第十二話 鉄血蒸気行・参
ピン、と両端を角のように反らせた瓦屋根が、ある所には塔のように積み上がり、ある所には折り重なるように連なって、川面を望んでいた。
角に見える部分は、
それを横目に、漸江を行く一隻の
川面は午前の太陽を幾千幾万の細切れに映し、船に蹴散らされる白波は、輝く流氷にも似ていた。ギラギラとした水辺の光を受けながら、リュイの表情はどこか暗い。
「あいつら、まさか揃ってやられたんじゃないだろうね……」
普段、気丈な彼女を知る者が聞けばのけぞるような細い声音。瑞々しく、たわわな果実にも似たこの美女は、今や自分の弟子とその相方を案じて心を砕いている。
鉄道の発車時刻のズレと考えても、そろそろ先頭車両が
「頼むから、早く……!」
天を仰ぎ、希望を探すように目を凝らして、祈りを呟く。
◆
神灵がしろしめす世界で、絶対的な終わりとしての死は、魂を砕かれた時に訪れる。だから、生きている内から魂を損なったニングの生は、ただ一度きりだ。
仲間と思っていたはずのシャン・スーバンに斬り殺された彼らは、最後の
影無きニングに許された、最期の、そしてただ一度切りの影。それも辺りを浸す血の下に飲まれていく。後には貨物室の電灯に照らされる、油っぽい水面だけ。
「お前は私を殺したいのか、逃したいのか、どちらだ」
不可解さと警戒心を問いに込めながら、ジュイキンは武器になるものと、ミアキンが入ったカバンの置き場を探した。
自分がスーバンの素性を思い出したとしても、彼が今も昔も
包囲網が消えたということは、それだけ脱出が容易くなる。その上でわざわざこのような行動に出たこと、そして先程の言葉。嫌になるほど絶望的な予感があった。
「いずれにせよ、行き先は変わらんさ」
シャン・スーバン、改めルンガオ・ウォンの返事に、やはり、とジュイキンは唇を噛み締めた。この男は今も八朶宗であり、ジュイキンから心臓を奪うことは、教団の方針でもある――
「ま、待って、待って」
考えを巡らせていると、お使いに出たはいいが道に迷い果てた子供のような声で、グイェンが混乱を訴えた。交互に相棒とウォンを見遣り、しきりに指を差す。
「こいつが、ルンガオ
頭の上で衛星巡回する疑問符を追うように、グイェンはぐるぐると目を回した。首ごと回りそうになる頭をたしっと掴んで止め、ジュイキンは説明を試みる。
「〝密偵〟は分かるか? こいつは八朶宗から打神翻天に、正体を隠して送り込まれたんだ。おそらく、心臓を探すためにな」
グイェンはそれを聞いて、ぱっと顔を明るくし「あ! そうか! じゃあ仲間……」と、ウォンを指差した。
が、すぐさま「……仲間?」と自信なさげに首をひねる。眉根がうねる。
ジュイキンは、猫が何かを訴えて鳴くカバンを置く場所を見つけた。そして資材の中から、適当に鉄
特に構えた風もなく、ウォンはゆったりと立ったまま口を開いた。いかなる体勢にも即座に移れる、流れ水のように柔軟な姿勢。
「ともに同じく
「なんだよそれ!」
ジュイキンが口を開くより先に、グイェンが顔を赤くして燃え上がった。びしっと指を突きつけ、激しく口調を荒らげる。
「お前、打神翻天でも八朶宗でも、どっちみちジュンちゃん殺す気じゃん! お兄さんも殺しておいて、なんでそんなに!」
「仕方なかろう、
はっとグイェンは両目を見開いた。何かを思いついたのか、「あっ、じゃあさ」と人差し指を立てる。そして、昼食の献立でも決めるような調子で、こう言った。
「オレの心臓をジュンちゃんに上げたら、あんたは変な心臓が手に入るし、ジュンちゃんもオレも死なないし、これで解決じゃない? ね、どうかな!」
外では、先頭車両が
理屈上は確かに可能だろう。それを口にするグイェンの言葉には、何の迷いも淀みもなく、真理のように澄んでいた。すべてこれで上手く行くと信じて、瞳が輝いている。その光は、ジュイキンにとってもウォンにとっても眩しい。
「健気なものだな、十魂十神」
低く笑いながら、ウォンは手のひらで自分の顔を撫でた。眩しさから逃れようとするような仕草、その指の隙間からジュイキンを見やる。
「すこぶる懐かれているようで羨ましいぞ。ああ、そちらの十魂十神だけなら、見逃してやってもいいのだがな……」
ウォンはだらりと手を下げると、腰の刀に添えた。
「あの時は無辜の子供と思い助けたが、
あの時――拷問される惨めな姿を、この兄の仇に見られていたのだ。
そのことを思うと、ジュイキンの胸には新たな殺意が沸き上がってくる。大きく息を吸うと、焼けたような吐息が自分の喉から漏れた。
拾った鉄管を手に、身構える。
「貴様の命と交換出来るのなら、この心臓、くれてやってもいいがな。お互いのために、手間を省くというのはどうだ? ルンガオ・ウォン」
「魅力的だが、本当に大事なことには、手間を惜しみたくないのでな。女の格好でおねだりされても困るので、断るとしよう」
言われて、ジュイキンは自分が女装していたことを思い出した。
ウォンが忘生清宗を抜いた。
心臓に噛み付くような三連突き。強烈な殺気に騙されそうになるが、これはジュイキンの体勢を崩し、仕留めるための前座だ。
右に、左に、
刀の軌道が蛇のように地を這い、鉄管を切断する。貼り付くほど身を低くしたウォンは、落下するジュイキンに向けて切っ先を昇らせた。
「ジュンちゃん!」
白刃のきらめきを恐れ、固く
ジュイキンは鉄管を放してウォンの肩を掴み、体を引っ張り上げるようにして刃から逃れた。真っ直ぐに、
迫る凶刃が土嚢の袋を裂き、土砂が床に撒き散らされた。ジュイキンは飛び退って距離を取りながら、横合いから袋を投げた者を見る。
「グイェン、助かった!」
相棒は目を閉じたまま、こちらも鉄管を握り締めていた。ひどく興奮している様子で、汗をかきながら、震えながら、喉に怒気を上らせる。
「なんでだよ! おかしいじゃん、オレの心臓じゃ、ダメなのかよ!」
刃物が怖いなら、それを眼にしなければいいという理屈。八花拳にも肉眼に頼らぬ気配察知の技法はあるが、グイェンはそれを修得しているのだろうか。
案じながら、ジュイキンは「落ち着け」と声をかけた。
「八朶宗は、一度いらぬと切り捨てたものには冷たい。救うニングと殺すニングを区別するようにな。あれほど働きのあったルンガオ師父さえ、無慈悲に殺したのだ」
「
固く凍えたウォンの声音が、振り上げた刀と共に、鋭くジュイキンの言葉に割り込んだ。体を横にずらし、刀身の腹を掌で打ちながら避ける。
「あれほどの者だからこそ、最後の慈悲に霊母猊下は死を賜われた。他の者であれば、まだ魂を無限地獄で責め苛まれているだろうさ」
その響きは不協和音じみて、ただ苦々しいだけでは済まない、音のない叫びが奥底にこだましていた。それとは対象的に目は虚ろで、表情には何の感情的揺らぎも見られない。この男は今、叫びを上げる自身の内面を覗き込んでいるのだ。
そういう表情には、ジュイキン自身も覚えがある。取り出した峨嵋刺を装着し、拳を守りながら、攻める機を探って口を開いた。
「父親を殺した八朶宗に忠義を尽くすか。お前も中々、泣ける話だな」
「そうだとも。俺自身が八朶宗なのだからな」
不意に、ジュイキンは音のないウォンの叫びを、その意味を悟った。誤解していた、父を殺された悲しみと憎しみを堪えているのだと。
止める間もなく、取り返しのつかない質問が口を飛び出した。
「――師父を殺したのは、お前か?」
答える代わりに、ウォンは再び、割れ硝子のような笑みを向ける。思わず、背骨を駆け上がるような、嫌悪の寒気を覚えた。
貨物車両が
「そこかぁ!」
グイェンが唐突に飛び上がり、天井を鉄管で突いて揺らす。屋根に待機していたであろう、打神翻天の気配を誤認したらしい。
外で悲鳴が上がり、やがて遠ざかっていった。相手は屋根から橋の下へと、落下していったのだろう。グイェンは「間違えた!」と見当違いの方向に、またも鉄管を突き出している。あまり頼りには出来ない、とジュイキンは判断した。
震脚。積まれていた鉄板を跳ね上げ、ウォンの視線を一瞬だけ隠す。火花を散らしてそれが切り裂かれるのを横目に、ジュイキンは背後を取ろうと回り込んだ。
ウォンはジュイキンを挟んで、ちょうどグイェンの対角線上になるよう常に位置取りをしている。これでは目を閉じていようがいまいが、相棒はジュイキンの体が邪魔になって攻めあぐねるばかりだ。だから、これで位置取りを崩す。
ジュイキンの目論見通り、グイェンが横合いから鉄管を突き入れた。
呼吸や体温、存在感といった気配、そして音声。それらを頼りに、グイェンは今度こそ正しく敵の位置を割り出していた。
従って、ウォンはあえて像身功を使わずに、そのままグイェンを捌くことに決めた。それだけ侮っているとも言えるが、実際、相手取れるだけの力がある。
ウォンは自分の背中と脇に挟んで攻撃を止めた。体を捻り、鉄管ごとグイェンの体を持ち上げ、床に叩き付ける。肺から叩き出される酸素。
ジュイキンはそこへ足払いを仕掛けた。痛烈!
妨害の蹴りが側頭に叩き込まれ、傾ぐ顎へ更に追撃。がら空きに晒された腹は、まるでまな板に載せられた魚だ。床を叩いて無理やり体を起こす。
峨嵋刺と忘生清宗が衝突し、青い火花が
「神気が根を張ってきたか」
ウォンの舌打ちに、これが心臓の恩恵だと理解した。この男を降すには、それを利用するしか無い。どうやって、どんなことが出来るかもよく分からないが。
起き上がったグイェンが再び打ちかかる。ウォンは剣指を立てると、それをグイェンに向けて気合一閃、振り抜いた。
血が引き、体温が下がり、全身を支配する苦痛が、自分自身を追い出そうとする。恐ろしく生々しい感覚に、グイェンは本当に斬られたと疑わなかった。
(それ……でもっ!)
頭の中で考えていた作戦を反芻する。リュイの顔を、言葉を思い出す。自分自身にしがみつけ、痛みも怖さも良いものも悪いものも残らずひっくるめて。
「ちゃんとオレは、お前と戦う方法を考えてたんだ!」
グイェンは歯を食いしばって、震脚を繰り出そうとした。大通りの路面をめくったあの一撃で、車両全体を揺らしてしまえば、いかなウォンといえど隙が出来る。
その間に逃げることさえ出来れば、自分たちの勝ちだ。
「舐めてくれるな、十魂十神!」
二度同じ手が通用すると考えるとは、片腹痛い。ウォンは鍔迫り合う刀を不意に引いた。刃を押し返そうとしていたジュイキンは体勢を崩し、為す術無く胸ぐらを捕まれ、投げ飛ばされる。行き先は、グイェンが踏み降ろさんとする足の下だ。
「う……っ……わ!?」「グ――!?」
剣気と幻痛に惑わされながらも、グイェンは寸での所で足の軸をずらした。相棒を踏み殺すことは避けたが、ジュイキンとぶつかって二人もみくちゃに転倒する。そこへ、後ろの壁際に置かれていたミアキン入りのカバンまで巻き込む。
峨嵋刺が放っていた熱は霧散し、割れ鐘の音も消えた。起き上がろうとして、互いの膝や脚がぶつかってしまう。その数秒は、ウォンには充分過ぎた。
まずは首だ。ひたりとジュイキンのうなじを見据え、忘生清宗を構える。ただただ真っ直ぐ振り下ろすだけの一撃――この世で最も歪みのない直線を描く。
線は空間を割り、無数のひび割れを生んだ。ぱりぱりと音を立てそうな変化はまず刃を、そして柄を握るウォンの両手を飲み込み、がちりと凍り付かせる。
それは刃の中から現れた、彼を捕らえるための罠だった。動きを止められたウォンを、体勢を立て直しながらジュイキンらは呆気にとられて見つめる。
「これは――」
「こらこら、あんまり喧嘩しちゃいけないよ」
思わず息を飲むウォンの背後から、妖気が吹き付けた。振り返りたくとも、万華鏡の中のようなひび割れは、手から肘、二の腕、肩と体を飲み込んでいき、自由と体温を奪っていく。いつもあの妖女仙が吸っている、煙の匂いが鼻をかすめた。
「君たち三人は、兄弟みたいなものだよ。ねえ?」
自動人形の体を持つディーディーを従え、打神翻天首魁ロー・ジェンツァイは貨物室に踏み入った。警戒心も露わに、ジュイキンはそれを睨みつける。
「……なんだと」
「うわ、凄い。どうなってんのこれ」
グイェンは興味深そうに、固められていくウォンに近づいた。膝から崩れ落ち、何やら水晶の原石のようなものに飲み込まれていく、訳の分からない有様。
硝子のような、水晶のような、鏡のような結晶体に顔を半ばまで埋め尽くされながら、ウォンは呻いた。ギラギラとした憎悪の溶岩が、眼の中で渦巻いている。
「貴様……刀に仕込みを……」
「うんうん、びっくりした? 面白いだろう、これ」
誕生日祝いの
「君のために色々用意したんだけれどね、一番厄介な奴を、真っ先に選んでくれて嬉しいよ。
「ジェンツァイ様」
ディーディーに止められ、ようやくローはジュイキンらに注意を向けた。その傍らで、ウォンは気を失ったようにがくりとうな垂れている。
「……まあそれで、チ・ジュイキン、スー・グイェン。こちらの話はこちらの話。君たちと私たちの話をしよう。おともだちにならないかい?」
肌を紙やすりにこすられるような怖気を覚え、ジュイキンは顔をしかめた。眼鏡の奥でニヤニヤと笑みを浮かべるこの女が、実に気に食わない。
「貴様、いつからその男の裏切りに気づいていた」
「おやおや、その質問は減点だよ。私が罰点を下す前に、ちゃんと話を聞きなさい。君の知りたいことはなんでも教えてあげる、ただし、おともだちになってから」
「断る。貴様は信用できん」
「なんでオレたちが」
二人共、間髪入れぬ答えだった。それをあらかじめ予想していたローは、涼しい顔で煙管をふかす。車内に漂う紫煙が、絡みつく蜘蛛の糸のようだ。
ディーディーはその背後で、本当に人形のように微動だにせず立っている。
「君たち、八朶宗に戻っても死ぬだけじゃないか。あの教団に寄らずにニングが生きていくには、我々のような共同体に属する必要がある。それぐらいは分かるだろう? ああ、お兄さんの仇はそこの彼だから、こちらに恩讐は絡めないでおくれよ」
「だからといって、貴様らの仲間など御免こうむる」
「そーだそーだ! ばかー!」
本当に分かっているのか怪しい尻馬の乗り方だが、グイェンもジュイキンの思いには同調した。ローはやれやれと、聞き分けのない子供を見るように苦笑する。
「ルンガオ・シャウ最後の弟子と、その実の息子。十魂十神と七殺不死。その三人がこうして一同に会すのは、中々出来過ぎの偶然だよ。私としては、心臓がチ・ジュイキンを選んで宿ったのだとさえ思うのだけれど――」
がん、と鉄槌で殴りつけたような轟音が、車両全体を揺らした。
屋根の上に新たな気配! 固められたウォンを除く全員が注視する中、天井が外から蹴破られ、その穴から伸びのある女の声が響き渡る。
「こっちだ、バカ弟子ども!」
「お師さま!?」
「リュイ師姉!?」
日差しと共に、手が差し伸ばされる。グイェンが無邪気にそちらへ向かおうとするのを横目に、ジュイキンは
リュイ・ショウキアはグイェンの師だが、八朶宗であることに変わりはない。自分の弟子はともかく、弟弟子であるジュイキンを、教団に逆らってまで守ろうとするだろうか。いや、だとしても、彼女に迷惑をかけるわけには――、
「大丈夫だよ、ジュンちゃん」
温かな手が、肩を叩いた。
「オレのお師さまだよ、ジュンちゃんのことだって、守ってくれる」
――もっと師姉を頼っていいのだぞ? ん?
グイェンの言葉は大げさだと思ったが、ジュイキンは頷いた。
ミアキンの入ったカバンを抱いて駆け出し、跳び、貨物車の屋根へと立つ。そのままリュイに誘われ、橋の下に待機していた
後から思い返せば、それはあまりに甘い判断だった。
兄は身を挺してジュイキンを救い、リュイからは優しい言葉をかけられた。何より、グイェンと出会って、もう一度誰かを信じたいと思えるようになった。
……それが、ただの押しつけとも気づかずに。
◆
「行っちゃったねえ」
手でひさしを作って、ローは天井の穴から、さんさんと陽が降り注ぐ青空を仰いだ。明らかにディーディーが何か言いたそうな気配は感じているが、無視する。
彼女はこの後お使いに出すとして、チ・ジュイキンをこちらに引き入れる算段を立てねばならない。これでしばらく、退屈することはなさそうだ。
今後の予定を考えながら、ローはほとんどウォンから興味を失っていた。後は保存処理を施して、額に入れて飾るだけの、標本にした虫程度にしか思っていない。
八朶宗から寄越された密偵、その正体に気づいたのはここ最近だが、求める心臓を体に埋め込んでやったらさぞ面白かろうと思った。その目論見が、こうも意外な方向に転がるとは、これだから人の世界はやめられない。
「――
嘆息するような声に、ローは振り向いた。遠く耳鳴りのような響きがしている。それはたちまち大きくなり、不快なほど鋭く鼓膜に刺さっていった。
「剣が、
音の源は、忘生清宗。声は、それを握りながら、半ば水晶のようなものに埋もれたルンガオ・ウォンだった。その全身から、透明な何かがゆらゆらと立ち上っている。
ローが忘生清宗に仕掛けた術が、紙の繊維のように分解されながら、一つ一つ、剥がれ落ち、天上へと帰って行く。それは呪縛されたウォン当人に取っては、神経を一本一本抜かれるような激痛を伴うはずの行為だった。
「俺の、剣……」
人の煩悶と傷ついた獣の痛み。しかし、うわ言のようなウォンの声には、苦痛以上に激しい懊悩の色があった。ディーディーがローを守るように前へ出る。
手負いの獣が、決して許さぬと憎悪の咆哮を上げた。
「剣を哭かせたな、ロー・ジェンツァイ!!」
――ごぎん、と。
空間の噛み合わせと噛み合わせが、まとめてズレるような震動。ディーディーは思わず、自分の中の歯車が狂うかと思った。
ローはその震動自体には動じてはいない。だが、それがもたらす結果には、わずかに目を見張った。すなわち、再び自由を得て立ち上がるルンガオ・ウォンの姿に。
「お前がどんな小細工を仕掛けようと、これは〝俺の剣〟だ」
ばらばらと、空間の結晶体が卵の殻のように剥がれ落ちていく。無理やり呪縛を脱したことで毛細血管が破裂し、眼からも耳からも出血していた。
いや、実際のダメージはその比ではなく――常人ならば、既に二度三度死んでいてもおかしくない。一つ下の次元から無理やり戻る無茶は、それほどの代償だった。
「おや。そっちの女に乗り換えるのかい? 妬けるなあ」
ウォンは再び愛刀を構える。内臓、筋肉、神経、多くのものを次元に引き裂かれ、ズタズタになりながら、一分の隙もない。それが剣に対する礼儀とばかりに。
血涙の眼は、冷ややかに二人の打神翻天を射抜く。
「お前を女と思ったことなぞ、一度もないさ――化け物め」
「ひどいな」
妖女仙は、あくまでニヤニヤとした薄笑いを崩さない。それは、この女が初めてウォンと出会った時、占いを告げた時と寸分たがわぬ表情だ。
お前は、望みのものは何一つとして、手に入れられないだろう。
むしろ奪われ続ける人生だろう――と。
◆
リュイの用意した発動樹船に揺られながら、ジュイキンは何かを感じて橋の方を振り返った。誰かが落下し、水中に没していく。
自然とあの男だ、という予感を覚えた。どんな類の術かは知らないが、これぐらいで終わるはずがなかろう、という奇妙な確信がある。
それに、息苦しいほどの胸騒ぎがした。腹の底に虫の群れが詰まって、それが外へと飛び立とうとしているような、居ても立ってもいられない感覚。
それが自分の感情なのか、移植された心臓の訴えなのか、区別出来ずにジュイキンは困惑していた。少しずつ、これは自分に変化をもたらしている。神気とやらが完全に根付いた時、何が起きるのか?
(……なんなんだ、これは)
神灵殺しの心臓。打神翻天も、そして八朶宗までもが、なぜゆえこうも、樹械心臓一つを求めるのか。ルンガオ師父は、一体何を持ち出したのだろう。
考えることが多すぎる――深く息を吐き出して、ジュイキンはしばし、船の揺れに身を任せた。
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