第十話 鉄血蒸気行・壱

 媽京まきょうは陸から突き出た媽江澳まこうおう半島部と、いくつかの群島を埋め立てた人工の離島部からなる港湾都市だ。その市境には、全長二百公尺メートルを超える巨樹〝天梯象てんていぞう〟がそびえる。伝説にいわく、天と地をつなぐと言われた聖なる木の末裔だ。


 元々は閉鎖された資源採掘所であったが、二十数年ほど前に鉄道を敷く際に、樹を迂回するか、幹に隧道トンネルを開通させるかで議論になった。

 ただでさえ天梯象は、木材や霊媒を採掘されて疲弊している。そこへ更に大穴を開けるのはいかがなものか? しかし、迂回か直進かの違いはあまりに大きい。


 神霊庁は天梯象の高位樹霊と辛抱強く交渉し、樹霊を神灵カミの座に引き上げることを条件に、トンネル開通の許諾を得た。現在、隧道トンネル前には交渉に尽力した巫覡官ふげきかんの像と墓が建てられている。このあたりは媽江澳半島郷土史資料に詳しい。


 ジュイキンらが乗った蒸気じょうき樹車きしゃは、天梯象隧道トンネルに向かってひた走っていた。朝の空には電磁蒸気の残光がうっすらと線をき、まるでその先に釣り針でもついているように、灰魚ツイグーの群れを呼び寄せている。


 漁船の網を逃れた彼らは、樹車が吐き出す煙に食らいつこうと、必死で宙を泳いでいた。餌の乏しくなった現在の都市では、樹車がもうもうと吐き出す濃密な煙は、貴重な食料源だ。しかし、人間側は兵糧攻めの手を緩めない。


 流線型の車体は、線路の上にずらりと並ぶ、拱形アーチ状の輝く拱門ゲートを潜っている。放電光を宙空に固定した鳥獣ちょうじゅう禁戒きんかい拱門こうもん灰魚ツイグーから車体を守るための装置だ。

 灰魚ツイグーはギリギリの所まで近づき、煙のおこぼれを貪りながら、時おり拱門ゲートに触れては黒焦げになって落ちていく。灰魚ツイグーによる脱線事故も過去の出来事、乗客はその眺めに、守りは万全だと安心するだろう。


 だが、ある種の者たちにとっては、檻に囚われたような感覚を与えるかもしれない。例えば、チ・ジュイキンはその一人だった。


(こうも安々と包囲を許してしまうとは!)


 現状を簡潔にまとめて、ジュイキンは胸中歯噛みしていた。

 多くが壁抜けを得意とするニングだが、生きているもの、霊性あるもの、電気や熱といった触れると怪我をするものは、透り抜けられない。


 蒸気樹車の車体は、電磁蒸気機関から発生する樹霊を薄く帯びており、霊性あるものの範疇だ。ニングが透り抜けられない障害物の代表と言っていい。

 一部霊性の薄い、透り抜け可能な隙間こそ存在するが、抜けた先には灰魚ツイグー避けの高圧電流拱門ゲート。車両から脱出した所で、逃げ道はない。


 グイェンが手に持ったままの霊符を引き裂く。不可視の何かが眼前の敵に襲いかかったが、ローの前で波紋のような跡を残して霧散した。

 形を成す間もなかった霊体の残滓が、吹きかけられる紫煙に掃かれていく。


「一応名乗っておこうか。私はロー・ジェンツァイ、この通り打神翻天を率いている。そちらの彼は」と、手に持った煙管で指し。「もう会ったと思うけど、シャン・スーバン。その心臓本来の持ち主さ」

「別に覚える必要もないがな」


 ジュイキンに刃を突きつけたまま、スーバンの構えには隙がない。

 ドッドッドッと、走行する樹車の揺れは不規則で、その響きは鼓動に似ていた。自分たちは、巨大な鉄の血管に流されているのだ、とジュイキンは考える。

 この車両が行き着く先は鍾杏しょうあん市。では、胸の中にあるこの心臓は、自分たちをどこへ連れて行くのか? その答えの一端は、眼前の女が知っているのだろう。


「貴様はなんだ、」

「なぜルンガオ・シャウを知ってるか? 彼が我々の同志だったからさ」


 ジュイキンの言葉を途中で遮り、ローは恐ろしいことを告げた。

 ふわりと、足元から突き上げる樹車の揺れが、妙に強く感じられた。ジュイキンは座席の手すりを強く掴み、ぐらつく己の心を、体の側から支えようと試みる。


「ジェニィ、あまり余計なことは――」


 スーバンの制止も、打神翻天首魁は聞き流す。


「『万神ばんしん万死ばんし天猟てんりょう心母しんぼ』、君の中に眠っているその樹械心臓は、彼の協力なくしては造れなかった。君たち八朶はちだしゅうが気づいた時には、後の祭り……」

「嘘をつけ!」


 自分でも半分も信じていないことを声高に叫ぶ。師父が組織に逆らって殺されただろうことは、ジュイキンも以前から承知していた。だが、もしも。


「それが真実なら、貴様らは私から兄も師父も奪った……!」


 ジュイキンの声は、めらめらと臓腑を焼く火を、血と共に吐き出す痛みと怒りだった。重く落日のように輝く瞳が、灼熱の激情で妖女仙を射抜く。

 だが当のローは涼しい顔をしていた。深々と、そしてゆっくりと煙管を吸い、またゆっくり紫煙を吐き出して流し目ウィンクする。


「半分は言いがかりだね」

「もういい、貴様はしゃべるな」


 それらの会話は、ほとんどグイェンの耳には入っていなかった。彼は霊符を引き裂いた直後から、スーバンに突きつけられた刀に目が釘付けになっている。


 脳裏には惨劇の記憶がよみがえろうとしていた。ぶつりと、一寸押し込まれるごとに自身が断ち切られる感触、それでも止まらない硬い刃、全身を貫かれる衝撃に身をよじれば、自分が砕け散って、ばらばらに飛び出していくよう。そして、はっと目が覚めると体はどうもなっていなくて、安堵するよりも先に、新しく刃が振り下ろされた。それが繰り返し、繰り返し。幾度血の海で果てても終わりは見えず、


「逃げ道を探すなら上下方向か。どうする、グイェン」


 名前を呼ぶ声が記憶の海を打ち消した。どうにか現実に意識を戻し、グイェンは頭を軽く振る。

 それでようやく、ジュイキンは相方の異変に気がついた。


「グイェン?」片眉を上げて訝しむ。

「な、なんでもない」頬を拭って微笑んだ。


 そんなわけがあるか、とジュイキンは思わず胸中でこぼす。真っ青な顔が汗にまみれて、こんなに引きつった表情は初めてだ。


「何か問題があるなら言え。黙っていても不安要素が増えるだけだ」


 蒸気樹車が天梯象隧道トンネルに差し掛かった。走行する樹車の振動は音が変わり、水中に潜ったような圧迫感と暗さが車内を包み込む。

 囲まれた時点でほぼこちらの負けだな、とジュイキンは考えていた。兄の仇、あのシャン・スーバンと一対二でも厳しいものがあるが、得体の知れない首魁と、戦闘員かも不明な少女。武器を手にした有象無象の反動集団ども。


 ローたち主要人員と思しき三人以外、影がないが、乗客の振りをして乗り込んでいる以上、駅構内では像身功ぞうしんこうで偽の影を作っていたはずだ。つまり、最低限の功夫クンフーを積んだ戦闘員揃いということになる。加えてこの数と、この狭さ。

 ミアキンを抱えて、その上様子のおかしいグイェンを連れて、さて余命何分かという有様だ。だが、命乞いという選択肢は彼にはなかった。


「ジュンちゃん」


 一秒を何十倍にも引き伸ばした思考の渦から、ジュイキンは相棒の声に耳を傾けた。何かを決意し、訴えるような透徹とした声。


「オレに、『頼む』って、言って」


 グイェンはジュイキンの胴を抱えるように腕を回し、徐々に重心を移動させている。密着した衣服ごしに、荒い息や、不自然に低い体温が伝わってきた。具合が悪そうだが、何か考えがあるらしい。ジュイキンは即座に口にした。


「『頼む』、お前の力が必要だ」


 グイェンが叫び、爆発が起きた。くしゃりと床板が絞られるようにへこみ、めくれ、ジュイキンは天井からそれを見下ろす。頭の上で轟音が鳴り、鼓膜の痛みに顔をしかめていると、猛烈な風と花の香りが顔面に叩き付けられた。車外だ。


 一瞬何が起きたか分からなかった。

 一瞬後に何が起きたか理解した。


 グイェンは床を蹴って跳び上がり、天井を殴って穴を開け、抱えたジュイキンとミアキンごと、屋根へと脱出したのだ。十魂じゅっこん十神じゅっしんの力押し、ここに極まれり!

 頭が状況を把握するより先に、ジュイキンの肉体は反射的に這いつくばって、屋根に取り付いていた。突き破った天井板は、グイェンが貫いた拳そのままで把持はじしており、二人に覆いかぶさっている。


「絶対に板を離すなよ!」と、ジュイキンはまず叫んだ。


 隧道トンネル内に篭もる電磁蒸気は、花の香りこそかぐわしいものだが、喉にはいがらっぽく、目には煙たい。その上、灰魚避けの拱門ゲートがすぐ頭の上にある。

 ジュイキンはカバンの口をきつく閉めた。中のミアキンがみぎあああ、と唸っているが、電磁蒸気を直に吸わせる訳にはいかない。今は全員で生還するのが最優先だ。


「……っつ」


 天井板を持つグイェンの二の腕に、匕首が突き刺さっていた。屋根へと脱出する寸前、打神翻天の誰か――おそらくスーバン――が放ったものだろう。


 ジュイキンは裙子スカートを引き裂き、動きやすさと即席の包帯を確保した。匕首を抜き、手早くグイェンの腕に包帯を巻く。動きづらい屋根の上では、ちょっとした曲芸のような状態だ。内部とは違って、車両の揺れがかなり直接的に響く。

 手当されながら、グイェンは線路に向かって嘔吐した。


「大丈夫……これぐらい、全然、大丈夫」


 震える声は、グイェンが自分自身に言い聞かせているようだ。ジュイキンは改めて匕首を確認するが、毒が塗られている風でもない。


「グイェン、もう一度言うが、何か問題があるなら言え。それと……よくやった。まさか本当にやるとは思わなかったが、上に脱出したお前の判断は正しい」

「へへ……あれ」


 褒められ、微笑しようとして、グイェンは目を瞬かせた。


「ジュンちゃん、女の子のカッコは?」

「余分に内力を費やすから切ったまでだ」


 不要となった眼鏡を外し、放り捨てる。屋根に取り付いた時に、少女ジュイキンはいつもの青年ジュイキンに戻っていた。衣服だけは買ってきたのでそのままだ。


「そっか。でも元に戻っても、その服、似合ってるね」


 肘鉄を喰らわせようとして、ジュイキンは腕を下ろした。

 グイェンの笑みは痛みのためだけでなく、いつもより精彩を欠いて見える。だが、今は言う言わないを押し問答している時間はない。

 ジュイキンは背後を振り返った。上手い具合に慣性の法則が働いて、二人は連結部を跨ぎ、隣車両の先頭までふっ飛ばされている。グイェンが開けた穴は、十数公尺メートル後ろといった所か。おかげで、大変な楽が出来た。


 下の方では敵が相談をしているだろうが、ここでは車輪の軋みやロッドの動き、風の音がうるさくて何も聞こえない。

 何にせよ、今稼いだ距離を、このまま活かさない手はなかった。隧道トンネル内は視界も悪く、危険が多いが、これこそ活路というものだ。


                 ◇


「うっそだろ、トンネルん中で真上に出んのか」


 茶青色オリーブがかった肌――青匈奴あおきょうどの巨漢が呆然とつぶやいた。そのうなじからは、小さな枝が覗いている。自ら体に植え付けた強化樹械だ。

 青匈奴は世界で最初に樹械を見出し、使い始めた民族だ。彼らは先祖代々、その肉体に樹械の恩恵を受けてきたため、それが遺伝し、生まれつき体に葉緑素を持っている。だが、男はそれとは関係なくニングに堕ち、追われる者となっていた。

 別の打神翻天らが悪態をつく。


「それより、猟客ってのはあんなバケモンなのかよ! 天井破りやがった!」

「シャンの旦那! どうします」

「後方だ、追え!」


 スーバンの指示を受けて男たちが走り出す。ほとんどは車内をそのまま駆けたが、幾人かは窓を打ち破り、車体の壁に取り付いた。

 咄嗟に匕首を投げたのはスーバンだ。確かな手応えは感じているが、あれで八朶宗の二人が止まるとも思えない。一刻も無駄にする訳にはいかないが、その前に。

 スーバンは納刀しながら、ローにしかめっ面で念押しした。


「ジェニィ、くれぐれも妙な手出しはするなよ」


 ローは「はいはい」と、羽織から伸びる手を鷹揚に振った。


「万事君に任せるよ、私はこのまま樹車の旅だ。まあ大した景色もないがね」


 でも、と付け加える妖女仙の唇が、妖しく紅くうごめく。


「あの二人組、背の高い方は既に気圧されていたよ? 君が喝破してしまえば、それだけで役立たずになったんじゃないかな」

「……まるでわざと逃したかのようですね」


 ディーディーがあけすけに言葉を継いだ。表情のない人形にも負けないほど、スーバンは顔の筋肉を動かさず、吐き捨てるように言った。


「だからといって、あんな逃げ方をすると誰が思う。取るに足りん弱敵と思えば、足をすくわれた。ああ、俺の手落ちだ、悪かった。これで満足か?」

「じゃあ、後のが楽しみだねえ」


 ディーディー以外の部下が周りからいなくなったので、遠慮なくローはそういうことを口にする。三日月のようにつり上がった口が煙管を噛むのを、スーバンは怖気と共に見た。――色情狂め、胸中でそう悪態をつき、頬を噛む。

 ばつん、と破裂音が轟き、天井に開いた穴から死体が落ちてきた。顔面が銃の暴発で吹っ飛んでおり、五体は黒く崩壊して、床に影を焼き付けながら消滅する。


罵迦ばかが。正面から挑んでなんとする」


 舌打ちすると、スーバンは女たちを残して追跡を開始した。


                 ◇


「いいか、このまま屋根伝いで移動するぞ。後方の貨物車両を目指す」


 グイェンは「うん!」と無闇に元気のいい返事をした。ジュイキンは包帯の余りで、天井板とミアキンが入ったカバンを、グイェンの体に巻きつける。

 走行音にまぎれて、窓が割られたり、車体の軋みに不自然な律動リズムが混ざる。打神翻天が車外へ出て、こちらへ向かっているのだろう。


「そこについたら?」

「中に入って籠城戦だ。途中下車するにも、この隧道トンネルを抜ける必要がある。なにせ天梯象内部は迷宮だからな、下手に落ちれば死んでも出れん」


 天梯象は一般的な木材の他に、良質な晶体や霊媒を採取できるため、その内部は多くの坑道が掘られている。誰も全容を把握していない複雑怪奇な迷宮は、いつしかニングを始め、胡乱な連中が少なからず棲み着いていた。

 その中に、打神翻天の手先がいないとも限らない。何の案内も無く、無事に抜けられる場所ではなかった。


「貨物室に着いた後のことは着いた後だ。今はこのまま這って進むぞ、絶対に顔を上げるな。十魂十神でも死んで吹き飛ばされる」

「わかった!」

「追手は私が相手をする、両手を使いたいから引っ張ってくれ」


 ジュイキンは目指す貨物室とは逆方向に座り、裙子スカートの裏側から峨嵋刺を取り出した。投擲用のため小ぶりなそれは、飛刺ひしと呼ばれる亜種である。

 天井板と屋根に挟まれ、視界は恐ろしく悪いが、やるしかない。


「お前は左右を警戒して進め。いいか、絶対に落ちるなよ、今は一蓮托生だからな」

「まかせて!」

「そら、射的の的が来た」


 ジュイキンは峨嵋刺の環に指を通し、くるくると回しながら追手を見据えた。

 暗所、閉所、すぐ上には触れれば感電死する灰魚ツイグー避け拱門ゲート。体勢を崩して屋根から落ちれば、車輪に巻き込まれてクズ肉だ。


(最悪な状況だな。だが――)


 気分は、下で包囲された時より遥かに良い。仇が目の前にいるのに、今は手出しが出来ない。そのことが口惜しくもあるが、どこか心は穏やかだった。

 グイェンがいるからだ。この世に生まれ落ちてわずか八年の子供、ほんの数ヶ月共に居たこの青年ならば、自分の信頼に応えてくれるだろうという、確かな手応え。

 こんな気持ちを抱いたのは、それこそ十二年ぶりではなかろうか?


(まったく、最高の気分だ!)


 師父ルンガオがなにゆえ八朶宗を裏切り、神灵殺しなどというものに手を貸したのかは分からない。だが、真実を知るにはここを生き延びなくては。

 憎悪、憤怒、怨恨、屈辱。それらを飲み込みながら、足の下に踏みつけて、立ち向かう力が沸いてくる。この程度の苦難、簡単に切り抜けてみせよう!


 屋根に開いた穴から現れたのは、まずは一人。上半身だけを乗り出して、こちらに来複ライフル銃を撃ってくる。いや、撃とうとした。

 その銃口に、ちょうど飛刺が収まる。いつもの峨嵋刺であれば、少し大きくて弾かれたかもしれないのが幸いした。ばつん、と暴発が起きて下へ消える。


 間髪入れず、車体左側から這い登ってきた二人目が現れた。その喉仏に、最初からそこに生えていたような顔で、ジュイキンの峨嵋刺は突き立った。

 グイェンはその間にも相棒を曳行えいこうし、じわじわと亀のように屋根を這い進む。時折、背負った天井板に感電死した灰魚の死骸が降りかかった。


 飛んだり跳ねたり出来ない不安定な足場、だが裏を返せば、相手の攻め手を限定できる状況でもある。曲がり角に差し掛かって体勢を崩した者など、格好の的以外の何物でもない。眉間を狙わずとも、足を貫けば相手は線路の奈落へ落ちていく。

 安定して追手を倒せてはいるが、呼吸が辛い。天井板である程度遮ってはいるが、電磁蒸気が咳を誘発し、内功が乱れそうだ。長期戦はまずい。


(だが、病み上がりにしては上出来にすぎるな)


 昨夜、内功を練ろうと気を巡らせただけで倒れた無様を思い出し、ジュイキンの胸に苦いものがよぎる。今はそんなことよりも、十全に戦えている事実の方が重要だ。

 こちらの余計な思考を断ち切るように、グイェンが疑問を口にした。


「ねえジュンちゃん、車両が切り離されたらどうするの?」

「その時はその時だ、軽身功で飛び移れ。そのぐらいはしてみせろ」

「うん!」


 一人ではない、そのことがこんなにありがたいとは。しみじみ思いながら、「距離はこちらが有利だ、急げ、だが慌てるなよ」とジュイキンは指示を飛ばした。

 迷宮から帰れなくなるのを恐れて、灰魚ツイグーがだんだんと引き返していく。

 もう少しすれば、頭上から高圧電流の拱門ゲートも消えて、少しこちらが楽になるはずだ。そうなれば鍾杏市に着くまで、余分な障害物とはおさらば出来る。

 状況はひとまず良くなりつつあるか――そう思った時、グイェンが警告を発した。


「ジュンちゃん、右!」


 声と枝鞭えだむちの襲撃は同時だった。青々とした葉をつけた細い枝が何本も束になり、意志を持ったもののように屋根上の二人をなぎ払いにかかる。

 がん、とグイェンが天井板を盾にしてそれを耐えた。

 板の裏では、カバン内のミアキンがしぎゃあと喚く。ジュイキンは身を起こし、グイェンの体にしがみつきながら、匕首で枝鞭を斬りつける。


「ちくしょうが!」


 枝鞭は切られたところから緑の血を流し、下の方から男の声がした。


「……そういえば、連中の中に青匈奴がいたな」


 車内で見た顔を思い出して、ジュイキンは舌打ちする。少しばかり面倒な相手だ。

 細い枝の束が屋根のでっぱりに取り付き、下から腹の張った巨漢を引っ張り上げる。暗いトンネル内でも、それが緑の肌を持つ人間であることは分かった。


「グイェン、私から手を離せ!」


 自由を得たジュイキンは低い姿勢で立ち上がる。体幹から伸びる「根」を足元に、大地の下に、更に奥深くへと下ろす仮想イメージ。車両の揺れや風と一体になり、それら振動の雑音ノイズを〝無〟に変える。まるで静止した地面に立つ境地に己を導いた。

 八朶の花は、天地人をつなぐ如夷にょいの花。


 右手に匕首、左手に峨嵋刺。指環を支点にくるくると回した峨嵋刺を振り下ろし、匕首で切り上げ、鞭と束ねられた枝葉を刈り取っていく。流れる血潮は人間の鉄臭いそれではなく、青臭い樹液だ。だが、聞こえる悲鳴は樹木の軋みではない。


泥足巨人ウドの大木め!」


 首から、背中から伸びた枝を刈り取られた巨漢は、それでも喰らいついてきた。攻防それぞれの樹械を植え付けていたのだろう、男の皮膚が厚くひび割れ、樹皮のように固く鎧を成していく。しかし殻が硬ければ、中身はそれだけ脆いものだ。


 掴みかかろうとする巨漢に向けて、ジュイキンは両手の武器を投げつけた。相手は硬化した腕でそれを払うが、自ら掴む動作を殺してしまう。そのまま襲いかかっていれば、樹皮の鎧で大した怪我もしなかっただろうに。


 そのことを相手が悟り、後悔する時間があったかは分からない。どちらにせよジュイキンは懐に飛び込んでいた。深く、深く、海に潜るように体を沈め、足首、脛、腰、背筋、肩、腕、あらゆる関節が連携した筋肉の伸張と重心移動――すなわち、全身から発する勁力けいりきと内力を込めた両掌底打を、肥えた胴の中心に打ち込む。


 八花拳・撼神かんじん掌破しょうは


 全身に走ったひび割れが、内側から樹皮を弾き飛ばし、巨漢の体が宙に浮いた。その直上には、いまだ健在の鳥獣ちょうじゅう禁戒きんかい拱門こうもんが火花を散らしている。

 雷鳴に似た轟音と共に、真っ白な閃光が隧道トンネル内を塗り潰した。人型の松明がみるみる内に焼け崩れ、ジュイキンらが目指す車両後方へと流れ去っていく。

 さすがにやや疲れた。グイェンに回収されながら、ジュイキンは額の汗を拭う。


「ジュンちゃん、向こうのあれ、貨物室じゃない?」

「そうか、着いたか」


 ようやく一区切りがつくと知って、ほっとする。ジュイキンは下へ降りるよう指示を出した。これから、敵が到達するまでに、籠城戦の準備をしなくてはならない。

 ドッドッドッと鉄の血管から響く鼓動が、胸の中の心臓と呼応するようだ。先の見えない隧道トンネルの暗闇、それでも、抜けた先にはきっと光がある。

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