第二幕 神産神散万死の心臓
原稿用紙約203枚
第八話 嵐の前の木の葉たち
神代の昔、九つの首を持つ
今は山の賑わいに、初夏の緑がそこかしこに滴って、ますます景色は豊かだ。高山に多く棲む
十の峰からなるこの地こそ、俗世から隔離された聖域。
その中心部に、
赤や黄色の派手な色使いが、雲海に沈む静謐な景色に穴を開け、否応なく余人の目を惹く。その内部では、勇ましい赤ら顔や、麗しい白面の神像が、鮮やかな衣を纏い、日々僧侶たちの世話を受けるのだ。
だが、ここで本当の
山門をくぐる者は、山の斜面に階段状に設置された幾つかの建物を見るだろう。その頂上に、輝く神樹が天高く屹立している。
それは樹と言うよりも、天に伸びる光脈だった。大地から天上へと繋ぐ、命と魂の通り道、神灵がこの世にそそぐ温かき眼差しの具現。
これぞ
光の脈動が蒼穹を覆うその下では、怪鳥のような声が空をつんざいていた。
「キェェェ――イッ!」
「なんじゃその声はァ! 丹田から出しとんのかィ!」
「キエッ、ギ、キェ――ッ!? か……っは」
「救護班、こちらへ!」
「はっ、ま、まだや……」
「いいから寝ておれ!」
無理に起き上がろうとした少女は監督生の女子に絞め落とされ、担架で運ばれていった。中々優しい監督生だ、と合同
彼らのほとんどは十代から二十代の若者で、全員が猟客の候補生たちである。
「……退屈至極」
候補生たちの気合が篭った発声の数々を聞き流しながら、
講武所にたどり着くには、麓から設置された悪辣な罠や障害が満載された道を踏破しなくてはならない。失敗した者は手厳しい苦痛を味わう羽目になり、猟客を諦めて僧侶や
八朶宗に入ってきた者のうち、十五歳以下の子どもたちは、まず
やることと言えば
「〝
有意に散らしていた集中力を引き戻され、リュイは声の主を見やった。死天夜叉というのは彼女の二つ名であり、八朶宗ではそれなりに知られている。
リュイは、それまで腰掛けていた屋根の飾り――その昔、一人の八花拳士が殴り殺した宙遊クジラの頭蓋骨――から立ち上がり、ひょいと屋根から飛び降りた。
「おう、なんだなんだ」
「不躾ではありますが、一度、
もうすぐ十八になろうかという候補生の少年は、目を溌剌と輝かせながら一礼した。退屈していた身には、断る理由がない。
「ははーん、言うではないか! その意気やよし!」
リュイは傍に立て掛けられていた
候補生が申し訳なさそうに、やや眉根を寄せる。
「あ、いえ、出来れば棍ではなく……」
「おっと、悪い悪い。拳の方がいいか!」
リュイは呵々と笑い、候補生も無邪気に言い放つ。
「いえ、名高き剣客の死天夜叉殿、ぜひ剣での比武をと!」
瞬間、高く澄んだ音が響き、リュイの朗らかな顔が固く凍った。
音は、彼女が棍を石畳の地面に突き立てた時のものだ。放射状のヒビを走らせて刺されたそれは、リュイが手を離した後も微動だにせず立っている。その表面は、内部を走った彼女の内力を受けて、細かくささくれだっていた。
「剣なら捨てた。他をあたれ」
それは、常日頃の彼女を知る者たちが初めて聞くような、怖気が走る声だった。触れれば火傷しそうな、冷たく拒絶した声音に、練兵場が静まり返る。
「悪いが用事を思い出した。監督生、後は任せたぞ」
場を辞して下山するリュイに、慌てて監督生たちが一列に並び、大声で見送った。あの候補生が言う通り、リュイは八朶宗では剣の名手として名を馳せていた。
だが、それも昔の話だ。
五年ほど前、ルンガオ師父が死んだ後から、彼女は剣を一切使っていない。誰かが不思議に思って問うた所、リュイは一言「捨てた」とだけ答えたと言う。
リュイの不機嫌は、夜になっても治らなかった。厨房に頼んで小イワシの唐揚げを作ってもらい、それをつまみに酒を飲んでいるが、どうにもくさくさする。
八花拳士として弟子も取るリュイは、師範の位階と役職にあり、猟客としてもそれなりの地位にあった。だから、与えられた自室は広々とした一人部屋だ。
壁には人体経絡や点穴の図解が貼られ、棚には八花拳の
その部屋の中央、撤去した寝台の代わりに広げた毛布の上で、リュイは黙々と手酌酒だ。尻の下には座布団を敷いているが、その更に下には、彼女自身が震脚で開けたへこみが隠されている。遠くはベリッソ(
飲むか寝るかで悩み始めた深夜、部屋の戸を叩く音と、聞き覚えのある声がした。
「夜分失礼いたします、リュイ師範」
「なんだぁ?」
逢露宮で働いている無缺環の一人だ。彼らは眠っていても、申し付けられれば自動的に働く。誰かに起こされたのだろうに、その声に寝ぼけた響きはまったくない。
「火天大有72番より、師範への
「グイェンか! 繋いでくれ」
リュイは早速、室内に女の無缺環を招き入れた。案の定、相手は寝間着姿だ。
魂魄同調秘匿回線〝霊訊〟は、八朶宗が全国各地に広げる情報網である。無缺環に向かってしゃべると、受信側が同じ内容を口頭で伝えるという仕組みで、無表情に他人の発言を模写する様は、慣れないと妙な気分になる。
可愛い愛弟子からの連絡だが、こんな時間という点が不穏で喜べない。
そして、その予感はやはり正しい。グイェンはリュイが帰った後に起きた、一連の出来事について話し始めた。打神翻天の襲撃を受けたこと、ジュイキンに移植されたものが
「……そうか」
舌が痺れるような苦い気分だった。リュイは酒瓶に残っていた最後の一口を飲み干すが、胸を焼く酒精の熱さに、まったく酔えなくなっている。
姿も声も、グイェンとは似ても似つかない無缺環の女が、ぴったりとグイェンの口調で遠方の愛弟子の言葉を伝える。
『お師さま、オレ、どうしたら、いいんだろ。お兄さんのこと、守れなかった。ジュンちゃんは、オレを許してくれないかもしんない……でも、なんだろう、一番怖いのはそのことじゃなくて、ワケわかんなくて』
「落ち着け、グーグー。一つ一つ、ゆっくり話せ、あたしはちゃんと聞いているから。な?」
『だって、オレ、怖いよ。今までこの世に生まれて、生きてきた人は、みんな死んだ。誰でもいつかそうなる。だから、いつかオレも死ぬ時は、多分、怖くない。でも、変なんだ。それなのにオレは、色んな人に、もっと生きてて欲しい、死んでほしくないって思うんだ。誰も……誰も』
「そりゃそうだ、グイェン。みんな生きてんだ。死にたくない、生きたいって思うのは、生き物として当然のことさ」
『ほんとに?』
無缺環の伝達は、相手の声をそのまま聞かせてくれる訳ではない。それでも、言葉はグイェンが小さな子ども――まあ今でもまだ八歳なのだが――に戻ったように、心細い、もっと言えば甘えたがっている声になって聞こえた。
「まっ、でも。例えば誰かと誰かが殺し合いになった時、それを止めるのは凄く大変だぞ。ジュイキン一人だけでも助けられたんなら、それで御の字だ」
リュイはどん、と自分のたわわな胸を叩いた。
「あたしが許す! お前は偉い!」
『うん!』
リュイは部屋の窓へ目を向け、そちらに近づいた。精緻な彫刻がなされた木格子を開き、月明かりと、それよりもなお明るい、輝く樹の姿を目にする。
無缺環に背を向けたまま、リュイは言葉を続けた。
「あたしはこれまで、いつも己の心に逆らって生きてきた。これが最善だと偽って、これぞ正義と騙して。でもな、グイェン。正義なんてお題目は、所詮、強い者の言い繕いに過ぎんのよ。お前は、正義よりも、自分の心が正しいと信じるもののために、戦うといい。最善はきっと、お前の心こそが知っている」
『オレの、心』
「ああ……誰にも死んで欲しくないという願いは、もちろん難しい。だけど。自分の望むだけ、人の命を救いたいなら。まずは一人だけ、絶対に殺されないよう、守ってやりな。お前の大事なものを」
『うん……うん!』
それから短く言葉を交わし、礼を述べて、グイェンからの霊訊は切れた。会話の内容は、無缺環の意識や記憶には決して残らない。
「ご苦労、夜中にすまんな。もう終わったから寝ていいぞ」
「いいえ、リュイ師範。
「ウォンが?」
その名を聞いて、リュイは口の渇きを覚えた。ルンガオ・ウォン(
「あー。なんとなく用件は分かるな……ま、繋いでくれ」
髪をかき上げながら伝えると、無缺環は再び他人の言葉を模写し始める。予想に違わぬ用件に耳を傾けながら、リュイはこれからのことを考えた。
嵐が近づいている、神灵も人間もニングも等しく巻き込む、大きな争いが。それが大禍となる前に鎮まるか否かは、これからの一歩一歩にかかっている。
(その時、せめてグイェンだけは……あの子を守るためならば!)
グイェンのために捨てた剣を、再び手にとることも厭わない。
◆
気がついた時、ジュイキンはルー家の自室で寝かせられている己を発見した。
悪い夢から覚めたような気分だが、体に残る鈍い痛みと、ヒリヒリした火傷の痕に、あの惨劇は現実だったのだと思い知らされる。
身を起こすと、関節が発泡
窓からは赤い陽が差し込んでいた。ぎこちない歩みで部屋を出ながら、ジュイキンはあれからどのぐらい経ったのだろうと考える。一日か、それとも三日か。
痛みのためか、まだ目が覚め切らないせいか、建物の空気がよそよそしい。
「……誰もいないのか」
静まり返った邸内の廊下で、幼い日を思い出す。目が覚めた時、最初に見たのは真っ赤に燃える太陽だった。夕日に見えたそれが、本当は朝日だったと間を置いて気づいたのも同じだ。流れ込む光が時間に洗い立てられ、澄んだ色に変わっていく。
廊下が終わり、中庭に続く扉の格子が、床とジュイキンの顔に影を落とした。白い粉を撒くような、柔らかい日差しの中で、ジュイキンは足を止める。
幼かったあの日、自分が人間だった最後の日。
目を覚ませばすべてが変わり、自分を見る目が残らず変わり、自分に見える世界はくるりと裏返ってしまった。神灵に見捨てられ、人間がただ死ぬだけの無情の世。
今の状況は、あの時とよく似ていた。いや、同じだ、という確信じみた衝動がじわじわと胸の内をくすぐり、かと思えば不意に心臓をわし掴みにする。
(心臓……兄さんがくれた、この心臓。こいつは、一体なんなんだ?)
〝神灵を殺す〟などという、大それた力が本当にあるものなのか。あったとして、そんな物が宿ってしまったこの身は、今まで通り己自身のまま、生きていけるのか。
そもそも、兄は――どうなってしまったのだろう?
自分の体の中心だけが、ぽっかりと抜け落ちて、どことも知れない奈落へと吸い込まれていくような心細さが、ジュイキンの足を動かなくしていた。
「……ッ」
ふわりとした感触を脛に覚え、びっくりして視線を下げる。すると、思わず抱きしめたくなるほど小さな頭に、愛くるしい三角の耳が立っているのを見つけた。すらりとした長い尻尾を巻きつけて、一匹の黒い猫が身をすり寄せている。
「ミアキン! よかった……よかった」
抱き上げた猫からは、騒々しい生命の音がしていた。みゃーおという鳴き声、脈拍と呼吸の細かい震え、空気をよく含んだ毛並みの草原。
キラキラした金色の目が、なにしてるんだよと呆れている風に見えた。空気が抜けるように、ジュイキンは口の端を緩めて、小さく笑いを漏らす。
気を取り直して扉を開けると、外はよく晴れていた。朝焼けの空の端、まだキラキラと瞬いている星は、泳ぎ始めた灰魚の群れだ。
穏やかな朝日の中で、金魚の桶を見つめて、グイェンが立っていた。
「ジュンちゃん」
ゆっくりとこちらを振り返る姿は、開いた傷口を恐る恐るなぞる動きのようだ。頬に大きな絆創膏を貼って、心細い顔をして、そのくせ瞳は妙に輝いている。
グイェンは鼻から大きく息を吸い込み、深々と吐き出すと、拳をぎゅっと握ってこちらへ大股に近づいてきた。
「ごめん! オレ、お兄さんを守れなかった!」
開口一番、頭を下げる。ああ、やはり兄は、死んだのだな、と予感を裏付けられ、けれどジュイキンは泣くことも、心をぐらつかせることも出来ない。
既に兄の取った行動が、この十二年で培った心の軸を、根本から揺らしていた。かつて自分を見捨てながら、今度はその相手のために己を
――だって、一つのことに良いものと、悪いものが、一緒に存在してるんだ。
グイェンはかつてそう言っていた。当たり前のことだと思っていたが、分かっていないのは自分だけだったのではないか。人間は裏切ることもあれば、信頼に応えることもある、それが同一人物の中に矛盾なく存在する、ということが。
兄の死以上に、その行動が、自分の胸をかき乱している。そのことに上手く整理をつけられないまま、ジュイキンは柔らかく話しかけた。
「いいんだ、グイェン。お前にはいつも、助けられたから」
なーあう、と腕の中の温かい毛玉も声を上げる。
「ほら、ミアキンだって、お前が連れてきてくれたんだろう?」
「うん……」
それでようやく、グイェンは折り曲げたままの腰をまっすぐに伸ばした。再び、鼻から深呼吸。何か言いたいことがあるらしい。
「ジュンちゃん」
「ああ」
「ジュンちゃんは、オレが守る」
言葉の意味をはかりかね、ジュイキンは眉根を寄せながら、しばし口を波打たせた。なにか、妙ちきりんな、とんでもない、新手の冗談を聞かされた気がする。
「いや、訳が分からん。なんだそれは」
「だって、ジュンちゃんは殺されたら死んじゃうじゃん! オレと違って!」
それはそうだが、何かおかしくはないかと思うものの、グイェンはこちらが口を挟む間もなく、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。珍しい流れだ。
「ジュンちゃんのお兄さんのこと、助けられなかった。でも、だから、オレ……ジュンちゃんのことだけは、守るよ。だって、オレ、誰にも死んで欲しくない! お師さまも、最善はオレの心が知ってるって! だから!」
「守る守るとやかましい! 何を今更!」
ジュイキンはミアキンを放り出し、グイェンの両頬を力の限り引っ張った。妙に伸びがいいのは、内力強壮の柔軟性故だろうか。
「ふぁだだだだだだだだ」
「貴様と私はもとより二人一組の八朶宗猟客! 生死の境を共にする運命共同体だぞ! 貴様ッ貴様そんなことも分からんで今まで私と組んでいたのか!? 私はお前を守る、お前は私を守る、当たり前のことだ! このっ、どたわけのド畜生!!」
それは親愛の情でもなんでもなく、死線をくぐる者としての鉄則である。いざとなれば、任務のために互いを見捨てる、という了解さえも含めて。
頬から手を離し、グイェンが立て直す前に胸ぐらをつかむと、ジュイキンはそのまま相方を地面に投げ飛ばした。一月以上仕事をしていて、こんな温度差があったとは情けのない話だ。半分ぐらいは、グイェンの直截さに対する照れ隠しだが。
「ううううう……ジュンちゃん……ごめん……」
「猛省しろ! そのまま埋まれ!」
地面で平たい大の字になったグイェンは、ひょこっと身を起こした。
「や、待って。連絡したんだけど、お師さまが、逢露宮に帰ってこいって」
「そうか。なら、急ぎ旅支度だ。この辺りだと、
グイェンはミアキンを抱き上げ、ぐるりと中庭を囲む四棟を見回した。
「じゃ、ここともお別れかあ」
次に媽京に来る時は、別の無缺環の元に下宿することになる。急ぎなので、部屋に置いてあるグイェンの私物は、ほとんど捨てるか、ルー家の人にそのまま押し付けることになるだろう。だからジュイキンは、あまり物を持たない。どうせ逢露宮にある自室も、たいして広くないのだし。
ぱたぱたと忙しなく建物に入るグイェンを追っていくと、邸内には煮炊きの匂いが漂い始めていた。荷造りの前にまずは顔を洗い、朝食をとらなければ。
逢露宮に帰った時、自分がどう遇されるか、ジュイキンには分からない。あまり良い予感はしないが、逃げるという選択肢はなかった。ニングの身の上、他に寄る辺などないのだ。ただ、そんな時に一人ではない、ということが嬉しかった。
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