第一幕 人でなしの兄弟
原稿用紙約152枚
第一話 選べ、探せ、望む明日の形を
夜の海原を行く一隻の小型貨物船が、何食わぬ顔して腹に悪徳を飲んでいた。船底一枚下は地獄と言うが、この一枚上に限っては、下とさほど変わりはしない。
その正体は海上の監獄、否、奴隷船。すえた悪臭がこもり、淀み、そのまま闇と化したような汚らしい空間に、老若男女が力なくひしめく。
年齢や性別で数人ごとに分けて檻に詰められ、日に一度の食事を与える以外の世話はなし。鉄格子には高圧電流が流され、迂闊に触れれば感電死しかねない。
人倫の欠片もない扱いだが、そもそも彼らは人として定義されていない。中古だろうが傷物だろうがお構いなしに捌かれる、最々底辺の屑物商品なのだから。
ニングの人身売買では、しばしば見られる光景だ。
それは生きた幽霊、半実体、反生命。命令に従わせるには手間だが、潰して加工すれば、様々な霊性を付加した器物〝
檻の一つ、その部屋の出入り口近くに集められた
売り飛ばされたか、ニング狩りに捕まったのか、とかく我が身の不幸と世の無情さを嘆きながら、しくしくと。その泣き声に、違う鳴き声が、ふと混ざった。
――
少女が顔を上げたその先に、
その可愛らしい小動物は、とことこと何の警戒心も見せずに、少女たちの方へと近寄ってきた。だが、両者の間には危険な高圧電流の檻がある。
「猫ちゃん、だめ!」
少女の制止虚しく、黒猫は鉄格子に触れ、感電――しなかった。当たり前のようにするりと檻の中に入り、伸ばした少女の手に、冷たい鼻をくっつける。ぽかんとしている彼女に代わって、別の少女がそっと鉄格子をつついた。
最初は触れたか触れないかだが、二度三度確かめるごとに接触は長く、最後は掌で鉄格子を掴み、声をあげる。
「電気が消えてる! 消えてるよ!」
大声で周りに知らせながら、その子は鉄格子に顔面を
ニング最大の武器、物質透過。わずかばかりの寿命と引き換えに、こうした危機を脱する術だが……同時に、彼らが危険視され、闇で売買される理由でもある。
熱や電気、あるいは霊性が無い場所なら、ニングは
誰が檻の電流を切ったにせよ、脱出したその先に明日などあるのか? その不安を誰も口にしないまま、ニングたちは次々と窮屈な檻を抜け出した。
まだ存在が濃すぎて透り抜けられない者も居たので、鍵を壊す相談が始まった所で、部屋の扉が乱暴に開く。一斉に緊張が走った。
「何をしている!」
黒い背広姿で、散弾銃を手に剣呑な怒気を発する男は、現れるなり部屋中のニングたちを威圧する。彼彼女らを攫ってきた
「檻に戻――」
れ、と言いたかっただろう呼気は、う、というこの世最期の呻きになって、虚しく男の口から散った。その首筋には、風変わりな武器が突き立てられている。
端が尖った非常に短い棒、その半ばに金属の指輪が繋げられた寸鉄。
復活なき真の死、ニングに殺され、魂が破壊された者の末路だ。この世に拠るべき意味情報を分解され、消去され、その
その影を踏みしめ、峨嵋刺を蹴り上げて拾い、漆黒の僧衣姿が入ってくる。顔は目深に被った
ミアキン(
「上の連中は皆死んだ。もう少しの辛抱だ」
猫の顎を撫でながら、僧衣の青年は静かな声で語りかける。
「
その言葉に、ニングたちの顔が一斉に安堵と歓喜で輝いた。
八朶宗――人に害なすニングは狩り、そうでない者は庇護する
言葉通り、次々と八朶宗の者たちが部屋を訪れ、捕らえられたニングたちを保護していった。毛布を肩にかけ、励ましと慰めの言葉を告げ、新鮮な空気の甲板へと連れていく。船の横には八朶宗の高速船がつけられ、ニングたちはそこで
だが何より大事なのは、彼らにも明日はあるということだ。そして、どんな明日になるか選ぶ自由もきっとある、ということだ。
それらの傍らで、黒猫ミアキンを連れた青年は、仕事を終えてようやく一息ついた。甲板の隅に腰を落ち着けると、猫を抱えて
重く、落日のように輝く眼の青年だった。
まばゆい何かが失墜し、闇のただ中へ沈み込む直前の、赤く煮え
チ・ジュイキン(
◆
蒸し温かい春の宵、船は極彩色にきらめく陸へ向かって進む。
闇の底に広がる、砕けた
扇情的な赤、清涼な青、落ち着きの緑、豪奢な黄、まばゆい白、色とりどりにきらきらと。それらを包む電磁蒸気の
「ジュイキン!」
船を降りるなり、足早に立ち去ろうとしたジュイキンに、声をかける者が居た。
たわわに実った果実の豊かさと瑞々しさを、溌剌と放つ大柄な美女である。長く伸ばした髪を無造作に束ね、洗いざらしの
「リュイ
ジュイキンは右拳を左掌で包む、
相手も同じ礼を取り、そちらが崩すのを待ってジュイキンも手を下ろした。
リュイ・ショウキア(
「久しいな、師弟。忘れられているかと思ったぞ」
「まさか」
仕事柄、会ったことのある人間は残らず記憶する。
「いつから媽京に?」
「先週からな。〝
打神翻天は、ニングたちが徒党を組んだ
「ま、それより……今度からお前に相方をつけようって話になってな」
「今更ですか」
「あからさまに嫌そうな顔するなよ。うちのスー・グイェン(
十魂十神――そのあまりに特異な存在は、彼も聞き知っている。
通常のニングは魂が「欠けて」いるためのニングだが、その男は魂が「多すぎる」、あるいは「大きすぎる」ゆえの、異形のニングだと言う。
デタラメのような量の
「何ら異存はございません」
むしろ、とジュイキンは小首を傾げた。
「私などに、師姉の愛弟子、いえ、八朶宗の秘蔵っ子を預けて良いのでしょうか」
今は充分に更生したと言えるが、師父ルンガオ・シャウ(
誰とも打ち解けず己の技量のみを頼りにし、同期との手合わせがあれば容赦することなく、大怪我を負わせるのは毎度のこと。「生意気だ」と絡んできた連中は、ことごとく腕や
ルンガオが人を教える者として優れているかは分からないが、八朶宗きっての武人であったことは間違いない。彼はその拳をもって、狂犬じみた小僧の鼻柱を叩き折り、完全に服従するまで殴って殴って殴り続けたものだ。
「そう言うお前は、ルンガオ師父が取った最後の愛弟子であろう」
そう返すリュイの言葉を、ジュイキンは表情を動かさずに聞いた。
師父ルンガオが殺されたのは五年前のことだ。何者かによって闇討ちされ、その手引きをしたのではないかと、何故かジュイキンに疑いがかけられた。
投獄され厳しく尋問を繰り返されること一年。ようやく釈放されてみれば、過去の悪行に加えて、師父殺しとして腫れ物扱いが続いている。
そんな嫌われ者に、よくぞ預けようという気になるものだとジュイキンは思ったが、十魂十神もある意味厄介払いされたのかもしれない、と納得した。
「では、リュイ師姉と十魂十神の名に恥じぬよう努めましょう」
再び抱拳礼を取り、ジュイキンは会話を打ち切った。
◆
港から路地裏を通る間に、ジュイキンは僧衣を脱ぎ、小さく折りたたんで
呼気を整え、体内に巡らせると、充溢した内力がその足元に偽の影を生み出す。これぞ八朶宗の秘門・
ニングが町中で行動するには必須の技だ。これにて常人を装い、ジュイキンは絢爛の巷に身を投じていく。
腐敗と歓楽の町、媽京。かつてのコド・ル・ガル(
賭博産業と交易で栄えるこの地には、世界中から様々な人種が集まり、飛び交う言語も多様だ。金や赤の髪をした西方人、黒壇のような肌をした北方人、
飛空艇を係留する
町のあちこちに整然と配管された木の根は、上下水道として機能し、建物の壁に目立たず張り付く蔓草は、各家庭に電気を送る。
威圧的な摩天楼が眼下に睨む屋台村、その一画でジュイキンは足を止めた。
「今日はいやに賑やかですね」
迷わず注文した
「ああ、
「ええ。残りの七人は?」
熱々を一つ口に含むと、甘みが労働後の舌によく染みた。店主の顔が暗くなる。
「……可哀想にねえ、親子連れが何人か来ていたもんだから、子どもがちょいちょい居たんですよ。強盗だかなんだかの前科者はどうでもいいし、年寄りが生き返れないのは、まあ仕方ないんですけどねえ。親はやりきれねえでしょうねえ」
「そうですね。でも、子どもは転生が早いと言いますし」
「ああ、そいつが唯一の救いさ」
軽く相槌を打って屋台を去り、ジュイキンは
熱さえ持った屋台街の油っぽい匂いが、青々とした草葉や、柔らかい花の香りに移り変わって周りを漂う。祭りの喧騒は遠のいて、夜の帳の向こうに消えていった。
道路に面した家々は、どれも灰色のレンガで作られた高い壁を持ち、表門にはまた目隠し用の壁が建てられている。そこには松と鶴、梅とカササギ、麒麟といった縁起物の絵や、分かりやすく「福」「禄」「寿」などの文字。
この壁の向こうには、豊かに木々を植えた中庭を囲んで、東西南北の四棟が建てられている。
猫のミアキンは石畳の道を走っては、時折立ち止まってこちらを振り返る。ほくほくと揚げ芋を楽しみながら、ジュイキンは一人つぶやいた。
「猫は九つの命を持つと言うが、猫の神灵というのは、会ってみたいものだな」
人は生まれながらにして命と心を魂に昇華され、尊く高き世界へ属することを赦されている。それは剣にも火にも滅ぼすことはかなわない、永遠絶対の存在。あらかじめ定められた寿命の限りは、繰り返し魂に生を得ることが出来る。
ただひとつの例外――ニングの手によって殺されなければ、だが。
魂無きニングと、魂を破壊された人間は、最期に立っていた場所に、影の形だけを焼き付けて消滅する。死ですらない虚無に許された、唯一存在を証明する残響。
今宵もジュイキンは、そのようにして多くの人間とニングの影を刻んだ。
人が生き返ることが気持ち悪い。
屋台の店主と言葉を交わした時から、ジュイキンは曖昧な嫌悪感に囚われていた。まったき魂を持つ人間に対する嫉妬か、憧憬か、いつの頃からかそんな思いがあったのを、久しぶりに思い出す。自分が殺した相手は、復活する心配がないからと、忘れていたというのに。
足を止めたジュイキンの横で、ミアキンが退屈そうにひっくり返り、ごろごろと路面に背中を擦りつけ始める。ジュイキンは顔の筋肉から力を抜いて、猫を撫でようとそっと屈んだ。いつの間にか、表情が強ばっていたのを感じる。
ある日突然、あっけなく終わる人生に、新しく続く明日が用意されるのは素晴らしいことだ。誰もが親しい人との別れを体験すること無く、寿命尽きるまで共に在れるのは素晴らしいことだ。神灵のいない世など考えられないだろう。
(それなら、私のこの想いは、どこから来る?)
ニングだからそう感じてしまうのか、あるいはこの自分が異常なのか。手には、ふにゃふにゃした猫の腹の皮と、温かな毛皮の感触。ことのほか心を和ませてくれるそれに、出来るだけ夢中になろうとしながら、胸の内が晴れない。
人は死ぬ、そして生き返る。生きながら幽霊になったニングを残して。
(……詮無いことだ、宇宙の始まりを問うのと変わらない)
無理やり思考を打ち切って、ジュイキンは立ち上がった。残り少なくなった油炸甘薯を一気に平らげ、猫を抱え上げる。
「さ、帰るよ、ミアキン。小さいの」
歩き出しながら、自分がいつになく沈んだ気分の理由に気づいた。
十魂十神、あのおぞましい名前を聞いたのも良くなかったのだろう。数多の血を流して産み落とされた、無垢なる罪の獣、哀れな……、――。
自分の感情は、無反応だと思ったら、間を置いてじわじわと騒ぎ出す。我ながら厄介な性根だった。
どうあがいても明日は来る、そのことは八朶宗に連れてこられた頃に、さんざん思い知った。ならばせめて、少しでも良い明日を選ばなくては。
具体的には、どこかで酒でも買って、宿でそれを飲んで寝るのだ。そう決めて、ジュイキンはまだまだ眠らぬ町を歩き出そうとした。
「……ジュイ?」
若い男の声が横合いからかけられる。それが自分に向けたものと思えたのは、懐かしい呼び方のせいか。いや、きっと、声を聞いた時から彼は分かっていたのだ。
吸い寄せられるように横を向く、ひょろりと背の高い影、十二年前の面影をそのまま背負った眼鏡の男。違って欲しかった、だが間違えようもなかった。
「ああ、やっぱり! ジュイキンだろう? 僕だよ、フージュン(
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます