第六話 裁くのは誰か?(前編)

 店は小さいながらも貧相さとは無縁な、代々の主人の美意識と信念が詰め込まれた小宇宙のようだった。繁盛しているかはスーバンには判じかねるが、ロー・ジェンツァイの紹介ならば、一流の業物を揃えられる店だろう。


 先日、八朶はちだしゅうの猟客に折られた倭刀の代わりを求め、スーバンは刀剣商・松葉館しょうようかんを訪れていた。私用のため背広ではなく、袖が大きくゆったりした長衣――大閻伝統の長袍ちょうほうを着て、勧められた椅子に腰掛けている。


「こちら刀工・五代清宗最後の一作、忘生ぼうしょう清宗きよむねにございます」


 恭しく差し出された光蘭刀こうらんとうをスーバンは受け取った。光蘭刀とは倭刀の原本、東の異邦・一輪光国いちりんこうこくで生まれた独特の曲刀である。大閻だいえんは光国が旧国号・光蘭だった時代から交流があり、その際に入ってきた刀剣を、長らく倭刀の名で模倣生産してきた。


 松葉館は、光蘭刀を輸入している数少ない業者だ。店主は輸入先の名前で紹介したが、大閻公用語で言えば、この剣は忘生ぼうしょう清宗せいそう(ウォンシェンキンツィー)となる。

 異国の一振りながら、店一番の業物を注文された主は、迷わずこれを選んだ。


「では、拝見する」


 倭刀の剣法は、大閻の剣法に光蘭刀の技術を取り入れ、発展させた独自のものである。昨日今日で倭刀から光蘭刀に乗り換えて習熟するのは無茶があるが、スーバンはありとあらゆる刀剣類に心得があり、光蘭刀もその一つだ。


 両手に持った刀はひやりと冷たく、どこか人の手を拒むようだった。鞘はわずかに緑みを帯びた暗い青で、店主いわく、鉄紺てっこん色と言うのだそうだ。

 鞘口こいぐちを切る。

 ぱつりと、目の前で何かが切り落とされるのをスーバンは感じた。


「――ほう」


 切られたのは自分の呼吸であり、切ったのは光だ。それは人を斬り続けた剣客の本能か、あるいは人を斬り続けた剣の凄みか、抜きかけた瞬間にスーバンはそれがどんな剣であるか理解した。これは――危険なほど美しい、と。


 何かに操られるように鞘を抜き払い、自らの眼に刀身を晒す。氷を削り出したような、が透けてその向こうに清浄な世界が見えるような、この世ならざるやいばを。

 呼吸すら忘れてスーバンはそれに見入った。あるいは、魅入られたのかもしれない。どちらでも良かった。吐息をかけるのもはばかられるような、この美の前には。


 じん、と痺れた頭が妙に冷たく、それでいて体の芯は熱い。剣に対する欲情、そう、これを手に死線をくぐりぬけられるなら、それに勝る幸福などあろうか?

 触れるものすべてを拒むような鋭い気品、この刃に斬られてみたいとそそられる淫靡さ、どれほどの血を浴びようと穢されぬ無垢さ。否、それだけではない。


「蔵魂の剣か」


 長い沈黙の果てに、ぽつりとスーバンはそれを見抜いた。店主が面白げに、そして驚いたように、眼を丸くする。この剣は、今も生きているのだ。


「はい。五代清宗の一人娘がニングになりまして。かくなる上は、父の剣に生まれ変わらせてくれ、という願いを受けて打たれた一振りにございます」

「故に最後の作品、ということか。娘の名は分かるか?」

「いいえ」首を振る。「二百年ほど前のことですが、記録に残されていないそうで」

「それは、勿体無いな」


 心底からそう呟く。幼い頃、見知らぬ町で迷子になった時の心細さそっくりの気持ちが胸を穿っていた。そのことに自分自身困惑しながら、スーバンは刀を鞘に戻す。

 ああ、納刀の音さえなんと美しいのかと震えた。

 この剣との巡り合わせに、どこか運命じみた縁を感じる。この自分――七殺しちさつ不死ふしと、あの樹械心臓。それらとこの剣はある種の同類だ。


「これを、もらおうか」

「ありがとうございます」


 代金については後日で良い、とローの方から話をつけてもらっている。頭を下げる店主に軽く礼を述べ、スーバンは足早に松葉館を後にした。

 予定外の仕事ばかり増えて苛立ちが募る日々だったが、それもこの剣に出逢うためだったと思えば許せる。後は、残りの仕事を片付けるだけだ。


                 ◆


 鶏の出汁が染みた米は滋味だった。菜っ葉と細かい肉が浮く粥に、ふわふわとした卵が入って、優しいのに食いでがある。兄の料理を口にするのも久しぶりだな、と考えると、ジュイキンはくすぐったいような、妙な気分になった。


 媽京まきょう料理の鶏雑炊といえば、アヒルの血と肉を紅酒ワインと一緒に煮込むもので、どす黒い見た目はあまり食欲をそそるとは言えない。しかも血が固まらないよう酢を入れるため、その酸味を受け容れられるかどうかで好みが分かれるだろう。


 フージュンが昼食に出したそれは、同じ鶏雑炊でも故郷の味だ。手術が終わり、眼を覚ましてから丸一日が経っていた。まだ寝台で半身を起こしながら、像身功で影を作ることもしていないが、心臓を刺された人間にしては異様に回復が早い。


「どうした、ミアキン。まだ欲しいのか?」


 寝台の下で、もらった鶏肉を平らげた黒猫がにあーと鳴いていた。


「でも、肉はもう全部食べちゃったんだ、諦めなさい」


 頭を撫でようとしたら前足ではたかれた。いいから寄こせと仰せだが、無いものは無い。食器を脇の台に片付け、ジュイキンは猫を腹の上に抱き上げた。しばらくすれば、フージュンが食器を取りに上がってくる。


 ジュイキンが手術から目覚めた時、すでに二日が経っていた。最初は身を起こすことも出来なかったが、一晩寝たら驚くほど体が軽い。

 これには手術をした当人であるフージュンも混乱していたが、大喜びするグイェンの対応に追われて、そのへんがうやむやになってしまった。


 ジュイキンが寝ている間、グイェンは無缺環むけつかんの魂魄同調秘匿通信〝霊訊れいじん〟を通して八朶宗に事態を報告。まだ新人であるグイェン一人では仕事を任せられず、媽京にいるリュイは所用で逢露ほうろきゅうへ戻ったため、二人には休暇が与えられることとなった。


 逢露宮とは、八朶宗の総本山となる寺院であり、如夷霊母にょいれいぼの依り代である神樹が植わっている。八朶宗であれば、誰もが一度は訪れる地だ。

 そして、ジュイキンが修行した場所でもある。

――その門前町で、師父ルンガオは殺されていた。


 嫌なことを思い出しかけて、ジュイキンは愛猫の胴に顔をうずめた。日向ぼっこをかかさぬ猫族特有の、太陽をよく吸い込んだ毛皮はかぐわしく、麻薬的ですらある。ミアキンは嫌そうに前足で頭を押してくるが、その抗議さえ肉球の弾力と足指の柔らかさを味わわせてくれるのだから、ご褒美のようなものだ。


「ジュイ、もう食べたかい?」


 気分が良くなってきた所で、ちょうどフージュンが入ってきた。手には食後のお茶を載せた盆。何やら忙しそうにしていたからか、少し疲れた顔に見える。

 部屋は一人用の病室で、木目が目に優しく、古い建物の割りには綺麗だ。身内だからと、何もこんないい部屋にしなくてもと少し気恥ずかしさを覚える。


 いや、身内だからではない。むしろ、負い目があるから、だ。兄は自分に気を遣いすぎている、そう思わなくもないが、無理もない。

 今更兄を恨む気持ちはなかった。いや、今まで恨もうとすらしてこなかった。

 あの日、胸につけられた傷口は深い穴のようなもので、覗き込もうとすれば果てしない落下の予感に気が遠くなってしまう。


 だから、あえて傷そのものから目を逸らし続けてきたのだ。兄にされたことを、考えないように考えないようにと生きてきた。


 一つ、自分の中ではっきりしたのは、〝人は裏切る〟ということである。


 それは八朶宗に入って八花拳の手ほどきを受けた時、鍛えた技は己を裏切らない、という考えに広がった。体を動かすことは余計な考えを振り払うのにも良かったし、近づく者すべてを叩きのめし続ければ、一人で生きていける気がした。


(まあ、その考えを師父に粉微塵にされたわけだが……)


 十歳の子どもを、自分の血反吐にまみれるまで殴打するあの御老体は少々イカれてるのではないかと思ったものだが、今思い返してもやはりイカれている。


「父さんと母さんは元気にしてるよ」

「そうか」

「大学に行くため故郷を出たんだけど、その、色々あって……卒業してしばらく後に、こっちに来たんだ。ジュイはいつからだい? 媽京は」

「……半年」


 ひどく退屈な、当たり障りのない会話を兄とかわしながら、ジュイキンはそんなことを考えていた。八朶宗に入ってからの十二年間、目を逸らし続けてきた兄の存在。

 死に瀕した際、まずフージュンに会いたいと思ったのは確かだ。直前まで、次の休暇は話しに行こうとも考えていた。しかし、いざこうして兄弟二人きりになって(猫はいるが)、顔を合わせていると、どうも上手く言葉が出てこない。


 兄を恨んでいないと、あの日、貴方が取った行動は仕方のないことだと、そう伝えないといけないのに。胸の奥にはまだ拗ねた子どものままのジュイキンが居て、自分自身を意固地に引き止めてしまっている。


「その、ジュイは、どうだったかな。この十二年」

「どう、と言われても」

「……体中、凄い傷だらけで、びっくりしたよ」


 ぎくりと、自分の背筋が強ばるのが分かった。猟客の任務は常に無傷で終われるとは限らないものだ、処分対象のニングは死に物狂いで抵抗するし、相手が何らかの武術を心得ているともっと厄介になる。実際、そうした戦傷は多い。


 だが、それとは別に、投獄されていた頃の無数の傷痕はどうか。医者というのは、そうした惨めな類の傷も判別がついてしまうものだろうか?

 不意に、フージュンは飲みかけの茶杯を置いて、弟の両手を握った。


「辛かったね。……僕のせいだ。八朶宗での修行や、仕事……色々、あったよね。それで、こんな……酷い」


 額の奥、熱く赤い怒りの稲妻が閃いた。大きな音を立て、ジュイキンは兄の手を振り払う。ミアキンがびっくりして身を縮こまらせたが、今は目に入らない。


「私を憐れむな。私の人生を、あんたの、しでかしたことにするな。確かに私の人生は、あの時の一瞬で変わったさ。でも、そんなの、きっかけだけなんだ。その後に起こったことは、もっと別のことだ。それはあんたには関係ない!」


 喉を焼く苦々しさがこみ上げてきて、今にも吐きそうだ。……そんなつもりではなかったのに、こんな言葉しか吐き出せない自分が、ますます惨めだった。


「そうだね。僕は、君の十二年間を、何も知らない。教えてもらう権利すらない」


 兄の声は気遣いと落ち着きに満ちて、それがジュイキンにとっては、柔らかい針のように突き刺さる。この人は、弟に拒絶されることに対して、とっくに覚悟を決めて割り切っているのだ。それに比べて、この自分の情けなさはどうしたことか!


「傷が治ったら、僕のことは忘れてくれていい。君が少しでも長く、健康に生きて、出来れば幸せになってくれたら、僕はそれで充分だ」


 言って、兄は食器を手に退室していった。階段を下る足音が遠ざかるのを聞きながら、ジュイキンはうつむき、顔を上げられない。手を振り払ってから、兄の顔を見ることが出来なかった。八歳の時分から、己は何も変わっていない。


 一時は兄とわだかまりなく話せると思ったのに、こんなに簡単に振り出しに戻ってしまうなんて。いや、そもそも、始まってすらいなかったのだろう。

 腹の上で丸まっているミアキンを少し横にずらし、ジュイキンは布団に潜り込んだ。怪我のせいで余計に神経が尖っているのかもしれない、もう少し養生して、気持ちを落ち着け、それから、今度こそ兄ときちんと向き合うのだ。


 せっかく拾った命、無為に浪費するにはあまりに勿体無い。こうして生きているのだから、兄と和解するチャンスも、死人にはない権利だ。


                 ◆


 畢私立医院は、正面玄関から入ってすぐに受付けと、待合のための小さなホールがあり、その奥に診察室。更に奥に居住域である食堂兼応接間と台所、風呂場や洗面所、二階に病室と事務室、客間がある。ジュイキンが寝ているのは客間の方だ。

 綺麗に平らげられた食器を見て、フージュンは喜ばしさと恐ろしさを同時に覚えていた。昨日今日、心臓移植を終えた人間とは思えない回復力。どう考えてもあの樹械心臓の特性だが、打神だしん翻天はんてんは一体何を預けたのやら。


 医院の表には「休診中」の看板を出している。

 なんとか代わりの樹械心臓を用意できないものかと手配はしているが、予約しても一年、三年待ちはザラの代物。三日でどうにか出来るはずもない。

 無論、手に入った所で、それが預かり物の代わりにはならないだろう。弟の胸から心臓を取り出すには、どの道別の心臓が必要にはなるが……。


(いいんだ、僕は。あの子が無事なら、もう他のことは全部、どうでもいいんだ)


 相変わらず軋む螺旋階段から大庁ホールへ降りると、ちょうどグイェンが奥から戻ってくる所だった。頭にハチマキ代わりの手巾タオルを巻きつけ、腕まくりをしている。


「せんせーい! 診察室と物置きやってきたよー!」

「ああ、ありがとう。すまないねえ、こんなことさせて」


 瀕死のジュイキンを抱えて駆け込んで以来、グイェンもこの医院で寝泊まりしていた。治療費やら荷物やらを下宿先から持ってきてくれたが、その他にも積極的に何か手伝えることはないかと、あれこれ引き受けてくれている。

 少し変な所もあるが、こんな天真爛漫な子が弟の友達というのが嬉しかった。奥の台所へ向かうフージュンに、グイェンも当然のようについてくる。


「全然! オレに出来ることならなんでもやるからさっ。次はなに?」

「じゃ、しばらく休憩してて。台所にまだ甘いものがあるはずだから……ああ、ジュイは、少し一人にしてあげてもらっていいかな?」

「はーい!」


 食堂で、フージュンはハリネズミ型の揚げ麦包パンを出した。点心では縁起物の一種だが、見た目が可愛く、中身も奶黄カスタード入りで甘い。

 グイェンは眼をまるまると見開き、口はもっと大きく開き、興味津々といった顔でパンを覗き込んだ。手渡す前に、一つ確認する。


「スーくん、あのお守り、ちゃんと持ってるかい?」

「バッチリ、肌身離さず!」ばしん、と自分の二の腕を叩いて答える。

「良かった」


 麦包パンを渡すと、グイェンは大声で礼を言ってかぶりつき、「うっまーい!」と騒がしい。なんだか小さな子どもみたいだった。


 食堂を後にして、フージュンはグイェンに頼んだ仕事の具合を確認する。

 ものの調達には蓄えを崩したが、どうせあと数日後には打神翻天に奪われているかもしれない命、惜しむ財などあるはずもない。

 ここで働いていた数人の従業員には、申し訳ないが暇を取ってもらった。準備はいくらしても足りないということはないのだ。


万神ばんしん万死ばんし天猟てんりょう心母しんぼ』――あれは一体なんだ?

 特別な樹械心臓だとは聞かされていた、組織の目的を達成するには欠かせないものであると。それを打神翻天一の剣客、シャン・スーバンに移植することがフージュンに任された仕事だ。だがそれ以上のことは知らされていない。


 移植手術は本来なら今日のはずだった。だが、スーバンが愛刀を折られたとかで、延期を希望したらしい。これは降ってわいた幸運だった。

 いっそ媽京から逃げてしまうのが手っ取り早いのだろうが、いくら回復が早いとはいえ、今のジュイキンを動かす訳にはいかない。


 ならば、自分は裁きを受け容れるしかないのだろう。

 その結果己がどうなるか、フージュンはすべてを承知していた。


 そして――贖罪の夜が訪れる。

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