人でなしジュイキンの心臓

雨藤フラシ

序幕

原稿用紙約15枚

魂はこぼれた、一粒の涙になって

 世界は美しいと、無条件に信じていた頃があった。そっけない父と母の存在を、優しい兄が埋め合わせ、友達がいて、毎日楽しくて、怖いものなど何もなかった。


 それが十二年前までのことだ。八歳のジュイキンは、間違いなく幸福だったのだろう。あの頃と変わらないのは、夕日の美しさ、滅びゆくものの愛おしさだけ。

 最後にすべてが美しく思えたその日のことを、彼は生涯忘れない。


                 ◆


 川に架けられた鉄橋を、流線形の蒸気樹車じょうききしゃが渡っていく。吐き出される電磁蒸気でんじじょうきは、春の青空にぼんやりとした残光を引いていった。その車窓からは、高い煙突と鉄塔ばかりが乱立する、灰色の町並みが望めるだろう。


 彼が生まれたのは、少し工場が多い以外は、何の変哲もない田舎町だった。十数年経った今では、ちょっとした地方都市ぐらいには成長しているらしい。が、この頃は整理されていない工具箱のように、無骨で込み入った町並みだったと記憶している。

 いつもと変わらない学校の帰り道。ジュイキンは数人の友達と連れ立って、途中で七つ上の兄と合流する。自然と、目的地は最近流行りの秘密基地になった。


 その森は、大人たちにとっては地図の上に生えた黒カビの山だったが、子供たちにとっては秘密と冒険に満ちた最後の砦だった。いつか誰かが綺麗さっぱり刈り込んで、町中どこにでもある工場を建ててしまうことだろう。だがそれまでは、その森も、その中で見つけた廃工場も、子供たちの王国だ。


「ジュイもみんなも、廃工場の中と森の奥には、絶対行っちゃ駄目だよ」


 小学生たちに繰り返し言い聞かせて、兄のフージュンも同行する。この頃には視力が弱くなり始めて、眼鏡をかけるようになっていた。


 ……後になって思えば、フージュンも高校の同級生と、遊びに行きたかったはずだ。だが、弟とその友達が好奇心に負けて、廃工場に侵入などしたら。そして崩れた壁や廃棄はいき樹械きかいで怪我でもしたら。そう思うと心配で、放っておけなかったのだろう。


 実際、兄の判断は正しかった。惜しむらくは、廃工場に最初から近づかない、という選択肢を取れなかったことだ。だが、神仙ならぬ身には無理な話だった。


――あそこにあんなものが潜んでいたなら、同じ悲劇が起こるのは時間の問題だったのだ。


 廃工場横の空き地を走り回っていると、あっという間に時間は過ぎていく。景色が段々と赤っぽくなっていく中、友達は一人、また一人と家路に就き、最後には兄弟二人だけが残った。見上げれば、空は有終の美に燃え盛っている。

 ジュイキンは、夕日を見るのが好きだった。輝くばかりの太陽が失墜し、夜闇に沈むその間際、今日も一日良い日だったねと告げるような、この時間が。


「ほら、捕まえた!」


 後ろから弟を抱きしめ、フージュンは「そろそろ僕らも帰らないと、遅くなるよ」と促した。もがくように腕の中から逃れる。


「おにいちゃん、もう一回!」


 夕闇の中、兄の姿は輪郭だけを残して、おぼろげな影法師になりつつあった。それでも、なんとなくフージュンが渋っているのは分かる。


「最後に、もう一回、だけ!」


 ジュイキンが食い下がると、大抵の場合、兄は折れる。この時もそうだった。


「じゃあ、あともう一回やったら、うちに帰るんだぞ」

「うん!」


 心の底から笑って、ジュイキンは大きく頷いた。周りにあるものを何一つ疑わない、兄の優しさも、明日の生活も、疑う必要がまったくない、満ち足りた笑い。

 フージュンの足元から長く伸びた影は、ひょうきんな動きで逃げ回った。きゃいきゃいとはしゃぐジュイキンの声は、辺りに咲くタンポポと同じぐらい黄色い。


「あっ」


 鼻にすえた異臭を感じた瞬間、ジュイキンは何かにぶつかった。あまり硬くないので石や壁ではないが、重たく大きい。辛うじて尻餅を堪え、鼻をこする。


 泥と、得体の知れない液体で汚れきった袴子ズボンを履いた、大人の足が立っているのが見えた。靴も原型を留めないほど擦り切れて、生ゴミに酸っぱさと脂っぽさとその他色々な汚物を混ぜた、何とも言えない悪臭を放っている。


 なぜ、こんなに近くに来るまで気づかなかったのだろう?

 それは、相手の体からは、いかなる方向にも影が落ちていないからだ。地面ばかり見ていたので、ジュイキンは相手に気づくのが遅れてしまった。


(――ニングだ、このひと――)


 影なしの〝ニング〟は、すべての人間が神灵カミより賜りし魂を、何らかの理由で歪め、あるいは損なった罪人だ。

 彼らは肉体と霊魂の致命的なズレにより、影を持たず、鏡に映らず、写真に写らず、やがて人の目にも映らなくなる。最後は姿も形も失って、ただ消えるのみ。

 だから消え行く影を求めて、ニングは人を襲う。他者の肉体を傷つけ、それを通して魂を奪う。そして、奪われ尽くした者は、やがて新たなニングになるのだ。


 目の前にいる男がそのニングで、しかも手には、ごつごつと刃の欠けた鉈を持っている。理解を頭に染み込ませるのと並行して、ジュイキンはゆっくりと顔を上げた。

 伸び放題の髭と髪が汚れに固まり、男の体から獣の首が生えているようだった。顔の中から覗く虚ろな目玉は、仮にも同じ人間なのだとは、とても思えない。

 これが魂のない瞳、言葉など無駄な怪物の目なのだ。

 それが、ごろり、と動いてこちらを見た。


「逃げろ、ジュイ! 走れ!」


 兄が、ニングの目に拳大の石を投げつけた。金切り声一歩手前の叫びに、動くことを忘れていたジュイキンの全身が弾かれる。

 兄弟は走り出した、一人は恐怖に声を上げて、一人は弟を励ましながら石を投げて。フージュンは拾った石が尽きると、ジュイキンの手を引っ張った。


 帰り道のある森へ突っ込む。秘密基地への目印として描いた立ち木の印が、あっという間に横へ流れていく。獲物を見つけたニングは、赤ん坊の泣き声のような、猫が喧嘩しているような吠え声を上げて追いかけてくる。

 こういう時は、確か〝八〟の字がつく人たちを呼びなさいと大人たちに教えられたことがあった。だが、今その人たちはいない、どこにいるかも分からない。頼れるのは、自分の手を引く兄だけだ。


 涙が自分の耳たぶを打って後ろへと落ちた。体の中で心臓が爆発しそうで、今すぐ地面に転がって休みたい。早く早くと願いながら、足が全く前に進む気がしなかった。兄と共に助けを呼ぼうと叫んでも、息継ぎが辛くてそれもままならない。


「うあっ」


 木の根がジュイキンの足を取った。兄の肩が一瞬がくりと落ち、汗に濡れた掌から、弟の小さな手がすり抜ける。走った勢いそのままに、兄弟の距離が開く。

 弟は、兄が再び手を伸ばして自分を連れていくことを疑いもしなかった。

 歳の離れたジュイキンに、いつも過保護なくらいだったフージュン。父親よりも、母親よりも、ずっと家族と言えるほど傍にいてくれた。いつだったか、野良犬に追いかけられた時も、ジュイキンをかばって腕を噛まれたこともある。


 だから、見捨てるはずなんてない。


「うううううう――る――ぁあああああああああああああああ――」


 ニングのおぞましい声が、ジュイキンのすぐ真後ろで聞こえた。

 フージュンが片手を伸ばした姿勢のまま、こちらを見て硬直している。それはごく一瞬のことだっただろう。弟を案じて見つめる目が。視線が逸らされた。


「ジュイ」


 首を巡らせて、フージュンは前を見る。

 その手には石も、弟の手もない。


「ごめんよ」


 何について兄は謝っているのか。答えを知りたくないのに持ってしまった疑問は、腹を蹴飛ばされて一緒に吹き飛んだ。


 日が落ちて真っ暗闇になった森の中、息の出来ない痛みに溺れながら、振り上げられた鉈を見上げる。どうしてこうなったのだろう? ジュイキンには分からない。

 どうして兄は謝っている。どうして兄はここにいない。どうして自分は一人で、こんなに痛くて、怖くて、殺されようとしているんだろう。


 自分は兄に見捨てられたのだ。

 その事実をどう受け止めればいいか分からないままに、欠けと錆まみれでボロボロの刃が、袴子ズボンの胸当てを、襯衫シャツを、肌を、肉を、胸骨を、ジュイキンの意識を、魂を、一切合財をまとめて叩き割った。


                 ◆


「あ、かい――」


 また夕日を見ている。時間が過ぎる内に、彼はそれが日の落ちる時ではなく、日が昇る時だと気がついた。ゆっくりと朝の空気の中、身を起こす。


「いきてる」


 ジュイキンは死ななかった。そうなってしまった方が良かったのかもしれない。体を見ると、胸に少し切り傷があるようだった。袴子ズボンの胸当ては真っ二つになっていて、べっとりとついた血が乾き切り、襯衫シャツがゴワゴワして気持ち悪い。


(ぼくは、幽霊になったのかな……?)


 とにかくまだ体があるので、何とはなしに歩き出していた。どこへ行くんだろうとぼんやり考えて、自分が家に帰ろうとしていることに気づく。

 そういえば、昨日から何も食べていない。兄は引き返してすらくれなかったのか。それとも、あのニングに殺されてしまったのだろうか。


 ジュイキンの姿を見ると、町はすぐ大騒ぎになった。大人たちが上から袋を被せ、戸惑っている内に手足を縛られて、どこか物置のような場所へ押し込められる。訳が分からないまま、ジュイキンはただ時間が経つのを待つしかなかった。


(ああ、そうか)


 周囲の対応から明らかだ。自分もまた、ニングになったのだ。


 涙は出てこなかった、ただ自分が今この場に存在していることが、しっくり来ない奇妙な気分のまま、時間が過ぎていく。

 小窓から差し込むわずかな陽光が傾いてきた頃、引き戸が開いて、二人の男が入ってきた。兜帽フードを目深に被った、黒い僧衣姿。


「我々は、〝八朶宗はちだしゅう〟の者だ」


 それは、ニングの神灵・如夷にょい霊王母れいおうぼ娘々にゃんにゃんに仕える教団だった。あらゆる神灵から見捨てられたニングに、如夷霊母にょいれいぼは手を差し伸べる。そして世界で唯一、ニングが生きることを許される場所、八歳のジュイキンでもそう知っていた。


 ニングにつけられた傷は魂まで届く。ニングを退治するには、自らも同族に堕ちることを覚悟するか、同じニングにやらせるしかない。

 それが八朶宗の主な役目――ニング狩りだ。


「あのニング(兒訝)は我々が始末した」


 男の一人が荷物から布包みを出した。開かれた中身は、見覚えのある刃の欠けた鉈。やはりこの男たちは、ニングを狩る兒訝じが猟客りょうかくなのだ。


「お前の兄が、弟を頼むと」


 自分も殺されるのか、そう訊こうとしかけて、ジュイキンは息を飲んだ。では、兄は生きているのだ。そして彼らを呼んできた。


「我々と一緒に来なさい、さもなければ、殺さねばならん」

「兄に会えますか」


 男たちは首を振った。失望があったが、ジュイキンに出来ることは何もなかった。


 縄を解かれ、よろめきながら外へ出ると、世界は再び朱に染まっていた。屋根も窓も看板も、遠巻きに自分を見ている町の人も、全てが燃えている。


「きれい」


 人間ではなくなった自分を置いて、世界は今日も夜へと沈んでいく。あの森で自分を見捨てて走った兄のように、太陽が平和な明日へ逃げていく。


 それなのに、どうして、今でも夕日だけは綺麗だと思えるのだろう?


 一粒だけ涙を流して、ジュイキンは八朶宗の男たちに連れて行かれた。

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