第九話 黄昏の魂、残照の絵
最盛期には三十人からなる食客を抱えていたという地主は、没落して屋敷を手放し、近年は管理すら滞っていた。それをロー・ジェンツァイがどこからか手に入れ、現在は
回廊の一角では、月明かりに照らされた吊るし飾りが、宙空に描かれた墨絵となって、切り絵細工の
立ち止まって眺めれば、色彩も時間も失われたような幽玄の静けさ。その中を、シャン・スーバンは早足で歩き去っていく。
畢私立医院の爆発中心部に居た彼だが、その
炎熱や衝撃波を斬ったのはこれが初めてではないが、大抵は無傷とはいかぬものだ。多くは衣服や毛先が焦げたり、ちぎれたりはする。新しく手に入れた忘生清宗が、力を貸してくれたのかもしれない。
こんな時でなければ、いつにない技の冴えや、剣と己の相性の良さを喜んでいたのだろう。だが、スーバンは今、白くなるほど唇を噛み締めている。
(悪趣味な采配ばかりぶつけて、天は俺をどうしたいのだ。人が怒りで溺れ死ぬのを見たいなら、他所でやってもらいたいものだな!)
働けど働けど、報われない身の上は辛いものだ。何もかもが自分の邪魔をするような錯覚と、実際にことごとく思惑が外れていく現実に、苛立ちばかりが募っていく。
それに、あの小僧。チ・ジュイキンはただの一度、あの夜よりも前、ほんの数分顔を合わせただけだが――よもや、この自分のことを思い出しかけているではないか。医院での邂逅を、スーバンはそう見ていた。
(一刻も早く、奴を仕留める)
必要なのはあの心臓だけだ。チ・ジュイキンの命も魂も、どうでも良い。あの心臓は、人間の一人や二人のそれで贖えるような代物ではないのだから。
すれ違う打神翻天構成員に適当な挨拶を返しながら、目指したのは最奥の部屋。かつて屋敷の主が私室とし、今はロー・ジェンツァイが我が物としている。
室内は、古書と保存料と焚き染めた香の匂いがした。
そこはさながら、古今東西の珍品を集めた博物陳列室だ。入り口正面の壁は一面の書棚、左右は
棚を埋め尽くすのは、珍しい鉱物や貝殻の装飾品、動植物の標本や
部屋の隅には東西の鎧甲冑と、眠る自動人形が佇み、額縁に入った絵画が壁にも架けられず、束になって立て置かれている。
この部屋全体、見る者が見れば、見物料を取っても文句は言われまい。
「遅かったじゃないか、スース」
ローが腰掛ける長椅子も、茶と菓子が置かれた
ディーディーはその傍らで、長手袋の手に小刀を持ち、黙々と揚羽蝶の切り絵を作っていた。回廊の吊るし飾りも、彼女が手遊びに作ったものだ。
その手を一旦止めて、スーバンのために茶を入れると、即座にまた切り絵に戻る。
「
ローは
「それより、悪い知らせと嫌な知らせがある」
「回りくどいのは嫌いだよ」
ローは貢糖を一つ、自分の口に投げ入れる。夜中だがお構いなしだ。
「チ・フージュンが
ディーディーは手元を狂わせ、蝶の羽根を断ち切ってしまった。ローは顎を撫でて「フーム」と唸る。その反応を訝しんで、スーバンはじろりと妖女仙を見つめた。
「初耳だったか? お前なら、奴に渡した霊符を通して聞いているかもと思ったが」
以前、ローは霊符を通した盗聴をやってみせたことがある。
「ああ、あれ? ハッタリだよ。使い捨てなのに、そんな余計な機能までつけたら重たいし、ますます使用限界が短くなる」
でなければ、こんなにのんびりお茶してないし、とローは茶杯を持ち上げた。口の中の菓子をそれで流し、「いや、飲んだかもしれないね?」と続ける。
「で、スース。その猟客くんの名前は分かっているのかな」
「チ・ジュイキン。奴の、ニングになったとかいう弟だ」
「あの男……!」
眉をひそめ、怒りの声を漏らしたのはディーディーだが、ローは納得したように笑みをこぼした。置いてあった煙管を取り、ふかす。
「最近表情豊かになってきたねえ、ディーディー。その調子だよ。……しかし残念だね、スース。彼を生かしておけば、弟くんを懐柔する材料になっただろうに」
「必要なかろう」
スーバンは痛いところを突かれ、腹の上で腕を組んだ。あの場は殺すしかなかったのだ、という主張を崩す気はない。
チ・フージュンに対して同情することは何もなかった。あの男は納得ずくで打神翻天に与し、そして裏切ったのだ。むしろ幸せな死に方とすら言える。
「ディーディー、君の体は球体関節そのままだが、顔だけは生きた人間と寸分違わず作ってあるし、日々改良を重ねている。もっと色んな顔をしてごらん」
「それでどうするんだ、ジェニィ。すぐにでも奴を追うべきだろう」
スーバンは腕組みを解き、
「焦ることはないさ、心臓は万が一の時は割ってしまっても構わないのだし」
「ジェニィ!」「
同時に声を上げ、スーバンとディーディーはきまり悪く互いの顔を見た。
「そう気を乱さないことだよ、スース。君は氷河のように静かに涼しくいなさい。もちろん、あの心臓は君のものだ。それに……」
ローは額に指を当てて、数秒だけ瞼を下ろした。
「チ・フージュンに渡した霊符が、一つだけ生きている」
「そういえば、奴は二つしか使っていなかったな」
「何かの役に立つとでも思って、その弟に持たせたんだろうねえ。これでいつでも、我々は心臓の行方を追うことが出来る。ディーディー! 地図を」
ディーディーは茶菓子や切り絵を片付け、
「あれのことを報告されたなら、八朶宗はチ・ジュイキンを手元に呼び戻すだろうね。あの心臓は連中も血眼になって探しているものだし……一番近いのは、
「
首を伸ばして地図を覗き込む少女に訊ねられ、ローは頷いた。
霊道は、空間や時間を超越した霊的な通路だ。目的地までの距離が何百何千
晶体樹は霊媒性植物の中では最高のもので、発電所として使われることもあって、霊道としては八朶宗がほぼ独占状態で使用していた。
「そう。
ローは紫のつけ爪で、地図の一点を指し示した。媽京中央駅。
「逃がす心配はないんだ、明日はこちらが迎えに行ってあげよう。ああ、ディーディーは一応、鍾杏までの切符を頼むよ」
「かしこまりました」
恭しく一礼し、ディーディーは下がった。退室する前に、仕損じた蝶の切り絵を二つに裂いて、屑籠に放り込む。そこには蝶の他にも、魚や鳥、花といった数々の切り絵が、無惨にちぎられ詰め込まれていた。
◆
「ぶぅえきしょい!」
朝の媽京中央駅前広場。ぼんやりとジュイキンが来るのを待ちながら、グイェンは鼻をこする。中央駅は媽京離島区、半島区、媽京空港すべてを繋ぐ唯一の駅で、
当然ながら人出も相当なものだが、さて待ち人はいつ来たる……。
「まったく、なんだその格好は。あまり目立つことをするんじゃない」
甘く澄み透った高い声がして、グイェンは振り向いた。そこに立っていたのは、ちょっとおめかしした女学生といった風の、眼鏡をかけた少女。
花
足元は黒い
ゆるく波打つ黒髪は、青い
グイェンはたっぷり一分をかけて、その顔立ちからジュイキンの面影を見出した。
「どしたの、そのカッコ」
そう訊き返すのが精一杯だった。
「私たちはあの男に面が割れてると言っただろう。グイェン、その
「う、うん」
少女ジュイキンは「話しながら行くぞ」とグイェンの背を叩いて歩き出した。手に持った旅行カバンからは、かすかに猫の声がする。
赤レンガの駅構内は、曲がりくねった
あまり足を運んだことのない駅の様子は物珍しいところだが、それよりもグイェンは隣の相方に目を奪われていた。頭頂からつま先まで、繰り返し眺め回す。
「……じろじろ見るな」
いつもより睫毛の長い目がグイェンを睨んだ。
「だって、凄い……完全に女の子にしか見えない……聞こえない」
「これも
「えっ。それ着替えただけじゃないんだ」
像身功は内力を巡らせ、偽の影を作り出す初歩的な技術だが、「影」を作ることを突き詰めれば、それは偽の「姿」をも作り出せるということだ。
まったくの別人になり切るには相当な修練が必要だが、自身の性別を偽るぐらいなら、变化系でもそう難しくはない。
「骨格で違和感を覚えなかったか? そこまで熱心に化粧している暇はないぞ」
「や、像身功。ってことは」
グイェンはその場で立ち止まり、腕組みして考え込み始めた。後ろから来ていた通行人がぶつかりかけ、舌打ちして去っていく。
一拍の停止を挟み、グイェンは力強く問うた。
「つまり……今ならジュンちゃんに、おっぱいが!?」
「正気かグの字。見せかけの偽物で嬉しいか?」
ジュイキンは流氷の海にも勝る冷たい眼差しを送ったが、それは何かに対して盲目になったグイェンの前に、虚しく砕け散った。
「本物の猫は可愛いけど、だからって猫の絵やぬいぐるみが、いらないってことないよね? それと同じじゃないかな!」
「なぜこんな時だけ的確に例えるんだお前」
「あと、出来たらお師さまぐらい、おっきいのだともっといいな!」
「黙れ」
その後もあれやこれやと話しながら、二人は目的の車両に乗り込んだ。
二人は車両端の
サチマはふくらし粉や飴と混ぜた小麦粉を揚げて固めたもので、胃にずっしり来る甘さと重さの
「そういえば、ジュンちゃんのお師さまってどんな人だった?」
「ルンガオ師父か? そうだな……元は戦災孤児で、人身売買組織に捕まった際に、八朶宗に助け出されたと聞いたな」
まばらに乗客が増えていく中、発車を待ちながら言葉を交わす。
「師父が前の戦争で活躍したのは有名な話だ。指揮官暗殺、敵中突破、敵陣爆破……いわば英雄というやつだな。本人は暴力的で横暴で偏屈なじい様だったが」
「お師さまもそんなこと言ってたなあ」
「逆らう者には暴力的だったが、従う者はとことん甘やかす、そういう両極端な人物だったな、あれは。まあ、ろくでなしの部類と言っていい」
小さく鳴くカバンの
「そういえば、こいつも小さい時に、師父が拾ってきたんだ」
「へえー」
樹車の扉が閉まり、少し体が後ろに引っ張られる感覚がして、車体が動き出す。
グイェンは隣に置いておいた
「わざわざそれを持ってくるか」
「だってさ、見てよ」
グイェンは別の頁を開いて見せた。それを目にした瞬間、ジュイキンは思わず息を飲んで、尻が浮くほど身を乗り出してしまう。
それは、猫を抱いて笑っている、ひょろりとした男の
「せっかくお兄さん描いたのに、まだジュンちゃんに見せてないんだもん」
八朶宗に入った時、ジュイキンは身一つだった。それから十二年、兄がどう過ごしてきたのか、ほとんど話せてはいない。ましてや、生前の彼の写真など。
襲ってきたあの男が打神翻天なら、まず間違いなくニングだろう。すなわち、フージュンは遺体も魂も遺さず、この世から消されたということだ。
下手くそな絵だった、本人とは似ても似つかなかった。けれど、眼鏡をかけて、背が高くて、頼りない感じがして、優しく笑っていて、確かに兄の姿を思い起こさせる。絵に描かせてくれと言ったグイェンに、微笑みながら猫を抱え、
窓の外を景色が流れ、媽京を後に置いていく。電磁蒸気の香りと共に、何もかも流れ去っていくその眺めは、時の河そのものだ。時間は巻き戻せない、兄には二度と会えない。それでも、この絵だけが、唯一彼の存在を偲ばせてくれる。
「……ありがとう」
ぽつり、と。胸の奥から引力のように立ち上がる感謝の念が、その一言をこぼさせた。雨粒のように、いくつも、いくつも、止まらなくなりそうなほど。それを堪えて、少しだけ目をこすった。
「ありがとう、グイェン。この絵、出来たら私にくれないか?」
「うん!」
輝くような笑顔で、グイェンはその頁を破り取って渡した。絵の端には日付が記され、つい二日ほど前のものと分かる。
樹車の煙突が蒸気を吐き出した。火で圧縮された樹霊の塊である星炭が、更に高温をかけられて高次元へ相転移していく。
地にある魂が天に昇る時、大きな
兄の魂は、もう、どこにもない。それでも、この絵だけは、手元にある。
「いつか、私も描いてもらっていいか」
「あ、それいーね! 女の子のジュンちゃん、ちゃんと絵にしとかないと!」
「いや、それはいい」
胸の中が、今までになく心地よい温かさで満たされていた。ジュイキンは慎重に兄の絵を丸め、予備の髪留めを巻く。
(……グイェンが居てくれて、良かった)
目の前の相棒と出逢う以前、自分がどうやって日々を過ごしていたのか、思い出せなくなりそうだ。あの頃よりもずっと、世界が色彩と温度に満ちて感じられる。こんな風に楽しかったのは、そう、師父が生きていた頃、その時以来かもしれない。
「あ、それと、これ!」
急に大きな声を出して、再びグイェンは
「お守り! お兄さんが、肌身離さず持ってなさいって渡してくれたんだ」
「待て、それは――」
紙切れの正体を即座に悟り、ジュイキンは首筋に冷たいものを覚えた。
「霊符だ! おそらく、打神翻天の」
「へ?」
グイェンはまったく理解しないまま、ぽけーっとした顔だ。
「ナルが使鬼を出していただろう、連中は自分たちの協力者に、いざとなった時の保険としてこれを渡しているんだ。つまり」
「我々が君らの居場所をつかむのも簡単、とこういう訳だね」
女の声が隣のボックス席からした。そちらを見やると、東方の衣装を着た妙齢の女性と、大閻伝統の
そして、ジュイキンが座る座席の後ろから、聞き覚えのある男の声がした。
「旅の始まりは楽しいものだな。遠足とやらも、こういう感じか?」
声の主は座席を立ち、二人の前に姿を現すと、腰の刀を抜き払って突きつけた。
「おまけに、随分とおめかししているようだな」
ジュイキンは、背広姿のシャン・スーバンを睨みつけた。眼前の鋭い切っ先も、怒りと憎しみのあまり目に入らない。「お前!」とグイェンが声を荒らげる。
車内の乗客が一斉に立ち上がった。通勤カバンから、
とんとん、と舞踊指導師のように足を踏み鳴らし、ローは座席を立った。
「初めまして、ルンガオ・シャウの愛弟子。
ごきげんよう、我らの麗しき樹械心臓。
そしてさよなら、チ・ジュイキン。
万神に万死もたらす、
打神翻天。
十魂十神。
樹車は運命を乗せて、ただ鍾杏市を目指して走り続ける。その前方には、山のような巨大樹の
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