第二話 彼が出会うものは、すべてが爆弾
うなじの毛がばりばりと強ばる感覚に、自分がかつてない動揺を覚えているとジュイキンは知った。十二年ぶりの兄との再会、喜びなどないが、その次に何を思えばいいのかも分からない。怒るべきか、悲しむべきか、憎むべきか、殺すべきか。
はたと、ジュイキンは自分の手が懐の
結果、ジュイキンが最初に取った行動は、舌打ちとなった。
フージュンは、それを単なる拒絶と受け取っただろう。後ろ頭を掻いて、眉根を寄せる。今も昔も変わらない、気弱で、優しげで、あまりに懐かしい微笑み。
(どうして)
口の中に残っていた揚げ芋の甘味がすべて消えて、苦いものがこみ上げていた。感情がここまで味覚に作用することに驚きながら、腕の中の猫を抱き締める。
(どうして、今更、こんな所で)
人を殺したそのすぐ後で。
ずっと陽の下を歩いてきただろうあなたが。
一番助けて欲しかった時に、ぼくを見捨てたあんたが。
「人違いですよ」
そう言うのが精一杯だった。臓腑が千本の針を生やして、体を内側から食い破ろうとしている気分だ。笑顔を作る表情筋が、ぎしりと軋みを上げる。
主人の変化を察したように、ミアキンが腕から逃げて走り去った。放って置いても、あれはまた宿へ戻ってくる。
「え、あの――」
フージュンの微笑が不安と困惑に揺れた。「急ぎますので」と畳みかけて、ジュイキンは足早にその場を離れる。諦めきれないように、兄が後を追う気配が分かった。
だが、ジュイキンが角を一つ曲がれば、もうその姿は見つけられない。
像身功・
ニングの物質透過は、自己の意味情報を書き換え、または消失することで起こる。その消失を抑制し、意味情報の自在な書き換えと復元を行うのが像身功。
物理的にはジュイキンは堂々とフージュンの前を歩いているが、認識を死角に落とし込まれた彼には、弟の姿を見つけることが出来ない。同じニングか、よく内力を鍛錬した武人であれば、こうは騙せないだろう。
その場にしばらく立ち止まり、ジュイキンは兄と名乗った男を観察した。
全体的に縦長で、ひょろひょろと細く貧弱な体躯は、冬の白樺に似ている。まるで道に迷った子どものような顔で、ついさっきまで居た弟に似た男を探し、同じ道を行ったり来たりしている。驚くほど、自分が知っている兄と変わらなかった。
あれは六歳の時だっただろうか、いたずらで困らせた時とそっくりだ。ジュイキンは町中でわざと兄からはぐれ、少し離れた場所に隠れながら、右往左往する様を見物していた。うろたえ方が、あの時より少しおとなしいだけで、全く同じだ。
(……こんな頼りない人だったんだな)
兄より喧嘩の強い人間も、体格の良い人間も知っていたが、あの頃の自分が一番頼もしく信じていたのは、この人だった。誰よりも安心させてくれた。けれど、それは自分が思っていた以上に、無理を重ねてのことだったのではないか。
(それでも、今更……っ)
掌の痛みに、無意識の内に握り込んでいた峨嵋刺の存在を思い出す。気を取り直して、殺すのはまだだ、とジュイキンは己に言い聞かせた。
兄と名乗った男はがくりと肩を落とし、かと思えばぐいと引き上げて、帰路につく。ニングでもないくせに、そっと消え入るような歩き方だ。
このまま尾行して棲み家を見つけ、どこの組織の差し金か、背後関係を洗い出すまでの辛抱だ。自分が八朶宗の猟客である以上、親しかった者を利用して陥れられる可能性はいくらでもある。それが本物の兄であろうと、なかろうと。
本物の兄であろうと、なかろうと……。
(今なら、二十七か、八、か。医者とするなら、なりたてじゃないか)
闇に沈んでいた建物、おそらくは住居部であろう二階に明かりが灯る。
気がつけばずいぶん遠くまで来てしまった。これを引き返し、宿へ帰るまでの道すがら、胸の底に広がる沼からは、どれだけ様々なわずらいの腕が伸びるだろう。
過去に、物思いに、心を引きずられながら動くのは疲れる。酒を買うために寄り道する気も失せた、早く落ち着ける場所で休みたい。
◆
四合院は数棟の家を四方から壁で囲った、閉鎖的な建築様式だ。外に通じているのは表門だけで、一度閉めてしまえば、外界から遮断された小世界が出来上がる。
敷地内は老夫妻や若夫妻がそれぞれ家屋を割り当てられ、一家が交流する中庭が広がり、さほど窮屈さはないだろう。その閉塞感は、むしろ安心をもたらす要素だ。
その一つ、仮宿にしているルー(
「お前はいつも、私の先を歩くなあ」
金魚桶を眺めていた黒猫を拾って、ジュイキンはあてがわれた部屋に入った。瞬間、違和感……と言うよりも異物感に身を硬くする。背筋がバネの緊張を帯びて、筋肉も神経も警戒態勢へ移行する。肩に乗ったミアキンが息を潜める。
部屋は質実剛健を体現する、殺風景な灰色だった。あるのは衣装箪笥と寝台、小さな卓と椅子が一脚。軍隊の宿舎と雰囲気が似ている。
その寝台に、見知らぬ男が背広姿で寝ていた。
注意を向けたままさっと部屋の様子を確認すると、特に荒らされた形跡はない。ただ、この男の荷物と思しき
荷物は妙に乱雑で、限界まで中身が詰め込まれた挙句、真鍮のヤカンが紐で吊るしてあったり、口から
音もなく室内に入りながら、ジュイキンは相手の男を改めた。呼吸と体温、鼓動といった微かな兆候は逃さず肌で捉えている、死体ではない。しかし侵入者だとすれば、なぜこんな所で寝ているのかあまりに不可解だ。
家主であるルー家の人間である可能性は絶無だった。ここにはルー夫妻、息子夫婦と孫息子、娘夫婦と孫娘の一家八人が暮らしているが、その誰か一人でも、勝手にこの部屋に侵入することは、あり得ない。
環に指を通し、ジュイキンは峨嵋刺を握りしめた。
相手の男は自分より体格は良いが、寝姿がなんというか非常にだらしない。
(……まさか、油断でも誘っているのか?)
高いびきをかいている男の枕元、眠りに落ちる寸前まで眺めていたのだろう、猫の絵が描かれた
「起! き! ろ! このドたわけェ――ッ!!」
ネクタイを掴んで引き上げ、無防備に浮いた胴体、その腹に拳を突き入れる。
「ほごはぁ!?」
一撃を喰らった男は空気の塊を吐き出して悶絶した。そのまま寝台から床へ引きずり落とし、ゴミでも捨てるように
「な……なに? なんだなんだ??」
ジュイキンは目潰しを繰り出し、「黙れ!」とその通りにした。男は顔面を押さえて声もなく転がる。眼球破裂とまではいかないが、しばし苦しむがいい。
その間に、ジュイキンは
ミアキンは、主人の剣幕に驚いてまたどこかへ逃げてしまった。
「楽に死ねると思うなよ」
「待って! オレなにもして――あっ待ちくたびれて寝ました! すいません! すいません! 悪気はないんです!」
「なお悪い! 死ね!」
猛烈に腹が立っていた。今日はただでさえ憂鬱な仕事上がりだった上、よりにもよって兄を名乗る男に出遭ってしまった。その最後にこんな追い打ちまで。
かくなる上はこの男を惨たらしく殺して川にでも棄て、安眠を貪るしか無い。そうだ、そうしよう、一刻も早くぶち殺そう。それで何もかもスッキリするじゃないか。
「あっそうだ自己紹介まだだったオレスー・グイェンですリュイ・ショウキアから聞いてませんかってかあんたチ・ジュイキンさんで間違いない?」
必死さのあまり男の言葉は、ひと繋がりの単語のように聞こえた。その中からなんとか聞き分けた名前に、ジュイキンは腕の力をゆるめる。
「スー・グイェン……お前が、十魂十神、だと?」このバカが?
即座に浮かんだのは「なら殺すのは手間がかかりそうだ」ということだったが、そこは一旦置いておく。さすがに今のは聞き捨てならなかった。
十魂十神を名乗った男は、見た感じ十八から二十といった風情だが、その実年齢は八歳程度と聞く。多すぎる魂と肉体の
――でかい図体にガキの頭、思った以上に最悪だ。
「あっ、それともう一つ!」
ガサガサと死にかけの
「これ、お師さまが持っていけって! 手みやげっす!」
「ぬ」
突っぱねようとして、表面に書いてある文字に手が止まる。
『銘菓
果たして中身はなにか――サクサクの
チラチラとこちらを伺う視線を感じて、ジュイキンはグイェンが箱を捧げ持ったまま、固まっているのを思い出した。怒りの風船が、すっかり
「……これは受け取っておこう」
「うぃっす! お師さまがこういうの好きだろうって!」
リュイ・ショウキアの顔を思い出す。自分は彼女とそれほど親しかったわけではないが、なんでそこで的確なものをグイェンに持たせられるやら。
「お前が今日から、とは聞いてないぞ」
つい数時間前に「相方をつける」などと告げられたばかりで、ジュイキンは詳細な日程すら知らなかったというのに。
「え、だって月曜に媽京って」
「今日は土曜だ」
「へべっ」
明らかに信じてないような半笑いの顔になったグイェンは、ジュイキンが何も言わずにいるのを見る内に、「あれ? 間違えたかな?」と不安げに眉根を寄せた。
「えーと……」
「日付が変わったので正確には日曜二十一日だな。お前は月曜二十二日に来るよう言い付かって、どういうわけか二日も間違えたというわけか」
「……そう、みたいです」
グイェンはジュイキンより頭一つ分ほども大きかったが、今は床の上でひたすら小さくなっていた。よれよれの背広と合わせて、ひたすら情けない姿だ。
(こいつがあの十魂十神、か……)
ジュイキンが
「あんの~、何の騒ぎでえ?」
部屋の入り口から、寝間着姿の老女がおずおずとこちらを伺っていた。
「ルー婦人、なぜこいつが私の部屋に?」
老女は不思議そうに小首を傾げると、一瞬遅れてグイェンに気づいたのか、「ひぇっ」と小さく悲鳴を上げた。ジュイキンは座り込んだままの男を睨みつける。
「貴様、黙って侵入したのか」
「そうだったかも」いけしゃあしゃあ。
「世間一般の八歳でも、もう少し礼儀を知っているぞ!?」
「え?」
再び声を荒らげるジュイキンに、グイェンは不可解そうに左右の眉を上下させた。
「でもお師さまが、ここに住んでるのは環の人だけで、人間じゃないって」
「それもそうだがな……」
だとしても、なぜ一つしか無い寝台を占領しようとするのだ。ジュイキンが腕組みをして気を落ち着けようとしていると、ルー婦人が困り顔で聞いてきた。
「あ、あのう。その人、どうします?」
「
その言葉を聞いた瞬間、おどおどした老婦人の顔から表情が消えた。心細そうな前かがみの姿勢をただし、棒を飲んだように直立する。
「要請を受諾。符号をどうぞ」
八朶宗情報網・
その代わりに、彼らは八朶宗の
――ニングの宿命から逃れたとは言え、これをヒトとして生きていると呼べるのか。
「符号・
「あ、うっす!」
グイェンは立ち上がり、自分の
なぜかジュイキンは嫌な予感がする。そこに吊るしてある紙の札を見て「
「……そこの、なんだ、名札に書いてあるのか?」
「そりゃもう、忘れないように。バッチリ!」
符号は八朶宗猟客が使う暗号名、超秘匿事項である。
「この――この
四合院の壁を通してまで、隣り近所に聞こえる怒声は、滅多にない。
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