第九話 黄昏の魂、残照の絵

 媽京まきょう離島区・津珠しんじゅ鳴鴎邸めいおうてい――かつてこの辺りの地主が所有したその屋敷は、四合院と四合院を並べて造った、実に広大なものである。


 閻朝えんちょう哥特式ゴシック建築が生まれる以前から、四合院造りは大閻だいえん建築の基本だった。庶民の住まいから富豪の屋敷、寺院や宮殿に至るまで、その内部に完結した小宇宙が具現されている。この邸内に至っては、時が止まったままのようだ。


 最盛期には三十人からなる食客を抱えていたという地主は、没落して屋敷を手放し、近年は管理すら滞っていた。それをロー・ジェンツァイがどこからか手に入れ、現在は打神だしん翻天はんてんが複数所有する隠れ家アジトの一つとなっている。


 回廊の一角では、月明かりに照らされた吊るし飾りが、宙空に描かれた墨絵となって、切り絵細工の灰魚ツイグーを泳がせていた。

 立ち止まって眺めれば、色彩も時間も失われたような幽玄の静けさ。その中を、シャン・スーバンは早足で歩き去っていく。


 畢私立医院の爆発中心部に居た彼だが、その長袍ちょうほうも髪もまったくの無傷。爆轟の衝撃と熱を、スーバンは内力を込めた剣の一閃にて「斬り捨て」て防いだ。

 炎熱や衝撃波を斬ったのはこれが初めてではないが、大抵は無傷とはいかぬものだ。多くは衣服や毛先が焦げたり、ちぎれたりはする。新しく手に入れた忘生清宗が、力を貸してくれたのかもしれない。


 こんな時でなければ、いつにない技の冴えや、剣と己の相性の良さを喜んでいたのだろう。だが、スーバンは今、白くなるほど唇を噛み締めている。


(悪趣味な采配ばかりぶつけて、天は俺をどうしたいのだ。人が怒りで溺れ死ぬのを見たいなら、他所でやってもらいたいものだな!)


 働けど働けど、報われない身の上は辛いものだ。何もかもが自分の邪魔をするような錯覚と、実際にことごとく思惑が外れていく現実に、苛立ちばかりが募っていく。

 それに、あの小僧。チ・ジュイキンはただの一度、あの夜よりも前、ほんの数分顔を合わせただけだが――よもや、ではないか。医院での邂逅を、スーバンはそう見ていた。


(一刻も早く、奴を仕留める)


 必要なのはあの心臓だけだ。チ・ジュイキンの命も魂も、どうでも良い。あの心臓は、人間の一人や二人のそれで贖えるような代物ではないのだから。

 すれ違う打神翻天構成員に適当な挨拶を返しながら、目指したのは最奥の部屋。かつて屋敷の主が私室とし、今はロー・ジェンツァイが我が物としている。


 室内は、古書と保存料と焚き染めた香の匂いがした。

 そこはさながら、古今東西の珍品を集めた博物陳列室だ。入り口正面の壁は一面の書棚、左右は玻璃ガラスの陳列棚で、中央に小さな長卓子テーブルと長椅子が置かれている。

 棚を埋め尽くすのは、珍しい鉱物や貝殻の装飾品、動植物の標本や木乃伊ミイラ、様々な都市の模型、旧世紀の医療や数学の道具、天球儀、陶磁器……。


 部屋の隅には東西の鎧甲冑と、眠る自動人形が佇み、額縁に入った絵画が壁にも架けられず、束になって立て置かれている。

 この部屋全体、見る者が見れば、見物料を取っても文句は言われまい。


「遅かったじゃないか、スース」


 ローが腰掛ける長椅子も、茶と菓子が置かれた長卓子テーブルも、第十六代皇帝が愛した星辰河彫刻の家具と調度。卓上の小さな置き時計は、工業国ビルストゥイア(誌悳国しとくこく)の古式次元歯車を積んだ銀波時計ぎんぱどけいだ。ここは隅から隅まで、単に贅を凝らしたというだけでは済まない、貴重な品々だけで出来ている。


 ディーディーはその傍らで、長手袋の手に小刀を持ち、黙々と揚羽蝶の切り絵を作っていた。回廊の吊るし飾りも、彼女が手遊びに作ったものだ。

 その手を一旦止めて、スーバンのために茶を入れると、即座にまた切り絵に戻る。


笛津てきしんから戻ったばかりなんだから、もう少し私に構いなさい。一つどうだい?」


 ローは貢糖こうとうの入った皿を勧めた。落花生の粉末を、麦芽糖の水飴で練って固めた菓子だ。スーバンはそれらに手を付けず、二人が座る長椅子の向かいに腰掛けた。


「それより、悪い知らせと嫌な知らせがある」

「回りくどいのは嫌いだよ」


 ローは貢糖を一つ、自分の口に投げ入れる。夜中だがお構いなしだ。


「チ・フージュンが八朶はちだしゅう猟客りょうかくに心臓を移植したので、斬った」


 ディーディーは手元を狂わせ、蝶の羽根を断ち切ってしまった。ローは顎を撫でて「フーム」と唸る。その反応を訝しんで、スーバンはじろりと妖女仙を見つめた。


「初耳だったか? お前なら、奴に渡した霊符を通して聞いているかもと思ったが」


 以前、ローは霊符を通した盗聴をやってみせたことがある。


「ああ、あれ? ハッタリだよ。使い捨てなのに、そんな余計な機能までつけたら重たいし、ますます使用限界が短くなる」


 でなければ、こんなにのんびりお茶してないし、とローは茶杯を持ち上げた。口の中の菓子をそれで流し、「いや、飲んだかもしれないね?」と続ける。


「で、スース。その猟客くんの名前は分かっているのかな」

「チ・ジュイキン。奴の、ニングになったとかいう弟だ」

「あの男……!」


 眉をひそめ、怒りの声を漏らしたのはディーディーだが、ローは納得したように笑みをこぼした。置いてあった煙管を取り、ふかす。


「最近表情豊かになってきたねえ、ディーディー。その調子だよ。……しかし残念だね、スース。彼を生かしておけば、弟くんを懐柔する材料になっただろうに」

「必要なかろう」


 スーバンは痛いところを突かれ、腹の上で腕を組んだ。あの場は殺すしかなかったのだ、という主張を崩す気はない。

 チ・フージュンに対して同情することは何もなかった。あの男は納得ずくで打神翻天に与し、そして裏切ったのだ。むしろ幸せな死に方とすら言える。


「ディーディー、君の体は球体関節そのままだが、顔だけは生きた人間と寸分違わず作ってあるし、日々改良を重ねている。もっと色んな顔をしてごらん」

「それでどうするんだ、ジェニィ。すぐにでも奴を追うべきだろう」


 スーバンは腕組みを解き、長卓子テーブルをとんとんと指で叩きながら問う。


「焦ることはないさ、心臓は万が一の時は割ってしまっても構わないのだし」

「ジェニィ!」「総舵主そうだしゅ!」


 同時に声を上げ、スーバンとディーディーはきまり悪く互いの顔を見た。


「そう気を乱さないことだよ、スース。君は氷河のように静かに涼しくいなさい。もちろん、あの心臓は君のものだ。それに……」


 ローは額に指を当てて、数秒だけ瞼を下ろした。


「チ・フージュンに渡した霊符が、一つだけ生きている」

「そういえば、奴は二つしか使っていなかったな」

「何かの役に立つとでも思って、その弟に持たせたんだろうねえ。これでいつでも、我々は心臓の行方を追うことが出来る。ディーディー! 地図を」


 ディーディーは茶菓子や切り絵を片付け、長卓子テーブルに媽京周辺地図を広げた。


「あれのことを報告されたなら、八朶宗はチ・ジュイキンを手元に呼び戻すだろうね。あの心臓は連中も血眼になって探しているものだし……一番近いのは、鍾杏しょうあんの晶体樹林に〝道〟を開いて、そこを通っていくことだ」

霊道れいどうですか?」


 首を伸ばして地図を覗き込む少女に訊ねられ、ローは頷いた。

 霊道は、空間や時間を超越した霊的な通路だ。目的地までの距離が何百何千公里キロあろうと、ほぼ一瞬で移動が事足りる。

 晶体樹は霊媒性植物の中では最高のもので、発電所として使われることもあって、霊道としては八朶宗がほぼ独占状態で使用していた。


「そう。逢露ほうろきゅうがある蘿州らしゅうの奥地は、山地険しき天然の要害だ。足でたどり着くには厳しい秘境だよ。ならば、彼らの通り道を利用させてもらわない手はないさ。開くための九門印なら、私でも分かるからね。さて、つまりは……鉄道だ」


 ローは紫のつけ爪で、地図の一点を指し示した。媽京中央駅。


「逃がす心配はないんだ、明日はこちらが迎えに行ってあげよう。ああ、ディーディーは一応、鍾杏までの切符を頼むよ」

「かしこまりました」


 恭しく一礼し、ディーディーは下がった。退室する前に、仕損じた蝶の切り絵を二つに裂いて、屑籠に放り込む。そこには蝶の他にも、魚や鳥、花といった数々の切り絵が、無惨にちぎられ詰め込まれていた。

 

                 ◆


「ぶぅえきしょい!」


 兜帽フードを目深に被り、遮光鏡サングラスをかけ、更に口罩マスクをした不審者グイェンは、やたらとでかいクシャミによって「なんだ、ただの風邪引きか」と、周囲の警戒心を自分では一切気付かず緩めることに成功した。それほど間抜けなクシャミだった。


 朝の媽京中央駅前広場。ぼんやりとジュイキンが来るのを待ちながら、グイェンは鼻をこする。中央駅は媽京離島区、半島区、媽京空港すべてを繋ぐ唯一の駅で、港島線こうとうせん珠涌線じゅちょうせんといった各種路線へのアクセスも充実。まさに媽京交通の中心だ。

 当然ながら人出も相当なものだが、さて待ち人はいつ来たる……。


「まったく、なんだその格好は。あまり目立つことをするんじゃない」


 甘く澄み透った高い声がして、グイェンは振り向いた。そこに立っていたのは、ちょっとおめかしした女学生といった風の、眼鏡をかけた少女。

 花釦子ボタンの白い襯衫ブラウスに、青い束腹コルセット長裙ロングスカート

 足元は黒い緊身衣タイツ浅口革靴パンプス

 ゆるく波打つ黒髪は、青い緞帯リボンと七宝焼の髪飾りで馬尾弁子ポニーテールに纏められている。

 グイェンはたっぷり一分をかけて、その顔立ちからジュイキンの面影を見出した。


「どしたの、そのカッコ」


 そう訊き返すのが精一杯だった。


「私たちはあの男に面が割れてると言っただろう。グイェン、その口罩マスク遮光鏡サングラスは怪しすぎる、外せ」

「う、うん」


 少女ジュイキンは「話しながら行くぞ」とグイェンの背を叩いて歩き出した。手に持った旅行カバンからは、かすかに猫の声がする。

 赤レンガの駅構内は、曲がりくねった送気そうきだけの配管が壁や天井を一面に走り、複雑な機械の中に迷い込んだかのようだ。ガラス張りの天井は高く、さんさんと日光を取り入れて、構内の樹械に太陽の恵みを注いでいる。その中を行き交う人、人。


 あまり足を運んだことのない駅の様子は物珍しいところだが、それよりもグイェンは隣の相方に目を奪われていた。頭頂からつま先まで、繰り返し眺め回す。


「……じろじろ見るな」


 いつもより睫毛の長い目がグイェンを睨んだ。


「だって、凄い……完全に女の子にしか見えない……聞こえない」

「これも像身功ぞうしんこうのちょっとした応用だ。お前もこれぐらいは出来るだろう?」

「えっ。それ着替えただけじゃないんだ」


 像身功は内力を巡らせ、偽の影を作り出す初歩的な技術だが、「影」を作ることを突き詰めれば、それは偽の「姿」をも作り出せるということだ。

 まったくの別人になり切るには相当な修練が必要だが、自身の性別を偽るぐらいなら、变化系でもそう難しくはない。


「骨格で違和感を覚えなかったか? そこまで熱心に化粧している暇はないぞ」

「や、像身功。ってことは」


 グイェンはその場で立ち止まり、腕組みして考え込み始めた。後ろから来ていた通行人がぶつかりかけ、舌打ちして去っていく。

 一拍の停止を挟み、グイェンは力強く問うた。


「つまり……今ならジュンちゃんに、おっぱいが!?」

「正気かグの字。見せかけの偽物で嬉しいか?」


 ジュイキンは流氷の海にも勝る冷たい眼差しを送ったが、それは何かに対して盲目になったグイェンの前に、虚しく砕け散った。


「本物の猫は可愛いけど、だからって猫の絵やぬいぐるみが、いらないってことないよね? それと同じじゃないかな!」

「なぜこんな時だけ的確に例えるんだお前」

「あと、出来たらお師さまぐらい、おっきいのだともっといいな!」

「黙れ」


 その後もあれやこれやと話しながら、二人は目的の車両に乗り込んだ。蒸気じょうき樹車きしゃの内部は、材木屋のような新しい木材の匂いに満ちている。これが動き出せば、花のような電磁蒸気の香りが混ざってくるのだ。


 二人は車両端の対面式ボックス座席せきに陣取り、荷物を棚に上げた。目的の鍾杏市まで、数時間の長旅になる。グイェンは早速持ってきたサチマを頬張り始めた。

 サチマはふくらし粉や飴と混ぜた小麦粉を揚げて固めたもので、胃にずっしり来る甘さと重さの零食スナック菓子だ。ジュイキンも朝食代わりに一つもらう。


「そういえば、ジュンちゃんのお師さまってどんな人だった?」

「ルンガオ師父か? そうだな……元は戦災孤児で、人身売買組織に捕まった際に、八朶宗に助け出されたと聞いたな」


 まばらに乗客が増えていく中、発車を待ちながら言葉を交わす。


「師父が前の戦争で活躍したのは有名な話だ。指揮官暗殺、敵中突破、敵陣爆破……いわば英雄というやつだな。本人は暴力的で横暴で偏屈なじい様だったが」

「お師さまもそんなこと言ってたなあ」

「逆らう者には暴力的だったが、従う者はとことん甘やかす、そういう両極端な人物だったな、あれは。まあ、ろくでなしの部類と言っていい」


 小さく鳴くカバンの拉鎖ファスナーを少し開け、ジュイキンはミアキンの様子を確かめた。猫の尻尾がちょろりとはみ出す。

 站台上ホームの方では、発車を告げる广播アナウンス電鈴ベルが響いていた。


「そういえば、こいつも小さい時に、師父が拾ってきたんだ」

「へえー」


 樹車の扉が閉まり、少し体が後ろに引っ張られる感覚がして、車体が動き出す。

 グイェンは隣に置いておいた大型背包バックパックの中から、半円にひん曲がった写生帳スケッチブックを取り出した。私物の模型プラモも盆栽も拼板パズルもルー家に置いてきたのに、これは持ってきたらしい。新しい頁を開いてエンピツを走らせる。


「わざわざそれを持ってくるか」

「だってさ、見てよ」


 グイェンは別の頁を開いて見せた。それを目にした瞬間、ジュイキンは思わず息を飲んで、尻が浮くほど身を乗り出してしまう。

 それは、猫を抱いて笑っている、ひょろりとした男の素描スケッチ。単純に組み合わされた線で描かれ、かなり簡易に変形デフォルメされている。


「せっかくお兄さん描いたのに、まだジュンちゃんに見せてないんだもん」


 八朶宗に入った時、ジュイキンは身一つだった。それから十二年、兄がどう過ごしてきたのか、ほとんど話せてはいない。ましてや、生前の彼の写真など。

 襲ってきたあの男が打神翻天なら、まず間違いなくニングだろう。すなわち、フージュンは遺体も魂も遺さず、この世から消されたということだ。


 下手くそな絵だった、本人とは似ても似つかなかった。けれど、眼鏡をかけて、背が高くて、頼りない感じがして、優しく笑っていて、確かに兄の姿を思い起こさせる。絵に描かせてくれと言ったグイェンに、微笑みながら猫を抱え、模特儿モデルを引き受ける兄の姿がありありと想像できる。間違いなく、これはフージュンの絵だ。


 窓の外を景色が流れ、媽京を後に置いていく。電磁蒸気の香りと共に、何もかも流れ去っていくその眺めは、時の河そのものだ。時間は巻き戻せない、兄には二度と会えない。それでも、この絵だけが、唯一彼の存在を偲ばせてくれる。


「……ありがとう」


 ぽつり、と。胸の奥から引力のように立ち上がる感謝の念が、その一言をこぼさせた。雨粒のように、いくつも、いくつも、止まらなくなりそうなほど。それを堪えて、少しだけ目をこすった。


「ありがとう、グイェン。この絵、出来たら私にくれないか?」

「うん!」


 輝くような笑顔で、グイェンはその頁を破り取って渡した。絵の端には日付が記され、つい二日ほど前のものと分かる。

 樹車の煙突が蒸気を吐き出した。火で圧縮された樹霊の塊である星炭が、更に高温をかけられて高次元へ相転移していく。


 地にある魂が天に昇る時、大きな精気エネルギーが発生する霊位れいい勾配こうばいの原理。人が死ぬ時は、神灵によって精気エネルギーが回収されるが、ニングにはそれが無い。そして、ニングに殺されたものも、相転移する魂自体が抹消される。

 兄の魂は、もう、どこにもない。それでも、この絵だけは、手元にある。


「いつか、私も描いてもらっていいか」

「あ、それいーね! 女の子のジュンちゃん、ちゃんと絵にしとかないと!」

「いや、それはいい」


 胸の中が、今までになく心地よい温かさで満たされていた。ジュイキンは慎重に兄の絵を丸め、予備の髪留めを巻く。


(……グイェンが居てくれて、良かった)


 目の前の相棒と出逢う以前、自分がどうやって日々を過ごしていたのか、思い出せなくなりそうだ。あの頃よりもずっと、世界が色彩と温度に満ちて感じられる。こんな風に楽しかったのは、そう、師父が生きていた頃、その時以来かもしれない。


「あ、それと、これ!」


 急に大きな声を出して、再びグイェンは大型背包バックパックをあさった。何やら白い紙切れを取り出して、ジュイキンの目の前に差し出してくる。


「お守り! お兄さんが、肌身離さず持ってなさいって渡してくれたんだ」

「待て、それは――」


 紙切れの正体を即座に悟り、ジュイキンは首筋に冷たいものを覚えた。


「霊符だ! おそらく、打神翻天の」

「へ?」


 グイェンはまったく理解しないまま、ぽけーっとした顔だ。


「ナルが使鬼を出していただろう、連中は自分たちの協力者に、いざとなった時の保険としてこれを渡しているんだ。つまり」

「我々が君らの居場所をつかむのも簡単、とこういう訳だね」


 女の声が隣のボックス席からした。そちらを見やると、東方の衣装を着た妙齢の女性と、大閻伝統の連衣旗袍ワンピース姿の少女。

 そして、ジュイキンが座る座席の後ろから、聞き覚えのある男の声がした。


「旅の始まりは楽しいものだな。遠足とやらも、こういう感じか?」


 声の主は座席を立ち、二人の前に姿を現すと、腰の刀を抜き払って突きつけた。


「おまけに、随分とおめかししているようだな」


 ジュイキンは、背広姿のシャン・スーバンを睨みつけた。眼前の鋭い切っ先も、怒りと憎しみのあまり目に入らない。「お前!」とグイェンが声を荒らげる。


 車内の乗客が一斉に立ち上がった。通勤カバンから、高爾夫球ゴルフバッグから、六弦琴盒ギターケースから、それぞれに刃物や銃を手に、刺すような殺気を放つ。

 とんとん、と舞踊指導師のように足を踏み鳴らし、ローは座席を立った。


「初めまして、ルンガオ・シャウの愛弟子。

 ごきげんよう、我らの麗しき樹械心臓。

 そしてさよなら、チ・ジュイキン。

 万神に万死もたらす、征途せいとの足がかりになりたまえ」


 打神翻天。

 十魂十神。

 天猟てんりょう心母しんぼ


 神灵世かみよを揺るがすものたちが、この場にすべて揃った。その全貌を、ジュイキンもグイェンもまだ把握していない。

 樹車は運命を乗せて、ただ鍾杏市を目指して走り続ける。その前方には、山のような巨大樹の隧道トンネルが待ち構えていた。

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