第三話 善悪、陰陽、吉凶相克

 眠らぬ不夜の町も、夜明け前にはまどろみの空白がある。ひっそりと朝日を待つ静寂しじまを破るのは、漁業ぎょぎょう飛空艇ひくうていの発進だ。

 目指すは媽京まきょう上空に現れた怪魚の群れ。金属的に光る長い体に、鋭く長大な牙が怪忌的グロテスクな姿は、深海魚のホウライエソによく似ている。気球バルーンの下、コバンザメのように貼り付いた船体は、真新しい陽光を浴びる魚群に網を投げかけていった。


 二十年ほど前に普及した火力かりょく樹霊じゅれい発電はつでんは、鉱物と植物の特徴を合わせ持った晶体樹しょうたいじゅの炭を使って膨大な電力を供給するが、代わりに大きな煙害を出した。


 対処法として都市部上空に放たれたのが、火山の噴煙や灰を食す宙遊魚の一種・灰魚ツイグーだ。近年では技術改良で煙害も少なくなったが、困ったのは餌のなくなった灰魚ツイグーたちである。腹を好かせた彼らは低空まで降りてきて、電磁蒸気を吐き出す樹車きしゃに群がり、哀れ車体は脱線、転倒、死屍累々の大炎上……。


 かくして、帝国政府は漁獲高に応じた報奨金を出して、灰魚ツイグー漁を推奨した。しかし捕らえた所で食用には適さず、薬用にも微妙となれば、ほぼ殺すしか無い。本来の生息域に返す慈善団体もいるにはいるが、人類の身勝手さ極まる光景であった。


 遠くその眺めを望みながら、フージュンは寝室の窓を開け放つ。まだひんやりとした朝の空気に、新鮮な花の香りがかすかに混じっていた。もう少し時間が経てば、動き出した町が生々しい雑味のある匂いを吐き出すだろう。


 身支度を整え、朝食をとり、仕事の準備をしながらも、現実感を押しのけて昨夜のことが脳裏をよぎる。己が犯した罪の記憶。

 忘れていたわけではない、無かったことにしようとしたわけじゃない。ただ、弟の面影を持ったあの青年に、胸の痛みが酷く鮮明によみがえらされた。


 不意に玄関門鈴チャイムが鳴る。

 診療時間にはまだ早い、どころか従業員の出勤時間ですらない。首を捻りながらも、物思いを打ち切られたことに、フージュンはどこか安堵を覚えていた。

 慌ただしく上着を羽織りながら、軋みがちな螺旋階段を下り、広くもない大庁ホールを抜ける。観音開きの玄関扉は、錬条鎖チェーンロックをつけたままだ。


「こちら診療時間外です。医師個人に御用なら、裏の入口から……」


 細く開けた隙間から向こうを伺うと、そこには二人の女が居た。上司とそのお付きという雰囲気で、特に格上らしき方は妖しく異彩を放つ。


「おはよう、師傅ミスターチ・フージュン。朝もまだ早いから、夢の続きを話したくてやって来ました。我が夢の同志、おともだち、もてなしておくれ」


 濃紺の羽織と小袖を纏う、鏈条チェーンつき眼鏡の女が言った。平べったい円筒形の帽子をかぶり、山羊に似た小さな髑髏どくろ垂飾ペンダントをはじめ、様々な神秘的宝飾品に埋もれている。俗世を遠く離れたその風情は、占い師か宗教家を思わせた。


 背後で荷物を手に付き従うのは、まだ少女と言っていいあどけなさを残した女だ。固く冷たい表情とは裏腹に、華やかな装いをしている。

 大閻だいえん伝統風の紅い連衣旗袍ワンピース姿で、深く切れ目の入った裾を裙撑パニエでふわりと広げていた。裙子スカートの裾は短いが、黒緊身衣タイツと長手袋で防御は固い。


「本日お邪魔する、と連絡を入れておりました〝はん〟の者ですが、届いてますでしょうか? 時間帯は申し上げておりませんでしたが、ご容赦下さい」


 息を飲み、言葉を飲み、フージュンは素早く二人を院内に招き入れた。

 扉を閉める前に、さっと通りを見回して、出歩いてる者、こちらを見てる者がいないか確かめる。幸いこの時間、まだ人通りはない。

 安堵しながら、フージュンは奥の応接間、兼食堂まで二人を案内した。こつこつと小気味よく高統靴ブーツを鳴らし、眼鏡の女は優雅について行く。


 ニング反動集団テロリスト打神翻天だしんはんてん〟首魁ロー・ジェンツァイ(りく天斎てんさい)。

 それが、この女の名だ。


 木格子の引き戸を開けると、質素な空間が広がる。家具はどれも華美ではないが、使い込まれた年月の深みと、主人の慎みを感じさせるようだ。

 ローは勧められた長椅子に深く腰掛け、少女はその背後で直立不動の姿勢を取る。茶を用意しようとしたフージュンは、ローから手で制され、落ち着かなさげに食堂の丸卓子テーブルを囲んだ。二、三度乾いた唇を湿らせてから、口を開く。


総舵主そうだしゅ自らお越し下さるとは思いませんでした」

「大事なものを預けるんだ、このぐらいは当然じゃないか。ディーディー(鈿々てんてん)」


 名を呼ばれ、少女が荷物から長方形の包みを取り出した。紫の袱紗ふくさを解き、桐箱から金属製の円筒を取り出す。

 表面に記された『万神ばんしん万死ばんし天猟てんりょう心母しんぼ』の文字に、フージュンの目が光った。世界の皮が一枚剥がされたような、清澄クリアな感覚。一瞬、弟の幻影が目の端によぎり、また流れ去っていく。金属筒を受け取る手は、かすかに震えていた。


移植対象レシピエントはまだ選定中だが、それまでの保管は任せたよ。聞いていると思うが、この手術は君の担当だ。腕前に期待しているよ、天才外科医くん」


 ええ、とかはい、とか曖昧な返事をして、フージュンは手の中の円筒を見つめた。ローはその様に気を悪くした風でもなく、にこやかな顔でくつろいでいる。


「ここまで来るのに多くの犠牲を支払ってきた。けれど積み重ねた屍の数だけ、高みにも手が届く。我らが天をる時だ、おともだち。おっと、気が早いかな?」


 ローはそれから、思い出したように三枚の紙片を卓子テーブルに置いた。差し出す手に光る紫のつけ爪は、どこか蠍の毒針に似ている。


「念のため、これも渡しておこう。ディーディーがいれば問題ないが、この子は私の護衛だからね。危険が迫ったら破るといい、目の前の脅威を自動的に攻撃する」

使鬼しき……ですか」


 朱で呪術的紋様が描かれたそれを前に、フージュンは手を伸ばせなかった。

 寿命をすり減らしたニングは、やがて物理的な形を失って幽体化する。こうなると消滅まで幾ばくもないが、そうしたニングを捕らえ、呪で縛って封印したのが蔵魂器や霊符だ。霊符を破ることで解放され、あらかじめ仕込まれた命令を実行するニングは、自我も記憶も人間性もない、ただの精気エネルギーの塊だった。


「……素体となった方は、どこから?」

「聞いてどうするのかね? 使えるものは使う。ニングは我らの同胞だが、すべてと仲睦まじいわけではないよ。我らの敵は多い。君は違うのかい、おともだち」


 心なしか、ローの背後からディーディーが睨みつけている気がした。拒むならば、打神翻天は円筒を引き下げてしまうかもしれない。


(……ここで迷ってどうする、チ・フージュン。後戻りや逃げ道なんて、考えるだけ無駄だ。それじゃいつまで経っても、僕は僕のしたことをあがなえない。時計の針を進めるんだ、未来へ、もっといい明日へ)


 フージュンは霊符を受け取った。ニングならぬ人間の身で彼らに協力した時から、綺麗事などやめると決めたはずだ。己にそう言い聞かせながら、やましさが胸を掻きむしる。もし、弟がまだ生きていて、顔を合わせることがあるのなら。


――その時、自分はもう一度胸を張って、兄だと名乗れるのだろうか。


                 ◆


 血の匂いは命の匂い、生きたいという悲痛な叫びが、空間にこびりついて鼻先に香る。自分がつけた傷口から意味情報が流出し、体に、魂に取り込まれているのが分かった。これなら、どこまででも追っていけるだろう。


「たっ、助け、助けて、たっけ、て!」


 血染めの開領短袖襯衫ポロシャツを着た男が、幼い娘を背負って必死に駆ける。あたりは人が住んでるのかも怪しい、おんぼろ集合住宅の一画だ。背中を濡らしていた血潮から、段々と温もりが失われていることが、父親には何よりの恐怖だった。

 男はただ近道をしようと、いつもと違う角を一つ曲がっただけだ。

 そこを、彼が見つけた。


 娘だけなら、久しぶりの襲いやすそうな獲物だろう。父親が傍に居ることに躊躇はあったが、もうずいぶんと寿命の近くなった彼には、選択の余地がなかった。

 陽光の下、彼の足元には影が落ちない。それどころか、その姿は時折歪み、間断なく像がブレる。形を失って幽体と化すまで時間がない。


 彼は手斧から滴った新鮮な血を舐めた。一度に二人も殺してしまえば、それだけ自分の命が繋がる。まだもう少しは、人として生きられる。今こうして、何の恨みもない赤の他人を追いかける様が、どれだけ怪物に見えたとしても。


「オレハァァア! 人間ダァァアア!」


 濁った叫びをほとばしらせるのは、獲物の前方、迫ってくる黒衣の影が見えたから。ニングになる前に見たことのある、その姿。八朶宗の兒訝じが猟客りょうかく


 斧を振り上げた手に、鋭く固い何かが突き刺さった。不思議と手は強ばったまま、それを離すこと無く振り下ろす。目の前の猟客は、唐傘を開いて重い一撃を受け止めた。紙と木で出来ているはずの頼りない盾は、ぼよん、と妙に弾力のある手応えで攻撃に耐える。呆けた隙に傘は閉じられ、槍のような突きを見舞われた。


「お……れ、は……」


 大きくのけぞった体、がら空きになった喉に、飛来した峨嵋刺が突き刺さる。絶命したニングは、文字通り崩れ落ち、蒸発し、自らの最後の姿を影として焼き付けた。

 その様子を確認して、唐傘を手にしたスー・グイェンは「ふぃー」と息を吐く。

 グイェンの武器は傘だ、紙と骨に加工されてなお生きる植物は、彼の内力を受けて鋼よりも硬く、鋭く変質する。その一撃は大岩だろうと真っ二つにするだろう。


「ジュンちゃーん! 終わっ……はびしっ!?」


 先端をなまらせた峨嵋刺が額に命中し、グイェンはもんどり打って悶絶した。


師叔ししゅくと呼べ、このたわけ」


 師叔とは、師弟関係を血縁関係に見立てた場合の、叔父にあたる立ち位置だ。グイェンはジュイキンの姉弟子・リュイの弟子なので、この呼び方になる。

 もう逃げなくても良いのだと理解した父子がへたり込む前方、滲み出るように、どこからともなくジュイキンは姿を現した。


「師叔とか呼びづらいし……ジュイジュイは嫌だって言うし……」

「まだ息があったのかお前」


 父子を通り過ぎて、うずくまっているグイェンの背中を踏みながら、ジュイキンは振り返った。気配でどことなく分かる、この二人は命に別状はないが、魂は異状を来たしている――ニング化だ。


「私たちは、助からんのですねえ」


 父親は、察したように穏やかな微笑を作ったが、無理をしているのが分かった。背中の娘はまだ意識がないようだが、早く手当も済まさなければならない。


「いいえ。我ら八朶はちだしゅうはニングを救い、導き、人と共存するのが目的です。霊母れいぼ猊下げいかに帰依し、欠けた魂同士を繋ぎ合わせる〝無缺環むけつかん〟の一員になれば、あなた方の魂は補完され、ほぼ普通の人間と変わりなく暮らしていけることでしょう」


 父親はすぐには信じられないようだったが、無理もなかった。無缺環の存在は、常人にはほとんど知らされていない。元ニングという経歴が知られれば暮らしづらいというのもそうだが、八朶宗の情報網という側面からして、重要機密の一つなのだ。

 だから、世間的にはニングになれば終わりという印象が強い。


 猟客の補助を行う僧侶たちの手を借りて、手当と説明を行う内に、父親はようやく無缺環の存在を信じた。目を覚ました娘ともども、安堵と歓喜に涙ぐんで喜び合う。その様を、ジュイキンは冷たく乾いた気持ちで見た。


 八朶宗に所属したニングが最初に課せられるのは、像身功の習得だ。その練度次第で、僧侶や猟客への道を選べるが、「使い物にならない」と判断されれば、選択の余地なく無缺環に組み込まれる。


 娘はまだ幼い、数年かけて強制的に修行を受けさせられるだろう。だが、父親はどうか。もし適性がなければ引き離され、環の一員になってしまえば、後は娘を恋しく思う情は消える。なんなら、娘が居たという記憶さえも。


「へへ、人助け、いいよね。今日は一人しか助けらんなかったけど」


 額にでかでかとアザをつけながら、グイェンは上機嫌だった。僧衣を一枚脱げば、下は絶望的にしわくちゃの背広姿。

 相変わらず風雪大衣パーカー姿のジュイキンは、数が合わないので首を傾げる。何かおかしなことを言っているなら、額に追い打ちのデコピンをかます用意はした。


「……娘の方は死んだのか? そこまで深い傷と思わなかったが」

「ん? 違うよ、死んだのは、あのニングじゃん。二人助けて、一人死んだから、にー引くいちは、いち、でしょ」


 デコピンを用意した手を下ろし、ジュイキンはまじまじとグイェンの顔を見た。組まされてから一ヶ月、とことん駄犬としか言いようのない男だが、誠実ではある。


「お前は、あのニングも助けたかった、と?」

「それはオレも無理だと思う」きっぱり。「でもさ、命を助けたいのに、命を殺してたら、そりゃ差し引きゼロにするしかないよね」

「それは……」


 なぜか目がむずむずして、ジュイキンは不意に視線を逸した。


「だってオレは、十魂じゅっこん十神じゅっしんだよ、ジュンちゃん。百八つの命に責任があるから、百八つの命を助けるまでは、死ねないし負けらんない」


 視界の隅で、グイェンが輝かんばかりの微笑みを浮かべているのが分かった。ああ、自分はこれが眩しくて、目を逸らしてしまったのだとジュイキンは思い知る。


 五年前、ある道士の討伐令が、帝国政府から八朶宗に下された。

 その道士は外道に堕ち、百八人の幼児を殺害、その魂を一つの胎児に集めて、常人の何倍もの霊魂を備えた超人を生み出した。それが、十魂十神だ。


 討伐隊は道士を処刑し、残された実験体の赤ん坊は霊的れいてき畸形きけいであるとされ、八朶宗預かりになった。その子は常人の倍の速度で歳を取り、いまやご覧の有様だ。


 百八人の子どもを殺したのは、グイェンではない。彼が死んだところで、生贄にされた子どもたちが戻るわけでもない。わずか八年の人生で、グイェンは己の呪わしい出生に、そんな形で答えを出していた。


「……せいぜい頑張ってみるがいいさ」

「うん!」


 そっけない言葉に、嬉しそうに頷くグイェンは、尻尾を振る犬のようだ。ジュイキンは胸に細い鋼線を通されて、締め付けられるような苦しさを覚えた。


 二人連れ立ってルー家に戻ると、真っ赤な短外套ジャケットを羽織ったリュイが、中庭ですっかり出来上がっていた。今日やってくるなどという連絡は受けていない。ルー家の女性に給仕させながら、挨拶代わりに大啤酒杯ビールジョッキを高々と掲げる。


「おお、お勤めご苦労さん! どうだグーグー、きりきり働いとるか?」

「お師さま!」

「師姉!?」


 グイェンはまっすぐ突っ込んでいくと、リュイのたわわな胸に飛び込み、足で胴をがっちりと捕まえた。谷間に顔を埋めてハスハスしている弟子に、リュイは「はっはっはっは」と鷹揚に笑いながら、大啤酒杯ジョッキの中身をあおっている。


「ルー婦人、おかわり!」

「はいです」


 などと大啤酒杯ジョッキを渡す余裕まである。

 仲のよろしいことで、とジュイキンが肩をすくめるのと、リュイがグイェンを引き剥がし、上鉤拳アッパーカットでぶっ飛ばすのは同時だった。


「盛りのついた犬じゃあるまいし、変わっとらんなあこのバカ弟子は! いくら中身は子どもでも、図体を考えろ図体を!」

「見事な拳の切れです、師姉」


 取り澄ました顔でジュイキンは賞賛した。

 実際いい一撃だったのか、グイェンは中庭でのびたまま動かない。後頭部を彩磚タイルで打っているが、基本的にやたら頑丈な男なので、まあ大丈夫だろう。ルー婦人だけは心配そうに見ているが、放って置いてくれていい、と伝える。


「そら、師弟。お前も一杯付き合え」


 真っ昼間といえど、目上にそう言われては断るわけにもいかない。

 長椅ベンチに座ったジュイキンの膝に、奥から出てきた黒猫が、さも当然のように乗る。最近、ミアキンの体重がますます増えたようだ。


(そういえば、啤酒ビールも久しぶりだな)


 心地良い苦味と泡が舌の上で踊り、幻のように喉へ消えていくのは実に爽快感がある。香ばしく炒ったスイカの種をつまみに、数献の杯を重ねる内に、寝息が聞こえてきた。ひっくり返ったグイェンが、そのまま寝に入ったらしい。


「……どこまで神経が図太いんでしょうな」

「昔、仕置きで縛って木に吊るした時も、その姿勢のまま寝始めたからなあ、あいつは。まあ乱暴に扱ってもへこまないってのは、あたしのような粗忽者そこつものには助かる」


 ジュイキンは苦笑いで吹き出しそうになった。


「あんな賑やかなのがいなくなって、さぞかし寂しいのではありませんか」

「少々調子は狂うな。気がつけばもう一ヶ月だ……どうだ、あいつは。ちゃんと使えるか?」

「どうもこうもありませんな、世間知らず過ぎて」


 問われて、ジュイキンは複雑な色のため息を吐いた。この一ヶ月の苦労と気疲れと苛立ちと困惑と、その他諸々の思いの丈が混じっている。


「財布はスられそうになるわ、美人局つつもたせに引っかかりかけるは、妙なものを売りつけられそうになるわ。まったく気が抜けません」


 本当はその倍の厄介事に巻き込まれたが、面倒なのではぶいた。リュイは自分であおいでいた鉄扇をぱちりと閉じて、ジュイキンを指す。


「そういうよからぬ輩は、お前が引き剥がしたり叩きのめしたりして解決したのだろう? あいつから聞いておるぞ、中々の保護者ぶりではないか。いやあ、ひつ無情むじょうと呼ばれた悪童も、意外に面倒見がよくて助かるわい」


 酒のせいか力加減のないリュイに思いっきり背中を叩かれ、ジュイキンはむせそうになった。目上でなければ振り払っていた所だが、我慢する。


「正直、いじめられたらどうしようなどと、これでも親心に心配しておったのだぞ」

「仮にも仕事の相方です。無下にしても、私には何の得もありません」

「はっはぁ! そうかそうか!」


 更にばしばしと背中をしばかれる。ジュイキンとしては共に死線をくぐる以上、険悪になっても良いことはないし、グイェンが厄介事に関わったなら、早めに潰しておかねば自分にも火の粉が降りかかるだろう、という打算でしかない。

 だから、この自分が面倒見が良いというのは、違うのだ、きっと。


「まあ、あいつの馬鹿さ加減がたまりかねたとか、何かあったらあたしに言え。お前は我らルンガオ一門の末っ子、それも修行の途中で、師父とあんな別れ方をした身だ。もっと師姉を頼っていいのだぞ? ん?」


 言って、リュイはわしゃわしゃと乱暴にこちらの頭を撫でた。完全に酔っ払っているが、ジュイキンはぽかんと硬直してそれに抗えない。

 リュイの言葉は嘘かもしれない、口先だけかもしれない。それでも、自分が人から気にかけられているということが、驚きであり、くすぐったくもあった。


……ふと、ルンガオ師父のことを思い出す。

 五年前、何者かに殺害され、下手人は今もって不明とされているが――本当は違うのだろう、とジュイキンは考えている。

 投獄されている間、尋問官が繰り返し問いただしたのは、ルンガオ殺害よりも、その持ち物についてだった。彼らは師父が持っていた何かを、その手がかりを探していたのだ。誰が八朶宗きっての武人を殺したのかなど、気にもかけていない。

 だから、きっと、ルンガオ・シャウを殺したのは、八朶宗の判断なのだ。


 師は何らかの理由で組織を裏切り、反逆し、処刑された。そしてそのとばっちりを、最後の弟子にかけたのだ。誰も彼もが、簡単に掌を返す――裏切らないのは、培った己の技術ぐらいのものだろう。

 それでも。今は少し、リュイの言葉を信じたかった。


「――ありがとう、ございます」

「かははっ! なに、思ったよりもきちんと、うちのバカ弟子を見てくれているからな。そのぐらいは報いてやらねば道理にもとる! そら、そろそろあいつを起こして、寝床に引っ張ってやるとしようか」

「はい」


 言われた通り、ジュイキンはすっかり寝こけているグイェンを背負って部屋に連れて行った。奇妙に胸が騒ぐのに、決して不快ではない不思議な気持ちで、心臓がドキドキしている。これまでずっと解けなかった拼図パズルが、急に完成したような。


(……ああ、そうか)


 自分は無意識の内に、グイェンの面倒を見ながら、兄の真似をしていたのだ。決してあんなに優しくはないし、兄なら絶対に暴力をふるわなかったけれども。

 一ヶ月前の再会から、延々と心の奥にわだかまっていた気持ちが、不意に澄んだ光を放つような気がした。温かい光だ。兄がしてくれたことも、兄への想いも、自分の中にずっと残されていた。


 そう、あの日あの時、兄が自分を見捨てなかったとしても。ただいたずらに、二人もろともに死ぬか、ニングになっていただけだろう。

 兄は陽の当たる世界で生きていける――そのことに、妬みでも恨みでもなく、初めて感謝を覚えた。今なら言える、兄に会いたい、話をしてみたい。

 無論、あの医院の住所は記憶している。


 次の休暇は、兄に会いに行ってみよう。ジュイキンはひそかにそう決めた。

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