそーだ! ばかー!」


 本当に分かっているのか怪しい尻馬の乗り方だが、グイェンもジュイキンの思いには同調した。ローはやれやれと、聞き分けのない子供を見るように苦笑する。


「ルンガオ・シャウ最後の弟子と、その実の息子。十魂十神と七殺不死。その三人がこうして一同に会すのは、中々出来過ぎの偶然だよ。私としては、心臓がチ・ジュイキンを選んで宿ったのだとさえ思うのだけれど――」


 がん、と鉄槌で殴りつけたような轟音が、車両全体を揺らした。

 屋根の上に新たな気配! 固められたウォンを除く全員が注視する中、天井が外から蹴破られ、その穴から伸びのある女の声が響き渡る。


「こっちだ、バカ弟子ども!」

「お師さま!?」

「リュイ師姉!?」


 日差しと共に、手が差し伸ばされる。グイェンが無邪気にそちらへ向かおうとするのを横目に、ジュイキンは躊躇ためらいを覚えていた。

 リュイ・ショウキアはグイェンの師だが、八朶宗であることに変わりはない。自分の弟子はともかく、弟弟子であるジュイキンを、教団に逆らってまで守ろうとするだろうか。いや、だとしても、彼女に迷惑をかけるわけには――、


「大丈夫だよ、ジュンちゃん」


 温かな手が、肩を叩いた。


「オレのお師さまだよ、ジュンちゃんのことだって、守ってくれる」


――もっと師姉を頼っていいのだぞ? ん?


 グイェンの言葉は大げさだと思ったが、ジュイキンは頷いた。

 ミアキンの入ったカバンを抱いて駆け出し、跳び、貨物車の屋根へと立つ。そのままリュイに誘われ、橋の下に待機していた発動樹船モーターボートへと降りる。


 後から思い返せば、それはあまりに甘い判断だった。

 兄は身を挺してジュイキンを救い、リュイからは優しい言葉をかけられた。何より、グイェンと出会って、もう一度誰かを信じたいと思えるようになった。


……それが、ただの押しつけとも気づかずに。


                 ◆


「行っちゃったねえ」


 手でひさしを作って、ローは天井の穴から、さんさんと陽が降り注ぐ青空を仰いだ。明らかにディーディーが何か言いたそうな気配は感じているが、無視する。

 彼女はこの後お使いに出すとして、チ・ジュイキンをこちらに引き入れる算段を立てねばならない。これでしばらく、退屈することはなさそうだ。


 今後の予定を考えながら、ローはほとんどウォンから興味を失っていた。後は保存処理を施して、額に入れて飾るだけの、標本にした虫程度にしか思っていない。

 八朶宗から寄越された密偵、その正体に気づいたのはここ最近だが、求める心臓を体に埋め込んでやったらさぞ面白かろうと思った。その目論見が、こうも意外な方向に転がるとは、これだから人の世界はやめられない。


「――嗚呼ああ――」


 嘆息するような声に、ローは振り向いた。遠く耳鳴りのような響きがしている。それはたちまち大きくなり、不快なほど鋭く鼓膜に刺さっていった。


「剣が、いている」


 音の源は、忘生清宗。声は、それを握りながら、半ば水晶のようなものに埋もれたルンガオ・ウォンだった。その全身から、透明な何かがゆらゆらと立ち上っている。

 ローが忘生清宗に仕掛けた術が、紙の繊維のように分解されながら、一つ一つ、剥がれ落ち、天上へと帰って行く。それは呪縛されたウォン当人に取っては、神経を一本一本抜かれるような激痛を伴うはずの行為だった。


「俺の、剣……」


 人の煩悶と傷ついた獣の痛み。しかし、うわ言のようなウォンの声には、苦痛以上に激しい懊悩の色があった。ディーディーがローを守るように前へ出る。

 手負いの獣が、決して許さぬと憎悪の咆哮を上げた。


「剣を哭かせたな、ロー・ジェンツァイ!!」


――ごぎん、と。


 空間の噛み合わせと噛み合わせが、まとめてズレるような震動。ディーディーは思わず、自分の中の歯車が狂うかと思った。

 ローはその震動自体には動じてはいない。だが、それがもたらす結果には、わずかに目を見張った。すなわち、再び自由を得て立ち上がるルンガオ・ウォンの姿に。


「お前がどんな小細工を仕掛けようと、これは〝俺の剣〟だ」


 ばらばらと、空間の結晶体が卵の殻のように剥がれ落ちていく。無理やり呪縛を脱したことで毛細血管が破裂し、眼からも耳からも出血していた。

 いや、実際のダメージはその比ではなく――常人ならば、既に二度三度死んでいてもおかしくない。一つ下の次元から無理やり戻る無茶は、それほどの代償だった。


「おや。そっちのに乗り換えるのかい? 妬けるなあ」


 ウォンは再び愛刀を構える。内臓、筋肉、神経、多くのものを次元に引き裂かれ、ズタズタになりながら、一分の隙もない。それが剣に対する礼儀とばかりに。

 血涙の眼は、冷ややかに二人の打神翻天を射抜く。


「お前を女と思ったことなぞ、一度もないさ――化け物め」

「ひどいな」


 妖女仙は、あくまでニヤニヤとした薄笑いを崩さない。それは、この女が初めてウォンと出会った時、占いを告げた時と寸分たがわぬ表情だ。

 お前は、望みのものは何一つとして、手に入れられないだろう。

 むしろ奪われ続ける人生だろう――と。


                 ◆


 リュイの用意した発動樹船に揺られながら、ジュイキンは何かを感じて橋の方を振り返った。誰かが落下し、水中に没していく。

 自然とあの男だ、という予感を覚えた。どんな類の術かは知らないが、これぐらいで終わるはずがなかろう、という奇妙な確信がある。


 それに、息苦しいほどの胸騒ぎがした。腹の底に虫の群れが詰まって、それが外へと飛び立とうとしているような、居ても立ってもいられない感覚。

 それが自分の感情なのか、移植された心臓の訴えなのか、区別出来ずにジュイキンは困惑していた。少しずつ、これは自分に変化をもたらしている。神気とやらが完全に根付いた時、何が起きるのか?


(……なんなんだ、これは)


 神灵殺しの心臓。打神翻天も、そして八朶宗までもが、なぜゆえこうも、樹械心臓一つを求めるのか。ルンガオ師父は、一体何を持ち出したのだろう。

 考えることが多すぎる――深く息を吐き出して、ジュイキンはしばし、船の揺れに身を任せた。

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