第十話 鉄血蒸気行・壱
元々は閉鎖された資源採掘所であったが、二十数年ほど前に鉄道を敷く際に、樹を迂回するか、幹に
ただでさえ天梯象は、木材や霊媒を採掘されて疲弊している。そこへ更に大穴を開けるのはいかがなものか? しかし、迂回か直進かの違いはあまりに大きい。
神霊庁は天梯象の高位樹霊と辛抱強く交渉し、樹霊を
ジュイキンらが乗った
漁船の網を逃れた彼らは、樹車が吐き出す煙に食らいつこうと、必死で宙を泳いでいた。餌の乏しくなった現在の都市では、樹車がもうもうと吐き出す濃密な煙は、貴重な食料源だ。しかし、人間側は兵糧攻めの手を緩めない。
流線型の車体は、線路の上にずらりと並ぶ、
だが、ある種の者たちにとっては、檻に囚われたような感覚を与えるかもしれない。例えば、チ・ジュイキンはその一人だった。
(こうも安々と包囲を許してしまうとは!)
現状を簡潔にまとめて、ジュイキンは胸中歯噛みしていた。
多くが壁抜けを得意とするニングだが、生きているもの、霊性あるもの、電気や熱といった触れると怪我をするものは、透り抜けられない。
蒸気樹車の車体は、電磁蒸気機関から発生する樹霊を薄く帯びており、霊性あるものの範疇だ。ニングが透り抜けられない障害物の代表と言っていい。
一部霊性の薄い、透り抜け可能な隙間こそ存在するが、抜けた先には
グイェンが手に持ったままの霊符を引き裂く。不可視の何かが眼前の敵に襲いかかったが、ローの前で波紋のような跡を残して霧散した。
形を成す間もなかった霊体の残滓が、吹きかけられる紫煙に掃かれていく。
「一応名乗っておこうか。私はロー・ジェンツァイ、この通り打神翻天を率いている。そちらの彼は」と、手に持った煙管で指し。「もう会ったと思うけど、シャン・スーバン。その心臓本来の持ち主さ」
「別に覚える必要もないがな」
ジュイキンに刃を突きつけたまま、スーバンの構えには隙がない。
ドッドッドッと、走行する樹車の揺れは不規則で、その響きは鼓動に似ていた。自分たちは、巨大な鉄の血管に流されているのだ、とジュイキンは考える。
この車両が行き着く先は
「貴様はなんだ、」
「なぜルンガオ・シャウを知ってるか? 彼が我々の同志だったからさ」
ジュイキンの言葉を途中で遮り、ローは恐ろしいことを告げた。
ふわりと、足元から突き上げる樹車の揺れが、妙に強く感じられた。ジュイキンは座席の手すりを強く掴み、ぐらつく己の心を、体の側から支えようと試みる。
「ジェニィ、あまり余計なことは――」
スーバンの制止も、打神翻天首魁は聞き流す。
「『
「嘘をつけ!」
自分でも半分も信じていないことを声高に叫ぶ。師父が組織に逆らって殺されただろうことは、ジュイキンも以前から承知していた。だが、もしも。
「それが真実なら、貴様らは私から兄も師父も奪った……!」
ジュイキンの声は、めらめらと臓腑を焼く火を、血と共に吐き出す痛みと怒りだった。重く落日のように輝く瞳が、灼熱の激情で妖女仙を射抜く。
だが当のローは涼しい顔をしていた。深々と、そしてゆっくりと煙管を吸い、またゆっくり紫煙を吐き出して
「半分は言いがかりだね」
「もういい、貴様はしゃべるな」
それらの会話は、ほとんどグイェンの耳には入っていなかった。彼は霊符を引き裂いた直後から、スーバンに突きつけられた刀に目が釘付けになっている。
脳裏には惨劇の記憶がよみがえろうとしていた。ぶつりと、一寸押し込まれるごとに自身が断ち切られる感触、それでも止まらない硬い刃、全身を貫かれる衝撃に身をよじれば、自分が砕け散って、ばらばらに飛び出していくよう。そして、はっと目が覚めると体はどうもなっていなくて、安堵するよりも先に、新しく刃が振り下ろされた。それが繰り返し、繰り返し。幾度血の海で果てても終わりは見えず、
「逃げ道を探すなら上下方向か。どうする、グイェン」
名前を呼ぶ声が記憶の海を打ち消した。どうにか現実に意識を戻し、グイェンは頭を軽く振る。
それでようやく、ジュイキンは相方の異変に気がついた。
「グイェン?」片眉を上げて訝しむ。
「な、なんでもない」頬を拭って微笑んだ。
そんなわけがあるか、とジュイキンは思わず胸中でこぼす。真っ青な顔が汗にまみれて、こんなに引きつった表情は初めてだ。
「何か問題があるなら言え。黙っていても不安要素が増えるだけだ」
蒸気樹車が天梯象
囲まれた時点でほぼこちらの負けだな、とジュイキンは考えていた。兄の仇、あのシャン・スーバンと一対二でも厳しいものがあるが、得体の知れない首魁と、戦闘員かも不明な少女。武器を手にした有象無象の反動集団ども。
ローたち主要人員と思しき三人以外、影がないが、乗客の振りをして乗り込んでいる以上、駅構内では
ミアキンを抱えて、その上様子のおかしいグイェンを連れて、さて余命何分かという有様だ。だが、命乞いという選択肢は彼にはなかった。
「ジュンちゃん」
一秒を何十倍にも引き伸ばした思考の渦から、ジュイキンは相棒の声に耳を傾けた。何かを決意し、訴えるような透徹とした声。
「オレに、『頼む』って、言って」
グイェンはジュイキンの胴を抱えるように腕を回し、徐々に重心を移動させている。密着した衣服ごしに、荒い息や、不自然に低い体温が伝わってきた。具合が悪そうだが、何か考えがあるらしい。ジュイキンは即座に口にした。
「『頼む』、お前の力が必要だ」
グイェンが叫び、爆発が起きた。くしゃりと床板が絞られるようにへこみ、めくれ、ジュイキンは天井からそれを見下ろす。頭の上で轟音が鳴り、鼓膜の痛みに顔をしかめていると、猛烈な風と花の香りが顔面に叩き付けられた。車外だ。
一瞬何が起きたか分からなかった。
一瞬後に何が起きたか理解した。
グイェンは床を蹴って跳び上がり、天井を殴って穴を開け、抱えたジュイキンとミアキンごと、屋根へと脱出したのだ。
頭が状況を把握するより先に、ジュイキンの肉体は反射的に這いつくばって、屋根に取り付いていた。突き破った天井板は、グイェンが貫いた拳そのままで
「絶対に板を離すなよ!」と、ジュイキンはまず叫んだ。
ジュイキンはカバンの口をきつく閉めた。中のミアキンがみぎあああ、と唸っているが、電磁蒸気を直に吸わせる訳にはいかない。今は全員で生還するのが最優先だ。
「……っつ」
天井板を持つグイェンの二の腕に、匕首が突き刺さっていた。屋根へと脱出する寸前、打神翻天の誰か――おそらくスーバン――が放ったものだろう。
ジュイキンは
手当されながら、グイェンは線路に向かって嘔吐した。
「大丈夫……これぐらい、全然、大丈夫」
震える声は、グイェンが自分自身に言い聞かせているようだ。ジュイキンは改めて匕首を確認するが、毒が塗られている風でもない。
「グイェン、もう一度言うが、何か問題があるなら言え。それと……よくやった。まさか本当にやるとは思わなかったが、上に脱出したお前の判断は正しい」
「へへ……あれ」
褒められ、微笑しようとして、グイェンは目を瞬かせた。
「ジュンちゃん、女の子のカッコは?」
「余分に内力を費やすから切ったまでだ」
不要となった眼鏡を外し、放り捨てる。屋根に取り付いた時に、少女ジュイキンはいつもの青年ジュイキンに戻っていた。衣服だけは買ってきたのでそのままだ。
「そっか。でも元に戻っても、その服、似合ってるね」
肘鉄を喰らわせようとして、ジュイキンは腕を下ろした。
グイェンの笑みは痛みのためだけでなく、いつもより精彩を欠いて見える。だが、今は言う言わないを押し問答している時間はない。
ジュイキンは背後を振り返った。上手い具合に慣性の法則が働いて、二人は連結部を跨ぎ、隣車両の先頭までふっ飛ばされている。グイェンが開けた穴は、十数
下の方では敵が相談をしているだろうが、ここでは車輪の軋みや
何にせよ、今稼いだ距離を、このまま活かさない手はなかった。
◇
「うっそだろ、トンネルん中で真上に出んのか」
青匈奴は世界で最初に樹械を見出し、使い始めた民族だ。彼らは先祖代々、その肉体に樹械の恩恵を受けてきたため、それが遺伝し、生まれつき体に葉緑素を持っている。だが、男はそれとは関係なくニングに堕ち、追われる者となっていた。
別の打神翻天らが悪態をつく。
「それより、猟客ってのはあんなバケモンなのかよ! 天井破りやがった!」
「シャンの旦那! どうします」
「後方だ、追え!」
スーバンの指示を受けて男たちが走り出す。ほとんどは車内をそのまま駆けたが、幾人かは窓を打ち破り、車体の壁に取り付いた。
咄嗟に匕首を投げたのはスーバンだ。確かな手応えは感じているが、あれで八朶宗の二人が止まるとも思えない。一刻も無駄にする訳にはいかないが、その前に。
スーバンは納刀しながら、ローにしかめっ面で念押しした。
「ジェニィ、くれぐれも妙な手出しはするなよ」
ローは「はいはい」と、羽織から伸びる手を鷹揚に振った。
「万事君に任せるよ、私はこのまま樹車の旅だ。まあ大した景色もないがね」
でも、と付け加える妖女仙の唇が、妖しく紅くうごめく。
「あの二人組、背の高い方は既に気圧されていたよ? 君が喝破してしまえば、それだけで役立たずになったんじゃないかな」
「……まるでわざと逃したかのようですね」
ディーディーがあけすけに言葉を継いだ。表情のない人形にも負けないほど、スーバンは顔の筋肉を動かさず、吐き捨てるように言った。
「だからといって、あんな逃げ方をすると誰が思う。取るに足りん弱敵と思えば、足をすくわれた。ああ、俺の手落ちだ、悪かった。これで満足か?」
「じゃあ、後のお仕置きが楽しみだねえ」
ディーディー以外の部下が周りからいなくなったので、遠慮なくローはそういうことを口にする。三日月のようにつり上がった口が煙管を噛むのを、スーバンは怖気と共に見た。――色情狂め、胸中でそう悪態をつき、頬を噛む。
ばつん、と破裂音が轟き、天井に開いた穴から死体が落ちてきた。顔面が銃の暴発で吹っ飛んでおり、五体は黒く崩壊して、床に影を焼き付けながら消滅する。
「
舌打ちすると、スーバンは女たちを残して追跡を開始した。
◇
「いいか、このまま屋根伝いで移動するぞ。後方の貨物車両を目指す」
グイェンは「うん!」と無闇に元気のいい返事をした。ジュイキンは包帯の余りで、天井板とミアキンが入ったカバンを、グイェンの体に巻きつける。
走行音にまぎれて、窓が割られたり、車体の軋みに不自然な
「そこについたら?」
「中に入って籠城戦だ。途中下車するにも、この
天梯象は一般的な木材の他に、良質な晶体や霊媒を採取できるため、その内部は多くの坑道が掘られている。誰も全容を把握していない複雑怪奇な迷宮は、いつしかニングを始め、胡乱な連中が少なからず棲み着いていた。
その中に、打神翻天の手先がいないとも限らない。何の案内も無く、無事に抜けられる場所ではなかった。
「貨物室に着いた後のことは着いた後だ。今はこのまま這って進むぞ、絶対に顔を上げるな。十魂十神でも死んで吹き飛ばされる」
「わかった!」
「追手は私が相手をする、両手を使いたいから引っ張ってくれ」
ジュイキンは目指す貨物室とは逆方向に座り、
天井板と屋根に挟まれ、視界は恐ろしく悪いが、やるしかない。
「お前は左右を警戒して進め。いいか、絶対に落ちるなよ、今は一蓮托生だからな」
「まかせて!」
「そら、射的の的が来た」
ジュイキンは峨嵋刺の環に指を通し、くるくると回しながら追手を見据えた。
暗所、閉所、すぐ上には触れれば感電死する
(最悪な状況だな。だが――)
気分は、下で包囲された時より遥かに良い。仇が目の前にいるのに、今は手出しが出来ない。そのことが口惜しくもあるが、どこか心は穏やかだった。
グイェンがいるからだ。この世に生まれ落ちてわずか八年の子供、ほんの数ヶ月共に居たこの青年ならば、自分の信頼に応えてくれるだろうという、確かな手応え。
こんな気持ちを抱いたのは、それこそ十二年ぶりではなかろうか?
(まったく、最高の気分だ!)
師父ルンガオがなにゆえ八朶宗を裏切り、神灵殺しなどというものに手を貸したのかは分からない。だが、真実を知るにはここを生き延びなくては。
憎悪、憤怒、怨恨、屈辱。それらを飲み込みながら、足の下に踏みつけて、立ち向かう力が沸いてくる。この程度の苦難、簡単に切り抜けてみせよう!
屋根に開いた穴から現れたのは、まずは一人。上半身だけを乗り出して、こちらに
その銃口に、ちょうど飛刺が収まる。いつもの峨嵋刺であれば、少し大きくて弾かれたかもしれないのが幸いした。ばつん、と暴発が起きて下へ消える。
間髪入れず、車体左側から這い登ってきた二人目が現れた。その喉仏に、最初からそこに生えていたような顔で、ジュイキンの峨嵋刺は突き立った。
グイェンはその間にも相棒を
飛んだり跳ねたり出来ない不安定な足場、だが裏を返せば、相手の攻め手を限定できる状況でもある。曲がり角に差し掛かって体勢を崩した者など、格好の的以外の何物でもない。眉間を狙わずとも、足を貫けば相手は線路の奈落へ落ちていく。
安定して追手を倒せてはいるが、呼吸が辛い。天井板である程度遮ってはいるが、電磁蒸気が咳を誘発し、内功が乱れそうだ。長期戦はまずい。
(だが、病み上がりにしては上出来にすぎるな)
昨夜、内功を練ろうと気を巡らせただけで倒れた無様を思い出し、ジュイキンの胸に苦いものがよぎる。今はそんなことよりも、十全に戦えている事実の方が重要だ。
こちらの余計な思考を断ち切るように、グイェンが疑問を口にした。
「ねえジュンちゃん、車両が切り離されたらどうするの?」
「その時はその時だ、軽身功で飛び移れ。そのぐらいはしてみせろ」
「うん!」
一人ではない、そのことがこんなにありがたいとは。しみじみ思いながら、「距離はこちらが有利だ、急げ、だが慌てるなよ」とジュイキンは指示を飛ばした。
迷宮から帰れなくなるのを恐れて、
もう少しすれば、頭上から高圧電流の
状況はひとまず良くなりつつあるか――そう思った時、グイェンが警告を発した。
「ジュンちゃん、右!」
声と
がん、とグイェンが天井板を盾にしてそれを耐えた。
板の裏では、カバン内のミアキンがしぎゃあと喚く。ジュイキンは身を起こし、グイェンの体にしがみつきながら、匕首で枝鞭を斬りつける。
「ちくしょうが!」
枝鞭は切られたところから緑の血を流し、下の方から男の声がした。
「……そういえば、連中の中に青匈奴がいたな」
車内で見た顔を思い出して、ジュイキンは舌打ちする。少しばかり面倒な相手だ。
細い枝の束が屋根のでっぱりに取り付き、下から腹の張った巨漢を引っ張り上げる。暗いトンネル内でも、それが緑の肌を持つ人間であることは分かった。
「グイェン、私から手を離せ!」
自由を得たジュイキンは低い姿勢で立ち上がる。体幹から伸びる「根」を足元に、大地の下に、更に奥深くへと下ろす
八朶の花は、天地人をつなぐ
右手に匕首、左手に峨嵋刺。指環を支点にくるくると回した峨嵋刺を振り下ろし、匕首で切り上げ、鞭と束ねられた枝葉を刈り取っていく。流れる血潮は人間の鉄臭いそれではなく、青臭い樹液だ。だが、聞こえる悲鳴は樹木の軋みではない。
「
首から、背中から伸びた枝を刈り取られた巨漢は、それでも喰らいついてきた。攻防それぞれの樹械を植え付けていたのだろう、男の皮膚が厚くひび割れ、樹皮のように固く鎧を成していく。しかし殻が硬ければ、中身はそれだけ脆いものだ。
掴みかかろうとする巨漢に向けて、ジュイキンは両手の武器を投げつけた。相手は硬化した腕でそれを払うが、自ら掴む動作を殺してしまう。そのまま襲いかかっていれば、樹皮の鎧で大した怪我もしなかっただろうに。
そのことを相手が悟り、後悔する時間があったかは分からない。どちらにせよジュイキンは懐に飛び込んでいた。深く、深く、海に潜るように体を沈め、足首、脛、腰、背筋、肩、腕、あらゆる関節が連携した筋肉の伸張と重心移動――すなわち、全身から発する
八花拳・
全身に走ったひび割れが、内側から樹皮を弾き飛ばし、巨漢の体が宙に浮いた。その直上には、いまだ健在の
雷鳴に似た轟音と共に、真っ白な閃光が
さすがにやや疲れた。グイェンに回収されながら、ジュイキンは額の汗を拭う。
「ジュンちゃん、向こうのあれ、貨物室じゃない?」
「そうか、着いたか」
ようやく一区切りがつくと知って、ほっとする。ジュイキンは下へ降りるよう指示を出した。これから、敵が到達するまでに、籠城戦の準備をしなくてはならない。
ドッドッドッと鉄の血管から響く鼓動が、胸の中の心臓と呼応するようだ。先の見えない
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