第十一話 鉄血蒸気行・弐


「これはね、いいよ。やっぱり巴旦杏アーモンドより夏威夷果マカダミアだね、深みがあって、ふくよか……いや、豊かな味わいだ。それにこの香ばしさ……」


 宝石箱のような箱詰めの朱古黎ショコラを傍らに、ローは上機嫌だった。対面式ボックス座席せきで向かい合って座るディーディーは、どうしたものかと気をもみながらそれを見る。

 隧道トンネルを行く車窓には、自分の硬い横顔が映っていた。


「味覚の調子はどうだい、ディーディー」

「はい、美味しいです」


 最近付けられた味覚機能と、食べたものを分解する内部機構は順調だ。朱古黎ショコラは多分こんな味だったろう、と思えるし、おそらく美味しいはずだ、とも感じられる。人形の体から、幾分かマシになってきたと言える、が。


「大変差し出がましくて恐縮ですが。……よろしいのですか、ジェンツァイ様」


 しびれを切らしてディーディーは口を開いた。


「シャン様は、やはりわざと敵を逃したのでは?」


 その疑念はほとんど確信に近い。


 そもそもがシャン・スーバン――最初に名乗ったそれすらも偽名だ。

 江湖ごうこ(裏社会やその筋)の恩讐は複雑な事情が絡むゆえ、偽名を名乗ること、その理由を深く追求しないことは、礼儀の一つとして広く知れ渡っている。

 だが、以前のディーディーは、そうした世界とは無縁の人間だった。だから、その慣習にもいまだ馴染みがないし、スーバンという男が今ひとつ信用できない。


 他にも本名を名乗らぬ打神だしん翻天はんてん構成員はいくらでもいるが、その中で最も武術に優れ、ローが重用しているのがあの男だから、彼女は不安になる。


「初めて会った時、少し彼を占ったのさ。君は、望みのものは何一つとして、手に入れられないだろう。むしろ奪われ続ける人生だろう、ってね」


 甘い菓子を口に運びながら、妖女仙はのたまう。

 蛇がのたくるような、ゆったりとした蒸気樹車の揺れの中で、その姿は美しい鱗の大蛇に似ていた。だが致命的な毒を持つ蛇だ、一度捕らえた獲物は離さない。


「彼はそれを聞いて笑っていたけれど、今は、さて、笑えていると思うかい? ナル・チャオライなんてどうでも良かったんだけどね、あんな嫌がらせ……おっと、いたずら心で、ずいぶん〝しっちゃかめっちゃか〟になったものだよ」

「それは、どういう……?」


 ディーディーには分からない。だが、本当の意味で知りたいとは思わない。彼女にとっては、打神翻天の主目的などどうでもいいことだ。

 ローは、新しく作った人形に入れる「中身」を探していた。そこにたまたま居合わせたのが、消えかけのディーディーだ。


 その時は別の名前を持っていたが、今となっては思い出すこともない。元の自分とは異なる姿、異なる名、それでも、ローは命の恩人だ。

 愛玩物として傍にはべることに、彼女は何ら躊躇ためらいはない。それがペットに対するものだとしても、愛されているならば不満はなかった。


 だがそれも以前の話。昨今では、主人はすっかりあの剣客にかまけている。


「何にせよ、損害はまだまだ許容範囲。どう転んでも、私には痛くない……でも、そうだね。少しおさらいをしておこうか。ディーディー、私の手を見てご覧」


 ローは素早い手の動きで、印を結んだ。手訣しゅけつ、そして口訣こうけつ


「――八卦種はっけしゅ花形かぎょう角羅壇かくらだん、記憶セヨ。

 我今第一角式ろくしきいんニテ踢人てきじん改印かいいんヲ成ス。

 謹請きんせい偽装霊訊ぎそうれいじん風水渙ふうすいかん85番――ひらけ


 それまで不思議そうにローを見つめていた瞳が、ディーディーの心情を伺わせない無機質な硝子玉に変わった。口元が機械的に動く。


「受諾。百八十二時間二十八分の記録があります」

「一番最近の記録から頼むよ」

「受諾。記録資料を呼び出します――」


 ディーディーは己が知るはずのない通信記録を語り始める。その内容を確認しながら、堕落仙女〝螢霊玄君けいれいげんくん〟は、極々上機嫌で朱古黎ショコラをつまんだ。


                 ◆


 貨物室に入り込んだジュイキンは、カバンからミアキンを出してやると、持ってきた水筒を開けてひと心地をつけた。口の中に入っていたすすが、茶と一緒に喉の奥へ落ちる。敵の追撃は思ったよりも緩いが、あまり休んでいる暇はない。


「ジュンちゃん、これからどうするの?」


 体にくくりつけられた天井板を外し、グイェンは汚れた顔をこすった。二人共、体中が煤で白っぽく、髪や衣服にまで電磁蒸気の匂いが染み付いている。


「周りに資材が山積みだろう? これを使って出口と窓を塞ぎ、隧道トンネルを抜けるまでの時間稼ぎをする。急ぎでだ」


 資材のほとんどは、土木や建築のそれのようだった。おそらく、出稼ぎの土木作業員か何かが乗り合わせていたのだろう。好都合だ。


 木材、鉄筋、鉄板、土嚢。それに、なまし番線。木材を組木細工のように壁にはめ込み、板を立て掛け、まず窓を塞ぐ、そういった手順をグイェンに指示した。

 電磁蒸気の匂いのせいか、ミアキンは二人にあまり近づかず、落ち着き無く貨物室の中を歩き回っている。


「いいか、この先は漸江ぜんこうに架かった華沓かとうきょうがある。ここで防備を固めて時間を稼ぎ、橋に差し掛かった所で脱出、河に飛び込む計画だ」

「河!?」


 天井板を窓に当てながら、グイェンが素っ頓狂な声を出す。


「ああ、着水の衝撃で五体がバラバラにならんよう、ちゃんと受け身を取れよ。河から上がる頃には、笛津てきしんが近いから、そこからまた鍾杏しょうあんを目指すことになる」

「わ、わかった」


 こういう力仕事の時、グイェンの馬鹿力は実に頼もしい。たまにミアキンから資材にちょっかいを出されながらも、作業は滞りなく進んだ。

 だが、ジュイキンにとって、懸念事項はまだまだある。


 例えば――シャン・スーバンは何者なのか? 自分は確かに、随分と昔にあれと会ったことがある、そのはずだ。

 思い出そうとすると、何かひどく不快な感じがして、無意識に記憶が浮かび上がるのを拒んでいる。そんな感覚があった。


 かつて、あの男から何らかの惨い仕打ちを受けたのなら、自分はそれを決して忘れないだろう。何か嫌な記憶と近い場所に、スーバンとの邂逅が結びついている。

 この曖昧な感覚が、徐々にジュイキンを苛立たせていた。その思いを振り払いたくて、別の懸念事項に思考を回す。作業を進めながら、ジュイキンは切り出した。


「グイェン、さっきのはなんだ?」

「さっきって?」

「お前の様子がおかしかった。誤魔化すなよ。今なら聞く余裕が出来たからな、今後の不安要素を潰すため、話してもらうぞ。……互いの命に関わるからな」


 グイェンは土嚢を積む手を止めて、うつむいた。床を観察でもするように、しばらく不安定に、ゆっくりと体を左右に揺らす。


「オレ、剣とか、刃物が怖いんだ」


 やがてこぼれた声は、ジュイキンが想像したよりも落ち着いた、低い調子だった。


「ずっと昔、五年ぐらい前かな。父上が殺された時、オレも殺されたから」


 十魂十神じゅっこんじゅっしん、百八つの命から生まれた、百八つの魂を持つ外法げほう重魂体じゅうこんたい。ゆえに、その魂の数だけ殺し尽くされない限りは、不死身とされる。


「何度も、何度も。オレって死なないんだって、その時初めて知ったんだ。ん? それとも、死なないほうが普通なんだって、その時は思ってたのかな。なんか、どっかで人って死ぬんだって聞いて、びっくりしたことあるから。うん」


 とつとつと語るグイェンの声は、どこか他人事のようで、けれど、今にも崩れ落ちそうなほど慎重だった。この子は、語ることで思い起こされる自分の過去と、それをジュイキンに聞かせることを恐れながら、恐怖に耐えている。


「……お兄さんの時もさ、情けないんだ。シャン・スーバンって、あいつ、刀を抜かれただけなのに、オレ、体中斬り刻まれたって思い込んで……その時、思い出した。ああ、前もこんなことあったって。ずっと、忘れてたけど」

「グイェン」


 不意に灯ったもどかしさが、ジュイキンの胸を焦がした。すぐ傍にいるはずのグイェンが、奇妙に遠く感じられる。そちらに近づきたいのに、伸ばしたはずの手が届かない、自分の言葉が届かない、そんな錯覚を、首を振って追い払う。

 グイェンの声は徐々に高くなっていった。手が大きく震えていく。


「だから、オレのせいなんだ。お兄さんを助けられなかったの。あの時も、さっきみたいにオレが動けてたら、きっと!」

「いいんだ」


 気がついた時、ジュイキンはグイェンの肩を掴んでいた。もう片方の手を伸ばし、同じように肩を掴んで、まっすぐにその瞳を覗き込む。


「お前はあの時、一生懸命やった。私はそう信じている。兄はあの時死んだ、ダメだった、それは、もう仕方のないことなんだ。だから、いいんだ、グイェン」


 グイェンは黙って頷いた。この子は、自分がどれだけ相棒を救っているか、大して気づいてもいないのだろう。己を責めることなど、何一つない。


 血が流される、神灵カミ殺しの心臓を求めて。

 神灵が死ねば、その神格に属する帰依者は、生者ならば魂を失ってニングに堕ち、死者ならば冥府に暮らす魂が消滅する。


 大閻だいえん帝国に存在する神格は、主要なものだけでも、三百六十五柱。仮にその神灵すべてが弑逆しいぎゃくされることがあれば、大閻はニングの国となるだろう。


(くだらない、あまりにくだらない、罵迦げた妄想だ。そんなもののために、兄は殺された――これ以上、連中の好きにはさせまい)


 改めて、ジュイキンはそう決意する。

 グイェンはごしごしと、手の甲で、腕で自分の顔を念入りに拭うと、辺りの資材に再び手を付け始めた。構ってほしそうに鳴くミアキンを撫でて、ジュイキンも作業に戻る。もうすぐそこまで、敵は来ているはずなのだから。


                 ◆


 隧道トンネル内を疾駆する車体は、轟々と暗い響きに包まれ、がたがたと窓を揺らしていた。乗客が怯えて逃げ惑う車内を、スーバンは血刀を手に部下と共に走る。

 打神翻天の追撃は、大きく遅れを取っていた。

 不意を突いて距離を稼いだとはいえ、所詮ジュイキンたちは屋根の上をのろのろと進むことしか出来ない。本来なら、追いつくことも、先回りすることも容易かった。

 その道を阻んだのは、乗客を守らんとする、軍人崩れの車掌だ。


 車掌は甄子しんし咏瞬拳えいしゅんけんの使い手を名乗り、武装した打神翻天を相手に大立ち回りを演じたが、スーバンはこれを頭頂から唐竹割りに斬って殺した。

 大した使い手だった、職務に忠実で、こんな悪党に殺されるべき人間ではなかっただろう。だが、無駄な手間を取らされ、スーバンの苛立ちは頂点に達しそうだった。


 その焦燥は、ジュイキンのことを思い出した時からずっと、彼を体の中心から焼き続けている物だ。向こうがこちらを思い出すより先に始末する、それが今後、自身の進退を決めるだろう。だが、それ以上に彼には、くすぶる思いがある。


(チ・ジュイキン、あの小僧――)


 初めて会ったあの後すぐに、チ・ジュイキンが死んでいてくれれば良かった。そうすれば、自分は無辜の少年の死を哀れみ、そして、忘れるだけで終わっただろう。

 だが、なぜよりにもよって今、あの小僧なのだ。ルンガオ・シャウ最後の弟子に、あの心臓が宿ってしまうのだ。運命の采配に笑ってしまいそうだった。


 死したはずのルンガオが、己を呪っているのかとさえ思う。そう、あの男なら、今も地獄で手ぐすねを引いて、自分を待っているのかもしれない。

 スー・グイェンは生かして帰してもいいが、チ・ジュイキンは決して許すまい。ともすれば、黒い憎悪の炎と言ってもよい熱情で、スーバンは誓う。


大哥あにき! 扉が開きません」


 少し先を行っていた部下たちが、車両の入り口で固まって立ち往生していた。乗客たちにも徐々に騒ぎが広がり、とうとうここで立て篭もりを始めたらしい。

 スーバンは何も言わず、忘生清宗を解き放った。


 斬り下ろし、斬り上げる。トン、トン、と扇子で叩くような軽い音がした後、鉄の扉は三つに切り裂かれ、中に向かって倒れた。そのすぐ後ろに居た人体ごと。

 抵抗してきた者をいちいち殺す手間暇も惜しい。スーバンは即座に次の車両へ向かって走ったが、背後では繰り返し悲鳴が上がり、銃声がした。


                 ◆


 がん、と扉を蹴る音で、ジュイキンらは敵の来訪を知った。

 ミアキンに謝りながら、再び猫の小さな体をカバンに押し込む。河に飛び込んでも猫が溺れないよう、なんとか防水の準備は整えられた。


 持ってきた峨嵋刺はおよそ十五本、うち半数以上が既に無い。だから、ジュイキンは資材の中にあった長釘を手に取った。防柵バリケードの奥、木組みの隙間に、割られた扉の窓がある。そこへ向けて、一投一撃。

 手応えはあった、打神翻天の誰かに凶器はあやまたず刺さっただろう。だが、入れ替わりに投げ入れられる小さな影あり。


 子供の握り拳ほどの小さな塊――手榴弾。


 ジュイキンは咄嗟に手を伸ばした。掴み取って炸裂する前に投げ返せられるかもしれない。木組みの隙間に向けて、いや、それは布か何かで塞がれてしまった。

 伸ばしかけた手が空を切る。ジュイキンはグイェンを連れ、奥へ避難する方へ思考を切り替えた。多くの資材は、立て篭もるためにほとんど壁際に寄せてしまっていた。それでも、どこか隠れられる陰が残っていないだろうか。


 思考するジュイキンの横を、グイェンが通り過ぎた。貨物室の入り口、手榴弾の方に向かって。何か言おうとするより先に、グイェンはそれに覆いかぶさった。

 炸裂音。


 青年の大きな背中が、水面から飛び上がった魚のように跳ね上がり、血しぶきを辺りに撒き散らした。火薬のきな臭さが鼻の奥で弾けて、ちりちりとした感触が脳をかき回す。この程度で十魂十神が死ぬものか、そうは思っても血流は思考に逆らった。

 さっと血が引き、脈拍が乱れ、ずきずきとジュイキンの心臓が痛む。


「グイェン……ばかな」


 床に転がり、さらけ出された胴体は血に染まって服がズタズタだ。幸い、息はしているが、意識は朦朧としているようだった。

 服を引き裂き、傷口を確認する。破片手榴弾の類ではなかったようだが、焼け爛れた皮が剥け、どろりと垂れる血が嫌な臭いを立てていた。


「そこは、ほめて、ほっしいなあ……」


 苦しげな声で、精一杯の虚勢を張って、グイェンは微笑んでみせた。かと思えば、痛みに引きつった、しゃっくりのような呻きを上げる。


「だからと言って、無茶しすぎだ、たわけ! 確かに……確かに、被害を上手く最小限に抑えたかもしれないが、こんな捨て鉢な行動……」

「でも、オレ、死なないし」


 よっこらせ、とグイェンは身を起こす。腹から胸の傷口はまだ生々しい血を垂らしているが、痛みを堪えていると言うより、慣れてますと言う穏やかな表情だった。


「……死ななければ良い、というものでもないだろう……!」


 ボロ布になったグイェンの襯衫シャツ風雪大衣パーカーで傷口を手当てしながら、ジュイキンはぶつくさと文句を言った。扉の向こうでは今も、敵が入り口を破ろうとしている。


「自分の身も守れん阿呆が、人を守るなどおこがましい。……さっきのは確かに助かった、だが、誇れるやり方ではない。これは私とお前、二人の失敗だ」

「え、ええっと~」


 グイェンはぐるぐると、宙に目を彷徨わせた。


「つまり?」

「もう少し、お前は自分の身を大切にしろ、ということだ。たわけ!!」


 がこん、と重々しい音がして、防柵バリケードの一角が崩れた。ジュイキンが積み直さなくてはと考えた端から、もう一度がこん、と崩される。

 防柵バリケードの破片は、綺麗な直線に切り取られていた。重かった音は高さを増し、澄んだ音色で、次々と防備が切り崩されていく。


 鉄の扉も、木組みも、鉄板も、土嚢と集装箱コンテナ防柵バリケードも残らず蹴散らして、その男は悠然と貨物室に踏み入った。

 それだけで、空気が焦がされ、その熱が足元へ泥のように溜まっていくような錯覚がある。その熱源は怒りか、それとも憎悪か。


「手間を取らせてくれたものだ」

「「シャン・スーバン……!」」


 その男の名を、ジュイキンとグイェンは異口同音に口にした。

 スーバンの背後から、打神翻天の男たちが武器を手に手になだれ込んでくる。ぐるりと、ジュイキンたちを取り囲み、再び包囲態勢を取った。


「二度同じ手が通じると思うなよ。屋根の上にも我々は待機している」

「だろうな」


 思ったよりも、破られるのが早い。新しく峨嵋刺を掴みながら、不意に、ジュイキンは胸中でもやついていた物が消えるのを感じた。


「思い、出した」


 心の底で、ゆっくりと渦巻いていた霧が晴れる。過去の映像が鮮明に、細切れな夢になって次から次へと押し寄せた。

 記憶の洪水は一瞬で終わり、流れ去った後には空白の、明晰な意識。


「思い出した、ぞ――貴様は、あの時、尋問官に連れられて部屋に入ってきた! 公教こうきょうきょくの制服姿で、逢露ほうろきゅうの監獄に!」


                 ◇


 地下の小さな尋問室で、幼い囚人が椅子に縛り付けられ、ぐったりとうつむいていた。年の頃は十四、五。手を伸ばしてその子の髪を掴むと、湿り気を帯びていた。

 訪問者に気を遣って、冷水で血や汚物を洗い落とされた後なのだろうか。あるいは単に、水責めに遭っていただけかもしれない。


 髪を引っ張って顔を上向かせると、少女のような目鼻立ちが、痣だらけで腫れ上がっていた。彼が口を開くより先に、少年はうわ言のように声を垂れ流す。


「しらない」


 言葉はたどたどしく、音程が狂っていた。声は渇き切って、ひび割れている。


「しらない、しらないしら、な、し、らないしらないわたししらない、いな、ら」

「おい」


 彼は平手で顔を打って、繰り言を黙らせた。それでも、尋問官の殴打に比べれば遥かに優しかったはずだ。


「茶を」


 呆けた顔で静かになったその子供に、茶杯を差し出すが見向きもしない。いや、目の前に飲み物があることにも気づけていないようだった。

 口に押し当ててやると、途端にごくごくと喉を鳴らして飲み始める。長い間、水分も与えられていなかったのだろう。

 少しの間を置いて、少年の瞳が目の前の男に焦点を結んだ。しかし。


「……ぁすけて」


 発した言葉はそれだけだ。他はほとんど、意味をなさない支離滅裂な音声。こいつは壊れている、と彼は判断した。よくも無意味に、ここまで追い詰めたものだ。


「やはり、こいつが何かを知っているはずがない。知っているとしたら、ルンガオ・シャウが放置して消える訳がない。殺すか、連れて行くか、あるいは連れてこられる前に自害しようとしたはずだ。最初に逃げる素振りを見せたか?」


 尋問官はやや苦々しい顔を作って、「そういう報告は」とだけ言葉を濁した。


「放してやれ。よく養生させてな」


 囚人の情報は事前に閲覧している。少年はこうなる以前、優秀な八花拳士であり、有力な猟客候補生だった。こんな所で潰させるには惜しい。


「いいでしょう……しかし、大罪人の息子が、大きな口を叩かないことだ」


 尋問官は、ぐったりと動かない少年を指差した。


「あなたがそこの席に座っていた可能性もあったのですよ」

でも自白させられる自信があるのか?」


 彼はせせら笑って、悔し紛れの脅しを聞き流した。ルンガオ・シャウとは何年も絶縁していたのだ、自分が奴と協力していることはあり得ない。


「その永い一生を、の罪の贖いに費やすことですな。七殺不死」


 尋問官の言葉を最後まで聞くこと無く、彼は退室した。


                 ◇


 がちりと、ジュイキンの中で記憶の歯車が噛み合った。


「お前は――ルンガオ師父の息子なのか」


 あの時着ていた公教局の制服は、出向した八朶宗が貸与されるものだった。

 その格好で監獄に居た、こいつは間違いなく八朶宗だ。

 それが打神翻天と共にいる――おそらくは、密偵として。


大哥あにき?」


 散弾銃を構えていた打神翻天の一人が、隣のスーバンに訝しげに声をかけた。

 彼はまだ言葉を続けようとしていたが、その先は喉から漏れる血と息になって消える。ずるりと、その首が横滑りになって、貨物室の床に転がった。


 スーバンは逆隣の打神翻天に後ろ蹴りを喰らわせ、武器を叩き落とす。その間に首無しになった男の隣に、その隣にと包囲網を一周して、その軌道上にいた五人をなで斬りにして殺した。仕掛け絵本のように、くるりと車内が血の海に変わる。

 真っ二つになって転がる死体たちが、ジュイキンの質問に対する答えだった。


「絶縁されて久しいがな」


 涼しい顔で、スーバンを名乗る男は血を振り払い、納刀した。


「思い出さなければ良かったのだ、チ・ジュイキン。俺を打神翻天の一味と思っていれば、懐かしの古巣に戻って、速やかに腑分けされていたろうに」


 ルンガオ・ウォンは、哀れみと蔑みがない交ぜの割れ硝子じみた顔で笑ってみせた。硝子片の一つ一つに、ジュイキンへの殺意をみなぎらせながら。

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