第四話 獣は人の顔をして笑う

 鉄道業務を引退した車両基地は、今や現役の廃墟として、その荒廃を惜しむことなく陽光の下に晒していた。錆びつき、動かなくなった転車台は生い茂る雑草に埋もれ、レンガ造りの扇形車庫は、放置された樹車きしゃから伸びた枝葉に所々貫かれている。


 車庫の中に入れば、ある樹械はもぎとられて穴を残し、ある樹械は野生化して床に根付き、そこかしこにちぎれた配線の蔦がぶら下がっていた。

 降り積もった時そのものが疲弊したような廃屋の中、それでも注意深く嗅ぎ分ければ、朽ちた施設の中に人の息遣いを感じ取るだろう。

 その最奥に足を進めれば、死に物狂いの悲鳴が聞こえてくる。


「やめろ、頼む! 許してくれ!」


 繁茂する植物が刈り取られ、開けた場所。ひざまずく格好で数人に押さえつけられ、憔悴した傷顔の男が泣き叫んでいた。全員、足元に影が落ちていない。


「それは、そんなことだけは! 人間の死に方じゃねえ!」


 その様を悠然と見下ろしながら、妖気放つ妙齢の女、ロー・ジェンツァイは煙管きせるをふかす。ここは打神だしん翻天はんてんが有する隠れ家アジトの一つ、背信者弾劾の場だ。足元に影があるのは、彼女とお付きの少女だけ。


「いけないよ、ルイ(りゅう)。伝えたいことはもっと落ち着いた声で言わないと何をそんなに怖がっているんだい? 君は少し勘違いしているんじゃないかな?」


 ローの目配せを受けて、押さえつけ役がルイの口をこじ開け、無理やり上向かせる。妖女は咥えた煙管をぷっと吹き、火皿ひざらから飛ばした灰と火種をルイの口に落とした。ぎゃっと短い悲鳴が上がる。


 空になった煙管を付き人に渡して、ローは火傷に悶える男の頬に手を添えた。慰めるような、あるいは誘惑するような手つきで、男の強ばった表情を揉みほぐす。

 右頬から顎にかけて引きつったような傷痕が走るおもて、ルイは毒蠍にでも這われたように、ますます顔を歪める。


「君は死んだりなんかしないさ、ルイ。その魂は我らが同志の中で、形を変えて生き続ける。裏切り者への処断としては、中々に有情と思うのだけれど」

「……っは、嫌だぁ! 嫌だーっ! いっそ、ひと思いに殺してくれ――ッ!」


 男は身を捩ってローの手を振り払い、更なる悲鳴を振り絞った。彼女の目配せを受けて、ルイを押さえつけていた男たちが手を離す。


「ディーディー」


 黒タイツに包まれた形の良い脚が、舞うような回し蹴りで男を打ちすえた。付き人である彼女はローの護衛であり、なにくれとなく重宝されている。

 武功確かな者が見れば、それを放ったあどけない少女の体から、微かな歯車やバネの動きを感じ取っただろう。血反吐を吐いて転がる男に、ディーディーは追撃の踏みつけを行い、骨の折れる音を響き渡らせた。


「ひっ……ぎっ……! るし……ッ」

「お黙り下さいませ、ルイ様。これ以上の申し開きは不要の行いです」


 自動人形を依り代にすることで、失った肉体と寿命を補う、幽体化したニング。それがディーディーの正体だ。しかし、単なる人形ではこうはいかない。時間と共に意味情報は徐々に流出し、その場しのぎの延命措置にしかならないだろう。


 精巧な人形の体に霊性を付与し、ディーディーの幽体を定着させたのは、仙道たるローに他ならない。ロー・ジェンツァイ、またの名を螢霊けいれい玄君げんくん

 俗世に関わるべからずという道家どうかの禁を破り、世を騒がす堕落仙のたぐいだ。


「ディーディー、そろそろ煙管を返しておくれ」

「申し訳ありません、総舵主そうだしゅ。ただいま」


 呼ばれて少女は取って返し、握ったままの煙管に葉を詰め直して、恭しく差し出した。血まみれで痙攣する男は、構成員たちが車庫の外へ引っ立てていく。

 それとすれ違う形で、長身痩躯の影が入ってきた。


 そう、影だ――像身功ぞうしんこうは、何も八朶はちだしゅうの専売特許ではない。在野のニングにも似たような技術は伝承されているが、その男の功夫クンフーは高い完成度を持っていた。


 肩で風を切るだけで、空気を焦がす威圧感。炎を重い泥に変えたような、深く沈み込んだ熱を全身にたたえている。その熱さは、男の中に渦巻く情熱と執着が発するものだ。冷えた溶岩の静けさを装いながら、すべてを焼き尽くす時を待つ。


「シャン様、お帰りなさいませ」


 ディーディーが瀟洒しょうしゃな最敬礼で男を迎えた。裏切り者を踏みつけた血生臭さとは別人の、完璧に教育された女僕メイドの風格だ。

 一方のローは、喜色を浮かべ、声を弾ませながら腕を広げて歓迎した。


「お帰り、我が愛しのつるぎ。もう少しで私の心は、寂寥じゃくりょうのあまり穴が開いてしまうところだったよ。早い帰りで嬉しいが、呼んでくれればすぐ迎えに行ったのに!」

「いや、これでちょうどいい。見苦しい場面も終わったようだからな」


 男は打神翻天所属の剣客、シャン・スーバン(そう錫堂しゃくどう)。媽京まきょうから南西に七〇公里キロメートルほど離れた、別の特別行政区・笛津てきしんへの出向を終えた所だった。


「それより、移植対象レシピエントの件だ。良い知らせが聞けると思っていたんだが」


 恐縮したように瞑目しながら、ディーディーが口を挟んだ。


「差し出がましいようですが、その件はわたくしにとっても懸念事項です。いえ、移植対象レシピエントではなく、執行者の方が、ですが」


 打神翻天にとって重要な手術の期日が迫っている。

 だが、その執刀医を任されたチ・フージュンという男は、彼らと同じニングではなく、人間なのだ。彼女以外にも、それを気にしている者はいる。

 その不安を把握していないローではない。


「一つめ、候補選びは悩ましかったが、やはり移植対象レシピエントはスーバン、君だよ。我ら打神翻天は、君に悲願と運命を託す」

「悪くないな、ジェニィ。……あれは、どこに預けてある?」

「彼の所で保管してもらっているよ。使鬼も渡してあるから、当面は心配いらない」

 

 そうか、と頷いて、スーバンは固く握りしめていた拳を開いた。


「二つめ、師傅ミスターは大学を二年飛び級で卒業した天才外科医だ、経験は多少浅いが、腕前に問題がないことは我々もよく知っているだろう?」


 数年前から、フージュンは打神翻天構成員の治療を請け負っていた。スーバン自身も、一度ならず世話になっている。今はしがない町医者をやっているが、そうなったのも、身内にニングを出した経歴で医局長の不興を買ったためだ。


「そして、彼は贖罪者だ。ニングを救いたいと願い、そのためには一命をも賭す心構えでいる。我ら打神翻天にとって、そのような人間の協力者は得難いものだよ。無用な疑いをかけて、排除する理由はどこにもない」

「総舵主がかように信用なさるのであれば、わたくしめからは、これ以上申し上げることはございません。重ね重ね、差し出がましきをお許し下さい」


 一歩下がって深々と頭を下げるディーディーに、ローはおおらかに手を振って見せた。気にするな、という仕草だ。


「スーバン、君もいいね? 本日のわずらいごとはこれにて終わり、後はゆっくり、みやげ話を聞かせておくれ。明日は明日の仕事があるのだから」

「次はなんだ?」


 煙管を吸いかけた口を不機嫌に曲げ、ローは子どものように露骨な表情を作った。


「こう見えて俺は繊細なんだ。今日のわずらいごとをすべて流すためにも、明日の予定ぐらいは控えさせてもらおう」


 仕方ないなあと苦笑して、ローは答える。


「我らがパトロン殿が、とうとう当局に目を付けられた。今別の者が準備をしているから、君には明日、彼がえんを脱出するまで護衛して欲しい。これでいいかい?」


 スーバンはローの肩を掴んで引き寄せると、自分の腕に腰掛けさせる形で抱き上げた。妖女仙は少女のような嬌声を上げて、男の首にかじりつく。


「いいだろう、お前の剣だからな。後は憂いなく、今日を楽しむとしよう」


 歩き出した男に、生き人形の少女が追従する。

 鉄道車庫を後にすると、外の陽は傾げかけて黄色い。二人の女が見ていなかった一瞬、スーバンの瞳は照準器を透かし見るように、冷徹で不穏な光を放った。


                 ◆


 スー・グイェンと組まされて一ヶ月――その知らせを受けた時、ついに来たかとジュイキンは感慨を覚えた。まっすぐに相棒の部屋へと向かう。


「グイェン、少し話がある。入っていいか?」

「いいよ~」


 確認を取って部屋のドアを開けると、寝台で長く伸びている黒猫と、床に座ってそれをスケッチする茶色い頭が見えた。


 グイェンの部屋は、乱雑に色彩がひしめく混沌だ。置いてある家具自体はジュイキンの部屋と変わらないが、あちこちが貼紙シール張貼物ステッカーにまみれ、床には積まれた漫画本の山、机には作りかけの拼板玩具ジグソーパズル塑料模型プラモデルの飛行機、おもちゃの銃、サボテンの鉢と南国風盆栽(ヤシの木)などなどであふれている。


 こうした趣味の私物に、新しく加わったのが写生帳スケッチブックだ。

 初めて会った日、勝手に中身を見たジュイキンの絵に感銘を受けたのか、時折見よう見まねで描いているらしい。後ろから覗き込むと、大幅に平衡バランスがおかしいが、辛うじて猫と分かる線画が出来つつあった。


「なんかさあ、中々ジュンちゃんみたいには描けないんだよねえ」

「私の絵のことは忘れろ」


 苦々しくジュイキンは顔をしかめた。頬が少し熱い。


「なんで? 勝手に見たことは悪かったけどさ、漫画みたいに丸っこくて可愛かったよ。今度お師さまにも見せていい?」

「ならん」ぴしゃりと。

「えー」心底不満そうに。


 先日、突如ルー家に押しかけたリュイ・ショウキアは、一泊二日した後、来た時と同じく唐突に帰っていった。


「それより、本題だ。公教こうきょうきょくからの指令が届いた、絵は後にしろ」


 グイェンは素直にえんぴつを置き、寝台のミアキンから、入り口側のジュイキンに向き直った。リュイから帰る前に渡された短袖運動衫Tシャツを着ている。


 大閻帝国のうち、神灵カミに関わることを統括するのが神霊庁しんれいちょう、その下の公教局が八朶宗と政府の窓口になっている。

 ニングを狩る兒訝じが猟客りょうかく、その内実はこれだ。国内の不穏分子や、皇帝にとって不都合なものに、魂無き真の死を与える刃。


――ナル・チャオライ(こう暁台ぎょうだい)を始末せよ。


 指令には、標的がいつどこそこを通るから、その際に実行せよという指示が載っているだけで、なぜ、何のためにという情報は一切ない。

 グイェンの夢はかなわないだろう、とジュイキンは考える。所詮、猟客は救うより殺すが多い生業だ。あるいは、それを承知であんな夢を語ったのだろうか。……そこまでバカなのか? 百八人の命など、百年かかっても救えない。


「グイェン、今度の標的は、ニングではない。人を殺してる訳でも、おそらくない。それでも、殺せと言われることにお前は納得がいくか?」

「そんなの、分かんないよ。オレには分かんない」


 答える幼い瞳には、透徹とした光があった。思考を放棄した者の眼ではない。その眼差しにきつく瞼を下ろし、グイェンは顔の中心にシワを寄せ、腕組みする。


「その……難しいけど、きっと、オレみたいなのがちょっと考えただけじゃどうにもなんないような、ゴチャゴチャしたことがあって、でも、八朶宗は、そうしなくちゃいけないんだ。……ってことだけ、分かる」


 あたふたと、もどかしげに腕を崩したり、組み直したり、頭を掻いたり、振ったりしながら、グイェンはその言葉を絞り出した。


「だから、やるよ、オレは」


 自分の両掌を見つめながら、握りしめて、顔を上げる。


「多分、同じなんだ。悪い人じゃないかもしれない人を、殺さなくちゃいけないことと、オレみたいなのが今でも生きてることと」

「どういう意味だ、それは?」


 グイェンの言葉を咀嚼していたジュイキンは、思わず訊ねた。


「だって、一つのことに」手で箱を作る手勢ジェスチャー

「良いものと」右に置き。

「悪いものが」左に置き。

「一緒に存在してるんだ」両手を打ち合わせる。

「へんてこだけど、世の中じゃ」首をぐるぐると回し。

「俺みたいなのは、とびっきりへんてこらしいからさ」頭の後ろを掻く。

「そこにいるなら、いいんだって、認めてほしいもんね」へへ、と笑った。

 

 寝転がっていたミアキンが身を起こし、背を丸めて伸びをする。


 グイェンの言い分は今ひとつ分からないが、同時に、ジュイキンにはどことなく分かるような気もした。このバカはバカなりに、八朶宗の正しさを、必然を、必要性を信じているのだろう。では自分はどうか? 決まっている、八朶宗は必要悪であり、自分はそれを担う裁断機だ。言われたものを、ただ殺すだけ。


 そう思いながら、ジュイキンは足元にすり寄ってきた猫を、無意識に抱き上げていた。血濡れた手にも等しく与えられる、温かくふにゃふにゃした、命の重み。


「分かった、グイェン。仕事は今夜だ、準備を始めるぞ」


 相棒の肩を叩き、「頼りにしているからな」と言って、ジュイキンは退出した。


                 ◆


 東洋と西洋が出会う町、媽京。大閻帝国とは全く異なる雰囲気の保養地リゾートは、数多の観光産業が覇を競って群雄割拠を繰り広げる。

 もし、その中で第一号ナンバーワンを選ぶとすれば、老舗の名店『媽京珠華酒店ホテル・パールピーク』だ。併設された大賭場カジノも古くから名が知られており、媽京大賭場カジノの代名詞と言えるだろう。

 格調高く、色褪せない内装の酒店ホテルと、意外に緩い服装規定ドレスコード博戯ゲームを楽しめる大衆的な大賭場カジノは、今も昔も愛されている。


 夜空に映えるきらびやかな二十三階建ての塔から、密やかに出ていくホテル客あり。屈強な体格の男二人を従えた青年実業家、ナル・チャオライ。彼は媽京の港から大閻を脱出するため、昨夜からここに泊まり込んでいた。

 足早に降りる階段の下、暗い色の背広姿でシャン・スーバンが彼を待ち構えている。携えた倭刀わとうを隠そうともしていない。


 ナルに軽く会釈し、彼は蒸気自動車の扉を開けた。

 自動木馬が牽引する馬車は、生きた馬のそれに比べて快適な乗り心地を保証するが、代わりに一定以上の速さを出すことが出来ない。速度と快適さを両立させるため、ナルは大枚をはたいて高級車を用意させていた。


 かつて、木炭と歯車で動力を得ていた蒸気樹関と、現代のそれは大きく形を異にする。晶体樹から作られる星炭せいたん、次元歯車、そして電磁蒸気の三つが揃った発動機エンジンは、直径四五から七五センチほどの筒付き金属球になる。

 火が入ると金属球は回転を始め、筒先から青白く輝く煙を吐き出した。車内は運転席とは仕切りがあり、広々としたくつろげる空間となっている。


「まったくついてないな、私は。せっかくこの事業が次の段階へ進むというところだったのに。そうは思わないかね?」


 隣り合って座るスーバンに、ナルは親しげに話しかけた。


「生憎と、あんたの話し相手は俺の仕事じゃない」


 取り付く島もない返事を、むしろ面白そうにナルは聞いた。スーバンが抱えている倭刀に、物珍しげな視線を向ける。


「無愛想な男だな、君は。その剣、見せてもらっても?」


 ナルは刃物で喉を撫でられる錯覚を覚えた。次いで、肋骨を風が吹き抜けていく心細さと悪寒に、心臓が止まりそうになる。一拍遅れて、自身がスーバンの黒い瞳に射すくめられたことを理解した。自分の唾を飲む音が、やけによく聞こえる。


 静まり返った車内をよそに、不夜の町は変わらぬ喧騒に満ちていた。コド・ル・ガル統治時代に作られた聖ユーノウス教会と、教会前広場を通り抜け、燐海街りんかいがいへ。


 賭場カジノに飽きた観光客や、地元住民が集まる酒肆クラブ酒吧バーが揃った大路ストリート。今日はこの時刻にしては少々通行人が少ないが、霓虹燈ネオンのきらめきを冠のように戴いた雑踏は、享楽の鮮度が減ったようにも見えない。

 交差点で信号に捕まり、ナルは何気なく車窓の外を眺めた。雨の夜でもないのに、赤い唐傘を差した男が目の端に引っかかる。しかし、ラリったバカ者がごろごろしている土地柄だ、ナルはすぐ興味を失って、車内に視線を戻した。


 信号が変わり、車が動き出しかけた、その時だ。

 スーバンが不意にナルの方を、いやそちら側の窓を見る。つられて外を見ようとして、ナルもその奇妙な雄叫びに気づいた。


「――だー……らぁああああああっしゃああ!!」


 窓の向こういっぱいに広がる赤い唐傘が、車体を弾き飛ばした。空中を二回転、三回転し、地に落ちて半ばから真っ二つに折れ、ぐしゃりと潰れる。


「討ち取ったりぃ!」


 開いたままの傘をくるりと回し、僧衣姿のグイェンは大見得を切った。その一歩後ろには、彼が震脚の踏み込みで作ったへこみが、深々と路面に穿たれている。

 内力で強化された傘を背負う形でぶつけた、強烈なこう(体当たり)。相手の車は自卸卡車ダンプカーに轢かれたようなものだ。中では、運転手と護衛が苦痛に呻いていた。


 だが、その周囲には野次馬が集まるどころか、誰も反応せず、夜を楽しんでいる。なぜならば――この区画にいる通行人も、店舗従業員も、全員が無缺環むけつかんだからだ。

 あらかじめ一般人を排除し、指令によって制御された元ニングたちを配置しての大規模封鎖域。こうした暗殺のための偽装区画を、八朶宗は常に複数用意していた。今夜の指令が来るまで、ジュイキンらもどこがそれとは知らない。


「派手なことをする。相変わらず八朶宗というのは、贅沢で羨ましい限りだ」


 上から声が降ってきて、グイェンは飛び上がりそうになった。見上げれば、信号機の上に、会社員風の男を小脇に抱えた剣士がいる。衝突の瞬間、ナルを連れて脱出したシャン・スーバンであった。グイェンは興味津々に目を丸くする。


「うっわ、なんかあんた、強そう」

「そうだろう。温かい寝床が良ければ帰るがいい、猪突ちょとつ

「よくわかんないけど、オレ仕事だからダメ!」


 ぶんぶんと畳んだ傘を振り回して答えると、スーバンは信号機の上に立ったまま声を上げて笑った。それから真後ろに跳び、道路に降り立つ。


「行け、港を目指せ」


 軽く背中を押され、腰が引けながらナルは頷いた。言われた通りにしなければ、八朶宗の刺客より先に、護衛のはずのスーバンに殺されそうな気がしている。


「言われなくても……!」


 走り出しかけたつま先、上等な革靴を貫いて何かが突き刺さる。ぎゃっと悲鳴を上げて、ナルは前のめりに転んだ。半ばに鉄の環が付いた、短く尖った金属棒。

 振り返るスーバンに、グイェンが畳んだ傘で殴り掛かる。


「そのまま奴を止めておけ!」


 両手にはめた指環を支点に峨嵋刺を回しながら、ナルの前にジュイキンが現れた。仕事が終わるまで警察も救急車も来ない、一般人が迷い込みそうならば、区画の入り口で担当の者がさり気なく追い返す。だが、時間制限つきだ。


「案ずるな、紳士。苦しまぬよう済ませる」


 そんな言葉を素直に聞く奴があるかと自分でも思うが、ナルももちろん抵抗した。懐から紙片を取り出し、破り捨てる。霊符、そして使鬼の発動だ!


――吼!


 ネコ科の肉食獣に似た音声が耳と体を圧する。

 ジュイキンは怯まず腰を落とし、峨嵋刺の棒の部分で拳を守った。右の拳打で前足のようなものをいなし、踏み込み、顎に掌底打と共にくるりと位置を変えた峨嵋刺の先端を打ち込む。透明なのけぞる頭、眼とおぼしき場所に反対側の手から峨嵋刺を叩き込むと、たまりかねて半人半獣の使鬼は霧散して消えた。


 充分に内功を練らなければ、打撃を通すのも難しい相手に、確かな技の冴えを見せる鮮やかな手並みである。伊達にルンガオ・シャウの弟子ではないのだ。


 グイェンと打ち合いながら、スーバンは感心したように「ほう」という声を漏らした。目の前の若い猟客は、内力や膂力には優れるが、套路とうろ(型、構え)がさほど練られていない。それに実戦慣れしていないのか、やや及び腰だ。

 総合して評せば、弱敵と言っていい。――だが逆に、このまま充分に練度が上がれば、とてつもない脅威になるということだ。


 しばらくの間は、使鬼が時間を稼ぐだろう。その間に、この若虎をどうしても仕留めたいと思っていた。だが、あちらの刺客があっさりと霊体を討ち取るとなると、さすがに護衛対象の保護を優先せねばならない。面倒な仕事だ、と歯噛みする。


「これで三つ」


 ナルが這いずりながら繰り出す使鬼を討ち取って、ジュイキンは呟いた。霊符が後どれだけあるかは知らないが、中々大事にされているようだ。それももう終わる。


「お覚悟を」


 せめてもの手向けに呟いて、ジュイキンはナル・チャオライの胸を峨嵋刺で貫いた。狙いあやまたず、尖った短い金属棒は、心の臓に突き刺さる。

 そのはずだった。

 ごぼりと、ナルの体内から何かが浮かび上がり、峨嵋刺を押しのける。


――ひぃ――ぁぁぁぁぁああっ!――


 透明だが、辛うじて見えた姿は顔に傷のある若い男。それが鋭い悲鳴を上げて弾け飛ぶ。後には、呆然とした顔でいまだ存命のナル・チャオライ。


たい死鬼しきだと!? そんなバカな!)


 それは幽体化したニングを人間の体に押し込め、手傷を代わりに負わせる禁断の術法。消滅寸前とはいえ、人体に人間を封じ込めるのはかなりの無理があり、また、いかな霊識をもってしても、長時間留めておくのは厳しい。

 国家の要人ならまだしも、単なる実業家風情のナルになぜこんなものが?


 目を疑い、困惑するジュイキンの背後わずか五公尺メートル後ろ、グイェンの腕を押さえ込んで封じたスーバンがそれを見ていた。もがくグイェンの唐傘が、振り上げかけた倭刀を半ばから叩き折る。霓虹燈ネオンを照り返してきらきらと散る、その最も大きな破片をスーバンはつかみ取った。気合一閃の投擲。


「……かっ!?」


 意味不明な声が己の喉から落ちるのを聞いて、ジュイキンは自分の体を見下ろした。胸元から、濡れた鋭い切っ先が生えている。


 すべては一瞬の内だった。ジュイキンがナルの心臓を穿ち、替死鬼が弾けると同時にグイェンが倭刀を折り、刀身片をスーバンが掴んで投げるまで、二、三秒もない。

 体の中で、割れた心臓は死にかけた魚の口に似て、惨めに脈を打っていた。だが求める酸素は、血は、いたずらにこぼれるばかり。体の外にあってはならないものが、体の中からぼたぼたと無残に撒き散らされる。


 自身が作った血の海に、ジュイキンは膝をついて崩れ落ちた。

 目の前が暗く、春の宵にしてはひどく寒い。

 死ぬんだな、という理解が、妙にあっけなく胃の腑に落ちていた。内臓に虚ろな実感が染み渡り、蝕み、温かなものすべてを燃えかすのように変えていく。


 これが自分の人生か。いい夢だった。猫以外で初めて出来た友達と、もう少し一緒に居たかったし、兄とも話したかった。ミアキンも撫でたい。暗い海の底に沈んでいく只中に、思い出と望みばかりが泡のように沸いてくる。

 こうして覚めない夢に引きずり込まれるのか、永眠とは、そういうことだろう。


「ジュンちゃん!」


(だからジュンちゃんと呼ぶな、バカ者。仕事中だぞ)


 相棒の声に文句を言いながら、ジュイキンは意識を手放した。

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