第五話 二者択一の贖い

 折れた刀身を投げたスーバンは、その勢いを乗せて体を回転させ、背後に迫るグイェンを蹴り飛ばした。確かな手応えを覚え、倒れたジュイキンの方へ注意を向ける。体が崩れずそのまま残っているということは、まだ事切れてはいない。

 スーバンは一瞬、グイェンとジュイキン、どちらを殺すか天秤にかけた。後顧の憂いは絶ちたいが、万一あの猟客が悪あがきをしても面倒だ。


(元より余計な仕事、小心者らしく愚直に行くとしよう。あの女は怖いからな)


 地を蹴っての軽身功けいしんこう、スーバンは三歩で五公尺メートルの距離を詰め、背広の懐から匕首ひしゅを抜く。このままとどめを刺し、ナル・チャオライを連れて離脱する腹積もりだ。


「ジュンちゃん!」


 腹を押さえながらグイェンが叫び、その背に追いすがろうとする。匕首の鞘はすでに抜かれた。スーバンの白刃が、血溜まりに横たわるジュイキンに迫る。

 最後の踏み込みが大地を踏みしめる寸前、足元が宙に浮いた。


「――く――!?」


 一瞬の浮遊感が轟然たる地響きと衝撃に砕け散る。路面を覆う石畳が割れ、裂け、めくれ上がった。把式はしき(立ち方)を完全に会得し、揺るぎない体幹を持つスーバンだが、不意を打たれた上、いまだ動き続ける地面に思わずたたらを踏んだ。

 その横を色付きの風が通り過ぎ、瀕死の青年をさらっていく。軽身功で道の馬車や乗用車の上を飛び渡り、壁を蹴り、たちまち消え去った。


 刺客が逃げたことを悟り、スーバンは改めて辺りを見回す。背後、五公尺メートルの地点から放射状に、しかしある程度こちらへ長く伸ばされたひび割れ。舗装の下にあるべき地面があちこちで剥き出しになり、ちぎれた水道根すいどうこんが水を噴いている。

 震脚による衝撃波の伝播、それをよくぞここまで、この威力で。あれを先程の打ち合いの時に出されていれば、こちらが押されていたかもしれない。


(……まさに天変地異のごとし。やはり殺すべきだったな)


 口惜しく思いながら、今一つ解せないことがある。どう見ても二十歳前後の若造が、なぜもって達人のごとき内力を誇るのか。どこぞの流派の秘奥義には、自身の内力すべてを他人に引き継がせるものがあると言うが、伝説の域だ。


(であれば――十魂十神じゅっこんじゅっしん、か。これは面白い)


 スーバンは八朶はちだしゅうについてはやや詳しい。彼が知るものの内で、最も理屈に合う答えがそれだった。かの外法げほう重魂体じゅうこんたいならば、この様も納得というものだ。

 何より、〝七殺しちさつ不死ふし〟たるこの自分と出逢ったというのが、実に数奇な巡り合わせだ。相方の方も中々の手練れだったが、あれもであるかもしれない。


「おい、何をボーっとしているんだ!? そろそろ君の仕事を思い出してくれ! ちくしょう、なんだこの街は! 通報どころか野次馬すら寄ってこない!」


 金切り声で呼ばれ、ようやくスーバンは護衛対象に関心を向けた。

 ナル・チャオライの仕立ての良い背広は粉塵にまみれ、半ば体が瓦礫に埋もれかけている。足をやられて立つことも出来ないか。


 スーバンは舌打ちして、匕首を懐に戻した。

 面白いものを見たことで相殺出来るかと思ったが、剣を壊されたことに加えて、こいつの面倒を見なくてはならないのでは、総合的には損な仕事だ。

 スーバンはナルを引っ張り起こし、背に負った。


「早く逃げないとまずいだろう、何でいつまでもグズグズしているんだ」

「危機ならとっくに去った。手当は船でしてもらうんだな」


 この場にいる人間は、自分たちの他には八朶宗の操り人形・無缺環むけつかんだけだ。あれは魂をつながれたことで、魂魄抹消の能力を失っている。すなわち、暗殺のためにこちらへ襲い掛かってくることはない。

 だから刺客を撃退した以上、当面の危険はなかった。ただ、この男にいちいちそれを説明するのが面倒なので、スーバンは黙っている。


「それに、うちの運転手は……」

「あんたの護衛ともども助からんだろうさ、諦めて経の一つも上げてやれ」


 背中でナルは悪態をついた。「わめくな」とぼやきながら、スーバンは再び軽身功ではしる。とっととこの荷物を放り出してやりたい。


                 ◆


 月下の摩天楼、閻朝えんちょう哥特式ゴシック建築の尖塔は、電磁蒸気のおぼろげな雲海に埋もれている。蔦に絡みつかれて鐘の鳴らせなくなった鐘楼、歴史を感じさせる西洋楼閣と鏡張りの近代高層洋楼ビル、あるいはギラギラと着飾った賓館ホテルたち。

 青白い蒸気が月明かりと霓虹燈ネオンの灯火に包まれ、高楼のはざまを揺蕩たゆたう様は、幽玄の仙境を見る心地だろう。


 しかし、誰が知るだろう。その景色の中を必死で走る逃走者のことを。

 傘を背負い、両の腕に血まみれの友達を抱えながら、グイェンは建物の屋根から屋根へと跳び渡っていた。ジュイキンが呼吸しているのは分かるが、とても弱々しい。


 閉鎖された廃電遊場ゲームセンターが目に入り、グイェンは屋上から降下した。片手と両足で壁に取り付き、窓を蹴破って、滑り込むように侵入する。

 驚いた鼠が、一斉に奥へ逃げていった。明かりのない廃墟、ただホコリとカビの臭いだけはっきりしている。そこは打ち棄てられた遊戯筐体が並び、まさに色褪せた夢の跡地。つまり、長らく誰も訪れていないことが確実な安息地帯だ。

 グイェンは厚くホコリを被った床を足でこすり、ジュイキンを横たえた。胸に刺さったままの切っ先が、外の明かりを照り返し、鋭利に光る。


「う……」


 自分の心臓を貫かれたような痛みを覚えて、グイェンは思わず後ろに下がりかけた。服の生地が不快に貼り付く感触は、肌に吹き出した冷や汗のためだ。

 グイェンは刃物が怖い。唐傘を得物にしているのも、それが刃のない武器だからだ。ジュイキンの峨嵋刺はただの尖った棒だからいい、美工刀カッターナイフぐらいなら平気だ。だが、スーバンと打ち合っていた時は、逃げ出したいのを堪えながらだった。


「落ち着け……落ち着け……」


 今、この友達を助けられるのは、何か出来るのは自分だけだ。迷っていれば手遅れになる。グイェンは己に言い聞かせ、ジュイキンの背中側から、刃に指をかけた。

 ためらい五秒、そして深呼吸すること八秒。

 ぎゅっと瞼をつぶり、背を押さえて一息に引き抜くと、びくん、とジュイキンの体が痙攣する様が手に伝わった。遅れて、手を汚し、床へ広がる粘ついた液体の感触。


「死んじゃやだよ」


 眼から溢れてくる涙を腕でこすりながら、グイェンはジュイキンの上着を引き裂き、即席の包帯を作った。どうせもう穴が開いているのだ、かまやしない。

 意外にテキパキとした手つきで、グイェンは傷口を覆い、止血した。外傷について、この場で出来る手当はここまでだ。だが、内傷ないしょうならばどうか。


 気の流れ、血の巡り、そして内臓や神経、あるいは骨の髄。外側から目に見えない部分に負った傷を内傷と呼ぶ。グイェンは覆った傷口の上から、掌を押し当て、内功を練った。内なる気を行き巡らせ、凝らし、細心の注意をもって伝播させる。

 すると出血が止まり、苦痛の色に濁ったジュイキンの呼吸が、わずかばかり澄んだ音に変わった。どうやら上手くいったと知って、グイェンはため息を漏らす。


 人を打ち倒すより、殺すより、こうした治癒の技の方が、彼は本来得意なのだ。いや、好きだからそればかり鍛錬してきた、その結果だ。自分の好きが役に立った、そのことがグイェンには嬉しい。初めての友達を死なせたくない。

 ジュイキンを腕に抱え直して、グイェンは廃墟を飛び出した。後は手近な病院を探して、一刻も早く駆け込むばかりだ。


「病院……病院……」


 再び屋根の波間。うわ言のように繰り返す自分の声に、別の小さな声が混ざった。


露玉路ろぎょくろ、から……春流しゅんりゅう花園かえんのほう、だ」


 グイェンの治療が功を奏したのもあろうが、ジュイキンとて内臓から経絡けいらくから鍛え抜かれた、八朶宗秘蔵の武芸者。確かな意志を持って、彼は言葉を紡ぎ出していた。


「ジュンちゃん!? 分かる、オレたち逃げてるよ!」

「いいから……いうとおり、に」

「うん! 曲がった! えーとあっちが春流だね、右! そんで次は?」

「そのまま……っ」


 一瞬、ジュイキンの呼吸が苦しげに消え入った。


「まっすぐ、いくと、びょういん……」

「うん! うん! 死んじゃダメだからね! もうすぐだからね!」


 足の下を、淡く輝く靄の海原が流れていく。こんな時でなければ、グイェンもその眺めを楽しんだだろう。

 だが今は、示された道を最短最速で駆け抜けることしか考えられない。自分の足はこんなに遅かっただろうかと首を捻りながら、グイェンは走り続けた。


                 ◆


 後になってフージュンが思うには、その夜医院の玄関が壊されなかったのは、奇跡的幸運だった。ダンッと大きな敲門ノック音、借金の取り立て人だってもう少し静かだ。


「お医者さん! 開けて! 怪我人がいるんだ!」


 乱暴な叩き方の割りに、聞こえてくる声は素朴な訴え。どこぞのやくざ者が油断を誘っているのかと疑い、懐に拳銃を忍ばせながら、注意深く玄関を開け放つ。

 時刻は夜の十一時、無論、とっくに診療時間外だが……外の空気には、血の香りが混じっていた。しょぼくれた犬のような若者が、頬や服に乾いた血をつけているのだ。上げかけた片足を見るに、これで扉を蹴っていたらしい。


 そして、若者の両腕にはぐったりした小柄な体。

 フージュンの目つきから、疑念と懸念と臆病風が払い落とされ、後には仕事にかける情熱が燃え上がった。


「中に入って。君、名前は」

「うっす、スー・グイェンっす!」


 担架に患者を横たわらせ、見覚えのある顔に戦慄した。

 十二年前、別れたきりの弟によく似た面影の青年。いや、本当に似ているだけだろうか? 先月声をかけた時はすぐ見失ったが、やはり、あの時の彼は。


「……ジュイ……?」


 思わずこぼしたフージュンの呟きが聞こえたのだろうか。

 血の気を失って魚のようになった唇が、かすかに震える。


「に……さ……」


 僅かな、そして充分すぎる二音に、頭の中心がかっと熱くなる感覚。傍から見れば、目の奥、フージュンの瞳に光が灯る様が、はっきりと分かったに違いない。

 グイェンは聞き取った単語に首を傾げながら、目の前の町医者に問うた。


「そーなの? あんた、ジュンちゃんのお兄さん?」

「ジュンって名前なのかい、彼」

「あ、えっと本当はジュイキンって。……これ言っちゃっていいんだっけ?」


 言葉の後半は聞き流したが、これが、とどめだ。

 その瞬間、フージュンは想定されたあらゆる危険も逃げ道もわずらわしさも恥も外聞も、知ったことかとゴミ箱に叩き込むことに決めた。


「……ああ、そうさ! 僕はチ・ジュイキンの兄、チ・フージュンだ!」


 だから必ず助ける。そう宣言して彼は戦いを開始した。

 グイェンの応急処置はかなりの手際だった、これがなければフージュンの元へたどり着く前に、ジュイキンは力尽きていただろう。友人か同僚か、関係は知らないが、深く感謝を覚える。だが、問題はこの先だ。


(心臓移植が必要になる)


 人体移植用の臓器苗ぞうきなえでも、心臓の役目を果たすもの――樹械きかい心臓しんぞうは常に需要が高騰している。この医院にも以前一つだけあったが、とっくの昔に在庫切れ。


(どうする、どうする、どうする。心臓を縫合するか? だがこの損傷では……まだ生きているのが奇跡だ。せめて小型の補助心臓を別の病院から譲って――そんな時間はない! 心臓、心臓さえあれば……いや、とにかく保たせるんだ!)


 ジュイキンを診察しながら動きの止まったフージュンの顔を、グイェンは下側から覗き込んだ。彼には何がどうなっているのか、まったく分からない。ただなんとなく、医師の様子から状況が芳しくないことだけは伝わった。


「先生、どうかな。オレ、なんか手伝えることない? ……大丈夫だよね」

「ああ、いや。……大丈夫、助ける。助けるさ」


 ぱちんと、脳の底である考えが弾けた。答えはとても単純なことだったのだ、ただ選択肢から除外していただけで。そう――心臓ならば、ここにある。


「お兄さん!?」


 グイェンに何も告げず、フージュンは地下へ走った。


「待っててくれ! すぐ戻る!」


 転げ落ちそうになりながら階段を降りた先。そこには小さな倉庫があり、貴重な医薬品や保存食料に混じって、頑丈な金庫が一つ置かれている。

 もどかしさで爆発しそうになりながら、開いた中には金属製の円筒。


万神ばんしん万死ばんし天猟てんりょう心母しんぼ』――これに手を出せばどうなるか、簡単に想像はつく。恐ろしくて手が震える、足がすくむ、腰なんて今にも崩れ落ちそうだ。


 けれど、もしもまだそんな、都合の良いことが許されるなら。この自分にその機会が与えられたのならば。それが生きるか死ぬかの二者択一であろうと!


(あの時の償いをさせてくれ、ジュイ)


 かちりと音がするまで、円筒の蓋を回し、引っ張り上げる。溢れ出す白い冷気の中、現れたのは翡翠色の光を放つ円筒。

 その中に液体と共に収められた、ごつごつとした拳大の物体――球根のようなそれこそが、フージュンが打神翻天から預けられた樹械心臓だった。


                 ◆


――だめでしょうおそらくなにもしらいやそんなわけがてがかりがあのおとこのやめしらないなんのはなしなのかまったくうそをつけきさまがきさまらが――


 縛り付けられた椅子の軋み、尋問官の罵声、体のあちこちで爆ぜる激痛。煮え滾る泥の中にいるような、息もできない苦痛に満たされる。

 夢だ、ただの悪夢だと己に言い聞かせながら、ジュイキンはそこから逃れることが出来ない。眠りの深淵は、彼を更に生々しい痛みへと誘っていく。


……五年前。師父が死に、勾留された一年間、ジュイキンはずっと監獄に居たわけではない。はっきりと覚えているのは最初の数ヶ月だけで、身に覚えのないことで鞭打たれる日々に、記憶は不鮮明になっていく。気がつくと医療施設に寝かせられていて、最低限の健康を取り戻すと、ようやく釈放された。


 明るい日差しの中、蜜柑の木に咲く白い花が、目に染みるほど眩しかったことが印象に残っている。申し訳程度の荷物を手に歩き出した時、道の向こうから迎えるようにやってきたのは、子猫と見まごうばかりの、小さな黒い猫だった。


「ミアキン。ただいま」


 師父の死以来、一年ぶりだというのに、あの猫はなーお、と親しげに鳴いて、差し出したジュイキンの手を舐めた。濡れた舌の感触、ふわふわとした毛皮、抱き上げるとあまりに軽く、それでいて命の重みを持つ体。

 ただ傍に居てくれる、それだけで、何かが許される気がした。訳も分からず責められ続けた時の終わりに、その存在はどれだけ救いだったことか。


「ん……」


 不意に、ミアキンが手を舐める感触が、鮮やかな触覚として精神に接続した。冷たい唾液に濡れる感覚と、ザラザラした舌の手触り。

 手を動かすと、そこには夢ではなく、本当に小さな黒い猫がいた。


 全身が粘土にでもなったように五感がボケて、自分が浮いているのか沈んでいるのかもよく分からない。それでも一秒ごとに世界がはっきり感じられて、たっぷり一分を経る頃には、ジュイキンは寝台でだらしなく横たわる自分を発見した。

 はみ出た片手に、ミアキンは頭をこすりつけている。なんとか手を動かして顎を撫でてやると、久しく聞いていなかった気がするゴロゴロ音がした。


「……おはよう、ジュイ」


 声をかけられるまで、ジュイキンは枕元に立つ者に気がつかなかった。だが体には、そのことを驚く余力すらない。自分でも意外なほど心は波打たず、澄んだ水に浸すように、兄がいる事実を受け容れていた。

 首を動かし、一ヶ月前も見たあの顔を見やる。


「おはよう……兄さん」


 考えてみれば当然だ、今になって少しずつ思い出してきているが、自分はグイェンにこの医院への道を指示していた。

 死ぬ前に未練を果たそうと思ったのか、こうして治療されるのを期待していたのか、自分でもよく分からないが、その両方が叶ってしまったらしい。

 生き返りたくはないが、死にたくもない。少なくとも、今はまだ。矛盾しているようだが、それがジュイキンの偽らざる本音だった。

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